第8話
第七章
新疆ウイグル地区。中国政府が暴動を鎮圧するという名目で公安警察を初めとする機動部隊や治安部隊が大挙動員され、地区の中心地を鎮圧車両でブロックし、反中国デモを封じ込めていた。
部隊はデモ隊を取り囲み、スローガンを書いたプラカードを持つだけの無防備の人々に対して公務執行を妨害していると、殴る蹴るの暴行を働き、ターゲットと判断すれば後ろ手に縛り上げて、腹ばいにし、数人の公安が靴で踏みつけている。
デモ隊に加わっているウイグル人の妻が訴える。
「警察が家に押し入って来て、夫に『お前誰か殺しただろ?』と因縁をつけて連行して行った」
地元にあるモスクには泥靴で警官隊が押し入り、礼拝中の三十数人を連行し、十日以上拘留し、高額な罰金を科した。地元のラジオによれば、まだ数人が釈放されていないという声が聞こえて来る。
国連の調査によれば、最大百万人のウイグル人が強制収容所に入れられている。
中国の思想に「再教育」するという名目らしい。収容所内では拷問も頻繁に行われているようだが、一体何が行われているのかその実態が殆ど掴めないまま時が過ぎて行く。
夥しい数の監視カメラが設置され、ウイグル族の精神的な支柱になっているイスラームのモスクの大半が閉鎖に追い込まれ、ウイグル人は窒息状態に置かれたままになっている。
そんな状況の中で、マーの父親アラの親友が強制収容所で非業の死を遂げていたことがウイグル人世界本部の手で明るみに出た。
台湾に逃れたアラの許にその事実が伝えられると、アラは泣き叫び、大国に対する怨念を爆発させたという。
同時に、アラは世界本部から台湾で行方不明になり、日本にいることがわかった息子グアンピンが記憶喪失になったものの、とりあえず安全なところにいると思っていたのに、その後の知らせでは、何とあの危険な新疆ウイグル地区に戻っていると聞かされ、心配でならないと母親のティラと一緒に周囲に訴えている。
翌朝早く、赤間は四人の捜査員が眠りから覚めていないことを確認した上で、マーら三人を車で近くにある駐機場に案内した。
駐機場に小型ビジネスジェット機が停まっていた。
「あれに乗ります。車に荷物を忘れないように」
赤間が皆に声をかけた。
「すごーい! こんなのに一度乗ってみたかったの、わたし!」
アンナは駐機場の灯りに照らされた白いボディに青いストライプのラインと社のロゴマークが入った全長十五メートルほどの機体を眺めてはしゃいでいた。
入念な飛行準備が終わり、ジェット機はようやく朝陽が東の空を赤く染め始めた空に飛び立った。乗員はパイロット二名と乗客サービス係の女性一名の、合わせて三名である。二名のパイロットは長距離・長時間飛行に備えてお互いに交代要員となり、操縦は基本的に一名で行う。
「機内のスペースが広いですね」
アンナが周りを見渡した。
「胴体部分からターボファンエンジンを切り離して外側の主翼の上に据える構造になっているから機内スペースが広いのさ。機外にエンジンがあるから騒音も低いし、機内の会話もし易い。実にうまく作ってあるよ」
赤間が微笑んだ。
機内備え付けのサロン・シートに座った赤間とマーは、早速石窟について打ち合わせをした。
「洞窟っていうのは敦煌なら莫高窟(ばっこうくつ)だ。鳴沙山(めいさざん)という広大な砂山の東の断崖に南北およそ一・六キロにわたって掘られた六百ほどの洞窟がある。全部で二千四百体もの仏塑像が安置されている。その中の何処に行けって言うのかな」
マーは目を閉じ、こめかみを両腕で強く押さえてしばらくそのままの恰好を保っていた。
屈強な漢民族の男のイメージが突然脳内に現れ、マーを背後から羽交い絞めにした。
マーは一瞬顔を歪めたが、それも次第に消え去り、今度は女性が現れた。微笑みを浮かべてマーを見つめている。
しかし、はっきり像を結ぶのは卵型の顔と微笑みだけだ。マーは目をつむったまま動かなかったが、歪んで消えかかる女性と会えるのは洞窟の中のようだと言った。
「一言で洞窟といっても六百もある。一体それは何処だろう」
赤間が尋ねた。
「わからない」
「ちょっと待ってくれ。確か莫高窟の仏像の写真集が機内にあるはずだ。代表的な仏像しか載ってないと思うけど、そこにヒントがないかな。ねえ、マー君ちょっと見てくれないか」
赤間は『敦煌とシルクロード』という写真集を開いてマーに手渡した。そこには菩薩、大仏、飛天などのカラー写真が載せられている。
マーは写真をひとつずつ、ゆっくりと見て行った。菩薩などは勿論それぞれ異なる容姿だが、よく似ているのがある。果たしてその中から脳裏に現れるという女性あるいは仏像を特定することが出来るのだろうか。
マーは写真を一枚見つめる度に目を閉じて、こめかみを両手で押さえて何とか記憶の糸を引き出そうとしているようだった。
「これかも知れない」
指さしたのは第百九十四窟にある盛唐時代の菩薩だった。
ふくよかな中にも気品があり、バランスの整った立ち姿である。
「こちらも似ているような感じがする」
それは第四十五窟の菩薩で、卵型のお顔に何とも言えない優しい微笑みを蓄えている。
この二体だけでも全体二千四百のうちの僅か二体に過ぎない。逆に言えば、写真集とは言え、よくぞこれだけ絞り込めたと言わざるを得ない。でも、本当にこの二体のうちどちらかなのだろうか。
「四の五の言っている時間はない。至急この二か所を当たろう」
赤間は先ほどから鳴沙山の上空をずっと旋回しているジェットの着陸を命じた。機は着陸に要する距離をコックピットのタッチスクリーンで測り、余裕を持って駐機場にタッチダウンした。
そこにはジェット機の所有者がレンタル出来るセダンが数台置かれていた。赤間はIDをキーボックスにかざしてボックスを開けてキーを取り出し、その番号のセダンの運転席に座り、エンジンをかけて莫高窟に向かった。
赤間はハンドルを握りながら話した。
「中国は飛行機の低空域の開放が遅れていてね。自家用機でも高空域を飛ぶ能力がないのは自由に乗れない。高空域を飛べるものは価格がものすごく高いから困るよ。それに使用できる空港はほとんどが中心都市にあるから地方に行くとまだまだ不便だ」
莫高窟は世界文化遺産に登録され、世界から観光客がやって来る。その日も中国国内やアジア・欧米からの観光客で洞窟付近は朝から賑わいを見せていた。
お隣の新疆ウイグル地区ではウイグルの人々が命を懸けて権力の横暴と戦っているのに呑気なもんだ。玲はそう思いながら観光客を見つめていた。
ポプラ並木の反対側にあるブドウ棚から甘い香りが漂って来る。玲はその香りを胸一杯に吸い込んだ。
四人は莫高窟第四十五窟にまず足を踏み入れた。
主室には七体の塑像が安置されている。マーが指し示した菩薩はそのうちのひとつで、他の塑像に比べて保存状態が良いせいか、写真でも単独アップで撮影されたものもある。
マーは七体もの塑像が一か所に収められていることに首を傾げ始めた。
「ここじゃなさそうだ。菩薩さまは独りでおられたような気がする」
とりあえず、菩薩に手を合わせてから、こめかみに両手を押し当てて、マー独特の瞑想の恰好をしてみた。
「何も浮かばない。恐らくこの菩薩さまじゃない」
「もう少し頑張ってみて」
玲が声をかけた。マーは瞑想をしばらく続けたが、皆の方を向いて首を横に振った。
「じゃあ、もう一つの百九十四窟に行ってみよう」
赤間が先導して洞窟に向かった。
すれ違う観光客の数も時間が経つにつれて多くなっていた。
第百九十四窟の菩薩は写真のようにふくよかなお姿に気品を漂わせ、バランスの整った立ち姿で一行を迎えた。
マーが前に進み、手を合わせて独特の瞑想に入った。
十分以上が経過したが、マーは動かない。
「マー君、どうなの?」
しびれを切らせた玲がマーの耳元で囁いた。
我に帰ったマーはまた首を横に振った。
「ダメか。あとがないよね」
玲は肩を落とし、皆の表情を窺った。
「とにかく駐機場まで引き揚げよう」
赤間の号令で一行は観光客の間を縫って歩いた。
すれ違った観光客同士の会話が耳に入った。
「莫高窟では第五十七窟が『美人窟』って言われて有名なんだ」
「うん、聞いたことある」
「描かれている菩薩の写真見たけど、とってもいい感じなんだ。ついこの先だよ。有料だけど絶対見に行こう」
日本人の若者連れだった。
「折角莫高窟まで来たんだから、美人窟を見てみるか」
赤間が提案した。皆も賛成し、第五十七窟に向かった。
人気の美人窟だけあって、窟内は観光客で満杯の盛況だったが、マーは人々の間を泳ぐように主室に入って行った。
そしてまるで誘い込まれるように観世音菩薩の前に進み出て、頭を垂れて両手を合わせた。
観世音菩薩は中央にある『阿弥陀仏説法図』の東側に描かれていた。くっきりとした緑色の光背を持ち、宝冠を載せたまま頭を微妙に傾け、静かに物思いにふける温和な表情が見える。卵型のお顔に細い眉と切れ長の目は、やや下を向いている。
通った鼻筋の下にある唇は慈しみ深い微笑みを蓄え、可愛く描かれている。美しい意匠を施した袈裟を掛け、玉の輪で飾った衣裳が形の良い腰の線に沿って靡いている。すらりとしたお身体は首飾りや腕輪で飾られ、真珠や宝石が光り輝いている。手はと見れば、左手は首飾りをつまみ、右手のひらは衆生を掬い上げるように胸の辺りに置かれている。裸足で大きな蓮花の上に立ち、上品でしなやかに腰をS字形にくねらせている。
生き生きとし、神々しいお姿にアンナも一緒になって菩薩の美しい心と精神の息吹を感じていた。
玲は宗教の束縛を超えた芸術の境地を見て、一句ひねった。
『甘ブドウ微笑み涼し美人窟』。
マーはと見ると、周りの観光客を全く気にせずに、静かに菩薩と対面していた。
「いいかな、そろそろ出発しよう」
赤間が声をかけた。マーは名残惜しそうな表情だったが、仕方なく赤間に従った。
セダンに乗ろうとした時、マーが口を開いた。
「あの美人窟に通わせて欲しい」
「何だって!」
赤間が耳を疑った。
「何でだ」
赤間がマーに詰め寄った。
「お隣ではウイグル人が弾圧され、危険な状態が続いていることはわかるだろう? こちらに飛び火する恐れも十分にあるんだ。それにマー君も、玲さんも、アンナさんも皆公安に追われている身なんだ。逮捕でもされたら一体どうなると思っているんだ。身の安全を守るために一刻も早く中国を出て、君が両親と再会するタイペイに行かなくっちゃ」
「でも、ボクの記憶はどうなるのさ?」
「ここに通えば、記憶が戻りそうということなの?」
玲が尋ねた。
「うん、何となくそんな気がして来た。ボクの頭の中に現れては消える女の人の顔は卵型でほほ笑んでいるんだ。菩薩さまも同じ。あの菩薩さまがボクの記憶を回復させてくれるかも知れない感じがするんだ」
赤間は苦虫を嚙み潰したような表情でマーを睨みつけていた。
「赤間さん、ここはマー君のしたいようにさせてやってもらえませんか」
玲が赤間に頼み込んだ。
「しかし、玲さんも早くここから離れないと危険だぞ」
「ええ、それはわかってますけど、マー君しか理解できないことがひょっとしてあるんじゃないかと思うんです」
「俺としては君ら三人の身の安全が最優先事項だ。古賀さんとの約束でもある。だから、古賀さんに連絡を取らせて欲しい」
「わかりました。そうしてください」
皆はセダンに乗り、駐機場に戻ってとりあえず機内でくつろぐことにした。
機内で玲は思いを巡らせた。
マー君と美人窟の菩薩とは一体どんな関係があるんやろ。言っても彼は回族でムスリムや。洞窟に描かれている菩薩は他宗教の仏教で、しかもムスリムが否定する偶像と考えられる存在や。そやのに何故マー君は拘るのやろ。
古賀が赤間と話している。果たしていっちゃんは、どう答えるのやろか。
先ほどから電話している赤間の表情はちっとも緩まない。ということは、いっちゃんもマー君の言う通りにしてやれということなのか。玲の傍らで電話が続いている。
「ではマー君のしたいようにさせた方が古賀さんはいいということだな」
「三人に何かあっても赤間さんの責任を追及するなんてことは勿論しない。あくまでこの件の最終責任は俺がとるから、マー君の記憶回復に少しでも光明が見えそうなら、そうしてやって欲しい。赤間さんにはご迷惑やろが、ひとつ頼まれて欲しい」
「了解。俺はとりあえず責任を持って三人のケアを続けるよ」
「恩に着ます。よろしくお願いします」
マーの美人窟通いで古賀と赤間に基本的了解が出来たようだった。
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