第4話

 第三章

 出発の日は猛暑も一段落し、空気の中に秋を感じさせる天候だった。

 三人は理事長の古賀や手すきのスタッフに見送られて、関空から機上の人となった。 

 古賀は赤間の連絡先を玲に知らせていた。 

 無事出張から戻り、連絡しなくて済めばそれに越したことはない。そうあって欲しいと願った。

 今回の旅程では中国の一番西に位置する新疆ウイグル自治区にあるウルムチ国際空港に向けて、関空から午後の飛行機便でチンタオ(青島)を経由してウルムチに飛行する。

 中華人民共和国の端から端への移動であり、ウルムチ到着は深夜となる。チンタオまでのフライトで、機内でビールが飲めないことがわかり、ビール好きの玲はチンタオで出発までの時間を利用して空港の売店に足を向けていた。

「いや、結構高めやねえ」

 瓶ビールの値段を見て玲が唸った。

「もうちょい探してみよ」

 玲が土産物店に入ると、地元の缶入りチンタオ・ビールがあり、値段も六元すなわち約百二十円と納得できたので、二缶購入した。「マー君は何かいらない?」

 アンナが尋ねたが、特に欲しいものはないとのことだったので、小腹が空いた時のためにスナック菓子を買い求めた。

 出発時間になり、機は再び上昇態勢に入った。闇に浮かび上がるチンタオ空港周辺の明かりを窓から覗き見ながら、アンナは初めて踏むウルムチに心を馳せていた。

 マーは喉が渇くのか、機内サービスのワゴンが来るたびに身を乗り出して、ソフトドリンクを何にしようかと思案していた。

「マー君、これあげる」

 アンナは自分が注文した梨汁をマーに与えた。機内食はカレーライスに、四川省名物の搾菜(ザーサイ)に似た泡菜の漬物が添えてあった。

 マーはお腹が空いているのか、コンパクトな銀紙容器のカレーをあっという間に平らげてしまった。

 玲はマーの食べ方を見ていて、自分の少女時代のことを思い出していた。

 あの頃はいつもお腹を減らしてばかりいたなあ。

 父親を幼い頃に亡くし、母親は残された玲を頭とする四人の子供を、内職をしながら育て上げた。

 貧しい暮らしの中で、玲の弟妹はいつも腹を空かせてぴいぴい泣いていた。

 玲は自分に配分された僅かな食べ物を弟妹に分け与えた。

 高校生になった春、母親が病で入院し、玲は高校を辞めてアルバイトで働いた。苦しい日々が続く中、玲はあるギャラリーで見た戦乱が続く中東の砂漠でフリーの写真家が撮った写真に惹かれていた。

 空爆によって破壊された瓦礫の家の片隅で毛布にくるまっている子供らの姿や僅かな食糧を弟妹に分け与える写真が自分に重なって見えた。

 戦争がないだけわたしはまだましや。頑張らんと。玲は自らを励ました。いつか、海外の現場でそういう子供らを助ける仕事に就きたい。そう思うようになっていた。

 弟妹が独立するにはあと少しかかる。その間は少しでもお金を貯めよう。将来のために。そう思っていた矢先に母は退院しないまま亡くなった。

 それからさらに何年かが過ぎ去り、弟妹は辛うじてそれぞれ玲の手を離れ、玲はやっと自分の夢に向き合うことが出来るようになった。 

 海外の難民キャンプなどに派遣され、戦場になった故郷から切り離されて暮らす難民の中に身を置いている頃、支援に集中している間は顏をもたげなかった孤独感が、夜ねぐらに帰ると襲って来るようになった。

 わたしはいつまで経っても人のためばかりに生きてるんや。自分のために生きることも必要やないんか。でも、人のために働くのが自分のために生きるということなのやろか。玲の心は揺れた。そんな頃古賀と知り合う。

 古賀は裕福な家庭に生まれ、大学を卒業して実業界で順調に足元を固めていた。

 しかし「一強政治」の弊害に反発し、経済界を去ってNPO法人ヘルプを立ち上げた。 

 玲は古賀から「お前の生き方は決して間違ってはいない」と励まされ、ヘルプへの加入を決めた。

 新たな夢を語り合い、心の孤独は影を潜めて行った。

 いつの間にか玲は古賀を愛するようになっていた。親子ほど年齢が違ったが、傍に居ると心が落ち着いた。古賀も玲の愛を受け入れていた。

 結果、玲は古賀の家庭を壊してしまう。わたしは人のために生きると言いながら、自分のために生きてしまい、人を苦しめてしまった。

「ヘルプ辞めます」

 古賀と二人でホテルに居たある夜、玲が言い放った。

「何言うてるねん。俺の離婚話のことで辞めるんやったら筋違いやで。一緒に夢を目指そうて決めたやないか」

「……でもね……」

「頼む! 俺について来てくれ!」

 古賀は土下座をした。玲はその勢いに負けてしまった。しかし、事態はそれで済まなかった。

 同棲していたマンションに、ある日見知らぬ女性が訪ねて来た。玲はその女性が古賀の妻だと直感した。ちょうど古賀は外出中だった。 

 奥さんは口をきっと結んだまま、玄関口に立ったまま暫く玲を穴の開くほど見つめていた。あの人は一体この女の何処に惚れたのか見極めるように。そのうちに顔が引き攣り、小柄な体を震わせ始めた。

「夫を返してください!」

 絞り出すような声だった。ふと見ると両手には刃物が握られている。玲は驚いて後ずさりした。

 まるで何処かの刑事ドラマかと思ったその瞬間、玲は腹に鋭い痛みを覚え、意識を失ってその場に崩れた。床に落ちた刃物にはべっとり血がついていた。。


 うっすらと目を開けた時、目に入った風景は病院のベッドで横たわる自分と、深刻な表情で傍らにいる古賀の姿だった。

「……わたし……生きてるのね」

 玲は気が抜けたような声を発した。

「奥さんは?」古賀は口をつぐみ、下を向いた。

「……死んだ……」

 漏れ出た声は嗚咽に変わった。

 玲も世の中が自分だけを置き去りにして、不条理に進んでしまったという思いにかられ、号泣した。

 古賀の妻が玲を刺した後マンションの屋上から飛び降り自殺したことを知り、玲は自分の犯した罪の深さを嘆き、不倫が引き起こした悲惨な事態を呪った。

 玲は退院してから古賀の許を去り、再び海外ボランティアに手を挙げて、中東の難民キャンプに旅立った。

 何もかも忘れてしまいたいという思いが玲の背中を押していた。

 古賀は妻の実家がある新潟で法要を執り行い、妻の両親に繰り返し詫びを入れ、逃げるように新潟を後にした。

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