第7話

 第六章

「台湾に逃亡した回族親子の息子が怪しげな動きをしているそうだな」

 北京にある公安部長室で公安部長の劉子墨が反革命分子を取り締まる新疆ウイグル地区の担当者と対面していた。

「仰せの通りです。地元の役所に突然日本人女性二人と現れ、実家まで役人が案内し、連れて行きました。その三人を拘束すべく車両を急行させましたが、取り逃がしました」

「それで?」

「内偵を進めていたところ、彼らは敦煌在住の日本人赤間幸雄と接触し、邸内に匿われている模様です。今夜現場を捜索し、彼らを拘束します」

「あの息子はその後の調べで元公安部長の羅の息子とわかっている。回族の夫婦は施設から幼い息子を養子として引き取り、育て上げたらしい。何故台湾に逃亡したままの羅の息子が姿を現したのか。しかも日本人の女二人と一緒に。台湾で羅親子が出会い、何か良からぬことを企んでいる恐れもある。必ず引っ張って吐かせなくてはな」

「お任せ下さい」

「わかっているだろうが、この件は国家安全部には絶対に知られるな。奴らが入り込んで来れば、事態がややこしくなるからな」

 劉公安部長が睨んだ。担当者はその眼力にひるみ、体を固くさせて頭を垂れた。

「承知いたしました」

 国家安全部は一九八三年に設立された比較的新しい部である。この部の目的は国内の反革命分子の情報収集、監視、追跡それに逮捕などがあり、これらの機能は公安部から移管されたはずだったが、その後も公安部は公安警察としての機能を維持した上、一九九〇年代に入ると、反体制派に関する情報収集のため、海外にも諜報員を派遣するほどの大諜報機関として復活した。そのため、国家安全部と任務が重複し、しばしば縄張り争いが生じていた。

 

 その夜の赤間邸。食堂に案内された玲らは、フルコースのディナーをご馳走になった。マーは食べ慣れないらしく、殆ど口にしていない。玲はそれに気づいていたが、世話を焼かれて却ってストレスを溜められる方がよくないと思い、黙々と肉を口に運んでいた。

 夜九時を過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。責め立てるような鳴らし方だった。

 赤間がインターフォンに出て、一瞬顔をこわばらせた。訪問者を待たせておいて、赤間は執事たちに急いでテーブルの皿を引くように指示し、自分は大急ぎで皆と一緒に居間に走り、カーペットの角をまくり上げた。

「公安が来た。しばらく地下にじっとしていてくれ」

 カーペットの下の床に地下に通じる開き戸があった。その口を両腕で開いて、皆に中に入るように言い、赤間は玲に素早く走り書きのメモを手渡した。

 玲はそれを受け取って、アンナ、マーと地下への階段を滑るように下りて行った。  

 公安警察と聞いてアンナは、後ろ手に縛られ、銃口を頭に突き付けられているウイグル人の写真が脳裏をかすめ、言いようのない恐怖に苛まれていた。

 皆が身を隠すと、赤間は地下への出入り口を閉じ、カーペットを敷き直して、玄関に走った。

 ドアを開くと、目つきの鋭い公安警察の捜査員十名がドカドカと屋内に入って来た。

「日本人の若い女二人と中国人の少年を匿っているな。反革命の危険分子だ。これが捜索令状だ」

 捜査隊長が紙を開けて赤間に見せた。

「中を見せてもらうぞ」

 隊長の指示で捜査員が手分けして一斉に各部屋に入って行った。

 赤間は玄関の端に立ったまま、捜索の終わるのを待っていた。

「隊長! 地下に隠し部屋があります!」

 居間の捜査員が叫び、隊長が居間に走った。赤間も後に続いた。捜査員がカーペットをめくり、床にある開きドアを指差していた。

「これは何だ」

 隊長が薄笑いを浮かべながら尋ねた。

「ワインの貯蔵庫だよ」

 赤間が言い終わらないうちに、捜査員が開き戸を開けて、階段を下りて行った。

「誰もいません!」

 隊長も階段を下り、中を確認した。

 赤間が言ったとおり、そこにはワインを寝かせた棚が並んでいるだけだった。

「よし、戻れ!」

 赤間は捜査員が居間に戻るのを確認して、開き戸を閉じ、カーペットを元に戻した。

「何処にかくまってるんだ!」

「一体何のことでしょうかな」

「しらばくれるのもいい加減にしろ! 言わないなら一緒に来てもらうことになるぞ」

 突然隊長の携帯が大きな音で鳴った。

「はい、こちら敵偵局G隊隊長・許です」

 許は相手の連絡を聞いていたが、みるみる顔面蒼白になった。

 電話を切った許は捜査員を全員集め、電話の内容を伝えた。

「新疆ウイグル地区でウイグル人の暴動が起きている。緊急出動の要請が来た。事態が落ち着くまで、俺を含めて六名は暴動鎮圧の要員とする。お前ら四名はここに残り、この日本人を見張るとともに、危険分子がここに戻ってくる可能性に賭ける。戻ったら直ぐ拘束して連行せよ。わかったな!」

 許が行動を共にする捜査員六名を指名し、慌ただしく出て行った。

 残された捜査員は赤間を取り囲むように居間のソファに腰を掛けた。

 赤間は鎮圧に向かった車両が敷地内を出て行ってから捜査員らに声を掛けた。

「皆さん、夜は長い。コーヒーでも如何ですかな」

 コーヒーなど飲み慣れない捜査員たちだが、一斉に頷いた。洋式の高級感あふれる居間に身を置いていると、不思議なことにコーヒーを飲んでみようという気になったようだ。

 捜査員二人がキッチンに同行し、中を点検してから赤間を独りにした。

 赤間がキッチンの壁のある部分に触れると、壁の一部が開いた。ボックスの内側にある拳銃を念のためポケットに隠し、執事に内線電話でコーヒーを四つ居間に用意するように指示し、もうひとつ別の指示を与えてからキッチンを出た。

「今持ってきますから、もう少しお待ちを」

 捜査員らに告げて、赤間はテレビをつけた。

 新疆ウイグル地区の反中国デモの映像が流れていた。

 捜査員らもその映像にくぎ付けとなった。

 デモ隊に向けて放水車が接近し、一部のデモ隊が車両に跳ね飛ばされている。催涙弾もデモ隊に向けて発射されている模様だ。デモ隊が対峙する警察の包囲網を破ろうとし、小競り合いになって警官が発砲したような感じだ。

 しかしそのテレビ映像は暫くして突然画面から消えた。

 その頃、北京の公安部は騒然としていた。

 部内にあるテレビモニター室では各局のテレビ映像の内容が担当官によってチェックされていた。

「反中国デモの映像は生中継であれ、録画であれ、一切放送禁止だ! 徹底的にやれ!」

 劉公安部長の檄が飛んでいた。

 赤間がひねったテレビのチャンネルも放送が中断されたうちのひとつである。

 執事が恭しく金色の縁がある高級コーヒーカップに入れたコーヒーを金色の盆に載せて居間に入って来た。

 捜査員らは珍しいものでも眺めるようにコーヒーカップを手に取り、匂いを嗅ぎながら湯気の出ているコーヒーを口にした。

 しばらくすると、捜査員らはぐったりとしてソファや椅子にもたれ掛かり眠ってしまった。

「皆さん、特別濃い睡眠薬入りはお気に召したようだな。さあ、こいつらに猿轡を噛ませて、後ろ手に縛り上げて、空き室に放り込んで鍵をかけろ」

 赤間が執事長に指示すると、数名の執事が協力して作業を始めた。

 赤間は片手に拳銃を、そしてもう一方の手にプロ用の強力な光を発する懐中電灯を持ち、外に出た。

 あたりを照らしながら周囲の防砂林を隈なく歩いて、暴動の鎮圧に向かったはずの捜査員が辺りに潜んでいないかどうかを丹念に調べた。捜査員が無事去ったと安心していたら、わざと敷地内に残って様子を窺う捜査員にこちらの偽装を見破られるというトリックを防ぐためである。

 問題なしと確認した赤間は部屋に戻り、地下室に降りて皆に声を掛けた。

「もうOKだ。皆さん出ておいで」

 すると、壁の一部がスライドし、玲、アンナ、マーが次々に中から出て来た。

「狭いところに閉じ込めてすまなかったね」

 赤間が皆に微笑んだ。玲の表情にも安堵感が漂っていた。

「この地下室は二重部屋になっているんですね。赤間さんからスライド・ドアの開閉の仕方をメモでいただき、OKが出るまで念のため中に入っているように書いてあったので助かりました。地下室に公安の人間が踏み込んで来た時は生きた心地がしませんでした」

「それにしてもスライド・ドア付きの部屋も居住性がいいですね。中にちゃんと飲み物や軽食まで用意してありますね」

 赤間が微笑んだ。

「直ぐに邪魔者が引き揚げてくれればいいけど、長丁場になる場合もあるからね」

 マーは無表情のまま皆につき従っていた。

 赤間はウイグル人弾圧のため公安の動きが活発なので、夜明けを待って直ぐにでも邸を出ようと皆に提案した。

 今までずっと沈黙していたマーが口を開いた。

「お願いあります。敦煌にある石窟に連れてってください。そこに何かがあるような気がするんです」

「一体この少年は何を言っているんだ。この切羽詰まっている時に」

 赤間はいぶかしげにマーを見つめた。

 玲はマーが何かを少しでも思い出すきっかけになるような記憶の細い糸を見つけたのではないかと直感した。

「赤間さん、マー君の言うとおりにしてあげていただけませんか。彼、ひょっとしたら何か記憶が戻るヒントを得たのかも知れませんので」

「わたしからもお願いします」

 アンナが頭を垂れた。赤間はしばらく黙って考えを巡らせていたが、自分なりに納得出来たかのように、石窟訪問を受け入れた。

 その夜、玲は古賀に連絡を入れ、赤間と無事接触出来たことなどを報告した。

「それは良かった。ところでな、ウイグル人の世界本部からの連絡ではとうとうウイグル族が新疆ウイグル地区で決起して、公安が弾圧を開始したらしい」

「それはこちらで聞いているわ」

「そやからマー君の守りに徹して絶対危険なところに足を踏み入れるなよ。まあ、赤間さんがいるから大丈夫やろけどな。俺も玲や琴平君が危険な目に遭っているのに、大阪でのんびり指をくわえているわけにはいかん。官庁やら必要なところに働きかけて外堀を埋めておくからな」

「高齢者の方はゆっくりされていたら如何でしょうかね」

 玲のくすくす笑いが古賀の耳に届いた。

「言いやがったな!」

「まあ、それは冗談として、バックアップ感謝します。出来るだけ早く会いたいわ」

「俺もや。ところで、琴平君はどうしてる? ちゃんと働いてるか」

「ええ、思ったより活発に動いてくれてるわ。いい子を採用しておいたわね」

「そら俺の女性を見る目に狂いはないわい」

「あら、女性を見る目って言ったわね。確かにそれはそう。だって、いっちゃんはあまたいる美女の中からわたしを選んだんやから」

 玲がまたくすくすと笑った。

「まあ世の中には自信過剰の女性も居られるようだし、この辺でお暇しようかな」

「いっちゃん、一言多いわよ!」

 玲は電話を切り、古賀との会話を思い出しながら、借りていたベッドに寝転んだ。

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