第14話

 第十三章

 時は十余年前に遡る。羅は妻のメイファン、それに北京で生まれた二人の男子とアパートに暮らし、夜になると正妻と幼い娘のいる本宅に顔を出すという二重生活を続けていた。

 朝と夜は二軒の家を繋ぐ二重生活。昼間は公安部という生活はかなりハードであったに違いないが、羅は若さで乗り切っていた。

 長男の永福(ヨンフー)と次男の明陽(ミンヤン)はともに小学校併設の幼児部に通っている。妻のメイファンがスーパーで勤務している間は、子供らは託児所に預けられている。本来なら祖母が孫の世話を焼いてくれるのだが、愛人の子を祖母に押し付けるわけには参らない。

 ある日、ミンヤンの左耳が一時聞こえにくくなっているのがわかった。どうも託児所で職員に頬を打たれたのが原因らしい。

 メイファンは託児所に抗議し、治療代を支払うように交渉したが、当の職員はやっていないと主張したため、託児所は治療代を支払おうとしなかった。

 彼女が夫に事情を説明すると、翌日託児所の所長がそれまでの治療代に加えて高額の慰謝料まで持参し、彼女とミンヤンの前で土下座して謝った。

 余りの態度の変化に驚いた彼女が夫に尋ねてみたが、微笑むだけで要領を得なかった。

 しかし、噂は広まっていた。

 所長が託児所の金を使い込んでいるという疑惑が何処からか浮上し、公安部が管轄する人民警察が託児所の事務所にやって来て、所長に署に同行するように求め、署で徹底的に絞られたというのである。ミンヤンを打ったという職員は解雇された上、傷害容疑で逮捕された。

 所長は逮捕を免れたが、メイファンは夫の存在が所長の豹変に関わったのではという感じがしてならなかった。

 

 メイファンは日頃から夫に対して不満に思っていることがあった。

 羅は出張販売店勤務という男の世界のことは一切尋ねず、詮索せず、立ち入ることのないように日頃から彼女にきつく言い渡していた。

 ある休日、彼女は、テレビを見ながら酒を飲んでいる羅に言った。

「ちょっと台湾のお父さんに誕生日の贈り物を送ろうと思うのよ。あんたの店はギフトなんか置いているんでしょ。連れてってくれない?」

 羅はテレビから目を離し、彼女を睨んだ。

「女は男の世界を見るなっていつも言っているだろ?」

「でも、この辺はいい店がないのよ」

「だったら俺が買って来てやる」

「何でよ! わたしがお父さんのために実際に品物を見て選びたいんだから! 教えてよ。あんたの勤める店は一体何処にあるの?」

 羅は返事に窮した。苦し紛れに思いついたのが以前一人娘リンユーのプレゼントを買ったことのあるギフト・ショップだった。

「そこまで言うなら連れて行ってやるよ」

 渋々羅はメイファンとその店を訪れることになった。

 夫が勤める店を初めて目にした彼女は思っていたよりも立派な店だったので、心が弾んだ。

 二人で店内に入り、彼女は父親に合うプレゼントを求めて、あっちこっちと見て回った。

 その頃、彼女の父親は永定を離れ、台湾に移住していた。

 父さんはこの間の便りで、台湾は年中温暖らしく半袖の衣類が欲しいようなことを書いていた。涼しそうな衣類の品選びをしなくては。

 彼女は何故こんな立派な店に勤めながら、夫が職場のことを一切話さず、隠すのかが気になっていた。

 そこで店の電話番号をこっそりメモに書き込んでバッグの中にしまい込んだ。店と連絡先がわかれば、それで十分だ。彼女は品を決め、代金を払って配送の手続きを終えた。

 羅は羅で、取りあえず窮地を脱して内心ほっとしていた。


 その後暫くしてメイファンは親友の婚約祝いにプレゼントを贈ることになった。

 彼女は羅の職場に電話を入れて、これから品選びに行くので一緒に品物を見て欲しい、ついては値段を少し割引してもらえないかという相談を羅にしようという心積もりをしていた。取っておいたメモを引き出しから取り出して店の電話をダイヤルし、店が出た。

「あのう、従業員の羅をお願いします。羅承基を」

 電話の向こうは沈黙していた。

「……あのう、すみません。聞こえますか。羅承基をお願いします」

「うちにそのような名前の従業員はおりません。失礼いたします」

「えっ!何かの間違いでは。羅ですよ。住所は……」

 電話が一方的に切れた。

 電話帳でもう一度念のため電話番号をチェックしたが、間違いなかった。

 夫はあの店の従業員ではないのか。じゃあ、給料は一体どこからもらっているというのか。

 メイファンの心の中にこれまで折に触れて浮かんでは消えて行った夫に対する不信の念が一気に膨らんだ。

 きっと夫はわたしが尋ねても本当のことは言おうとしない。言い繕うに違いない。よし、黙って色々調べてみよう。そうすりゃ真実がわかるかも知れない。

 翌朝子供を早々に託児所に預けて、メイファンは職場に出かける夫の後をつけた。

 夫はいつもの黒い高級そうなカバンを持ってリュックを背負い、最寄り駅に向かっている。あのカバンは夫の見栄なのだろう。が、服装は作業着のような格好で、リュックなら似合うが、カバンとは不釣り合いだ。メイファンはその日いつもは気づかない細かいことまで気になっていた。

 駅の構内で夫はトイレに入って行った。メイファンはその後を追い、女子トイレのあたりで夫がトイレから出て来るのを待った。

 暫くして出て来たのは、ぱりっとした上下三つ揃いの紺のスーツにグレイのネクタイ姿の男で、紛れもなく夫である。足元には高級そうな靴が光っている。家から持って来たカバンならこういう格好に相応しい。しかし、今度は手にぶら下げているリュックが余計だ。でも、そもそも何故トイレでこんなよそ行きの恰好にわざわざ着替える必要があるのだろうか? メイファンはそこからさらに夫の後を追う。

 夫は北京中央行の電車のホームに立って、電車を待っている。間もなく電車が入線し、人の乗降があり、夫は電車に乗り込んだ。車内は結構混んでいた。メイファンは同じ車両の乗客に紛れ込んで、夫から目を離さずにいた。

 夫は次の駅で降りた。

 何でこんなところで降りるのか。あの販売店への最寄り駅とは到底思えない。

 彼女は急いで電車を降り、夫の後を追った。

 改札口を出たところで立ち止まり、夫は腕時計を見た。

 間もなく、黒塗りの高級車が夫の前で停まった。運転手が急いで降りて来て、後部ドアを開け、最敬礼をした。夫は軽く礼をして、身を屈めて座席に座った。車が出発するや否や、彼女は急いで駅前でタクシーを拾い、後をつけるように言った。

 車は官庁街の方向に向かっていた。メイファンは一体自分の周りで何が起ころうとしているのか不安に駆られた。

 夫が乗った車は官庁街の中心地にある公安警察本部のあるビルの前で停車し、夫が車を降りて幅広い石段を上って行くのが見えた。

 メイファンは目前に聳えるビルの大きさに圧倒されながら、タクシーを降りた。

 石段を上って行くと、門衛が立ち番をしている。

 門衛はおよそ官庁のビルには似つかわしくない主婦の姿を認めて、ストップをかけた。

「何処に行くんだ」

 メイファンは声を掛けられてドギマギしていた。それでも勇気を出して門衛に尋ねた。

「今入って行った方は?」

 門衛は眉を吊り上げて彼女を睨んだ。

「何故そんなことを尋ねるのか」

 彼女は咄嗟に答えた。

「先ほどわたしが落としたものを拾っていただき、一言お礼を申し上げたかったのに直ぐに行ってしまわれたので、後を追って来ました」

 門衛は納得したようで、答えてくれた。

「あの方は羅公安部長さまだよ」

「えっ、公安部長?」

「さあ、用が済んだらさっさと立ち去るように」

 門衛に促されて、メイファンは石段を下り始めた。

「あっ、ちょっと待ってくれ。念のためあんたの氏名と連絡先をここに書いてくれ」

 バインダーに挟まれた帳面を差し出されたが、夫が公安部長だと知り、ショックを受け混乱した頭ではスラスラと書けない。門衛が不振な顔を向けている。

 彼女はやっと書き終えて、バインダーを返した。

 公安部長? 何であの人が。狐につままれたような感じだった。

 故郷・永定で初めて羅と出会った頃のことが胸に浮かんだ。

 父とよく酒を酌み交わしていたが、あれは表の顔で、実は公安の幹部だったんだ。結婚する前に手入れがあって、数人の村人が逮捕され、護送車で運ばれて行った。ひょっとして、夫はその事件の容疑者を逮捕するために、村に潜入していた公安の要員だったのか。

 一体どのようにしてアパートに帰ったのか、気づくとメイファンは帰宅してキッチンのテーブル椅子に座っていた。

 これからどうしたらいいのだろう。動揺が激しく、考えがまとまらない。

 公安部長という雲の上のような存在なのに、何故わたしのような貧しい家の娘を娶ったのか。公安部長ならきっと良家のお嬢さんと結婚するのが普通だろう。

 ひょっとして何処かに奥さんや子供がいるのではなかろうか。普通考えて、公安部長がこんな汚いアパートに暮らすことなんかあり得ない。住むなら大邸宅だろう。夫はわたしを完全に騙していることがこれではっきりした。

 その日は何もする気が起こらず、ボーっとして過ごした。

 子供が幼稚部から帰って来ても、相手にする気力もなく、いつものようにお菓子を出してやることも忘れ、子供の出す声の大きさにさえイラついた。

 夜の帳が降り、夕食を作る気も起らず、冷凍食品を温めて子供に与えた。食欲もまるでない。

 少しでも頭の混乱が収まって来ると、羅が別に家庭を持っているのかどうか突き止めてみたいという気が起こり始めた。

 事実を知るのは怖い。でも、知らないままでいるわけには絶対に行かない。

 しかし、どうやって突き止める?

 とにかく夫の後をつけることだ。

 子供にゲームをさせておいて、メイファンは急いで外出用の服に着替え、バッグを持ち夜寒の町に出かけた。

 タクシーで公安部の前で降りたが、夫はいつ出て来るのかわからない。玄関から出て来て石段下で黒塗りの高級車に乗るのか。もし地下の駐車場から出て来たら、傍にでもいないと黒塗りの高級車に乗っているのが夫なのかどうかさえ暗くて確認さえ出来ない。

 少し高くついても、ここはタクシーを捕まえて、その中で公安部を見張らなきゃ仕方がない。いつもアパートには深夜にしか帰って来ないとすれば、もし別宅があるのなら少なくてもその何時間前かには公安部を出るだろう。

 彼女の頭は推理で夢中になっていた。

 ビルの壁に設けられた大時計が午後九時半を回った時だった。

 黒塗り高級車が姿を現し、ビルの正面に横付けになった。

 あれかも知れない! 彼女は居眠りをしているタクシーの運転手の肩を揺すって起きるように言い、ビルの中から出て来る人物に目を集中させていた。

 間もなく門衛が敬礼して誰かが出て来た。

 辺りの明るいライトに照らされたその顔は紛れもない夫だった。

「運転手さん、あの高級車よ。あとをつけて」

 羅の乗った車は大通りを北の方角に向かった。彼女はその行先に目を凝らしていた。

 黒塗りの大型車は大通りを真っすぐ北に進み、大きな交差点を右折した。約十分経った頃、左手の坂を上り、大邸宅が並ぶ地区に入って行った。

 タクシーの後部座席からフロントガラスを通して、彼女は前を走る高級車から一瞬たりとも目を離さなかった。

 羅の車は道が坂から平地になったところで停車した。

 夫が車を降りて豪勢な門構えの呼び鈴を押し、門が開かれて夫が邸に入って行った。

 何ていう大きな屋敷なんだろう。こんなところに住んで、よくあんなボロアパートにも住めるもんだな。

 彼女は呆れていた。

 さて、この屋敷にはきっと正妻が住んでいるのだろう。

 取りあえずその日は留守番の子供らが心配なこともあり、一旦家に戻り、日を改めてその妻の顔を拝んでやろうと思った。その夜、夫は仕事が忙しいので帰れないと電話して来た。一体どんな仕事なのさ。あんたの尻尾は掴んでいるのよ。彼女は、ほくそ笑んだ。


 翌日メイファンは子供を託児所に預け、銀行を経由してタクシーで再び大邸宅に行った。昨夜のタクシー料金は待ち時間がかさみ、距離は短かったが目が飛び出るほどの額になって慌てた。しかし、そんなことは言っておられない事態である。

 銀行で定期預金を解約して普通預金に繰り入れ、普段持ち歩かないほどの金額の現金を財布に入れていた。

 正妻が外出するのかどうか全く読めないが、アパートにじっとしているのは耐えられなかった。

 昼前に邸の門が突然開いた。

「ちょっと、運転手さん! 直ぐにタクシー出せるように準備してよ!」

 門から妻と娘らしい女が出て来た。

 まるでファッション雑誌から抜け出したようないで立ちで、門の横にあるガレージの扉をバッグから取り出したリモコンで開けている。二人はガレージの中で車に乗り込んだ。出て来た車は高級車ブランドの紅旗だった。

「運転手さん、その車の後を追ってね」

 運転手が紅旗を追い始めた。高級車は街の中心街に出て、デパートの駐車場に入って行った。メイファンは地下の駐車場まで車をつけて、二人が地下からデパートに入って行くのを見届けてタクシーを降り、二人の後を追った。

 二人はエレベーターを待っていたので、メイファンは知らんふりしながら、二人の様子を窺っていた。エレベーターは一階で多くの客を載せ、六階と九階のボタンが押されていた。

 六階には顧客用サロンの表示があった。

 二人はそこで降り、真直ぐにサロンに足を向けた。

「まあ、奥様にお嬢様。お待ちいたしておりました」

 秘書タイプの中年女性が二人に声を掛け、恭しくお辞儀をした。

「今日はこの娘の夜会ドレスが欲しいの。その前にランチを予約していますので」

「承知いたしました。ご案内致します」

 二人は外商の幹部らしい女性の案内の後についた。

 メイファンはそれまでに妻と娘の顔を穴の開くほど見つめていた。

 サロンの内側の壁にお得意様御来訪というパネルがあった。

 その最初に来訪時間は正午、名前の欄には『王紅華』の文字があった。

 あの奥さん、ホンファっていうんだ。

 これであいつが家庭を持っているのがわかったわ。初めて会った時にはあの娘の年齢からすれば、もう家庭を持っていたのに、わたしと不倫し、結婚までしたんだ。公安部長ってやはり余ほど給料がいいのね。二重生活が出来るんだから。でもその大半は本宅につぎ込んで、うちにはほんのちょっぴり入れるだけ。

 そう思うと、あの母娘の羽振りの良さがたまらなく羨ましく、妬ましく思えた。

 メイファンはこれから夫にどう接するかを考え始めていた。


 羅は最近二重生活の負担の重さをつくづく感じ始めていた。何とかしないとこのままでは身が持たない。そう思ううちに、公安部の予算を管理する立場にいることが頭に浮かんだ。

 莫大な予算を管理し、実行することが出来るなら少し使わせてもらおう。

 そう思った途端、羅はあらゆる名目を作って公金横領の道を転がり始める。

 それは麻薬に侵された患者の末路が見え隠れするような事態だったが、本人はまだ事態の重大さには気づいていなかった。

 メイファンはなかなか夫には言い出せなかったが、ある日意を決して夫と向き合うことにした。

 彼女の態度がいつもとは違うのに気づいた羅はその理由を尋ねた。

 メイファンは大きく呼吸して唾を飲み込んだ。声が上擦る感じがしたが、何とか踏ん張ろうと耐えた。

「……何だ。どうしたんだよ」

 羅が首を傾げながら、妻を睨んだ。

 これで何かが崩れてしまう。でも、言わなければ。彼女は崖から飛んだ。

「あんたの尻尾を掴んだわ……」

 羅は一体何を言い出すのかと訝(いぶか)る一方で、彼女が何か決定的なことを掴んだのではないかと思い当たった。

「……どういう意味だ、それは……」

 彼女の表情を探る。向こうもこちらを睨み据えている。

「あんた公安部長なんでしょ?」

 羅は動じずに言葉を受け取り、静かに尋ねた。

「いつわかったんだ?」

「つい最近よ」

 彼女はこれまで自分が調べ上げたことを吐き出した。

 羅は黙って聞いていたが、対面を保つように口を開いた。

「如何にも俺はこの中華人民共和国の公安を担当する公安部長だ。お前とこうして一緒になったのは、お父さんとお前のためだ。お前は俺の正体もわからないまま婚前交渉に応じてくれた。長い永定出張の間中、お前は俺を愛してくれた。俺に操を捧げてくれた。中国の女性としてそのような行為まで許してくれたのは本当に有難かった。そういうこともあって俺は気持ちとして引くことが出来なくなったんだ。だからお前と結婚した。捜査の立場上、お前を騙すことになったのは申し訳ないと思っている。許してほしい。でも、俺がしがない貧乏人でなくて良かっただろ? 公安部長さまだぞ。お前はその夫人だ」

 羅は誇るように胸を張った。

 メイファンは顔を歪めた。

「あんた何を勘違いしてるのさ。公安部長夫人が別にちゃんといるじゃない!」

 羅は二の句が継げなかった。ダブルパンチをかまされて、体がぐらつく感じがした。

「お前、そんなことまで!」

「可愛いお嬢さんね。公安部長夫人のお母さまと一緒に百貨店で高級ランチとお買い物。結構なご身分だわ。わたしは粗食ばっかり。あんな綺麗な服なんて一度も着たことないわ」

「いや、悪かった。それも、これも皆お前との家庭を守るためにやったことだ。許してくれ!」

 羅はメイファンに土下座をした。こうなれば、素直に非を認めて謝るのが、傷口を小さくする一番いい方法だと羅は今までの経験から知っていた。

 だが、その神通力もどうやら消え失せたようだ。

「それでこれからわたしはどうすればいいの?」

 表情にはほほ笑みを溜めながら、目では冷ややかな鋭い視線が羅を射抜くように睨みつけている。彼女が猫なで声で迫って来る。羅は困惑で固まっている。

「どうするって急に言われてもなあ」

 彼女は叫ぶように言った。

「あっちの妻とは離婚だわね!」

「離婚?!」

 羅の胸は穏やかではない。離婚などしようものなら、その原因をあちこち突っ込まれて、俺の部長という地位にさえ影響する。それは無理というものだ。

「メイファン、それは無理なことだよ」

「何でよ! だったら何故わたしと結婚したのよ!」

「さっき言ったじゃないか。愛するお前とお父さんのためだって……」

「そんなの嘘!」

「本当だ。だから無理は言わないでくれ、お願いだ!」

「あんたの驚くような正体隠し。隠し妻に娘。こんなことが次々にわかって、何が一体無理なのよ! あんたの方が無理を通そうとしているとは思わないわけ……?」

「……」

「とにかくあっちの妻と離婚してもらわないと話にならない」

 羅は頭が混乱していた。様々なことが頭に浮かんでは消えて行った。

 

 それからは暫く凪の状態に入ったように静かな時間が流れた。

 羅は、しかし正妻・ホンファとの離婚も考え始めていた。

 でないと、メイファンを納得させられない。

 いつまで自分の正体や別宅があることを隠しおおせると思っていたのか、羅は現状を振り返ってみた。

 しかし、メイファンが好きになり、一緒に家庭を持ちたいという純粋な気持ちだった以外は浮かんで来ない。だから、投げた言葉に偽りはない。

 メイファン、俺とお前は愛し合っていた。お前は結婚もしないのに、女の命ともいえる操を俺に捧げてくれた。中国の女性としてそのような行為まで許してくれたのは本当に有難かった。そういうこともあって俺はお前に借りが出来たような気分だった。だから引くことが出来なくなった。あとはお前と結婚するしかなかったのだ。メイファン、この言葉をどうか信じて欲しい。

 しかし一度はそのことを口にしながら、そこに本当の俺の気持ちがありながら、二度とその言葉を口にすることは出来ないだろう。

 何度そう言ってみても、今や言い訳にしか聞こえないからだ。

 息子らが託児所から戻り、寝る前の僅かな時間接していても、ヨンフーもミンヤンもメイファンとの愛の結晶だと強く思うようになった。それはメイファンに対して愛を素直に語れなくなったことへの裏返しだろう。

 確かにメイファンは目の前には居るが、固く口を閉ざしたまま目も合わさない。唯一助かるのは、激しい口論や応酬がないことだ。

 しかし、これも今のうちだけのことかも知れない。

 何日間も過ぎているが、時間が経つのが驚くほど遅かった。

 家のご飯は羅の分はいつの間にかなくなっていた。

 作って欲しいという言葉は飲み込んでしまった。羅は事実上アパートからは追い出された格好だ。

 となれば、必然的に本宅に出入りすることが多くなっていった。

 しかし、料理を作っているホンファに「離婚してくれ」とはとても言えない。また何でそんなことを言う必要があるのか、と居直ってしまう。

 メイファンは台湾に居る父に窮状を訴え、相談するために電話を入れた。夫の羅の正体は公安部長で、自分と結婚する前に既に妻と娘がいたことを父に涙ながらに訴えた。

 父は羅の嘘で固めた不誠実さに激怒し、娘メイファンに対して政府当局に羅を告発するように勧めた。

「もしお前がどうしても告発する勇気がなければ、俺が代わりにしてやるから、その時にはまた連絡してくれ」

 父は娘にそう言って電話を切った。

 

 新疆ウイグル地区でウイグル民族の反中国デモが息を吹き返し始めていた。

 羅は公安部長として泊まり込み体制で指令を送っていた。仕事場にいる方がどちらの家に居るよりも気が紛れ、余計なことを考えずに済む。

 羅は部長室で過ごすことが多くなっていた。各所からデモ関係のメールが羅のパソコンにどんどん溜まって行く。その一つ一つの決済をし、公安部隊の次の戦略を編み出し、具体的に、しかも的確な指示をしなくてはならない。昼間は主にそれに忙殺される。間に出来る待ちの時間帯に、羅は自分自身の人生の行く末を考えていた。

 しかし、事態は直ぐ傍から動き始めた。

 これでは羅が仕事場に籠ってしまい、埒が明かないと踏んだメイファンが、話があるので時間を作るように連絡して来た。

 羅は時間の隙間を狙い、彼女と接触した。

「何だ、話ってのは」

 メイファンは少し見ない間に痩せたように思えた。だが、今の羅はそれを気遣う余裕は持ち合わせていなかった。

「奥さんと別れてくれないなら、わたしあんたのことを当局に告発するつもりよ」

 羅はこの期に及んでも、まさかメイファンがそのようなことを言い出すとは思っていなかったので面食らった。

「告発? どういうことだ」

 羅はメイファンが何を言おうとしているのか、その目をじっと見つめた。

「不倫のことよ。決まっているじゃない。党員の腐敗を糾弾し、追放しようという国家主席の腐敗撲滅キャンペーンがあるでしょ。党員腐敗の内容の中身を見たら『不倫行為』も立派な対象になっているわ。これであんたを告発してやる」

 メイファンは羅を睨みつけた。

 こいつは本気だと羅は彼女の表情から読み取った。

「もう少し話し合おうじゃないか」

 羅はソフト戦術で迫ってみたが効き目はなさそうだ。

「そんなことをして何になるんだ。お前には俺が必要なんだろ?」

「それよりまずあの涼しい顔をしてのうのうと暮らしている人民の敵と離婚して頂戴。でないと胸糞が悪いわ!」

「時間をくれ。もう少し……。今やたら忙しいんだ。お前も知ってるだろ? あの新疆ウイグルの騒乱を……」

「わたしにはそんなの関係ない!」

 これでは暖簾に腕押しだ。彼女は正妻憎しで固まってしまっている。手負いの獣は何をしでかすかわからない。羅は段々メイファンが自分を睨みつける目に恐怖を感じるようになっていた。あの目は尋常な光を放っていない。獲物をひたすら追い詰める獣の目だ。

「時間が欲しい」の一点張りでとにかくその場は辛うじて切り抜けたが、その後もメイファンから「会え」としつこく迫って来る。羅は段々と精神的に追い詰められていた。

 アパートに帰ったメイファンは以前読んで切り抜いていた新聞記事を引き出しから取り出して、もう一度読み直した。

 党員の腐敗を糾弾するというタイトルの記事だった。国家主席の腐敗撲滅キャンペーンの一環で、党員腐敗の内容を羅列してあった。その中に「不倫・不貞行為」というのがある。記事には党員の腐敗行動を見聞きしたら、当局に連絡するようにと連絡先まで書いてある。メイファンはそれを両手で握りしめ、くしゃくしゃにしてゴミ箱に放り込んだ。

 羅が邸を長期間空けている間に、また別の火山が噴火し始めていた。

 妻のホンファが休暇を取っていた家政婦の代わりに夫の書斎の掃除をしていたところ、デスクの引き出しの奥から見慣れない女が夫と写っているポートレイト写真と四人家族らしい写真が見つかった。写真は引き出しの底に五重に敷かれた下敷きの紙の下に隠すようにしてしまい込んであった。

 笑顔で写る四人家族らしい写真には羅と女性との間に二人の男の子が写っている。ホンファは全く知らない女性と子供だ。

 一体これは何なのかしら。

 ホンファは写真を見ながら首を傾げた。

 あの人がわたしたちとは違う別の家庭を持っているのか。まさかそんなこと!

 ホンファは夫と女性が笑顔で写っているポートレイト写真に刷り込まれている撮影日を確かめた。あの人が捜査で福建省の永定に行ってから二、三年経った頃だ。

 ホンファは書庫から永定の写真集を取り出して来て、写真の背景を見比べた。

 間違いなく福建土楼だ。客家が外敵を防ぐために建てた円形の建物だ。

 写っている子供は二歳くらい。とすれば、二人だけのポートレイト写真は子供が出来る前に撮った写真で、家族写真のようなものは二年後くらいに家族で永定を再訪して撮ったもののようにも考えられる。

 しかもこれらの写真は好きな時にいつでも見られるように書斎の引き出しの底に大事そうに隠してある。

 ホンファは別の手紙のことを思い出し、自室に戻って手紙をもう一度開けて目を通した。

『旦那様が不倫をなさっています。愛人には赤ちゃんまで出来たそうですよ。娘さんと一緒に一度確認なさっては如何でしょうか』

 差出人不明で何度も送られて来た手紙だった。その都度夫に問いただすのも憚られ、無視して来たものの、今回に至ってはもう見過ごすことは到底出来ない。

 不安は募るばかりで、ホンファは多忙の夫に電話を入れた。

 メイファンとのことで頭が破裂しそうなのに、この上妻に職場に押しかけられてはたまらない。

 羅は超多忙で、職場で会うのは到底無理で、今夜一度家に帰るから、その時に話を聞くと妻を説得し了解させた。

 しかし一体何の話だろう。妻の声は沈んでいたが、切実感が溢れ出ていた。

 羅は異様な光を放っていたメイファンの獲物をひたすら追い詰めようとする獣の目を思い出し、身震いがした。


 その夜遅く、羅は約束通り帰宅し、書斎で妻と向き合っていた。

 ホンファは写真を見せて羅の目を避けるように言った。

「あなたと一緒に子供四人で写っているのは何処の人たち?」

 ホンファは表情の変化を見落とすまいと羅をじっと見つめた。

 羅は咄嗟にどう言い訳しようかと一瞬迷ったが、これは即答し、きちんと説明出来なければ即アウトという代物だ。何しろ自分が写っているのだから。

「ああ、それは俺の友人の家族だよ」

「何ていう友人?」

 妻が尋ねた。

「あっ、あいつ何て言ったかな。この頃人の名前が直ぐに出て来ないんだ。ある時突然訪ねて来て、そいつの家族と一緒に写真を撮ったんだ」

「その友達が写真を撮ったから、写真には写っていないという訳ね」

「ああ、そういうことだ」

「じゃあ、いつの友人? 中学? それとも大学?」

「何でそんな細かいことを聞くんだ。友人だって言っているだろ!」

「余程の親友の家族なのね。引き出しの底に隠すようにしてしまい込んであったわ」

 妻の言葉には明らかに皮肉が込められていた。

 しまった! この前要るものを取り出した時にデスクの鍵を閉め忘れたか。いつもきちんと鍵をかけるのに、閉め忘れた時に限って、妻が引き出しの中を探るなんてな。

 羅は妻が追い込むように問い質すのに腹立たしさを感じていた。

「それにしても、俺のデスクの引き出しの中身を俺の留守を狙って覗き見るなんて、果たして妻がすることなのか?」

 羅はホンファを睨みつけた。

「わたしの目が届かないのをいいことに、不倫して、子供まで作るなんて一体夫がすることなの?」

「お前、何を言う!」

 羅は思いっきりホンファの頬を平手で打った。

「痛い! 何するのよ!」

 ホンファは頬を手で覆いながら、羅を睨んだ。

 うっすらと涙を浮かべながらホンファは自分宛てに届いた不倫告発の手紙を羅に見せた。

「何だ、こりゃ?」

 ホンファが涙を拭いて続けた。

「今、段々と貴方が永定に長く出張に出かけた時のことを思い出しているの。あの頃、リンユーがもう生まれるという時だったので、わたし、貴方に毎日電話を入れたわ。でも、貴方は一度も電話に出てくれなかった。何故電話に出てくれなかったの? そろそろ生まれると思っていたなら、わたしからの電話に気付かなかったとしても、何故貴方から電話をくれなかったの? わたしらの初めての子なのよ!」

「捜索でずっと忙しかったんだ。あの頃は……」

 羅はそう返すので精一杯だった。

 ホンファは羅から目を離さなかった。

 苦虫を咬み潰したような表情で羅はうなだれていた。

「あなた、不倫を認めるの? どうなの?」

 たたみ掛ける念押しにも羅が反駁しないので、ホンファが泣き崩れた。

 居たたまれなくなって、羅は黙ったまま書斎から出て行った。

 ドアの向こうで妻の泣き声が一段と大きく聞こえた。

 妻が書斎を出てから、羅は書斎に戻った。

 デスクの上に証拠写真が無造作に置かれている。

 羅は取り上げて写真を見つめた。

 もうこれで俺の二重生活は完全に終わった。二重生活どころか、両方とも潰れたんだ。

 羅は窓から遠くに瞬くビルのネオンをぼんやりと眺めた。

 ホンファは翌日お暇を頂きますと言い残し、北京市内にある実家にリンユーを連れて移って行った。

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