第10話

 第九章

 翌日マーは観光が終了した日暮れに美人窟を訪れた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った美人窟の主室に足を踏み入れ、菩薩と対面した。

 いつものように礼拝し、瞑想に入って記憶の蘇りを祈念しているマーに対して、脳裏を通じて女性の声が聞こえてくるような錯覚に陥った。でも、それは錯覚とは言い切れないような現実味を帯びながら瞑想するマーに呼びかけて来る。

「汝の記憶はもう少しすれば戻る。これまでよくぞ詣でてくれた。もう少しの忍耐を持って努めよ」

 マーは確かに声を聴いた。それは間違いなく菩薩さまの声だ。やはりボクの祈りを聞き届けてくださろうとしている。

 マーは一心に祈り続けた。


 敦煌の赤間邸に許が率いる公安部隊が集結していた。固く閉ざされていた玄関をバールのようなものでこじ開けて、捜査員が続々屋内に入って行った。

 日をさかのぼると、赤間らが出発したあとで、残った執事数名は濃い睡眠薬を盛られた捜査員四名に対し、赤間から受けていた指示を実行した。

 それは捜査員四人全員の一切の記憶を一時的に失くす特殊な薬品を捜査員の皮膚に注射することだった。

 執事らはそのあとで捜査員の猿轡を解き、縄を解いて、空き室のドアを開けておいた。

 睡眠薬が切れた捜査員らは何故自分らが見慣れない邸の中に居るのだろうと首を傾げながら、現場を放ったらかして地方公安部の職場に戻って行った。

 その後数日が経過して、捜査員に盛られた特殊薬品の効果が切れた。  

 事態をようやく把握した捜査陣により、遅まきながら赤間邸の再捜索が行われた。

 前回の捜索で見逃してしまっていた偽造パスポートや変装用具など重要な物証が赤間の部屋から次々と見つかった。

「あの男だ! 莫高窟近くの駐機場で尋問した男。あいつが赤間だ!」

 許はそう叫んで部下に甘粛省の地方安全部に緊急連絡をとらせ、事情を説明して駐機場の男を直ちに拘束するように協力を依頼し、自らも隊を率いて駐機場に急行した。

 その一部始終を赤間の部下である執事が見ていた。執事は早速赤間に連絡を入れた。

「よしわかった」

 赤間は連絡を受けて、急いで玲らを集め、出発すると告げた。

 あと一歩で満願するところまで来ていたマーは渋ったが、赤間は公安に逮捕されれば、全員裁判で死刑判るジェット機の轟音が飛び込んで来た。

「ヤバい! あのジェットを止めろ!」

 許の命令に部下は一様に驚きを隠さなかった。

「隊長、無理です!」

「何を言うか! さっさとジェットの前に回り込め!」

 部隊の車両が三台、ジェットを追いかけ始めた。

「赤間さん、あれ!」

 玲が開放的な広い窓から、ジェットの後ろを追いかけて来る車両を指差した。どの車両も緊急用のパトライトを点けて全速力で追って来る。

 アンナもマーも、そしてアルキンも窓から覗いている。

 ジェットは追いつこうとする公安車両を完全に振り切って高度を上げた。

 許はあきらめ顔で車から降り、どんどん小さくなって行くジェットの機体を見つめながら、機の特徴などを本部に伝えた。

「それにしても、甘粛の地方安全部は一体どうしたんだ。とっくに現着しているはずだったのに。おい、さっき連絡を入れたのは誰だ!」

「わたしです」

 部隊員が進み出た。

「何処に連絡を入れた?」

「甘粛省の公安部です」

「ばか野郎! うちの部よりも安全部の方が空港に近いのを知らんのか?」

「でも、日頃から安全部には連絡するなと言われているはずですが……」

「こんな緊急事態の時は公安部も安全部もない! 奴らを検挙するのが先だ!」

 それからかなり経ってから連絡を受けていた甘粛省地方公安部の応援部隊が到着した。

 赤間らを逃したことで事後報告の際、公安部が安全部を全く無視して赤間邸に対する隠密行動を展開していたことが明るみに出た。

 国内の反革命分子の追跡・逮捕の権限は、元々公安部の所管だったが、国家安全部が設けられてからその権限は国家安全部に移管されていた。

 ところが公安部は引き続きその権限は自分たちの既得権という意識で行動しており、公安部自体が海外諜報員を派遣する程の大諜報機関となってからは、重複する任務の狭間で国家安全部との小競り合いが頻繁に起こっていた。

 中国公安警察の現在の組織図からすれば、この件は国家安全部が主幹なのだが、公安関係の組織同士の執念の対立が持ち込まれ、表面化したものだった。

 北京では赤間邸の捜索が公安部だけで秘密裏に行われていたことが大問題となり、国家安全部長の張学志が公安部長の劉子墨に面会を要求し、激しく抗議する事態となった。

「反革命分子に対する情報収集、監視、追跡、逮捕の権限はわが組織にあるのはご承知のはず。わが組織を無視して勝手な行動をされるのは全くもって許されることではない。今回の捜索は公安部の明らかな越権行為であり、今後二度とこのような事態を引き起こさないように公安部内で徹底していただきたい」

 劉は黙って張の言い分を聞いていたが、張が話し終わると口を開いた。

「張部長、言いたいことはわかった。しかし、反革命分子の取り締まりについてはわが公安部の長い経験と歴史がある。その歴史も経験も浅い国家安全部に反革命分子の捜査を任せておけば、国の安全を預かる公安部としては心許ない限りだ」

 張の顔が引きつる。

「ちょっと待たれい! 何度も言うようにわが国の組織図には反革命分子の取り締まりは全てわが安全部の任務と明記されている。今回の赤間邸に対する案件は間違いなくわが方の任務である。もしも先に事態を把握したのなら、公安部はこちらに連絡さえすれば結構。あとはわが方の優秀な捜査員が引き取る。よろしいな?」

 張の念押しにも、劉は応じる姿勢は見せず、張をあざ笑うような表情を隠さなかった。

 

 マーらを乗せたジェット機はノーズと呼ばれる機首の先端を東南に向けて敦煌を離れ、甘粛省上空を飛び続けていた。

 万年雪を頂に抱く連山が視界に入って来た。

「あれはキレン山脈だよ」

 赤間が教えてくれた。

「火焔山から敦煌に来る道で見えた山脈ね。空から見下ろすと、とっても雄々しく、険しく見えるわ」

 アンナがエクボを見せた。

 マーはサロン・シートに座り、シートを少し倒して天井に目をやった。先ほどから菩薩との瞑想状態での対面が頭に浮かんでいる。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った美人窟の主室。何度繰り返したか、数えきれない礼拝。そして記憶回復への必死の祈り。脳裏に浮かんだ女性の声。錯覚とは言い切れない現実味を帯びた霊界からの声が瞑想する自分に呼びかけて来た。今でもはっきりと覚えている。

『汝の記憶はもう少しすれば戻る。これまでよくぞ詣でてくれた。もう少しの忍耐を持って努めよ』。

 菩薩さまはボクの祈りを聞き届けてくださるのだ。でも、最後まであの美人窟に通えなかったのが悔しい。そのせいでボクの記憶が戻らなかったらどうしよう。

 マーの悩みは去らなかった。

 

 赤間は「次は甘粛省の蘭州に降りる」と機内マイクで皆に伝えた。

 蘭州は中国本土のちょうど真ん中に位置し、甘粛省最大の都市で、西へ向かうシルクロードと青海方面へ向かうチベットルートが分岐し、古来より交通の要衝として栄えて来た。

「ここの拉麺(ラーメン)は有名だ。コクがあって、日本人の口に合う。特に牛肉麺はね」

 マーの希望を受け入れて長い間足止めを食った敦煌からとにかく脱出したことで、赤間は内心ほっとしたものを感じていた。

 しかし、新疆ウイグル地区のような騒乱はない代わりに、通常の公安活動は国内何処でも無論行われており、油断ならない。各地に連絡も入っていることだろう。

 赤間はジェットの乗り換えを考えていた。このジェットは間違いなく手配されており、蘭州の駐機場に降りるのも危険が伴う。

 それでも赤間が蘭州で降りることを決断したのは、この駐機場に赤間の別の小型ビジネスジェットが待機しているからだ。

 コックピットに並ぶ三つの十四インチ高解像度タッチスクリーンで検索したところ、駐機場の民間使用エリアが満杯で降りられないことがわかった。

「皆さん、駐機場の空きスペースが出来るまで暫く空港上空を旋回しますので拉麺は待ってください」

 赤間が微笑んだ。

 暫くして一機のスペースが空いたので、機は念のため管制塔に連絡を入れ、着陸態勢に入った。

 駐機場にタッチダウンして、全員リムジンバスに乗り、蘭州中川空港の施設に向かった。

 さすが国内線のハブ空港だけあって空港内は観光客で溢れ返っている。

 目立つのは警備に当たっている空港警察と公安である。イスラームを名乗る武装過激派がテロ行動に出だした頃から中国各地の主要な空港の警備は物々しい。

 赤間らは固まらずに警備詰所の傍を通り過ぎた。

 皆はレストランで赤間が勧めた牛肉拉麺を注文し、食べた。

「本当、おいしいわ」

 玲が麺を食べ、透き通ったスープを吸って微笑んだ。

 マーは食欲が余りなさそうに、時々拉麺に箸をつけていた。

 玲は美人窟通いが出来なくなったのがショックなのだろうとマーの表情を見つめた。

 レストランの近くを制服警官が通り過ぎた。

 アルキンは拉麺を平らげて、まだ足りなそうに玲らが食べている拉麺の鉢の中身を覗き込んでいた。

 食事を終えて一行がリムジンバスで駐機場に戻ろうとした時、赤間のスマートフォンが鳴った。

「赤間です。どうした?」

 パイロットからだ。

「ここに置きっぱなしにするジェットを大挙して公安警察がとり囲んでいます。拡声器で出て来るように警告しています。乗務員は全員これから乗り換えるジェットでスタンバイしていますが、お気をつけてお戻りを」

 やはり手配が回っている。赤間は空港内に戻り、売店で大きなバッグを二つ買い求めた。

「何するんです?」

 玲が首を傾げていた。

 赤間は笑って言った。

「少しだけ少年らに辛抱してもらって、この中に入ってもらう。さあ、二人とも入ってくれ」

 突然言い渡されてマーとアルキンは戸惑ったが、とりあえず赤間の指示に従った。

「少し重いかもしれないけど、玲さん、一つバッグを担いで下さい」

 要するに一行の人数をごまかして、新しいジェットまでたどり着こうという算段だった。

 玲と赤間はそれぞれバッグを持ち上げてリムジンバスに乗った。

 駐機場は異様な雰囲気を醸し出していた。 

 警察車両が置いて行くジェットが動けないようにバリケードを作り、捜査員が周りを取り囲み、数人が銃を構えてタラップを昇り始めている。

 それを横目に、離れたところに駐機している新しいジェット目指して進んだ。

 ちょうど隣に駐機しているジェットが目隠しとなり、全員ジェットに乗り込んだ。

「どうします? 飛びますか」

 パイロットが赤間の指示を仰いだ。

「うん。そうしよう!」

 蘭州まで乗って来たジェットには誰も乗っていないことがわかり、警察部隊は赤間らが何処かに潜んでいると、慌ただしく辺りの捜索を始めた。

 ジェットのエンジン音が辺りにこだまし始めた。

 奴らが気付きませんように。赤間は祈るような気持ちで離陸を待った。

 許が頼りにしていた敦煌を管轄する甘粛省地方安全部の捜査員は許の部隊が駐機場に着いた時にもまだ姿は見えなかった。

「おかしいなあ。地方安全部の連中はまだ来ていない」

 首をひねる許の目に、駐機場から飛び立ってゆくジェットが目に飛び込んだ。

「やられた!」

 警察部隊は一斉に機体目掛けて発砲したが、後の祭りに終わる。ジェット機は安定軌道に乗り、飛び去って行った。

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