第16話
第十五章
新疆ウイグル地区では相変わらずウイグル族の弾圧が続き、反発するウイグル族と権力の手先である警官隊との小競り合いが各地区で繰り返されていた。
公安部長室に捜査官が駆け込んで来た。
「劉子墨部長、台湾で逮捕した少年はあのお尋ね者の少年マーとは別の人間です!」
「何! では誤認逮捕か?」
「はい。そっくりな顔をしていますが、念のため再確認したら指紋が違いました。担当者がどうも失念したようです。誠に申し訳ありません」
「それじゃ、マーとかいう少年はまだ台湾にいる可能性が高いということなのか?」
「あ、ハイ!」
「他に行動を供にする男女の日本人も野放しのままだ。海外諜報の特殊部隊を改めて台湾省に派遣する。部隊長に直ぐにここに来るように伝えろ」
「了解しました!」
「誤認逮捕した少年は係官を台湾まで同行させて送り返すようにな」
「ハハア!」
最敬礼をして捜査官は公安部長室を後にした。
マーはその時、中国のお膝元で台湾の支配が及んでいる金門島からフェリーに乗って台湾海峡を渡り、中国本土のアモイで中国に入国したところだった。マーが見せたパスポートは赤間に作ってもらった偽造パスポートである。入国審査などで、もしも官憲に疑われたりしそうな時に便利だと赤間に言われていたのを思い出して、中国入国に利用したのだ。
本物のパスポートもリュックの底に隠して一緒に持参しているが、日本で盗まれてイタチの臭いが一旦染みついてからは、使う度にパスポートを鼻にかざす変な癖がついていた。それにつられ、臭いのない偽造パスポートまで鼻にかざし、独りその可笑しさに耐えた。
長距離の旅を出来るだけコストの節約をするため、LCC機に乗るのを原則に、長距離バスも利用しながら、アモイから空路青島(チンタオ)を経由して、新疆ウイグル自治区のウルムチまで飛んでトルファンに入り、敦煌の莫高窟まで行くのがマーの計画だった。
赤間の操縦するビジネスジェットに乗ったのが往路とすれば、今回は美人窟の菩薩さまに導かれての復路になった。マーの心は早くも旅の行きつく先である美人窟に飛んでいた。
古賀はマーが逮捕され、連行されてからウイグル人世界本部のカナットと連絡を取り合っていたが、カナットからやっと情報がもたらされた。
「公安部に連行されたのはマー・グアンピンではなかった模様です」
「そうですか。しかし、マー君は姿を消してしまったままです。マー君の続報がもし入れば是非お知らせください」
「わかりました」
古賀は赤間と玲、それにアンナを呼び、その件を伝えた。
「ひとまず安心していいってことやな? それならマー君は一体何処に行ってしもたん
やろ」
玲とアンナは首を傾げた。
赤間が口を開いた。
「まさか美人窟へ戻ったんじゃないだろうな? 美人窟詣でを途中で切り上げさせた
からな。とにかくマー君は自力で記憶を取戻したいと言っていたし、現にまだ彼の記憶
は戻っていない。彼の気持ちを察するに、頼るのはあの菩薩さましかない……」
皆思い当たる節があった。
「でも独りで台湾から莫高窟まで行けるのかしら?」
「お金とパスポートさえあれば何とかなる。お金は、金額は別として両親から受け取っているし、クレジットカードもあるだろう。パスポートも本物とは別に、俺が万一の場合に使うようにと渡した偽物もバッグに入れているはずだ。本物は日本でイタチの最後っ屁をかまされて臭いから、偽物を渡した時凄く喜んでいた。今度はこれ使いますってね」
赤間が少々冗談めかして言った。
「誤認逮捕がわかってマー君は再び公安のブラックリストに載ったはずだけれども、空港などで偽物を使えば逮捕されるリスクは減るだろう。もしも中国本土に足を踏み入れればの話だけど……」
「話を聞いていると、マー君は莫高窟に向かった可能性が高いような気がして来たな」
古賀は赤間と目を合わせた。
「マー君の無事を祈るしかない」。
その日の深夜、マーはウルムチ空港に着いた。中国の実家を探して玲とアンナと一緒に降り立った空港だ。一度来たことがあるだけで、その周辺の地理がある程度わかるのは有難い。とにかく長時間の飛行で疲れ切っていても、宿が何処にあるのかが直ぐわかり、早速玲らと泊まったことのあるホテルに向かい、飛び込みで一晩を過ごした。
翌朝から少しでも金を節約しようと、綿花を地方に運ぶトラックに頼んで乗せてもらい、
トルファンに向かった。町の中心部で降ろしてもらい、今度は奮発して「シルクロード新
幹線」と呼ばれる高速鉄道に乗ってみた。
トルファン北駅で切符を買い、プラットホームに上がったら、観光客が乗車口に列を作っていた。殆どが敦煌の莫高窟観光に行くのだろう。プラットホームに滑り込んで来たモダンな列車に乗り込み、車内に入ると、満員に近い混みようだった。
指定席に座り、出発して車窓に目を転じると、低い山並みを背景に延々と草木なしの
裸の丘陵地帯が続いている。
マーは単調で無機質なこの風景を何処かで見たことのあるような気がしていた。
一時間ほど経った頃から壁が景色を覆い、再び風景が見えるようになったと思いきや、
直ぐに壁が風景に立ちはだかる。そんな繰り返しが続いた。
連山の頂は所々万年雪を抱いている。遠いせいか、山はそれほど高くは感じない。
二時間経って初めて列車とすれ違った。暫くして大きな駅に停車し、乗客の入れ替え
があった。
マーは眠気を催して、暫く眠った。目を覚ますと、間もなく敦煌の玄関口という桃園
南駅に着くところだった。ここで観光客はどっと降りた。
駅の構内に警察官の姿があった。制服を見た途端、目をそらし、姿を隠そうと体が反
応するようになっていた。
目立つ動きは出来ない。心の動きを少しでも悟られないようにするんだ。そう自分に言い聞かせて観光客の間をすり抜けて行った。
駅から敦煌に向かうというトラックに乗せてもらい、莫高窟の近くで降りた。
美人窟の周辺は相も変わらず観光客でごった返していた。
顔馴染みになっていた入場券売り場のおじさんが目ざとくマーを見つけて声を掛けて来た。
「久し振りだなあ。元気だったか。急にいなくなったから心配していたんだよ」
「おじさんも相変わらず元気そうだね」
「また美人窟の菩薩さまを拝みに来たのかい? まあ、信心深いことだ。静かに参りたいんだろ? 俺の部屋で休んで、閉門を待ったらどうだ?」
「ありがとう。そうさせてもらいます」
まるで自分の部屋にでも入って行くような感じでマーは部屋のドアに手を掛けた。
夕方五時の閉門の時間が過ぎ、辺りは静まり返って来た。
おじさんに礼を言って、美人窟に足を踏み入れた。
主室に入ると、観世音菩薩の前に進み出て、頭を垂れて両手を合わせた。
「菩薩さま、お久しぶりです。またあなたに会いにやって来ました」
宝冠を載せた頭を傾け、卵型のお顔で静かに物思いにふける温和な表情を拝んでいると、観世音のお顔が自分の卵型の顔に重なって見えた。菩薩さまの切れ長の目はボクの目に似ている。通った鼻筋も。でも、そんなことは今関係ない。心を静めろ……! マーは暫くして落ち着いて菩薩に話しかけた。
「どうか今日こそわたしの願いをお聞き届けください。お願いします」
おちょぼ口に微笑みを蓄えている菩薩は黙ってマーの言うことに耳を傾けているように思えた。マーは菩薩の言葉を待った。暫く沈黙が流れ、微かに言葉のような音声が聞こえたような気がした。
『今日を持って満願の日とす』
確かにそう聞こえた。
「ありがとうございます!」
深々と礼をしたまま動かなかった。
つるべ落としの日は暮れて、夜の帳が降りて来ていた。
おじさんにお礼の声を掛けて駐車場に行こうとしたら、彼が微笑んだ。
「もう最終バスも行っちまったぞ。これからどうするんだ?」
「何処かで宿を探します」
「莫高窟にはよく来ていたが、この周りのことは余り知らんだろう。おじさんが宿を紹介してあげよう。さあ、俺の車で送るよ」
「助かります」
マーはホッとしておじさんの車の助手席に乗った。
その夜、敦煌の街中にある若者に人気のあるというホテルの部屋の窓から、偶に車が通り過ぎるだけの静かな通りを眺めていた時だった。
両親の顔と名前が今自分で撮影したばかりの写真のように突然くっきりと像を結び、その両親と最近台湾で再会したことが脳裏を掠めた。
記憶が戻って来た! 菩薩さまのお陰だ!
その瞬間、菩薩の口から出た言葉を思い出した。
『もう少し、もう少しよ……』
記憶はもう少しすれば戻るから、努力を惜しまないようにという意味が込められていたんだ。そして今日、画竜点睛を欠いていた努力が実を結び、満願を迎えさせてもらった。マーは達成感を味わっていた。
現在から過去へ記憶の螺旋がどんどん伸びて行く。欠けていた記憶のモザイクが埋まって行く。ずっと捜し続けていた記憶が……。
右脚を引きずっているのは交通事故に遭った一生傷だ。幼い頃ボクを撥ねた車ははずみで直ぐ近くの飲食店の調理場に突っ込んで火がガソリンに引火して大爆発を起こし、辺り一面炎に包まれた。倒れたままのボクは焦げる臭いが凄く鼻についた。近くを通りがかった男の人がボクを抱きかかえて火から遠ざけてくれた。
ようやく退院したあとも、右脚は完治せず、引きずって歩くことになったが、何とか治そうと両親はボクを連れて美人窟の菩薩さまを何度も訪れて祈ってくれた。
それで記憶を失った時でも、微かに美人窟の菩薩さまがボクの頭の中に女性が微笑みかけたような形で現れたり、美人窟の洞窟が母の子宮のような狭い空間として現れたりしたんだ。
ボクの家系は回族だから今はイスラームを信仰している。
ところが、イスラームは新しい宗教なので、先祖はイスラームが誕生するまでは仏教徒であり、仏教からイスラームに改宗してからも、中には観世音菩薩信仰を大切な心の支えにして来た人々がいる。両親もそうだった。ボクの家では何か重大なことをお願いする場合には必ず美人窟で祈るのが習わしだったことを思い出した。
そしてこの美人窟に連れて来てくれた玲さん、アンナさん、それに赤間さん。皆台湾で元気にしているかな。それにアルキン君は元気だろうか。
あの人たちに出会ったり、出会わせてもらったりしたからこそ捜していた記憶が戻ったんだ。そう、ボクはここに来ることばかり頭にあって、彼らや父さん、母さんにも何も言わずに出掛けて来た。さぞかし心配しているのでは……。
部屋から母親ティラに長距離電話をかけた。
暫くコールが繰り返したあと、ティラの声がした。
「母さん、ボクだよ。マーだよ」
一瞬母の声が詰まったように感じて、次の言葉を待った。
「マー? マーなのかい? マー! 元気かい?」
母の呻きに近い涙声がマーの心を掴んだ。
「今何処なの?」
「母さんと父さんがボクのために右脚が治るように何回も連れて来てくれた美人窟のある敦煌にいる。菩薩さまのお陰で必死に捜していた記憶が戻ったんだ。だから、母さんの声もわかる。母さんがわかるんだ! 母さん!」
目から大粒の涙がこぼれ落ち、止まらなかった。
「ちょっと待って。お父さんに代わるから。お父さん! お父さん! マーだよ! 無事に居たんだよ!」
父親の声も思い出した。あの少しハスキーな太めの声。
「良かった、良かった!」
マーにとり、両親との本当の意味での再会の瞬間だった。
次に玲に長距離電話を入れた。
「マー君! 無事やったのね! 本当に心配したわ。理事長に代わるわね」
古賀が電話口に出た。
「本当に無事で良かった。何度も君を危険な目に合わせてしまい申し訳ない。許してくれ」
「とんでもありません。古賀さんのお力添えがなければ、ボクは死んでいたかも知れません」
アンナの声がした。アンナは暫く泣くばかりだったが、ようやく落ち着いて電話口に出て来た。
「ホント、無事で良かった。早く戻って来てね。タイペイでみんな待っているからね」
それぞれの人への思いで、電話を切ってからもマーは嗚咽を抑えることが出来なかった。
明日は台湾に飛び立とう。そう思いながらベッドに横たわった。
翌日タイペイに戻る機内でマーはシルクロード新幹線の中から見た単調な無機質のだだっ広い風景を思い出していた。
トルファンで両親と暮らした家から見える景色に似ていることが今はっきりとわかる。
記憶という当たり前と思っていた機能が回復したことの喜びを実感して、万歳を叫びたいような気持だ。
航空機は時間通りに台湾桃園空港にタッチダウンした。
到着ロビーにはマーに関係する全員が帰国を祝い、集まっていた。
「グアンピン、よく帰って来てくれた!」
両親がマーと抱き合い、涙を流している。
「よくぞ無事で!」
玲とアンナ、古賀に赤間の顔が見える。
マーは深く頭を垂れた。
両親と再会し、休養をとったマーは、捜して来た記憶を確かめるように両親の話に耳を傾けた。マーが四歳になった頃、家の近くの商店街で暴走車にはねられて右脚に大けがをし、入院した。
暴走車は酔っぱらった漢族の青年が運転しており、マー以外にも買い物客が次々にはねられ、お年寄りが数人即死するという大きな事故だった。
おまけに車は傍らの大衆食堂に突っ込み、台所で料理中のコンロが転落した。火が食堂に燃え移り、折からの強風に煽られて火事が広がり、延焼して大火災になった。運転していた青年は車のエンジンが爆発する直前に危うく車から這い出し、何処かに逃げ去ってしまった。
のちに目撃者の証言で青年は逮捕されたが、支配階級である漢族の青年ということで、官憲の扱いもゆるく、ウイグル人からは強い憤りの声が上がった。
極貧の暮らしの中でマーの入院費もかさんだ。
ようやく歩けるようになったマーを連れて、両親は昔から信心していた美人窟の観音菩薩に参拝し、なけなしの金を寄付し、息子の脚の回復と安全な人生航海を一生懸命祈った。
「ご両親が信心した観音さまがマー君をずっと守ってくれてたんや。そやから観音さまと再会して、記憶が戻ったんやなあ」
玲が目頭を押さえた。
父親のアラが台湾に逃れた経緯を話した。
「わたしが漢族と対立しているウイグル族の肩を持ったと言いがかりをつけられて、公安警察が家にも姿を見せ始めたんです。だんだん追い詰められてわたしたちは身の危険を感じたため、ウイグル世界本部の保護プログラムに入りました。そして家を放ったまま、パスポートとお金、それに必要なわずかの荷物だけ持って、ある夜息子と妻三人でウルムチまで行き、飛行機を乗り継いで台湾のタイペイに逃れて来ました。二年前のことです。タイペイにはウイグル族を支援する地元の組織があり、わたしが世界本部の紹介状を組織に手渡して代表者に救いを求めたんです。ところが、ウイグル族を敵視する組織にわたしがウイグル族を支援したことを知られてしまい、タイペイの夜市の暗がりで組織の連中に囲まれ、それを知ったウイグル支援者との間で乱闘が起こったんです。その時、マーはわたしたちを守ろうとして、金属棒のようなもので思い切り頭を殴られて気絶しました。それが原因で記憶喪失になってしまったのです」
今度はマーが戻った記憶を頼りに話のバトンタッチをした。
「記憶がないまま退院をしたボクは身の安全のため、取りあえず両親と別行動をとることになった。両親は支援組織に匿われ、台湾に残る。ウイグルの支援組織がボクに大阪行きの航空チケットを用意してくれて、大阪に行く用事があった同志の男性と一緒の飛行機で大阪まで行った。でも、大阪でボクが暮らすことになっていた場所に向かう途中でその人とはぐれてしまったんだ。その時には、もうパスポート入りのリュックも盗まれてしまっていた。独りぼっちで歩いていたら、アンナさんに出会ったんだ」
玲とアンナは何故マーが大阪に来たのかがようやくわかった。
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