第9話

 第八章

 マーはその日から日に数回美人窟に通い始めた。ムスリムの彼は普段一日四回聖地メッカに向かってイスラームの礼拝をするが、今は美人窟に集中しているようだ。

 その都度赤間が駐機場から美人窟までセダンでマーを送迎している。日々の買い物はミニジェットの乗客サービス係の女性が担当している。暇なのは正副パイロットだ。とにかくマーの美人窟通いが続く間ミニジェットは駐機したままだからだ。

 玲はアンナと別の洞窟を覗きに行く毎日を過ごしている。

 最初の三日ほどは特筆するようなことはなく過ぎた。マーの表情は菩薩に会う回数が増えるにつれて、心なしか穏やかさを増しているように見えた。

 ところが、四日目に事件は起きた。

 新疆ウイグル地区のウイグル族弾圧の余波がついに莫高窟まで及んで来たのである。

 デモ扇動者の疑いをかけられたウイグル人男性が追われて莫高窟に逃げ込んだという噂が飛び交い、公安警察が莫高窟に大挙して押しかけ、観光客の莫高窟立ち入りを禁止してしまったのだ。

 洞窟の入り口付近には制服姿の警察部隊が詰め、観光客を全て足止め状態にして、洞窟内を次々に捜索し始めた。

 勿論美人窟も例外ではない。マーは菩薩への礼拝が出来なくなってしまった。

 そのためマーはそれまで蓄積した菩薩との精神的な繋がりを脳裏に浮かべて、いつものように目を閉じて、こめかみを両手で押さえて記憶の糸を何とか引き出そうとしている様子だった。マーがその状態を離れて、少しリラックスした時、玲はこっそり今の様子をマーに尋ねてみたら、新しい話が零れ出た。

「何かぼんやりとしているけど、昔ボク車にはねられたことがあったのを思い出した。ほら、今も右脚を引きずって歩いているでしょ。これがその時の一生傷だと思う。それを思い出したんだ」

「なるほど。ということは、やはり美人窟であの菩薩さまと出会うことは、ほんのわずかだけど記憶が戻るのに役立っているんや」

「ボクもそう思う」

「わかったわ。今は菩薩さまに会えないけど、また会えるようになったら通うことにしようね」

「うん」

 公安警察は駐機場にも姿を現した。赤間のジェットが駐機しているのを発見し、直ぐに事情を聴きにやって来たのだ。

 その時はちょうど赤間がいたので応対しようとしたが、悪いことに捜索と聴取に来たのは、邸の捜索に来て途中で緊急出動した敵偵局G隊隊長・許の部隊だった。

 目ざとく許を見つけた赤間は玲ら三人をトイレ兼化粧室に隠れさせて、自らはサングラスを用意し、ニセ髭をつけてマスクで顔を覆い、応対に出た。

 許がかざした身分証を赤間が覗き込んだ。

 機内の捜索中、捜査員が天井の感覚に慣れておらず、頭を打ちながらも、トイレのドアが開かないのに不審を抱いた。

「乗員はコックピットの二名と女性の計三名。あとはあんただけか?」

「ええ」赤間が答える。

「トイレが中からロックされている。誰か中にいるのではないのか?」

「あれはドアが壊れているんです。折角のジェットが台無しだ。いちいち外のトイレを使わなくちゃならない」

 赤間は笑ってごまかそうとしたが、許は目を細めて赤間の表情に嘘はないか見定めているようだった。

 機内の捜索を一応終えた許は部下を引き連れて、機外に出て赤間と対面した。赤間は許らにほほ笑んで開口一番言った。

「お巡りさん、身分証によると、お宅は新疆ウイグルの部隊の方だ。ここ敦煌は甘粛省ですよね。管轄外とかでこちらの官憲と縄張り争いは起きないんですかねえ」

 許は赤間を睨みつけた。

「余計なことを言うな。あんたがこのジェットの所有者か。身分証明書を見せてみろ」

 赤間はTPOに応じて使い分けている偽造の身分証をポケットから出して許に手渡した。

 許は受け取って、マスクとサングラスをとるように命じた。

 身分証に張られている写真と赤間の顔をじっと見比べている。右頬の傷はシールだし、つけぼくろもある。それにつけ髭。身分証の写真と全く同じ変装をしている。

 見破れなかったようで、許は身分証を赤間に突き返した。

「いつまでここに居るつもりだ?」

「いや、莫高窟をわざわざ見に来たのに見られなきゃ仕方がない。今日中に引き上げますよ」

「もし不審な人物を見かけたらここに連絡をくれ」

 許は警察電話の書かれたカードを赤間に手渡した。

 莫高窟観光に来て足止めされた各国の観光客が当てもなく付近をそぞろ歩いていた。

 警察部隊はその間を縫うように許を先頭に足早に駐車していた車両に乗り込んで去って行った。

 警察の必死の捜索にも拘わらず、結局逃亡者は発見されなかった。莫高窟の立ち入り禁止も解かれ、観光客も徐々に戻って洞窟の周辺はまた賑わいを見せ始めた。

 マーは美人窟詣でを再開し、わずかずつではあるが、記憶が蘇って来たと言う時もあった。

「火が見えるんだ。それも凄い炎。めらめらとモノが燃える臭いがたまらなかった」

 玲はこれまでマーの口から出た言葉を挙げてみた。

『顔が卵型でほほ笑む女性』。女性が人間なのか、仏像なのかも今のところわからない。  

 確かに美人窟の菩薩の部分的なイメージには当てはまるが、別の洞窟にもいくらでもそれくらいの特徴の菩薩さまならごまんといるだろう。赤間さんの写真集だけでも、五十七窟の菩薩に似通った特徴の菩薩は存在する。

 それ以外の言葉は『交通事故』。引きずる右脚がその時の一生傷。それから今回の『凄い炎とモノの燃える臭い』。

 しかし、これだけでは何のことなのかよくわからない。車の事故で右脚に一生傷を負ったのはほぼ間違いないとしても、何が炎上したのか。車なのか、あるいは別物なのか。そもそも卵型の顔の女性とは菩薩さまなのか。あるいは事故に関係する人物なのか。

 つまるところ今の段階では本人でさえわからない。このままで行けば、いつ美人窟に踏ん切りがつくのかもわからない。

 かといってマーに美人窟詣でを止めるように言うわけにもいかない。

 そんな釈然としない状態が続いていた。


 新疆ウイグル地区の騒乱は幾分鎮静化したようだった。しかし、それが、人的被害などがなくなったことを意味するのか、それとも反中国デモが鎮圧されたため、表面的に落ち着いたように見えるだけなのかわからない。

 現に、暇を持て余している正副パイロットに現地の様子を窺いに行ってもらった感じでは、町の中心部の警察車両は相変わらず駐留したままで、武装警官の数も決して減っておらず、単に小康状態を保っているだけで、いつまた爆発するのかわからないというのが実情のようだった。

 そんなある日のことだった。

 マーが赤間らに連れられて美人窟詣でをした帰り、美人窟の直ぐ近くでひとりの少年が近寄って来た。

 マーより二、三歳若いという感じの子で、一行に何処までも付いて来る。

 決していい身なりではない。極端に言えば、ボロを纏っているようで、身体中の皮膚も長いこと風呂に入っていない様子で、垢が皮膚の表面に浮いている。近づくと臭い。

 アンナは気味悪がって離れて歩いている。

 見かねて、玲が声をかけた。

「君は何処から来たの」

 少年はずっと黙って一緒に歩いていたが、赤間のセダンの前に来た時、ようやく口を開いた。

「一緒に連れて行ってくれ」

「君はウイグル族かい?」

 赤間が尋ねた。

「うん。自治区に住んでいたけど、父さんが漢族の警官に連れていかれた。帰って来ない。母さんはもうこの世にいない。毎日ボクから話しかけるんだ」

「話しかけるって、お母さん亡くなったんでしょ?」

「うん、この世とあの世は裏表だから大丈夫。話せるよ」

 皆は顔を見合わせて首を傾げた。

「それで独りでここへ?」

「もう自治区は危なくて住めない。ボクみたいな子供だけでは。だから一緒に連れてって欲しい」

「君の名前は?」

「アルキン。アルキン・エイサ……」

「簡単に連れて行くことは出来ないよ。ちゃんと理屈が通らないとね」

「理屈ってなあに? 大人はすぐ難しい言葉を使うから嫌になっちゃう」

 アルキンが口を尖がらせた。

「赤間さん、どうします?」

 玲が赤間を見つめた。

「一度古賀さんに相談してみよう。彼にウイグルの世界本部に問い合わせをしてもらおう。何かわかるかも知れない」

 赤間は直ぐに古賀に連絡を入れ、問い合わせを頼んだ。

「アルキン君は古賀さんから連絡があるまでジェットの機内に居てもらおう。そしてシャワーで身体を洗って、身ぎれいにしてもらおう。マー君、ちょっとこの子には大きいかもしれないけど、君の服を貸してやってくれないか」

「いいよ。ちょうど小さくなったのがあるんだ」

 マーはアルキンを見てほほ笑んだ。

「お兄ちゃんはウイグル?」

「いや、回族だよ」

「でも、おんなじイスラームだね」

 アルキンはホッとしたように歯を見せて笑った。


 古賀から問い合わせの件で連絡が入ったのは翌日の午後のことだった。

「該当する同名の子が見つかったよ。その子の言う通り、父親は強制収容所に送られている。母親は獄死したらしい。子供独りで今の新疆ウイグル地区には居られん。ただその子の父親の知り合いに当たるらしい人物が世界本部の例の保護プログラムで偶々タイペイ郊外に移り住んでいるということや。本部にとっては渡りに船で、マー君と一緒にタイペイまで連れて行ってもらえば助かるちゅうこっちゃ。まあ、赤間さんには重責がまたひとつ増えることになるが、もしよろしければそうしてもらえないか」

 赤間は二つ返事でOKした。

「おおきに」

 古賀が感謝の念を伝えた。

「一人も、二人もおんなじだ。この子の命も助けないとな」

 赤間の言葉に玲らもほほ笑んだ。

「ありがとうございます」

 前日からシャワーに入り、身なりを整えたアルキンにそのことを伝えると、笑みを湛えて安堵の表情を見せた。

 マーは夜中にアルキンが母親と会話するのを隣のベッドで聞いていたという。

「ねえ、どんなことを話してたの?」

 玲とアンナが尋ねた。

「普通の親子の会話みたいだった。お腹がすいたとか、早く勉強しなさいとか……」

「でも、お母さんの声は勿論聞こえないでしょ?」

「アルキン自身が、お母さんが今こう言ったと話すのさ。そうしているうちに夢心地になって来て、お母さんがまるで隣にいるように感じる時もあるってさ」

「へええ!」

「でも、アルキンが何か寝苦しそうな感じがしたので、覗いてみたらすごく汗をかいていた。流れるような汗だ。夜中は涼しかったのに変だなあと思った」

 玲らは首を傾げた。

 アンナがマーの話を聞いてアイデアを出した。

「アルキン君にマーの記憶に話しかけてもらったらどうやろ。あるいは美人窟の菩薩と対話してもらうとか。今の話を聞いていたら、何かヒントが見つかりそうな気がして来た」

「そうやな。何でもやってみないとわからんからね」

 玲が言った。

「マー君、どうやアンナのアイデアは?」

 マーは少し考えてから、頷いた。

「よっしゃ、ほな早速アルキン君に頼んでみよ。彼は今どこやろ」

「さっき赤間さんと出かけたよ。恐らく美人窟やと思う」

「OK。それじゃわれわれも出かけるか」

「でも、今赤間さんの車がないよ。歩いてはちょっとあの距離は……」

「何言ってるの。早くしないと福が逃げちゃうぞ。さあ出発、出発!」

 気後れしているアンナの手を引っ張って、玲が駆け出した。

「痛い! ついて行くから、きつく引っ張らないで!」

 玲は手を放して、アンナにほほ笑み、マーと三人並んで速足で歩き出した。


 美人窟付近は相変わらず観光客の列が絶えなかった。ちょうど洞窟からアルキンと出て来た赤間に声をかけ、アルキンのことを話した。

 会話を聞いたアルキンははっきりと言った。

「ボクは母さんのように死んで霊界に行った人と話せるけど、生きている人間とは話せない。だからマー兄いとは無理だ。でも、ここの菩薩さまとは出来るかも知れない。ただね、こんなに混雑していたらダメだよ。静かな環境で精神を集中しないとね」

「なるほどね。じゃあまた出直そうか」

 その時赤間が口を開いた。

「今日ちょっとジェットを飛ばして来るよ」

 赤間はもう何日も駐機場に置きっ放しのジェットのことが気がかりだった。

 許のように、また官憲がジェットを停めたまま一体何をしているのかと警戒し、痛くない腹を探られるのを心配していたのだ。

「わかりました。その間わたしらは洞窟巡りをして来ます。それで時間を潰して観光客が少なくなる時間を待って、アルキン君に菩薩さまに語り掛けてもらいます」

「了解。じゃあ、そういうことで」

 赤間はセダンで駐機場に向かった。


 夕暮れ近くになり、観光客もぐんと減った。

 午後五時の閉門の一時間前には入場しなくてはならない。しかも、一日の観光客受け入れは六千人という制限付きだ。

 毎日参拝するマーらは係員とも顔馴染みになっていたので、静かに参りたいと言えば、閉門後特別に入場させてくれたのが有難かった。そうすれば、アルキンは菩薩さまと静かに対面出来る環境が整う。

 鳴沙山を月光が照らし、白砂の波紋がくっきりと浮かび上がっていた。

 アルキンはこれで美人窟に入るのはその日午前中を含めて三度目だった。

 でも、今回は前回とは違う対面の仕方になる。アルキンはそれなりにそのことを意識して、より厳粛な気持ちで主室に足を踏み入れた。観光客が一人もいない環境で菩薩さまと二人だけの対面をするのである。

 主室はひっそりとしていた。洞穴の冷気がアルキンの身に迫ってくるように感じられた。

 アルキンはそっと洞窟の東側に描かれている菩薩の前に佇み、両手を合わせた。

 普段はムスリムとして偶像崇拝は禁止だ。だから、些か抵抗はあるが、これもマー兄いを助けるためと割り切って、菩薩に向き合ってみよう。

 アルキンは静かに物思いにふける温和な菩薩の表情を見つめながら、改めてそのお姿の各部分を見やった。

 卵型のお顔。細い眉にやや下向きの切れ長の目線。

 通った鼻筋。小さく描かれた微笑みがこぼれる口。美しい意匠が施された袈裟。玉の輪で飾った衣裳。すらりとした身体を飾るネックレスや腕輪。光り輝く真珠や宝石。首飾りの珠を掴む左手。衆生を救済し、掬い上げるように胸元で開いた右手。大きく花開いた蓮花の上に載せた菩薩の御足。しなやかにS字形にくねる腰。

 少年は菩薩から溢れ出る女性の色香をまともに浴びてしまい、たじろいだ。

 暫く目をつぶり、心の揺れを収めてからおもむろに体の内に籠る気を菩薩に送り始めた。

 ふうーううー。ふうーうううー。

 菩薩の切れ長の目が一瞬光ったように感じた。

「ボクの兄貴分、マー・グアンピンのこと覚えていますか……?」

 少年が気の中に言葉を送り込んだ。

 直ぐに反応はなかったが、しばらくして少年の耳に菩薩の言葉が届いた。

 少年はその瞬間気を使い果たし、心拍数が上がり、洞窟の床に両手をついて屈み込んだ。

 汗が体を流れ落ち、床に染み込んで行った。

 少年はもう一度菩薩の艶めかしいお姿をじっと見つめた。少年の気力を吸い取った菩薩は代わりにお言葉を少年の脳裏に焼き付けていた。

『当地から北東に位置する豊かなる葡萄の都・吐魯番(トルファン)より少年と両親来訪せり。三人われの前にて一心同体となり、少年の治癒求むること誠に真摯なり。少年の白い脚に傷見ゆ。その後も親子の来訪繁し。白い脚の傷次第に消ゆ』

 少年は亡き母親が父親の気を吸い取り、その代わりに少年を産み落とした遠い昔の物語が一瞬心に浮かんだような気がした。ほんの僅かな時間と思って外に出てみたら、鳴沙山を照らす月は位置を大きく変えていた。

 美人窟の前でアルキンが出て来るのを今か、今かと待っていた玲らはようやく洞窟から姿を現したアルキンを取り囲んだ。

「どうやった。何かわかったの?」

 アルキンは菩薩の言葉を伝えた。

「兄いが探していた菩薩はこの菩薩さまに間違いない。両親とこの美人窟に何度も拝みに来ている。兄いの脚を『白い脚』と菩薩さまが言っていた。包帯を巻いた脚のことかな。その白い脚に傷が見えたって。幾度もここに来て拝んでいるうちに包帯がだんだん取れて傷が消えて行ったと仰った」

「じゃあ、台湾でマー君のご両親に会った時にその辺の事情を伺えば、わかるってことよね」

 アンナがそう言った途端、マーがつむじを曲げた。

「ボク自身が努力して自分で記憶を取り戻さないと意味がないんだ! そもそも敦煌の石窟に何かがあるって言いだしたのはボクだ。でも、アルキン君の話から、ボクが探していたのはこの美人窟の菩薩さまだということが証明されたと思う。だから他の記憶もこの美人窟通いを続けて自分の力で記憶を取り戻したい」

「マー君、ごめんなさい。同じ目的で一緒に努力しているのに、あなたの気持ちに寄り添えず、何処か他人事と思って簡単に考えていたわたしが悪かったわ。許してね」

 アンナが頭を垂れた。

 玲は赤間に事の次第を報告していた。

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