第2話
第一章
その夜、アンナはマーをNPO法人の事務所の仮眠室に泊めてやった。本来外部の人間を泊めるのには所定の手続きが必要だったが、夜間でもあり、一種緊急を要する案件でもあったので、アンナの独断で決めた。これが厄介な出来事を引き起こしてしまう。
翌朝、アンナはいつもより早めに事務所にやって来た。マーのことが気がかりだったからである。
事務所は大阪・天門橋筋商店街にある雑居ビルの二階にあった。一階のコンビニ横にある階段を駆け上がり、ドアにキーを差し込もうとしたら開いていたので、マーを見に仮眠室に行った。
姿がない。どうしたんやろ。散歩にでも行ったんかしら。
そう思いながら、事務室に入った途端、アンナは腰を抜かしそうになった。明らかに部屋中物色された跡が目に飛び込んで来たのだ。
デスクの引き出しという引き出しは開けられたまま。ロッカーがこじ開けられ、中にしまい込んであった手提げ金庫がない。
してやられた! アンナはその場に座り込んでしまった。
定時に出勤してきた理事長の古賀一郎に事情を説明したら、厳しく叱責されてしまった。
「そやから、日頃から安易に外国人を事務所に泊めるなと言ってるやろ! そういう人間は我々の善意につけ込んで来るんや。当然向こうが悪いけど、こちらの責任もある。何が盗まれて、被害額はいくらなのか、早速調べろ!」
アンナは理事長に叱られたことよりも、マーに裏切られたことのショックの方が大きく、なかなか言われたことを実行する気になれなかった。
マーは一体何処に行ってしまったのか。本当はこんなことをする人間やない。記憶を喪失し、異国の地にたどり着いて、言葉も何もわからない状態に置かれて、益々自分を失くしてしまった結果起こったことや。アンナはそう思いたかった。
調査の結果被害額は五万四千百五十三円。偶々直前に金庫から数十万円を別の場所に移していたので、この程度で済んだ。
あと無くなったものと言えば、これもロッカーに入れてあったスマートフォンの予備機ぐらいだった。ひょっとしてマーはまだ近くにいるかもしれない。
アンナは始末書を書かされた後で、事務所の近辺を捜しに外出した。
商店街を意識的に隈なく歩いてみたが、いつものように人通りも多く、数店舗でマーのような少年を見かけなかったかどうか尋ねてみたが、結局徒労に終わった。
アンナはその日、終日事務所に居ながら、日常の業務は全く上の空であった。
それから二日後。マーらしい少年が大阪ミナミの食堂で、無銭飲食をして店員に取り押さえられて警察に突き出されたという情報が届いた。
マーが取り調べを受ける警察署から中国語通訳の依頼がNPO法人に寄せられたのを耳にして、アンナは古賀に事務所の金品を盗んだ少年とは告げず、通訳業務を申し出た。
ミナミにある警察署に足を運び、取調室に入ると、少年が取調官の向かいに座り、頭を垂れていた。
やはりマーだ。
「マー君」。声をかけると、アンナを認め、顔をこわばらせた。
「通訳に参りましたNPO法人ヘルプの琴平アンナです」
アンナは取調官に名乗り、挨拶した。
「そらご苦労はんやなあ。あんた、この少年を知ってはんのか?」
「はい、二日ほど前にうちの事務所に来ましたので」
「先ほど連絡があって、照合の結果この少年はお宅の法人事務所で窃盗を働いたようやな」
「そうですか」
アンナは曖昧に答えた。
「早速やけど調書を作るんで、通訳してもらえまっか」
取調官はマーの名前、出身地、日本での連絡先などを次々に尋ねて行った。
ところが、マーは名前だけは漢字で書けたが、出身地などの記憶は全くなく、過去の記
憶は台湾の飛行場あたりで途絶えており、調書の情報は大阪に来てからの行動に限られていた。
「この少年はこれからどうなるんでしょうか」
アンナが不安そうに取調官に尋ねた。
「パスポートさえありゃ、色々とわかるんやが、ミナミで寝ている間に黒色のリュックを盗まれて、一緒にパスポートを紛失しとるんや。そやから確認が出来ん。いずれにしても、『パスポート不所持』の状態なんで、強制退去の対象になると思われるんやけど、台湾か中国の居住地が全くわからんので、どう判断されるのか。それに窃盗容疑と軽犯罪の無銭飲食があるんでね、ややこしいですなあ」
取調官は頭を掻いた。一応の取り調べが終わり、通訳を終えたアンナに向かってマーが言った。
「折角親切に泊めてもらったのに、恩を仇で返すようなことをして申訳ありません。お
互いの名前に『平』の字があって、それは『平和』の意味だから、いいことの始まりと
まで言ってもらったのに、こんな悪い結果になってごめんなさい」
「いいのよ。でもこれからどうなるのかすごく心配やわ。何かあったら、必ず知らせて
ね。それと、黒いリュックやけど、遺失物届を出しておきなさい。用紙に届出人の名前
しか本人のことは書けないかもしれないけれど、それでもいいですよね?」
アンナが取調官に尋ねた。
「あんたがこの少年に代わって届けたらどうや?」
「わかりました。そうします」
アンナは取調官の許可をもらい念のため名刺をもう一枚マーに手渡して取調室を出た。
マー少年は警察で、無銭飲食について、盗んだものとはいえ日本円を持っていたので食事をしてから支払おうと思っていたが、偶々レジにも店内にも店員が居なかったので、そのまま店を出てしまったと供述した。
これが事実かどうか、マーを取り押さえた店員に聞いたところ、偶々その時は店にその店員しかおらず、小便をしにトイレに入っていて、直ぐ出て来て見渡したらまだ支払いをしていないマー少年の姿が見えなかった。無銭飲食されたと思い、後を追いかけたら、その少年はゆっくりと近くを歩いていたので捕まえたところ、支払ってくれた。でも一応無銭飲食の未遂には違いないと思い、近くの派出所に連れて行ったと述べたので、罪にはならないと判断された。
一方、窃盗容疑についてマー少年は自分を助けてくれたアンナが自分のしでかしたことで不利益を被らないようにと考えて、全面的に罪を認めると供述した。
しかし、これについても日本の刑事事件として犯罪犯歴照会に載せるが、窃盗した金額が少ないこと。少なくとも日本の地で過去に罪を犯した記録がない、すなわち初犯であること。さらには記憶喪失の身で、初めての異国に迷い込み、短期間であるが「辛酸をなめた」少年であることなどを勘案して処分なしとした。
取り締まり当局はマー少年の身柄をとりあえずNPO法人ヘルプに預けて、法人から台湾と中国の関係先などに連絡してもらい、居住先あるいは保護者の有無などを探ってもらうことにした。そして、盗んだ金の残金を返却すること。および使い込んだ金額についてはヘルプで働いて返すようにすることで、法人ヘルプの了解を取った。
それから一週間が経った頃、アンナがマーの代わりに届けていた遺失物届に該当する黒いリュックが見つかったという知らせが警察から舞い込んだ。リュックは難波から約二十五キロ離れた淀川河川敷の堤沿いの草むらで散歩人に発見されたという。
「えっ、見つかったって! まあ、珍しいこともあるわね」
アンナはちょっと信じられないといった感じで朗報を受け取った。連絡した担当者はこう付け加えた。
「遺失物を取りに来られる時は、必ずマスクと軍手をお持ちください」
「それは一体どういうことでしょうか」
アンナは意味がわからず尋ねた。
「申訳ありませんが、わたしはそのように間違いなく伝えるように言われただけですので、詳細は存じません」
「わかりました。とにかく取りに伺いますので」
アンナは早速マーと署に足を運んだ。遺失物係で名乗ると、年配の担当官が現れた。
アンナらが案内され、部屋に入ると黒いリュックが置かれていた。一部が黄色く変色している。
何で黄色くなっているのやろ。それにリュックは透明の大きなビニール袋に入れてある。
『注意。手を触れるべからず』と大書された文字が目に飛び込んで来た。
「すみません、これはどういうことなのでしょうか?」
担当官が禿げ上がった頭を撫でながら口を開いた。
「イタチの最後っ屁ですわ。リュックに凄い悪臭が付着しとるんです。まあ、そのお陰でリュックがそっくり戻って来たんでっしゃろなあ」
担当官は笑いをこらえようと両手で口を押えていた。
「マー君、自分のものかどうか確認して。中身で取られたものはないかどうかと、肝心のパスポートは大丈夫かを。あっ、それから軍手とマスクよ!」
マーはおもむろにマスクをして、軍手をはめ、ビニール袋からそっとリュックを取り出した。
一瞬、マーの顔がマスクの上から歪んだのがわかった。
「いや、凄い臭い。どうしたものか」
そう言いながら、マーはリュックを開き、顔を歪めたまま中をまさぐった。底の方からパスポートが出て来た。
「よかった、よかった。これであなたの出身地がわかるわ」
マーはさらにリュックの中の物を全て机の上に出してみたが、盗まれたものはなさそうだった。盗んだ日本円も殆ど手をつけずに見つかり、マーが台湾から持参したとみられるお金も財布からそっくり出て来た。
リュックを盗んだ人間は、恐らく草むらでリュックの中身を確かめようとした時に、潜んでいたイタチと遭遇し、脚で蹴るか何かしてイタチを興奮させて最後っ屁をかまされた。余りの臭さに気絶しそうになってリュックを放り出したまま退散したのではなかろうか。 アンナはそんな想像をしてみた。
パスポートにも臭いが染みついていたが、今はそんなことを言っている場合やない。
事務所に戻ってアンナはマスクをしたままマーの傍らで、軍手でパスポートを開いた。
「あなたの名前は確かに馬廣平。年齢は十七歳。居住地は中華人民共和国・新疆ウイグル自治区のトルファンと書いてある。トルファンて、どのくらいの規模の町なのかしらね。ということは、観光旅行か何かでトルファンから台湾に行ったのかしら」
マーは記憶を辿ろうとする時にする、両腕でこめかみあたりをぎゅっと押さえるポーズをした。
「……何ひとつ思い出せない。時たま女の人が見える以外は……」
「誰なの、それ?」
「……何処かで出会った人。ボクの頭の中に姿を現すんだ。でも、直ぐに消えちゃうんだ」
「誰かわかればいいんだけど。でも、とにかくあの広い中国の中で、居住地がトルファンというところに絞れただけでも大きな手掛かりをつかんだわ。パスポートのコピーを取らせてちょうだいね」
「トルファン……トルファン……果たして、それが……」
マーはこめかみを再び抱えて、何かを思い出そうと必死の様子だった。
アンナは中国の地図を開けてトルファンを探している。
「中華人民共和国……新疆ウイグル自治区……一番西やな。あっ、ここにある。このあたりでは結構大きな都市みたい」
アンナはトルファンの表示を地図上で見つけてマーにも指し示したが、マーは首を傾げたままだった。
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