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「言葉」と「表現」の谷間は埋まるのか

テレビで童謡詩人のまど・みちおさんの世界を垣間見る機会があった。まどさんと言えば、キングレコードから童謡集アルバムを出版され、代表作のひとつは《ぞうさん》であろう。
詩はもちろんコトバの世界のものであるが、彼には世の中に出てから、コトバで創作をすることに疑問を感じ、一時期百枚ほどの絵を描いたことがあり、その作品がこのほど出身地である山口県周南市の美術博物館で展示されているとのことだ。
何故コトバでの創作に疑問を感じたのか。彼を良く知る詩人・谷川俊太郎さんは、まず彼の絵画について一言で「怖い」と述べた。
谷川さんの見方はこうだ。まど・みちおの世界は海に浮かぶ大きな氷塊であり、詩の世界は眼に出来る氷山の一角であり、あとは海の中にあるダークな世界。恐ろしい生物が出て来るかもしれないような世界。そんな世界を表現したのが彼の抽象的な絵画であるというのだ。
まどさんか、谷川さんか、どちらが言ったのかわからないが、観ていていささか驚いたのは《言葉はチャチなもの》ということだ。
詩人や小説家にとって《言葉》は命である。表現は言葉によって決まる。だが、果たして言葉はどれだけのものを指し示し、内容物をどれだけ含んでいるというのか。
谷川さんによると、まどさんは人間存在を超えて、宇宙の存在を眺めていたという。チャチな言葉で果たして宇宙の存在をどれほど表現し得るのか。そのためには絵画という手法で、《言葉が表現し得ないもの》を表現しようとしたのではなかろうかというのだ。
まどさんは鳥を表現した詩の中で「鳥さん、(手じゃなく)目で触るのはいいよね」というような言葉での表現を使っているが、鳥という実像をチャチな言葉でなく、視覚で確認するという姿勢が観てとれる。
まどさんは眼というものを耳よりも重要視していた節があると谷川さんは話す。童謡《ぞうさん》にしても、音の世界は作曲の團伊久磨さんに全て任せ、自分は視覚的に「象」を見ることに集中し、詩を書いたというのである。
音楽は確かに耳中心であるが、《耳より、眼のほうがずっと複雑な機能がある》という趣旨の発言をしたのはオノ・ヨーコさんだった。
眼はカメラのようにディテールまで全部捕えると、音楽の世界にいる彼女が言うのは面白い。
まどさんも《宇宙存在》を表現する上で、チャチな《言葉》からぽろぽろこぼれ落ちる真実あるいは実像を《絵画》で掬い上げるという作業をしていたのかも知れない。
いずれにせよ、言葉(文字)だけを使って執筆している自分にとって、まどさんの絵画は示唆するものが大きい。

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