第12話

 第十一章

 二十余年前、羅承基は大学を卒業し、憧れの公安部に就職した。就職に当たっては、かつて公安部に勤めていた羅の父親を通じて父親の元上司の強い推薦を得ていた。

 太い眉に、中国の保安を司る公安部に相応しい鋭い目つき、通った鼻筋、骨太で筋肉質の体幹という外見の羅は間もなく妻となるホンファに紹介される。ホンファは羅の父親の親しい友人である財閥家の一人娘だ。色白肌で美しい黒髪を螺鈿の髪留めで止め、細い眉に一重瞼で切れ長の目、きりっとした鼻筋、清楚な口元でややふくよかな顔は愛らしく、立ち居振る舞いには良家の娘らしく慎み深さを湛えている。

 翌年春、羅はホンファと華燭の典を挙げた。式には各界の著名人が招待され、北京で羅の同窓生だった陳浩然も式に招待され、場違いな心持で式を傍観していた。

 陳と羅は顔見知りではあったが、それ程親しい間柄でもなかった。それでも、陳は秀才の誉れ高かった羅を羨望の眼差しで遠くから眺め、機会があれば羅の気を引くような態度で接していた。卒業した陳は田舎に帰り、畑仕事や渓谷での漁をしてのんびり暮らしていた。

 ある日所用で北京に出かけた時、羅と偶々出会い、懐かしさから一緒に茶を飲んだ時、羅は近々結婚するので是非出席して欲しいと招待状を陳に手渡した。

 陳はそれほど親しくもなかった羅の式に出席するのは少々億劫な気がしたが、公安部のエリート捜査官になったという羅が果たしてどんな式を挙げるのか興味が湧き、出席したのだった。

 宴では父親の元上司が挨拶に立った。

「新郎の羅承基君は将来を嘱望された人物として、わが中国の公安部門を担当する公安部長という重要な仕事に就くべく、日々仕事に邁進しています。父君も公安部長経験者であり、承基君が部長になれば、わが国公安部では初めて親子の公安部長が誕生することになります」

 式が進み、新郎新婦の友人からお祝いのスピーチが次々に披露され、司会者が突然陳浩然の名前を呼んだ。陳は頭にカッと血が上った。俺は式に出席するだけでよいと羅は言ったはずだ。

 指名を受けた陳に雲の上の存在のようなお歴々の目が一斉に注がれた。

 陳はスピーチをするどころか、息苦しくなり、押し黙ったままテーブルに片手をついてしまい、下を向いて固まっていた。

 会場は一瞬静まり返り、何事かと心配する雰囲気が広がったが、しまいにはあちらこちらから微かな笑い声が聞こえ始め、騒めきは一段と大きくなって行った。

 陳は紅潮した顔で羅を見たら、皆と一緒になって笑っている。その時言いようのない憤怒が心の中に沸き起こった。馬鹿にしやがって! 

 陳はテーブルにあった飲みかけのワイングラスを床に叩きつけて会場から走り出て行った。


 羅の結婚から二年後、台湾と台湾海峡を挟む福建省の山中にある永定で公安部が捜査すべき事案が発生した。

 昔、黄河・中原(ちゅうげん)一帯に住んだ漢族同士が争い、分派した漢族が永定に逃れて住み着き、客家(はっか)と呼ばれている。

 彼らは敵から身を守るため、広場をドーナッツ状に取り巻く円形の数層からなる楼閣に集団で暮らし、結束力が強い。その鋼の結束力を発揮して人的なコネクションを広げ、経済界、あるいは政界で辣腕を振るう人材が輩出している。

 中国国家主席になった鄧小平。シンガポール首相になったリー・クワン・ユー。台湾初代総統の李登輝もその代表例だ。

 その本拠地とも言える永定で、反革命勢力に資金が流れているという疑惑が持ち上がり、羅が重要な任務を帯びて出張を重ねるようになった。

 羅本人は現地本部の指揮官として楼閣には原則として顔を出さず、公安部の部下五人を北京からやって来た出張物品販売の営業マンに偽装させ、楼閣で暮らしている人々の各戸に自由に入り込んで、物品を売り込む振りをしながら数百人が住む楼閣内を動き回り、反革命情報の収集に当たらせていた。

 客の一人になった住人には美帆(メイファン)という娘がいた。色白肌の瓜実顔、形の良い口元は女性の色気をむんむんさせ、近所では評判の器量よしである。

 ある夜、情報収集のため羅本人がその住人の居宅を販売の研修に来た営業マンという名目で営業マンと一緒に訪ね、住人に接触した。その時メイを見た羅はその輝く艶っぽさに一目惚れしてしまった。

 眠れぬ夜を過ごした羅は早速翌日から暇を見つけては彼女に声を掛け、二人きりで野山や公園に出かけたり、楼閣近くに開設された出張物品販売の仮店舗に買い物に出かけたりした。そして機会あるごとに気を引こうとし、彼女に体をくっつけてはその美しい黒髪を撫でた。

「メイファン、ボクは君のことをどんどん好きになってゆく。君がどれ程好きか証拠を見せよう。ほら、ボクの胸に手を当ててご覧。こんなにドキドキしているよ」

 彼女は手を当てて、羅の瞳を見つめてほほ笑む。

「ボクは君の純粋なところが好きなんだ」

 そう言って、羅はメイファンの頬に手をやり、唇を重ねた。

 しかし、少し親しくなったからといって容易に体を許さない彼女を何とか口説き落として自分のものにしたいという欲望が日増しに高まって行った。

 妻のホンファとは時折連絡を取り合っていたが、ある日ホンファから羅の部屋に電話が入る。

 羅はちょうど部屋にメイファンを連れ込んで、抱き合っていた。電話は長く鳴り響いていたが、羅は性交を途中で止められず、電話を無視する。

 鳴り続けた電話は間もなくプツンと切れた。それはホンファから女児が生まれたという連絡の電話だった。

 羅は遅れて娘の誕生を知り、公安部に現状の捜査報告がてら、休暇をとり、一度北京に戻った。妻と二人で女児に鈴玉(リンユー)という名前をつけ、リンユーを囲んで久しぶりに家庭の味を噛みしめた。

 そのあと再び永定に戻った羅はメイファンから妊娠を告げられたのだった。

 羅に戦慄が走った。

 羅はメイファンに告げる。

「堕してくれ」

 彼女の顔色が変わった。

「何てこと言うのよ! 先ずは結婚でしょ? 結婚もしないうちにわたしの貞操をあんたに捧げたんだから当然でしょ?」

 羅は絶対に身分や妻帯者ということをメイファンに明かすわけにはいかない。すなわち独身の振りを続けなくてはならない。

「大体、何故赤ん坊を堕せなんていうのよ。わたしたち二人の愛の結晶じゃない?」

 彼女は両手を羅の首に回し、ほほ笑んだ。

 羅は結婚を偽装しなくてはならないと思った。

「お父さんもわたしの妊娠を知って驚いているのよ。結婚はいつするんだとしつこく尋ねるの」

 メイファンは羅の形の良い小鼻を指でこねくり回しながら羅を見つめた。

「よせよ!」

 羅が苛立って、指を払った。

「お父さんに正式に会ってちょうだい。そして結婚のことをちゃんと言ってね」

 彼女は黙ったまま思いにふけっているような表情の羅に口づけをして、ほほ笑んだ。


 メイファンは幼い頃母親を病気で亡くしていた。そのため父親は男手ひとつで娘を育て上げた。目に入れても痛くない娘である。それ故に娘の結婚には人一倍気を使って来た。

 結婚していない娘が妊娠したのには正直驚いたが、それならそれで結婚を急ぐ必要がある。父親は村の長老に仲人を頼み、裕福でないなりに娘の門出を祝う準備を急ピッチで進めた。

 羅は父親のノリには付いていけなかったが、公安活動の実質的な協力者でもあり、何よりもメイファンの父親であることから、良い人間関係を表面上も作らねばならなかった。

 結婚の日取りも決まり、羅はこれまでメイファンの父親を初め、楼閣の何百人もの住人と接触し、情報を得ていた部下らに北京への帰任命令を出した。

 部下は全員、羅が既婚者であることは勿論知っているし、二重婚など知られたら大変なことになる。気付かれないうちに追い出してしまおうというわけだ。

 しかし部下を帰すためには、今回の捜査を終了させねばならない。しかも、結婚式が行われる日の直前に事を終わらせて、部下を北京に先に帰し、羅自身は最終的な撤収のためという名目で留まり、結婚式を済ませてから北京に戻るという段取りを決めた。

 羅は早速これまで部下が収集したあらゆる情報から、周辺の幾つかの楼閣に住む数人の男を容疑者と特定し、北京公安部に連絡を取り、逮捕状を持って永定に護送車を送るように依頼した。

 手続きを済ませた公安部の応援隊が乗り込んだ護送車は北京を出発し、客家の村に到着した。村人たちは突然楼閣に横付けになった公安部の車両に驚き、その場から公安捜査員が逮捕状を持って各楼閣に向かうのを、固唾を飲んで見守った。

 容疑者は全員逮捕され、護送車に乗せられて北京に向かった。

 残った羅は頭を切り替えて、結婚式の準備を急ごうとしたら、メイファンの父親が眉をひそめて尋ねた。

「おい、ひょっとしてあんたも公安なのか? だって公安が販売店の営業マンに化けて捜査していたんだろ?」

「いや、違いますよ。販売店は実際存在する大手の店で、公安に頼まれて捜査に協力したんです。わたしは研修のため全く違う販売店から派遣されてここに来たんです。公安と販売店が示し合わせていたとはつゆ知りませんでした。だから公安じゃありませんよ」

「そうかい。それで安心した」

 父親は納得した様子だった。

 結婚式も済ませて、羅は一日でも早く北京の公安部勤務に戻る必要があった。

 羅は父親に会い、娘と一緒に北京で所帯を持って出張物品販売の仕事で生計を立てて行くと告げた。父親も了解し、妊娠している娘を宜しくと懇願し、羅の両手を固く握った。

 二人は持てる限りの引っ越し荷物を作り、業者のトラックに便乗して永定を離れた。

 北京でアパートを借りて落ち着いた羅は久しぶりに公安本部に顔を見せた。

 公安部では公安部長を初め部員全員が羅の帰還を祝い、乾杯して労をねぎらった。

 夜の帳が降りると、妻のホンファと幼い娘のリンユーが待つ邸に戻り、ホンファと久しぶりの夜を過ごし、夜遅くに「急な仕事が出来た」とホンファに告げて、今度は愛人妻が待つアパートに戻り、メイファンを抱きしめた。

 羅にとって妻の居る本宅と愛人妻の居る別宅を往復する二重生活が始まったのだった。

 永定の捜査を完了した功績により、羅は公安部長に就任した。二十六歳という若さでの極めて異例の大抜擢は、公安部内に隠然たる力を持っていた父親の元上司と父親の強力な推薦と支持があったから実現したのである。

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