第23話

 終章

 マーはアンナに振られてしまったものの、なおも思いは募るばかりだった。事あるごとに玲にアドバイスを求め、そのたびに暗い表情で「一輪挿しの恋は失敗です」と口にした。

 玲は微笑んで言う。

「誕生日は勿論、アンナの特別な記念日のようなものがあるかないか調べて、その日に食事に誘うとか、何かプレゼントをあげるとかしたらどう?」

 マーは弾んだ声を返す。

「そうしたらアンナさんはボクのこと好きになりますか?」

 そんな単純なことで女心を鷲づかみに出来ると思っているのかしら。玲は苦笑しながら続けた。

「上手にやらなきゃダメよ。一輪挿しの花はまずは第一弾として、第二弾、第三弾という風に積み重ねなきゃね。アンナは京都出身だから、京都のお寺や神社でデートするとか、色々自分で考えなさいな。マメでないと恋は実らないよ」

「……恋は難しい」

 マーは首を捻った。

「そらそうよ。独りだけで恋は出来ない。相手さまがいるんだから」

「頑張ります!」

 元気な声が事務所に響いた。


 赤間と古賀は引き続き陳の告白を聞いた。

「ある日の午後だった。海が荒れていたので漁は休みになり、家でブラブラしていたんだ。その時電話が鳴った。親父が出た。話の内容から相手は妹だった。何気なく二人の会話を聞いていたら、『もしお前がどうしても告発する勇気がなければ、俺が代わりにしてやるから、その時にはまた連絡してくれ』という親父の声が耳に入った。『告発』という言葉が気になった。俺は親父にどういうことか尋ね、事情が呑み込めた。羅のことは俺に任せてくれと親父に言ったが、『可愛い娘を酷い目に合わせた羅が憎い。俺がやる』と言って聞かない。『あんたがあんな奴との結婚を認めたからメイファンがこんなことになったんだ』と責めたらブチ切れやがって殴りかかって来た。傍にあった木刀で思い切り殴ったら当たり所が悪かったのか泡を吹いて死んじまった。俺はこのままでは妹が精神の異常を来すのではないかと恐れ、出来るだけ電話を入れて励ました。ある日メイファンは羅の子供を身ごもっていると告白した。三人目の子だ。毎日肌着を縫っていると嬉しそうだった。俺は愛おしさに涙が止まらなかった」

 陳は縛られて同じ姿勢が辛いのか、「胡坐をかいている両脚を伸ばさせてくれ」と訴えた。

「暫くしてからメイファンに親父が心臓発作で亡くなったと知らせたら、子供がまだ小さいから台湾まで行けないので、こちらから台湾の方角を拝んでおくから、きちんと葬儀をしてあげて欲しいとなけなしの金を送って来た」

 陳は涙ぐんでいた。

「そうこうするうちにあの新聞の一面記事だ。メイファンが殺され、遺体が発見された。俺は気が狂いそうだった。とにかく北京に行かなくては。妹の家に駆け付けたら、酷く古ぼけたアパートだった。俺は何度も住所を確かめた。間違いない。しかし、卑しくもメイファンは将来を嘱望されていた公安部のエリートの嫁になったのに、何故こんな薄汚いところに住んでいたのか。入り口の鍵は閉まっていた。双子は託児所に預けられていた。話を聞くと、羅が『暫く預かってくれ。施設に入れるので引き取りに来るまで』とのことだった。俺は公安部に行き、亡くなった女性の兄だと告げた。羅との関係などを色々聴かれ、やっと妹の遺骨を受け取ることが出来た。その遺骨も墓地の管理事務所の手違いで、まだ無縁墓地に埋葬されていなかったから直ぐに受け取ることが出来たものだった。その足で妹が生まれ育った永定に向かった。俺は遺骨を抱き締めて復讐を誓った。羅を公安に逮捕させてなるものか。俺の手であいつの息の根を止めてやる。そう涙ながらに遺骨に誓った。永定に着いて、妹を陳家代々の墓に埋葬した」

 陳の頬を涙が伝わっていた。陳の話は次第に羅に対する復讐に移って行った。

「逃亡の身であいつは俺の張り裂けそうな胸のうちも知らずに、能天気に俺を頼って来るかも知れない。普段は見向きもしないくせに、いざとなると少しの縁を口実に頼ってやって来る。だからこちらから羅に電話を入れてやった。こちらの気持ちを悟らせずに、油断させておいてバッサリ殺してやろう。それがあいつに相応しい死に方だ。そう考えていた。信仰している道教の寺で占ってもらったら、どんな憎々しい奴とでも平気な顔をして付き合い、己の忍耐の限界を極めることこそ、貴殿の生き方のコツであるというご託宣を頂き、意を強くしたこともある。だからあいつが俺に頼って来る時は必ず友人として一緒に酒も飲んだし、話もした」

 陳の表情は異様なほど穏やかだった。

「一年過ぎ、二年過ぎして、とうとうあいつに何も出来ないまま十五年も過ぎてしまった。あいつは台湾が気に入っていた。ウーライの温泉郷に一生通い続けたいとまで言っていた。あいつが台湾にいる限り、いつでも殺せると思っていた。妹を殺された復讐の炎はそれくらいの年月で消え去るようなちゃちな代物じゃない。絶対に!」

 赤間が陳の話に付け加えた。

「羅の後任の公安部長も数人入れ替わっている。その間、中国と台湾がお互いに捜査協力をしようという話もあった。もしもそれが実現していたなら、羅はあんたに殺されずにもっと早く逮捕されていたかも知れない。しかし、ICPO=国際刑事警察機構に台湾が参加を申請したのを加盟国の中国が『ひとつの中国』を盾に妨害し、中台関係の溝の深さを見せつけた」

 陳は再び胡坐をかいた。

「結局今回俺が仕掛けたスナイパーが羅を始末してくれた。羅の野郎は自分の三人目の子がメイファンに宿っているのも知らずにメイファンの命を奪った。あとに残った双子の息子にもあいつの穢れた血が流れている。そして一人は俺の手で殺した。あと一人だったのに失敗してこの様(ざま)だ」

 陳は腕が痺れていた。

 古賀はその様子に気付き、赤間に声を掛けた。

「もっと話が聞きたいので、気分転換に場所を変えないか。こいつも長いこと後ろ手に縛られて苦しそうだ」

「よし、大阪市内にある俺の隠れ家に場所を変えよう。情報機関のセイフハウスがある」

 二人は陳に猿轡を嵌めさせ、アイマスクをして後ろ手に縛った縄を解き、代わりに前向きに手錠を嵌めて、陳を車に乗せた。

 もう夜の帳が降りていた。

 赤間が運転する車は大阪キタのターミナル・梅田近くにある隠れ家の前に停まった。

 ある建物に入り、エレベーターを上階で止め、廊下伝いに歩いてドアの鍵を開けて三人で中に入った。

 アイマスクと猿轡を外された陳はホッとした表情を見せた。

「何か飲むか?」

 赤間は冷蔵庫からコーラを出し、栓を開けて三つのコップに分け注いだ。

 陳にはコップを口元まで持って行き、口を開かせて飲ませた。陳はゴクゴクと飲んだ。

「さて再開だ」

 赤間がコップを飲み干して言った。

「殺された女、すなわちお前の妹が羅の愛人らしいという噂を流したのはお前か?」

「そうだ。公安と仲が悪い国家安全部周辺に流せば、公安部長の大失態は直ぐに広まるからな」

 さっぱりした表情で陳が言った。

「羅がメイファンはお前の妹だと知ったのはいつのことだ?」

「羅の射殺決行の日だ。俺の仕掛けたスナイパーがその日に羅を逮捕することになったと知らせて来た。部隊に対しては公安部長から、羅は絶対に北京に生かして連れ帰れという厳命が下っていた。しかし俺はスナイパーに羅を狙撃し、必ず殺せと伝えた。だが、死ぬ前に奴にお前が殺した愛人妻は俺の実の妹だと知らしめてやりたかったから、掃除人の振りをして手紙をあいつに読ませたんだ」

 古賀と赤間は長時間の問い質しに疲れ、夜も更けたので陳を警察署に引き渡した。

 ミンヤンになりすましてマーと古賀を襲った劉博文は送検され、刑期を終えたあとで強制送還されることになった。


 事件はその翌日に起きた。警察で陳の聴取の段取りを検討している最中にちょっとした手違いがあり、陳がその間隙を突いて手錠のないまま脱走したのである。

 付近を観光していた中国人観光客に紛れ込んで陳は天門橋筋商店街に逃げ、近くのコインロッカーに預けていた拳銃を取り出してヘルプの事務所に駆け込んだ。

 事務所には早めに出勤していたアンナが居て、陳はアンナに銃口を突き付けて「声を出すな」と脅した。

 アンナは手で口を押えて立ちすくんだ。

 そこに古賀が赤間を同伴して出勤して来た。

 陳はアンナを後ろから抱きかかえ、こめかみに銃口を突き付けて凄んだ。

「近寄るな! こいつを殺すぞ! ハジキを床に放り投げろ!」

 赤間は胸のホルスターから拳銃を抜いて、静かに床に置いた。

「置くんじゃなくてこちら側に蹴って寄越せ!」

 赤間は言われる通りにした。

 騒ぎに仮眠ベッドで目を覚ましたマーが仮眠室のドアの隙間から覗くと、アンナが陳に銃を突き付けられているのが目に入り、思わずドアを開けて姿を見せ、叫んだ。

「アンナさんを放せ!」

 突然姿を見せたマーを認め、銃口をアンナのこめかみに突き付けたまま、マーにニヤリと微笑んだ。

「飛んで火にいる夏の虫だ。こいつは手間が省けたぜ。マー、お前にもミンヤンと同じ羅の薄汚れた血が流れている。ミンヤンと同じようにこの世から消してやる!」

「お前が弟を殺したのか!」

 マーが睨みつけた。

 アンナを後ろから羽交い絞めにして、陳は銃口をマーに向けた。

「陳、これ以上罪を重ねるな!」

 古賀が叫んだ。

「やかましい!」

 再びマーが叫んだ。

「アンナさんを放せ! 彼女はボクの大切な人なんだ!」

「大切な人っだって? 恋人同士とでもいうのか」

 銃口はピタリとマーに向けられている。

 陳を睨みつけるマーの表情に羅がダブって見えた。銃の引き金を引く指に力が籠る。

 羅に重なり、今度は妹が浮かんだ。羅の汚らわしい血が流れているとはいえ、今俺が殺そうとしているマーはメイファンの産んだ子だ。陳は同じ妹が産んだミンヤンを殺害した時とは異なる感情が沸き起こるのを感じていた。

 俺が羽交い絞めにしているこのアンナとかいう女が、たとえ羅の息子ととはいえ、二人の将来を約束した女だとすれば、新しい命が生まれる。

 三人目の子を宿し、その子のために肌着を縫っていると嬉しそうに話していた妹。その微笑みが浮かんだ。その微笑みが羽交い絞めにしているアンナの温もりと重なった。

 その途端、陳はアンナを突き放して解放し、アンナはマーの胸に飛び込んで行った。その時。

 パン!

 陳は自らの頭を銃で撃ち抜いて、床に倒れた。

「救急車を呼んで!」

 古賀が大声を出して、銃を赤間に手渡し、陳に駆け寄った。

「おい! しっかりしろ!」

 陳の上体を腕で持ち上げた。

 古賀の目を見つめて、陳が笑みを見せた。

「……妹と一緒に……メイファンと一緒に……埋めてくれ。頼んだぞ」

 そう言い残し、陳は事切れた。

 他日、遺言通り陳の遺骨は永定の故郷に運ばれ、妹メイファンと一緒に埋葬された。


 それから二年の歳月が経った。

 赤間は大阪キタのセイフハウス内にオフィスを構え、赤間機関をフルに活用した国際探偵業に乗り出していた。

 休みになると、古賀は玲と赤間を誘い、天門橋筋商店街の巣で飲み明かした。

 タイペイに住んでいたマーの養父母は息子の暮らす大阪に居を移し、とりあえずは息子のアパートで暮らしている。

 母親のティラは初めて台湾で会った時からアンナのことを気に入り、二十歳になったら息子の嫁にどうかと父親のアラと話し合っている。

 当のマーは玲のアドバイス通りにアンナの両親が住む京都でアンナとデートを重ね、その機会にアンナの両親とも会った。

 マーは機会を捉えて双方の親同士を引き合わせた。それ以来双方の親は通訳役のマーやアンナを交え、父親同士の釣り、母親同士の料理という共通の趣味を通じて本人同士のことは棚に上げて交流を深めている。

 美人窟の観音菩薩がマーの心の中でその存在を示すちょっとした出来事があった。ある日、日本語学校で漢族の中国人留学生とマーが宗教問題で議論を始めた。

「マー、お前は回族だろ。ムスリムなのに何で偶像を、しかも菩薩を信仰するんだ?」

 マーが反論した。

「ボクから言うのも何だが、イスラームというのはせいぜい七世紀ごろに成立した新しい宗教だ。それまでは今ムスリムを標榜するウイグル族でさえ仏教徒だった。その時代にすでにボクのような仏教偶像の崇拝があったことを忘れちゃならない。菩薩さまはボクを守ってくれるので崇める。それはボクがムスリムであることと矛盾しない。現に記憶喪失になったボクをその苦しみから救ってくれた。君ら漢族は中国を支配しているつもりだろうが、中国は何十という少数民族から成り立っているんだ。それにムスリムの立場から言わせてもらうが、漢族はもう少しイスラームのように寛大にふるまったらどうだ?」

 留学生は自慢げに主張した。

「漢族は優秀だから支配階級になれるのさ。分派はしたが、福建省の山の中に暮らす客家も漢族だ」

 マーは自信を持って答えた。   

「菩薩さまはどんな身分の人でも平等に救っていただける。たとえ肌の色が違っていても関係ない。そういう意味ではアッラーの存在と共通している。ボクの中では菩薩さまとアッラーはバランスを保っているんだ」

 留学生はこれ以上議論しても無駄と悟り、その場を去って行った。

 今はもう二度と戻れないかも知れない故郷あるいは莫高窟の方向と思われる方角に向き直り、マーは一日数回繰り返すメッカへの祈りと同じ形で菩薩に祈りを捧げるのを日課としている。

 古賀と玲は月命日になると自殺した古賀の妻の墓参に出掛けた。墓には彼女の好きだったガーベラの花を供える。

 風呂に入る時、玲は鏡を見ない。身体を洗う時にも、刺し傷の痕が残るお腹に目をやらない。その代わり、あの事件をきっかけに激太りした体をゆっくりと湯に沈め、頭を空っぽにして沈思黙考する。

 玲は心密かに誓っていた。古賀の許で生涯をかけて古賀の妻のことを背負って行こうと。


 それから数年が経ち、マーはアンナと結婚した。新婚旅行を兼ねて台湾を訪れたマーは

 キールンの港を望む丘にある父・羅承基が眠る墓に詣でた。

 マーの希望で、別の墓地に埋葬されていた弟・ミンヤンの遺骨も父の墓に合葬されていた。合葬の世話は台湾永住を決めた羅の元部下・李新念が力を貸してくれた。

 墓に行くと、墓前で腰を屈めて手を合わせている若い女性がいた。女性の後ろには夫らしい男性と二、三歳くらいの男の子が立っていた。

 マーとアンナは供花を持ってその女性が拝み終わるのを待っていた。

 女性が背後に人の気配を感じて立ち上がり振り向いた。

「失礼ですが、どなたでしょうか」

 マーが尋ねると、女性は困惑の表情で尋ね返して来た。

「お宅さまこそどちらさまでしょうか」

 マーは少しムッとしたが、名乗った。

「ここに眠る羅承基の息子です」

 若い女性は驚きの表情に変わった。

「ひょっとして、あなたはメイファンさんの息子さんでしょうか」

「はい」

 若い女性は頷いてお辞儀をした。

「お父さんにわたしの異母兄弟がいると新聞に書かれていました。お母さまのお名前も新聞記事で拝見しました。わたしは羅の娘リンユーと申します」

 マーはハッとして、深くお辞儀をした。

「わたしは羅の息子のマー・グアンピンです。こちらは妻のアンナです」

 リンユーも夫と息子を紹介した。

「可愛いねえ。ボク、お名前は?」

 アンナが尋ねた。

「素香(スーシャン)」

 男の子がはっきりした声で答えた。今度はマーが話しかける。

「君はおじさんと君のお母さん両方のお父さんのお孫さんだね。ちょっとややこしいか。ゴメン」

 スーシャンはわからないという風にはにかんで首を傾げた。それを見てみんなで笑った。

 マーらも墓に花を供え、拝んでからみんなで丘を一緒に歩いた。

 リンユーは父のことを話した。

「四歳ぐらいまで同じ屋根の下にいたはずですが、とにかく父は仕事か何かで家に殆ど居ませんでしたから、父の記憶というのは殆どありません。あるのはあの忌まわしい事件のことだけです。今度もまた新聞で派手な死に方をしたのを知り、この墓地のことも新聞で知りました。ここに来るのも心の葛藤があり、随分と時間がかかりましたけれども、来てやっとこれで心の区切りがつきました」

 マーは頷きながら言った。

「わたしは父がライフルで撃たれた時に現場に居合わせました」

「へえ、そうですか。その時は別にして、そもそも父子の対面をなさったのはいつ頃のことでしょうか」

「もう六、七年前になります。ちょっとあそこに座りませんか。お時間がありましたら」

 マーは丘の一角にある石作りのベンチを指差した。

 四人は腰を掛け、スーシャンは甘えながら父親の膝に抱かれた。

 マーは最近の父親について話をした。リンユーは熱心に耳を傾けていた。

 リンユーが目を輝かせた瞬間があった。「娘を抱いていると、本当に時間の立つのを忘れた。とっても愛らしく、思わず何度も抱き締めた」という生前の羅の言葉を伝えた時だ。

 リンユーは涙ぐみながらこう返した。

「わたしの父に対するイメージは犯罪人というものしかありませんでした。でも、今の話を伺うと、父もやっぱり子の親だったんですね。それを聞かせていただき、少しほっとしました。ありがとうございます」

 マーが尋ねた。

「それにしてもよくお墓に詣でられましたね」

 リンユーが答えた。

「父は母を裏切りました。それは許せませんけれど、もう父も亡くなりました。死者に鞭打つことはしたくありません。わたしはここに来る前に北京にある母親の墓に参りました。母親に許可をもらって、ここに眠る父を拝みに来ました」

 リンユーが微笑み、マーが付け加えた。

「実はあの墓にはわたしの双子の弟も父と合葬されているんです」

「そうだったんですか。その方もわたしの異母兄弟ですよね。早くに亡くなられたんですね」

 リンユーは立ち上がり、墓に戻って腰を屈め、膝をついてお辞儀を繰り返した。

 一緒に墓を拝んだマーは「ありがとうございます」とリンユーに頭を垂れた。

「それでは、わたしらはこの辺で失礼します。どうかお元気で」

「スーシャン、さようなら」

 マーがアンナと一緒にスーシャンの小さな手を握った。

 リンユー夫婦はマーと握手して、可愛い手を振る息子と丘を後にした。

 マーは公安部のお尋ね者の身なので中国に行けないから、ここから母さんの墓を拝むと言って、キールンの丘の上から永定と思われる方角に両手を合わせて祈った。

 目を閉じているマーの脳裏にひとつの記憶が蘇っていた。

 ヨンフー、すなわちマーが二歳の頃、父親の羅、母親のメイファンに連れられ、弟のミンヤンと家族四人で北京から母の故郷・永定に旅行した時の記憶だ。

 外敵から身を守るため、広場をドーナッツ状に取り巻く数層の円形型楼閣に母はボクら兄弟の手をつないで入り、夫婦で初めて所帯を持った家屋に案内してくれた。

「ここがね、父さんと母さんがひと時暮らした家よ」

 母が家の中に声をかけると、今住んでいる客家のおばさんが出て来て、父母の顔を見て微笑んだ。

「あんたらのこと覚えているよ。ここで結婚式しただろ? 奥さんの花嫁衣裳とっても綺麗だったね」

 片腕に入れ墨をした客家のおばさんが父母に話しかけるのを微かに覚えている。

 入れ墨が幼心に珍しく、また皮膚に彫られた青色に透け出た文様が不気味に感じたから記憶に残ったのだろう。

 今思えば、おばさんは公安部の捜査員という身分を隠し、楼閣にしょっちゅう顔を出していた父の顔も、そして父親と兄と住んでいた母のことも、さらには父母の結婚式のことも覚えていて、二年くらいしか経っていないのに懐かしい思いがして声を掛けてくれたのだろう。

 そのおばさんは双子と聞いてボクらの顔をまじまじと見詰めたのも記憶にある。

「本当によく似ているわね。さすが双子だけあるね」

 その時の父も、母も、そして弟も今はもういない。

 みんな自然死に見放された人生だったけれど、あちらの世界では仲良く暮らしていて欲しい。

 マーは目を開け、拝んでいた両手を下ろし、港を見下ろすキールンの丘の上からアンナと共にこれから家族で暮らす大阪に思いを馳せた。

                                    了

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記憶を捜す少年 安江俊明 @tyty

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