記憶を捜す少年

安江俊明

第1話

 序章


 猛暑が少年の頭をかっかさせていた。「殺人的」という言葉が頭に浮かんだ。身体から汗がぷっと噴き出して来る。地面が焼けるように熱い。裸足なのだ。

 外見は角刈りに切れ長の一重瞼、通った鼻筋、薄い唇で骨太な体躯の少年はさっきまでゴム草履を履いていたが、いつの間にか右足の古びていたゴムの鼻緒が切れ、歩きにくいので両方とも履き捨ててしまった。

 足の裏は砂漠の熱砂なら慣れているが、歩いているのは都会の熱波渦巻くコンクリートの歩道だ。裸足を寄せ付けるはずもない。

 焼けて浅黒くなった卵型の顔から吹き出す汗を汚れたタオルで拭いながら、少年はぐるりと周りを見渡してみた。

 蜃気楼に揺らいでいるように見える高層建築。俯いて交差点を歩く夥しい人間の群れ。信号が変わるのをイライラして待っているような車列。

 もう一度人間に目を転じてみる。人間は普通歩く時は、しっかりと前を向いて歩くものだ。だが、目の前の人間は全く違う。手に持っているスマホに目を落としながら歩いている。うちひとりの背広を着た男が少年にぶつかりそうになり、革靴で少年の裸足を踏んだ。 

 男は一瞬スマホから目を上げかけたが、まるで何事もなかったかのように無言で通り過ぎていく。

 少年は痛みに堪えながら、交差点を歩く人間の態度に、さらには周りに対する無関心に苛立ちを覚えていた。

 信号が変わり、途端に夥しい数の車が同じ方向に向かって一斉に動き始める。少年は台湾・タイペイの大通りで見た無数のバイクの群れを連想した。

 ボクは確か台湾からこの地にやって来た。それは間違いなさそうだ。そんなことをいちいち確認してみないといけないほど記憶がはっきりしない状態が続いている。

 町の標識を見ると日本語と英語、それに韓国語に並んで、中国語で(大阪)と書いてある。英語のスペル(OSAKA)が見えた。

 この町はオーサカというのだ。いや、オオサカかな。地名を繰り返し発音してみた。

 何度も繰り返しているうちに、交差点の真ん中を、右脚を引きずりながら歩いていることを忘れてしまっていた。車の群れがばく進して来た。クラクションが攻め立てて来る。

 何処かで同じような体験をしたことがあるような気がして、少年はおののいた。

 車が人間をひき殺さんばかりに迫って来る。遠い記憶なのか。あれは何処の町だったのか。

 少年はその場から逃れなくてはならないことをようやく理解した。

 思うように動かない右脚を思い切り引きずりながら、轢かれては大変と、少年はやっとの思いで交差点から這い出た。

 振り返ると、夥しい数の車は何事もなかったかのように流れ去って行った。

 制服を着た男が近づいて来た。

「お兄ちゃん、どうしたんや。足悪いみたいやけど、何で裸足なんや。住所と名前は?」 

 男の言葉が全くわからない。警官か、ひょっとして公安なのか。

 返事を返さないから、男は苛ついて段々怒鳴り声になっていく。車の邪魔をしたことをなじられているのか。こちらのことを心配してくれていないことだけはわかる。決して味方ではない。ちょっと一緒に来いと言っているようだ。この分では何をされるかわからない。咄嗟に少年は右脚の痛みを堪えながら必死に人混みの中に紛れ込んだ。

 男は追尾を諦めたようだった。少年は大阪という見知らぬ町を当てもなくさ迷い歩いた。

 真夏の余熱をたっぷり残したまま、あたりは次第に暗くなって行った。

 右脚がズキズキ傷んでいる。ネオンの強烈な光が目に染みる。こんなにネオンが眩しいところに来たのは初めてだ。ここの人々はネオンの眩しい塊で闇夜の大王に打ち勝とうとしているのだろうか。

 お腹がやたら減って来た。少年は食事が出来そうな商店街の中に入って行った。

 ポケットの中を探ってみたらコインが数個とくしゃくしゃの札が二枚見つかった。いずれも台湾の通貨だ。ここでは台湾紙幣で飯が食えるのだろうか。

 辺りは食事をする人間で賑わっている。若い男女が皆楽しそうに酒を飲み、肴を食べ、話している。焼き豚や串カツ、ソースの匂いが鼻をくすぐる。急に腹が鳴る。

 出入り口になっているビニールシートをまくり上げ、思い切って店内に足を踏み入れた。

 台湾通貨で食べられるのか尋ねてみようと思うが、言葉がわからない。遠慮がちにポケットから紙幣を出し、皺を伸ばして店員の目の前で開いて見せた。

 店員は怪訝そうな表情で紙幣を眺め、腕で大きなバツを作り店の中に戻って行った。

「何してるの?」

 背後で若い女性の声がした。振り返るとエクボのある目のぱっちりとした可愛い笑顔があった。前下がりのショートボブでまとめた髪型で、スッキリとした顎が小顔を形作っている。TシャツにはHELP(ヘルプ)というロゴマークのプリントがあり、ブルージーンズを穿いている。

 一向言葉を返して来ないので、女性は中国語で話しかけてみた。

「ここで何しているんですか。何か困ってますか」

 空港に着いてから初めて言葉の通じる人間に出会い、少年に安堵の表情が戻った。

「お腹がペコペコなんです。何か食べたいけど、台湾のお金が通用しないので、食べられない。何処かこのお金を替えてくれるところはありますかね?」

 少年は台湾元をポケットから取り出した。

 女性は少年の足元が気になっていた。一緒に食事をしようと伝え、その前に商店街に行って靴を買おうと促した。

「どんな靴がいいかしら?」

 靴屋の店頭で少年に尋ねたら、サンダルがいいと言うので、気に入った色のサンダルを買い与え、領収書をもらった。

「履き心地はどう?」何度も足の具合を確かめている。

「とってもいい」

「それはよかった。さあ、さっきのビニールシートの店で何か食べましょ。お腹すいたでしょう?」

 二人で店に戻り、女性は少年の好みを尋ね、いくつかの小皿を注文した。

「わたし、琴平杏奈と言います。アンナって呼んでください」と言って名刺を一枚手渡した。

 少年はそれを受け取って、女性の名前を見た。

「ボク、馬廣平(マー・グアンピン)です。何か書くものを貸してくれますか?」

 そう言って少年はアンナの渡したボールペンでメモ用紙に漢字で名前を書いた。

「じゃあ、マー君でいいわね」

「はい、それでいい」

 アンナはお互いの名前を見比べてみた。

「あなたの名前にも、わたしのにも『平』という文字があるわよね。『平』は日本語の『平和』に通じるから、今日あなたと出会ったのは、何だか平和の始まりを連想させて嬉しいわ」

 二人はお互いの顔を見ながら微笑んだ。食事が運ばれて来た。

「マー君は未成年みたいだから飲めないけど、わたし頂いていいかしらね。牌酒(ビール)」

「どうぞ、どうぞ」

「お姉さん、生ビールね」

 アンナは店員に声を掛けた。

「これ一杯だけにしとくからね。わたし直ぐに酔っぱらっちゃうから」

 そう言いながらアンナは枝豆を薄く化粧した口に放り込んだ。

「マー君はどこから来たの?」

 マーは顔をしかめた。

「……それが、よくわからないんだ」

「えっ、どうしてなの?」

 アンナのぱっちりした目がもっと丸くなった。

「台湾の飛行場からあとのことは何となく覚えてる。でも、それ以前のことは記憶が飛んでしまって全然わからない」

「マー君はとにかく台湾から来たのね。台湾では何をしてたの」

「いや、わからない。気付いたら、ここに居た。交差点の真ん中で車に轢かれそうになった」

「それは大変だったわね。あっ、お食べなさいよ。お腹減っているんでしょ?」

 アンナが小皿に盛られたモヤシ炒めや酢豚を勧めた。マーはコーラを一口飲んで、箸で小皿から別の小皿に食べ物を移し、口に運んだ。

「ここはOSAKAというところのようだけど、国はどこ?」

 咀嚼しながらマーが尋ねた。

「日本よ。ここは大阪」

 アンナはマーにわかるように「大阪」をはっきり発音してみせた。

「大阪は今日で何日目なの?」

「……それがそんなにはっきりしない。まあ二日ぐらいかな」

「さっきから見てるけど、あなた荷物を持ってないわね。どうしたの、まさか手ぶらじゃないわよね」

 アンナが安心して話すことが出来る人間だとわかり、記憶に新しい事柄についてマーは話し始めた。

「空港からバスに乗って難波というところに着いた。バスでは誰かと一緒にいたような気がする。その人がバス代を払ってくれたみたいだ。難波では大勢の人が地下街を歩いてた。知らぬ間に一緒にいた人とははぐれてしまった気がする。何だか眠たくなって駅の近くのベンチに座っていたら、眠ってしまい、目を覚ますとリュックが消えていた。きっと盗られたんだ」

 マーは悔しそうに唇を噛んだ。

「マー君、難波からここまでは……?」

「ぶらぶら歩いて来たんだ。お金が無かったから。脚が棒のようになっちゃったよ」

 マーが笑顔を見せた。

「あのね、明日わたしが働いている職場であなたのことを話してみるわ。わたし外国人のケアをするNPO法人で働いてるのよ。この頃インバウンドと言って海外、特に中国や韓国から人がたくさん日本にやって来るの。そういう人の相談にのったりしてるから、あなたの希望をじっくり聞いた上で、これからのことを相談しましょう。それでいいでしょ?」

「ありがとう!」  

 マーは満面の笑みを浮かべ、アンナを見つめた。

 一瞬脳裏で女性が微笑みかけたような気がした。母の子宮のような狭い空間から。

 マーはその女性の姿を脳裏に焼き付けようとして、両手でこめかみをぎゅっと押さえた。女性は直ぐに姿を消してしまった。

「どうしたの? 頭痛がするの?」

「……いや、過去の記憶を思い出そうとする時にこうするんだ」

「そうなの。それなら安心したわ」

 アンナは生ビールをグイッと飲み、ふっと息を吐いた。

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