第6話

 第五章

 翌日、玲はトルファンまで乗って来たマイクロバスとドライバーをウルムチに帰し、トホティの運転するマイクロバスでトルファンの役所に挨拶に行った。

 昨夜の銃撃戦がまだ脳裏に生々しく、一歩油断すれば大変なことになるかも知れないという恐怖心がこれまでの緊張感に付け加わった。

 役所との打ち合わせが終わり、職員の案内でマーの実家を見に行くことになった。職員が乗った車が玲らの乗るマイクロバスを先導し、役所を出発した。

 役所から車でほぼ四十分の距離にあるマーの実家の近くは、ニレと柳の並木が続く地道の両側に住宅や商店が軒を連ねていた。

 地道だけに埃っぽい乾燥した空気があたりを支配し、時折吹く風が並木の葉を揺らせている。

 看板に『魏診療所』と書かれた古びた医院の隣に、柱が少し傾き、屋根瓦があちこち歯抜けになっている平家があった。

 破れ障子から覗いてみても人気はない。職員によると、そこがマーの住んでいた家だという。職員は鍵のかかっていない木戸を開けて、中に入って行った。

 後に続くと、屋内は薄暗く、随分とかび臭い。アンナが鼻を押さえていると、玲がマスクを渡して付けるように言った。

 マーは木戸を入ったところに突っ立ったまま、部屋の中を見渡していたが、一切言葉は発しなかった。

「どう、マー君。何か思い出した?」

 玲が尋ねたが、マーは黙って首を横に振るだけだった。

 アンナは台所を覗いてみたが、色の禿げた塗り箸や飯粒のこびりついた茶碗、汚れて欠けた皿などはあったが、引き出しや戸棚の中はきちんと整理されている。

 衣装ケースには冬物の衣類がそのまま残っており、タンスの中身も手を付けないまま置かれてあった。

 何かとんでもないことが起こって突然家族全員で逃げ出した跡という感じがする。一体何があったんやろ。

 酷く荒らされた感じのするのは、書斎に使われていたらしい部屋だった。

 資料のような印刷された紙が散乱している。ウイグル語なのでさっぱり読めない。写真が破り捨てられ、床に散乱している。ほとんどは細かく引きちぎられていたが、一枚だけ半分に裂かれているものがあった。

 写真を拾い上げ、合わせてみると、後ろ手に縛られて、銃口のようなものを頭に突き付けられている男の後姿が写っている。銃で殴られたのか、頭には血のりがべったりとついていた。

 アンナは思わず目を背けた。

 前夜ウイグル人の家で接待を受けた時、壁に貼られていた英字新聞に『漢族支配の中国政府による民族差別に反発して暴動が起こった』という記事の文面が思い出される。縛られている男の人は漢族との衝突で捕えられたウイグル人なのだろうか。

 玲は背後に人の気配を感じて振り返った。

 案内の職員が玲を見つめながら、ゆっくり首を横に振っているのがわかった。写真を見るなということやろか。

 玲は写真を机の上に置いた。職員は咄嗟に半分にちぎられた写真をポケットに突っ込んだ。部屋には本が全て抜き取られたような、傾いた本棚があり、机の引き出しが全て開けられたままになっていた。中にはちびた鉛筆と欠けた定規が転がっているだけだった。

 隣のドクターに当たってみようと、魏診療所を尋ねた。白い髭を顎にたくわえた老ドクターはその日休診で家に居て、突然の訪問者を快く受け入れてくれた。

 ドクターは現れたマーを見たとたんに驚き、マーに抱きつこうとした。

「グアンピンよ、一体全体何処でどうしておったんだ。ご両親は今何処でどうしているのか?」

 マーは驚いてドクターの腕を振りほどいて後ずさりした。

「お前、わしがわからんのか。お前を小さい頃から診て来た医者の魏だよ」

 玲が魏に、マーは記憶を喪失していることを告げた。

「ああ、お前は何という不幸な星の許に生まれたんだ! 預けられ、色々なことがあって今度は記憶喪失なんてな!」

 魏は頭を抱えて嘆いていたが、気を取り直したようにマーを診察室の椅子に座らせ、裸の胸に聴診器を当てて、心音を聞いた。

「先生、記憶喪失というのは治るものなんでしょうか」

 玲が魏に尋ねた。魏は聴診器をデスクに静かに置いて、下を向き暫く黙っていたが、顔を上げて低い声で言った。

「わたしはその分野の専門医ではないので自信を持って言えないのが悔しい。だが、一般的に例えば何かで強く頭を打った場合、どの程度脳細胞が傷ついているかでも違う。酷い傷害なら、回復の見込みはないだろう。しかし、程度や何らかの条件で、ある日突然記憶が戻ることもあるだろうし、一生治らないかも知れない。それほど脳というのは人間の根幹部分で、それ自体非常に複雑で精巧に出来ているってことだな。だから、それがやられるとなあ……」

 魏は黙って下を向いているマーを見つめていた。

 そこへ突然トホティが走り込んで来た。

「役所の野郎が何処かに電話してたと思ったら、何も言わずに急に車で出て行ったぞ!」

 魏が叫んだ。

「公安警察に知らせたのに違いない。グアンピンを今のうちに避難させんとえらいことになる!」

「早くバスに乗ってください!」

 トホティがバスに走った。その後に玲ら三人が続き、慌ててバスに乗り込んだ。

 バスは急発進して公安の支署がある役所の方角とは逆の方向に走り出した。

 玲とアンナは後ろの窓から魏に手を振っていたが、手を振る魏の姿はあっという間にはるか彼方に去り、見えなくなった。

 逃げ切れたと思った頃、後方から猛スピードで近づいてくる車をバックミラーが捉えた。

「公安警察だ! 皆さん座席に掴まっていて下さい!」

 トホティがスピードをグンと上げた。

 公安車両も最大限のスピードを上げて追尾して来る。差はどんどん縮まっている。

 キューン! 公安車両から発射された銃弾がバスのボディを掠めた。

「キャー!」

 アンナが座席に身を隠した。玲は間もなく追いつきそうな勢いで迫る公安車両を睨みつけていた。

 トホティはドライバー席の横にある小窓を開けて、片手運転しながら銃を構えていた。

 バックミラーで距離を縮めている公用車を捉えながら、トホティは狙いを定め、公用車の前輪タイヤに数発連射で撃ち込んだ。

 タイヤを射抜かれて公用車はバランスを崩し、横転して行くのがはっきり見えた。

 アンナは座席にしがみ付きながら拍手していた。


 何時間経ったであろうか。トイレ休憩以外、バスは走り続けている。遠くに連なる山々の頂に万年雪が陽の光を受けて輝いている。

 手前には緑がぐんと増え、ぽつんとした小屋や、家屋の並んだところを通過した。

 景色はどんどん変わってゆく。緑の草原は砂漠に変わり、灌木と草が申し訳程度に生えている。ピンク色のタマリスクがアクセントを添えている。遠くの道で砂塵を蹴散らしながら、大型ダンプが走っていた。何処まで行くのだろう。荷は一体何なのか。玲は眠気に任せてどうでもいいことをぼんやりと考えていた。

 玲が眠りから覚めると、いつの間にかバスは灰色の鉱山らしい山が連なる地域を走っていた。

 三人は黙りこくったままで、疲労感だけが増している。このままじゃまた眠り込んでしまう。 

 玲が大きな伸びをして、久しぶりに口を開いた。

「もう少しで火焔山よ。あの『西遊記』で有名なところ。まさか、もう追っ手は来ないでしょうよ。仏教遺跡でも見て、気分転換すっか!」

「大丈夫ですかね」

 アンナは不安そうだった。

「心配ばっかりしてても疲れるだけや。このままゴビ砂漠に入って敦煌の空港から帰国便に乗ろう。何処になるかわからんけど、今晩の宿で理事長に電話入れて、事情を話して帰国を許可してもらおう。マー君が怪我したり、公安に逮捕されたりしたら、それこそ大変やから」

「空港も公安の手が回っているかも知れませんね」

「その時はその時や!」

 玲は不安を跳ね返そうと懸命だった。マーには敦煌空港から日本に帰るとだけ伝えていた。  

 先ほどから灰色の岩塊で形作られたような岩山がずっと続いている。その岩山の間をさらに進むと、周りを連山で囲まれた広い空間があり、岩の洞窟群が忽然と姿を現した。

「あれが仏教石窟や。ベゼクリク千仏洞っていう……」

 アンナはガイドブックを取り出して、ページを探した。

「ベゼクリク……ベゼクリク……あっ、これね! 六世紀から開削が始まり、最盛期は九世紀の西ウイグル王朝時代で、これが王族の寺やったんやて。八十三も洞窟があって、大部分は九世紀のものらしいけど、壁画はヨーロッパ、ロシア、日本の探検隊が持ち去ったって書いてあるわ。その上偶像を破壊されちゃたまんないわねえ!」

「持ち去ったから結果的に保存され、破壊から守られたということは言えるかもね」

 玲が自説を展開した。

「とにかく中に入って実物を見てみましょうよ」

 バスを広場に待たせておいて、アンナらは石窟を覗きに行った。石窟の内部にはかつて仏教の偶像が壁中に描かれていたが、偶像崇拝を否定するイスラームの勢力が仏教偶像を剥ぎ取って破壊してしまった跡が残っている。

 石窟には観光客の姿があった。こんなに多くの人間を見るのは何だか久しぶりだ。団体の観光客はボランティアガイドの説明に聞き入っている。

 玲とアンナは観光客の間を通り抜けて、ミニライトを取り出して壁を照らし、顔などを潰された仏画を眺めた。

 ひとしきり石窟内を見回って外に出た。「あれっ、マー君は?」玲が叫んだ。

 アンナも辺りを見回したが姿がない。嫌な予感が二人の胸をよぎった。

「マー君! マー君!」

 叫んでみたが、全く反応がない。二人は二手に分かれてマーを探した。広場の何処にもいない。

「疲れてたみたいやからバスに戻ってるかも知れん。行ってみよ」

 二人は駐車場に走った。駐車する大型観光バスも増えていた。マイクロバスの中を覗いたが、マーの姿はなく、トホティが運転席で居眠りをしていた。トホティを起こして尋ねてみたが、マーが戻って来た形跡はなかった。荷物と一緒に忽然と消えてしまったのだ。 

 石窟の広場に戻り、入場券売り場の事務所に駆け込んだ。電話を借り、玲は大阪のヘルプの事務所を呼び出した。古賀が電話を取った。

「あっ、玲か。たった今電話を入れるつもりやったんや。こちらから掛け直そか」

「大変なんや! マー君が消えてしもたんよ!」

 古賀は一部始終を聞いた。

「そらエライこっちゃ! けど、火焔山言うたら確か周りを山に囲まれた山岳地帯やろ? しかも広場があるだだっ広いところやから、わかりそうなもんやけどなあ」

「でも全く姿がないのよ」

「とにかくマー君を探すこっちゃ。彼を放ったらかしにしたまま、君らだけ日本に戻って来るわけにはいかん」

「それに公安にも追っかけられてるのよ」

「どうもそうらしいな。ミュンヘンで事情を聴いて想像したんやけどな。ホンマ大変やな。

 おい、玲! 赤間に直ぐに連絡を取れ。そして君らはもう少し現場でマー君を探してみて、見つからなければとにかく敦煌に向かってくれ。赤間に会うんや。このあと俺からも赤間に伝えておくからな」

「頼んまっせ!」

「それからな、ミュンヘンから返事が返って来た。これを知らせておきたかったんや」

 古賀は世界ウイグル組織の本部にコンタクトした一部始終を再現してみせた。

 古賀とウイグル人の秘密会談は大阪とミュンヘンを結んだ盗聴防止機能付の通訳テレビシステムを介して行われた。

 相手はドルクン・カナット。世界本部の幹部である。

「カナットさん、マー・グアンピンという少年をご存知でしょうか」

「ええ、知っています。回族の父親マー・アラと母親マー・ティラの一人息子ですね。彼は今両親と一緒に台湾にいるはずですが、何故日本のNPO法人の方が?」

 古賀が事情を説明した。

「そうでしたか。やはりね……」

「やはりとおっしゃいますと?」

 古賀が尋ねた。

「首都のタイペイで反ウイグル組織の連中がマーの家族を襲う事件があったのです。われわれは彼らの台湾滞在をセットして、ずっと彼らに危害が及ばないようにタイペイの地元組織を動員して安全を期していたのですが、ちょっとした隙に彼らが巻き込まれたのです。今のお話ですと、息子さんは今故郷に戻って来ているということですが……」」

「記憶を失った彼を家族の許に戻そうとして、わたしの取材不足で猛獣だらけのサバンナに小鹿を放してしまいました。わたしの大きなミスです」

 古賀の表情を見て、カナットは顔の筋肉を緩め、ほほ笑んだ。

「今更それについてどうこう言っても始まりません。息子さんには今お宅の女性職員が二人同行しているとのことですが、念のために本部からトルファンでウイグル料理を経営している同胞の活動家に連絡を取り、彼らを守るためボディ・ガードを付けましたので取りあえずはご安心下さい」

「それはご配慮ありがとうございます」

 古賀は玲からボディガードのことは既に聞いていた。

 カナットの表情に緊張が戻った。

「それと、中国側に少々不穏な動きが出ていることはご存知かも知れません。先日新疆ウイグル地区でウイグル人が中国側に民族衣装の着用を禁止され、衣裳店も商売が出来なくなるという事件がかなり大きなニュースになりました。伝統的な民族衣装を禁止するなどもっての外のことですが、それに反発して同胞が蜂起し、中国当局がそれを弾圧したため、同胞の不満が高まっています。中国政府は何かの口実を捉えて、一気に同胞を抑え込もうと策を練っているようで、われわれも危惧しています」

 玲は古賀の電話で会談の様子を聞きながら頷いていた。

「なるほど。ウイグル族の世界本部があの料理屋のご主人と密接な連絡をいつの間にか取っていたのね。それでトホティがボディ・ガードに来てくれたのか」

「そのトホティというのが、マー君を守るため世界本部の意向でウイグル料理店の主人が送り込んだボディ・ガードの名前なのか?」

「そう。彼がいると何かと安心やわ」

「マーの父親は回族と同じ信仰を持つウイグル族を支援した廉(かど)で公安警察にマークされてた。段々追い詰められ、危険を感じたため、ウイグル世界本部の保護プログラムに入り、一家で台湾に逃れたちゅうことやな。それにしても、俺のせいで君ら三人を危険な目に合わせてしまい、面目ない!」

 古賀は語気を強めて、スマートフォンを握りしめたまま図体を傾け、頭を下げた。

「いっちゃん、それはそれとしてあとのフォローを頼むで」

「よっしゃ!」

 古賀の力強い声が電話の向こうで響いた。


 玲とアンナは再びマーを探し始めた。いつの間にか観光客の数が格段に増えていた。西遊記の人気は相も変わらず絶大のようである。

 遠くを見渡せる広場の縁沿いに、転落でもしていないかと、マーの名前を叫びながら捜してみたが、やはり反応はない。

『西遊記』の映画に出演した俳優の大きな看板が揺れ始めた。連山の方から突然強い風が吹き始めていた。

 風は砂漠の砂を舞い上げ、つむじ風で空が黄色く染まっている。

 観光客らはマフラーやハンカチで口を塞ぎながら、上着の襟を押さえていた。

 風にせかされるようにマーの捜索を断念して、玲とアンナはバスに乗り込み、敦煌に向かった。

 途中で「シルクロード新幹線」と呼ばれる高速鉄道の駅があった。近くのガソリンスタンドで給油し、トイレを済ませに行く。

 鉄道の駅にも公安警察の手配が回っているに違いない。女子トイレだといって、決して安心はできない。マーと一緒に行動しているのは二人の日本人の女というのは公安に知れ渡っているはずだ。

 トイレを済ませて出て来る時にすれ違う人間がもし公安の人間だったらと思うと、身がすくむような気がした。

 トイレから無事戻り、再びバスに揺られた。

 そこから先はつい二週間前に開通したばかりの一直線道路になっている。

 バスの揺れが大分緩和されてほっとはしたが、一直線道路というのは公安に追われる身からすれば、どうなのだろう。

 もっと曲がりくねって、枝分かれする道路の方がいざという時逃げやすいのではないだろうか。

 何とか捕まらないようにしようと、頭がアイデアを求めて勝手に動いている感じだ。

 不安に駆られながら、しっかりしなくてはと玲は身を引き締めていた。

 今夜は何処に泊まることになるのか。とにかく何処かで体を休めないと、身が持たない。

 眼前に茫洋とした砂漠が現れて来た。マイクロバスが進んでいるはるか南の方向に雪山が見える。

「あれはキレン山脈ですよ」

 トホティが教えてくれた。ポプラ並木が道沿いに続く。

「今頃マー君どうしてるやろなあ」

 アンナはゴビ砂漠の移り行く乾燥した景色を眺めながら誰に言うともなくつぶやいた。

「あれだけ探したんや。つまりは砂漠で一本の針を探すようなものやな。奇跡を待つしかないで」

 その時、玲の携帯が鳴った。赤間だった。

「たった今古賀さんから電話もらって色々窺いました」

「NPO法人ヘルプの黒澤玲です。古賀から話は聞かせてもらいました。この度はお世話になります」

 玲は携帯を耳に押し当てたまま車内で立ち上がり、深々とお辞儀をした。

 アンナはおかしくなり、玲から目をそらせて口を押えた。

 赤間からは、敦煌空港の駐車場Aブロックの空港ビル寄りのところにボディカラー黄色のセダンを停めているので、着き次第連絡をくれとのことであった。

 トホティに場所を告げ、少しの間眠り込んだ。赤間と連絡がとれ、安心したせいだろう。 

 目覚めると、辺りは薄暗くなっていた。近くの丘に遺跡と思われる城壁が沈みゆく夕日を浴びて佇んでいた。

 ガイド役でもあるトホティに尋ねると、二千百年前の漢代の関所跡だという。東西文明交流の中心ならではの遺跡だ。玉門関(ぎょくもんかん)という名前で、盛時には官吏七千名が駐留していたという。

「敦煌まであと距離どのくらいですか」

「約八十キロですかね」トホティが走行距離計を見ながら言った。

 周りを燕が飛び交っていた。バスの窓から土が丸く盛り上がり、土の表面に草がびっしりと生えているのが見えた。

「あれは何という草ですか」

「ラクダ草です。丸く盛り上がった土がラクダのこぶに見えるでしょ。この辺は海抜が敦煌の平均一千メートルより少し低いんです。だから植物が多い。野生ラクダの保護区域にもなっています」

「へえ、野生のラクダですか。さすがゴビ砂漠ですね」

 アンナが感心して言った。ふと見ると、砂漠の丘をラクダが十頭ほど、夕日を浴びながら列を組んで歩いている。

「あれは観光用ですよ。ほら、繋がれて人が引っ張ってるでしょ」

「なるほど。あっ、あそこに羊の群れが歩いてる。羊飼いのおじさんがいるよ」

 羊は起伏のある砂漠でも比較的草の生えている地区を歩んでいた。

 夕日はいつの間にか山の端に沈みかけていた。間もなくマイクロバスは敦煌空港に到着した。

 約束通り玲は赤間に連絡を入れた。駐車場の中まで入ってくれとの指示に従い、Aブロックに進入していくと、隅の方に黄色のセダンが停まっていた。

 フロントライトを点滅すると、車内にいた人影がドアを開けて出て来た。

「赤間です」太い声が暗闇に響いた。

「とりあえず、こちらに乗り換えてください。ドライバーさん、ご苦労さんでした。わたしの車のあとをついて来て、今夜は皆さんとうちに泊まってください」

「ありがとう」

 出発しようとした時だった。

「探し回ったよ」暗がりから別の声が響いた。

 聞き覚えのある声のした方向に玲がミニライトを向けた。

「まぶしいよ、黒澤さん」

「マー君! 一体どうして!」

 皆は驚いてマーの方を見つめた。マーはかいつまんで事情を説明した。

「眠たくなってバスに戻ったが、トホティが席をはずしており、バスにはキーがかかっていたので中に入れなかった。それで隣に駐車しているバスはどうかと見れば、観光客とドライバーの姿もなく、入り口が開いたままだったので乗り込んで一番後ろの長い座席に寝転んでいたら寝てしまった。あとでドライバーにたたき起こされたので尋ねたら敦煌まで行くバスということがわかった。黒澤さんが敦煌空港から日本に帰ると言っていたのを思い出し、ドライバーに、『ここまで乗って来たバスに乗り遅れたから、このままバスに乗っけてくれ。料金は払うから』と言って敦煌空港まで乗り、それからずっと皆を探していたんだ」

「よかった! 無事で何よりよ。赤間さん、彼がマー君です。お世話になります」

「初めまして」

 マーが赤間と握手した。すると、トホティが進み出た。

「やっぱりここからトルファンに帰ります」

「せめてお食事でも」と赤間が声を掛けたが、

 早く主人に報告しなくてはならないからと微笑んだ。

「色々助けてもらい、本当にありがとうございました。ご主人にもよろしくお伝えください。どうかお気をつけてお帰り下さいね」

 皆はバスが見えなくなるまでトホティを見送った。

「さあ、行きましょう」

 赤間の車に三人が乗り込み、出発した。

 半時間ほど走り、車はメインロードからはずれた丘の上にある邸宅の玄関に着いた。周囲は防砂林で幾重にも囲まれている。

「さあ、皆さん中へどうぞ」

 赤間は皆を招き入れた。

「わあ、広くてステキなお部屋!」

 アンナはシャンデリアが輝き豪華なソファが置かれたリビングルームを見渡した。

「すぐに食事を用意させるから待ってて」

 そう言って赤間は隣室に消えた。

 マーはマットを借り、部屋の隅で床に敷いて額づき、メッカを礼拝した。身を何処におこうが、礼拝を欠かさないのが信仰というものだろう。それでも何かを思い出そうとしているのか、礼拝の終わったあとでこめかみを両手で押しながら、時折首をふるなどしている。玲は座ったままで柔軟体操をしていた。

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