第3話
第二章
それから二週間ほど経った日の夕方、アンナは理事長の古賀一郎に部屋に来るように言われた。また何かお小言なのかしら。アンナは不安な気持ちで理事長室のドアをノックした。
「どうぞ」
野太い声がし、アンナは気後れしたが、思い切ってドアを開いた。
「まあ、ここにお座り」
ソファに掛けていた古賀がアンナを向かいに座らせた。
「マー君のことや。彼は一応日本当局のお咎めなしということになって、我々が彼の身柄を預かり、身元を探すことになった。幸いパスポートが見つかって、彼の住処がどうもトルファンらしいということまでわかった。それでトルファンの役所宛てに当局から連絡をとってもらい、住居を調べてもらった。やっと昨日当局から返事が届いたけど、どうも引っ越したあとか何かで家族に連絡はつかなかった。それに、保護者からもマー君の捜索願などは一切出てないというこっちゃ。そこでや、君にマー君を連れてトルファンに行ってもらい、親なり親戚なりを探してもらいたい。役所にはこちらから本人と一緒にNPOから要員を派遣することを伝えてもらっている」
「えっ、わたしがですか?」
「そや。君が彼をうちに連れて来たんやろ?」
古賀がアンナを見つめ、微笑んだ。
「うちは知っての通り、日本に来られる海外の人たちの利益を民間のNPOとして守り、平和な人的交流に資するというのが仕事や。そこで、彼についても、特に未成年なのでうちが保護者の代理人となり、親あるいは親戚の許に無事彼を届けるのが仕事になる。特に彼は記憶喪失者であり、本人に対するケアが人一倍必要になるし、その分大変や。でも、君ならやれると思ったからな」
アンナはヘルプで働き始めてまだ一年そこそこである。しかも法人に無断でマ正直嬉しい。
「勿論君一人で行ってくれという無茶なことは言わん。玲と一緒や」
「玲?」
アンナが首を傾げた。
「ほら、身体がデカイ……」
古賀のヒントで直ぐにそれが誰だかわかった。
「ああ、黒澤さんですね」
「あいつなら、その辺の男よりずっと頼りになる。ボディ・ガードとしてな。ホントはこの話を玲にも一緒に聞いてもらいたいんやが、今東京に出張中なんで、とりあえず君に先に伝えたんや」
そう言って、古賀は再び笑みを浮かべた。
彼と黒澤玲が同棲していることは事務所では周知の事実だった。
古賀は職場内でも黒澤のことを普通に「玲」と呼んでいる。
ただ、アンナは黒澤と一緒に働く機会がなかったので、黒澤が玲と呼ばれていることさえ知らなかったのである。
古賀はその昔海千山千の実業家で、経済界にも顔が利く切れ者として名を馳せていた。
しかし、当時の政権を担う政治家連中が国会を軽視して答弁でも平気で大嘘をつき、内閣府で人事権を握ったことをいいことに官僚に公文書を改ざんさせるなど、権力にモノを言わせて横暴な振る舞いをしていることに激しい怒りを抱いていた。
もともと政界と経済界の癒着の構造が気に入らなかったこともあって、経済界から離れた。
そして実業界からも退いて、差別や貧困などに苦しむ人々を救おうと、国際交流を目指すNPO法人・ヘルプの設立に自己資金を振り向けた。
玲との出会いは法人のスタッフを探すために開いたパーティに海外交流ボランティアとして中国から戻ったばかりの玲が出席したのがきっかけだった。
玲は古賀の話を聞いてすっかり意気投合し、スタッフ参加を申し出た。
法人設立のための会合が重なり、打ち上げで酒席を共にする間に、いつの間にか二人は自然と男と女の関係になっていた。
「マー君がトルファンに行って、記憶が蘇るとええな。琴平君、頼むで」
わたしはまだ名前でアンナと呼んでもらえないなどと、妙なところにひっかかりながら、「はい!」と返事だけははっきりとして理事長室を出た。
玲さんと一緒にトルファンか。アンナは初めての海外出張に心が躍り始めていた。
アンナが部屋を出た後、古賀はソファからスーツを着た恰幅のいい身体をソファに横たえて、胸ポケットから携帯電話を取り出し、玲の携帯を鳴らした。
「はい、玲です」直ぐに返して来るのが玲らしい。
「今ちょっとええか」
古賀は玲にアンナとのトルファン行の話を手短に明かした。
「琴平さんってヘルプに来てまだ一年くらいじゃない? それなのに未成年の中国人を保護しながら、トルファンで実家を探すなんてどだい無理よ」
「だからお前と一緒に行ってくれって言うてるんやないか」
「彼女、中国語は?」
「ほんの日常会話程度かな」
「それじゃ、役に立たないって言っているようなものよ。他に誰か適当なスタッフは居ないの?」
「まあ、そう言うなよ。彼女はまだまだ経験が浅いのはわかっている。と言っていつまでも何もせんと、育たない。それにその中国人は琴平君がきっかけを作ってうちとの関係が出来たんや。そやから、彼女には事の始まりからずっと終わりを見届けるまでフォローさせてやりたいんや。わかるやろ? 俺の気持ち」
「ええ、わかったわ。うちが琴平さんを預かって鍛えてやるわ」
「おおきに。ほなあとはよろしゅうに」
それだけ言うと古賀は電話を切った。それから数分して玲から『琴平さんのプロフィールを送って』という内容のショートメールが入った。玲のやつ、やる気になっとるな。
古賀は小窓を開けて夜の帳が降りた街の臭いを嗅いだ。
事務所を閉めて、天門橋筋五丁目商店街の一角にあるショット・バー、ゲート・カフェに足を運んだ。
そのあたりは、天門橋の「天」と五丁目の「五」をとって「天五」と呼ばれている地区だ。
「いらっしゃい。まだ来られてないわよ」
ブランド物のプリントワンピースを着込んだママが常連客の古賀に微笑んだ。ゆっくり止まり木に腰を下ろすと、鹿児島焼酎の前割りを注いだグラスが出された。前割りは古賀の来店が確実な日の前の夜、ママが特別に用意してくれることになっている。
グラスを手に取り、くっと口に含んでしばらく置いてから喉に流し込む。
「ああ、うまい!」
「いつもながら、ホントに美味しそうに飲むわねえ」
ママの微笑みが心地よい。世間話をしていると、客人が到着した。
「よお、立ち寄ってもらってすまないなあ」
古賀が止まり木から立ち上がり、微笑む客人と握手を交わした。
「ママ、紹介しとく。この男前は、中国は敦煌在住の赤間幸雄さん。御年は、ちょっと忘れちゃったが、見た通り働き盛りの人生半ば。ニューヨークで自前の情報機関の代表を務めてはったが、仕事の区切りが出来たので、そちらはご友人に任せて一旦世間の義理ちゅうのを果たしに帰国しはった。そして今は日中合弁会社の社長さんや」
「そうですか。よくいらっしゃいました」
ママが名刺を渡した。
「何をお飲みになりますか」
赤間は少し考えてから言った。
「折角元スパイだと紹介してもらったので、007に敬意を表してウオッカ・マティーニを頂きます」
「承知しました。Shaken, but not stirred. シェイクはするが、ステアーはしないってジェームズ・ボンドがいうマティーニですね」
「さすがママ、よくご存じで」
「じゃあ、俺も同じのをもらうよ」
古賀が言った。
ママが用意している間に、古賀は早速用件を伝えた。赤間は今度敦煌に迎える大阪経済界のミッションとの打ち合わせで大阪に来ていた。
その情報を掴んだ古賀が、天五に是非立ち寄ってくれと声を掛けたのだ。
古賀は経済界にいた頃、観光業者との打ち合わせで出張して来た赤間とパーティで知り合い、意気投合してそれ以来付き合っている。
今回は玲とアンナが中国・トルファンに出張するので、もしもの場合、是非相談に乗ってやって欲しいというのが赤間に対するお願い事であった。
赤間は二つ返事でOKし、ママがシェイクしたウオッカ・マティーニが出来上がったところで乾杯した。
「トルファンやウルムチはご承知の通り、漢族とウイグル族の対立が激しいところだから、行かれる方には充分注意なさるように伝えてくださいな」
赤間は真顔で言い、自分のマティーニに口をつけた。
アンナは出張から帰った玲に早速挨拶し、二人で古賀からさらに詳しい事情を聴いた上で、一緒に出発の準備を始めた。玲は薄い眉にくるんとした目、意志の強さを連想させる通った鼻筋とルージュを塗った厚めの唇。ふっくらした頬の両側に福耳が出っ張り、美しい黒髪を後ろで束ねている。本人がのたまうのには、自慢の黒髪は好んで食べる昆布やワカメのお陰だそうな。玲はトレードマークのずんぐりした巨体を揺らしながら手際よく旅行鞄に携帯品を詰めて行った。
当のマーは経験がなくても出来る事務所内の雑用を任され、真面目に働いていたが、玲はアンナにマーから目を離さないようにこっそり告げた。
言っても、一度は事務所の金品に手をつけた少年である。
そう言われて、マーをそれとなく観察していると、事務所にあるレジャーシートを借りて敷いて座り、ある方角を向いて額づき、祈りを捧げている。
中国に住むムスリムとして日に複数回メッカの方角を拝むというイスラームの信仰を持ち合わせているのであろう。
三人は出発が一週間後に迫った日の夜、アンナとマーが出会った天門橋筋にあるビニールシートの店で懇親兼打ち合わせ会を開いた。
日頃はなかなかゆっくりと話が出来なかったマーに対する理解をお互いに旅行前に少しでも深めておこうという玲のアンナに対する配慮でもあった。
メニューを見てお好みの料理の皿を注文したあとで、マー少年はジュースで、アンナと玲は生ビールで乾杯した。
「どう? マー君。日本、いや大阪の生活にも少しは慣れた?」
玲が海外ボランティアとして鍛えた中国語で尋ねた。
マーは焼き鳥を食べる手を止めて答えた。
「短い間に余りにも色んなことが起こって、頭が混乱してる。トルファンってどんなところかな。ボクはホントにそこで暮らしてたのか?」
「マー君、あんまり真剣に思い出そうとかせんと、楽に考えて行こうや。トルファンにまず行ってみてから、何か思い出すなら思い出すでええやん」
玲がマーの気持ちをほぐそうとしてくれているのがアンナにもよくわかった。
「台湾から大阪に来たのは何でなん?」
アンナが尋ねた。
「航空券持ってた。それと誰かと一緒だったような気がする。その人と一緒に飛行機に乗り込んだ」
「その人のことは思い出せない? 例えば、自分の身の回りに居た人なのか、知り合いだったのか、あるいは飛行機で知り合った人なのかとか……」
マーがまたこめかみを押さえようとした。
「いい、いい。無理しなくって」
アンナは腫れ物に触れるような気がして来て、それ以上尋ねず、食べ物に話題を変えた。
「このシシカバブーうまいね」
マーはアンナが食べていた春雨ときくらげの酢の物からシシカバブーに目を移し、暫く見つめた。そしてシシカバブーを手に取って金串から野菜を残して肉だけを抜いて食べた。
「美味しい」
マーはゆっくりと、ほどよい柔らかさの肉の味を噛みしめた。
「何処かでよく食べたシシカバブーはもう少し硬めだった。それと串は肉ばっかり。野菜は別の皿で食べる。この黒いコリコリしたのはよく食べた」
「ああ、きくらげね。それ、トルファンでたくさん食べたわ」
玲がビールを飲む手を止めて言った。何か発言にヒントがないかどうか玲とアンナはマーの一言、一言に耳をそばだてていた。
フルーツを注文すると、他のフルーツと一緒にマスカットが透明皿に載って出て来た。
マーは見るなりマスカットをつまみ上げて、しばらく房を手で持ち上げて眺めたあと、実を二、三個まとめて皮ごと口に入れ、飲み込んだ。
「マスカットはよく食べたな。生のまま。干したもの。色々」
アンナはトルファンという地名の語源が『果樹園』という意味で、現地では四十種類以上のブドウが幅広く栽培されていることを、今回のトルファン行きの準備情報で知っていた。
「マー君がトルファンに地縁があるのは、どうやら間違いなさそうやね。家があるわけやから」
玲も同感だった。
「そう。トルファンに行った時、ブドウ祭りという催し物が開かれていたわ。トルファンは人口が百万以上で、その七割以上が少数民族のウイグル族や。そのウイグル族の民族ショーがトルファンの町の劇場で演じられるけど、そのショーの若い女性ダンサーが手に、手にブドウの大きな房を持って舞うのよ。ブドウはトルファンの代名詞みたいなものや。トルファンに行ったらブドウ祭りに行ってみましょう。ちょうど旬の頃やわ」
お腹が膨れたマーは眠気に襲われた。眠気に混じって脳裏にあの女性が現れ、マーに微笑みかけた。
一瞬、脳内の映像が切り替わり、筋肉隆々の屈強な男に背後から羽交い絞めにされ気絶する自分の姿が浮かんだが、それも直ぐに消え去り、再び女性が姿を現した。
鼻筋の通った卵型の顔に微笑みを浮かべているが、それ以上のディーテールはわからない。女性はそのうちに姿を消してしまった。
マーはその女性にいつか必ず再会することになるという思いに駆られ始めていた。
ーを事務所に泊めて古賀に叱られたばかりの身だ。それなのに、「君ならやれる」と言ってもらった。
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