第18話

 第十七章

 発砲事件のせいで台湾警察のパトロールが厳重になり、中国派遣の第二次海外諜報部隊による羅逮捕の活動は当面止まったままの状態になっていた。

 マーは趙と連絡を取り合い、風呂好きの趙と最初に出会ったウーライの温泉郷で会うことになった。

 二人は湯船に浸かり、打たせ湯でストレスを取り、窓の広い待合室で上半身裸になって隣同士で椅子に腰かけ、窓から庭園を眺めながら寛いでいた。

 寛ぎの中でマーは趙が一体誰に追われ、何故追われているのかが気になっていた。

「趙さん、ちょっと尋ねていいかい?」

 趙は立ち上がって火照った体に冷気を浴びようと窓を少しだけ開いた。そしてマーの方を向いた。

「何だ」

 マーは折角寛いでいる最中に悪いとは思ったが、思い切って口を開いた。

「この前の木賃宿のことなんだけど……」

 途端に趙は苦虫を嚙み潰したような表情を見せた。

「聞きたいことはわかっているが、今はこんな風にリラックスしている時だ。またあとで話す。それでいいだろ?」

 マーは仕方なく頷いた。

 趙は窓を閉めて気持ちよさそうに目をつぶった。

 ボクはこの人をどういう形で知ったのだろうか。

 目をつぶったままの趙の横顔を見ながら、記憶が回復したあとで幼年時の記憶を思い出そうと、記憶喪失の頃よくしたように両手でこめかみをぎゅっと押さえてみた。

 暫く集中していると、だだっ広い原野のようなところが薄っすら浮かんだ。誰なのか、幼児が泣きじゃくっている。その声は大きくなったり、小さくなったりして原野に木霊している。

 男の人が泣きじゃくる幼児の傍に現れ、幼児を抱き上げてあやすようなポーズをしている。その男の人が趙さんだろうか。そして幼児がボクなのだろうか。そうだとすると、ボクは何故趙さんに抱かれているのか。暫くするとその心の映像はふっと消えて、大きな建物が映り始めた。一体何の建物なのだろうか。

 どれだけ時間が経ったのかわからない。そのうちに眠りに落ちていた。

 目を覚ますと、趙は隣で煙草をふかしている。

 マーが目覚めたのに気づき、趙は口を開いた。

「俺が誰かに追われていることを知りたいのだったな」

「ええ。何故追われているのかです」

 趙は窓から庭園を眺めながら言った。

「俺は人を殺したんだ」

「えっ、人を殺した?」

「ああ、それで追われている」

「だからもう俺と付き合うのは懲り懲りか?」

 それには直接答えず、声を落として尋ねた。

「一体誰を殺したんですか」

「愛人だ。結婚している男が奥さん以外につくる女のことを愛人という。尤もその女とは結婚したがな……」

「……何故殺したんですか」

「……俺を脅したからだ」

「殺したのはいつ頃ですか」

「そうさな、もう十五年くらい経つかな。何でそんなことが知りたいんだ?」

「いえ、人を殺したという人と話したのは初めてなもんでつい興味が……」

 十五年くらい前とすれば、ボクが二、三歳くらいの頃の話だ。だがそういった趙の記憶は全くない。

 趙はマーから目を離さなかった。

「どうするんだ。人を殺した人間に尻尾を巻いて退散するのか?」

「何があったのか知りませんが、趙さんが殺人を犯したことと、ボクが趙さんと付き合うかどうかは全く別のことですから……」

「……そうか。じゃあこれからも付き合ってくれるのだな?」

「ええ。でも殺人犯を追いかけるのは警察の人なのに宿に来た人は制服を着てなかった」

「そら刑事なんかは、制服なんか着ていないぞ」

「おじさん、捕まらないでね」

「大丈夫。あんな風にハジキ、いや拳銃を簡単にぶっ放すような奴が俺を捕まえるなんて出来る筈がない。発砲すれば台湾の警察が動いて、もし奴らの正体がバレたら、あいつらが自分で自分の首を絞めることになる。ヘタをすれば戦争が起こる」

 マーは驚いて趙を見た。

「戦争? それはどういうことですか」

 趙は笑みを浮かべた。

「いや、少し大袈裟な言い方をしてしまった。お前にはちと難しい中国と台湾の関係のことだ」

「中国は台湾を自分らの国のもので、ひとつの省に過ぎないと思っているんでしょ?」

「そうだ。よく知っているな。だから中国の警察が台湾に入り込んで、勝手に捜査をしているのがわかると、台湾の警察が怒るんだ。台湾にはちゃんと国家権力が存在して統治しているからな」

「それで戦争になると言ったんですね。じゃあ趙さんが人を殺したのは中国でなんだ」

 趙は頷いた。

「ということは、趙さんを追いかけているのは中国の公安部なんですか?」

「よく知っているな、公安部なんて」

「中国を治めている漢族はウイグル族や他の少数民族を弾圧している。公安部を使って……」

「お前も回族で少数民族のひとつだ。じゃあ、中国の政府や公安部を悪の権化と思い、憎んでいるということだな?」

「ええ。でも、ボクは政治的な活動はしたくありません」

「何故だ」

「ボクは痛めつけられている少数民族を助けたい。そのために働きたいんです」

「いい心掛けだ」

 趙はそう言って頷き、売店に行って炭酸飲料を二本買い求めて戻った。

「さあこれでも飲んで」

 趙はマーに瓶を手渡した。

「ありがとう」

 マーは喉の渇きを潤した。

 

 時々、玲やアンナから安否確認の電話が入った。マーは安全に暮らしていると半ば嘘を言い、その都度もう暫くはこの生活を続けると伝えた。

 マーが次に趙と会ったのは三日後だった。

 出会った場所はタイペイ中心街の裏通りを奥に入った飲み屋『大同』の二階だった。

 一階の飲み屋からは台湾の民謡が潰れかけたスピーカーから流れ、時々雑音が民謡に混じった。

 趙はこの店によく来るそうで、店の主人とは顔馴染みになっていた。

 部屋は欠けたガラス窓から冷気が入り込み、部屋全体としてはかなり温度が下がっていたが、部分暖房の小さなストーブがあり、二人はコタツに足を突っ込んでいた。

 趙は高粱酒をコップ飲みし、杯を重ねている。マーは趙の向かいでジュースを飲んだ。

 もう一つ趙に確かめたいことがあった。

 趙が一杯の高粱酒を飲み干し、美味そうにコップをコタツのテーブルに置いた時、尋ねてみた。

「趙さん、あとで殺すことになる女の人と結婚したって言ってたけど、その女の人との間に子供はいたの?」

 趙は酔った目でマーを見据えた。

「ああ」

「その子供はどうなったの?」

「施設に預けたさ」

「何ていう名前の施設か覚えてる?」

「甘粛省の天祝にある、確か天祝養育院だった。何故そんなことを聞く?」

「いや、何となく興味があるんだ、そんな話。子供は何歳だったの?」

「確か三つだった」

「子供は今どうしてるか知ってる?」

「預けたきり、それから一度も会ってない」

 趙はコップに高粱酒を注いだ。

「会いたいとは思わなかったの?」

 高粱酒を一気に飲み干し、趙は口を手で拭った。

「仕事で忙しかったからな。そのままになってしまった」

「もし機会があったら会ってみたいと思う?」

 趙は赤く充血した目をマーに注いだ。

「もう齢は十六かそこいらになっている。俺のことなんか記憶にない。忘れちまっているさ」

「施設に預ける時、子供はどんなだった? 泣いたかい?」

「ああ、長男は俺に抱きついて泣きじゃくった。だが次男坊は直ぐに施設の遊戯施設で遊びに夢中になってしまった」

「男の子二人なんだ。何という名前なの?」

「上がヨンフー、下がミンヤンだ。施設の定員があって、二人一緒に同じ施設に預けられなかったのさ。それぞれどんな育ち方をしたのか、そういう意味じゃもう一度会ってみたい気はするな」

「そうだろうね」

「だが、逃亡の身では何とも出来ない。それに一体何処でどうなったのかまるで見当がつかない」

 趙は酒をコップに注ぎ入れた。

「あんまり飲むと体に悪いよ」

 趙はマーを見つめて言った。

「もし息子に会ったら、俺にそんな優しい声を掛けてくれるんだろうかな……」

 そう言って趙はコップから酒を一気に飲み干した。

 階下から急いで階段を駆け上がって来る足音がした。店の主人だった。

 主人は趙の耳元で何かを伝え、趙が二階の窓の隙間から階下を覗き見た。

 向こう岸から来たらしい二人の男が店に入って酒を飲んでいるが、どうも警察らしい臭いを嗅いだので、主人がご注進に馳せ参じたのだった。

「あいつらの顔は知らん」

 趙が言うと、主人は安心した様子で階段を下りて行った。

 二人の男のうち一人は公安部長の劉が送り込んだ刺客の新部隊長・楊応州だった。楊は羅が顔を知らない若い世代の公安部員だが、勿論羅の顔は写真で知っている。

「何かあったんですか……」

 マーが尋ねた。

「この店は路地の奥にあって、しかもここは二階で窓がない。逃げようがないんで、親しくなった主人にもし俺が飲んでいる時に向こう岸、いや中国の警察らしい人物が店に現れたら知らせてくれと頼んでいるんだ」

「ああ、そういうことですか。警察から逃げ回るのってホント大変ですよね」

「えっ、お前も警察に追われたことがあるのか?」

 趙の赤目が注がれた。

「ええ、ボクも中国で公安警察に追い回されました」

 マーはその時、趙のリュックが開いているのに気づいた。何気なく中を覗くと、拳銃が見えた。黒くて重そうな銃だ。逃げ場はないが、気に入った店があり、気に入った主人が居れば、きっと酒がうまいんだろう。だから危険を冒してまで通う。そして何かあれば直ぐに撃てるように拳銃を一番手元に置いているのだ。

 マーは改めて逃亡者の趙の正体を記憶で辿ってみたい誘惑に駆られていた。


 趙と夜遅くまで店の二階で話し込んでいるうちにマーは眠り込んでいた。

 脳裏にだだっ広い原野が現れ、灰色の建物の前で大人と子供が手をつないでいる。灰色の建物の中から人が出て来て、大人と挨拶している。

 子供は泣き止まない。何故そんなに泣くのか。何故そんなに悲しいのか。

 その泣き声は大きくなったり、小さくなったりして原野に木霊している。

 大人は子供を抱き上げてあやしているが、子供は一向に泣き止む気配を見せない。

 そのうちに脳裏に展開した映像は消えて行った。

 目を覚ますと、傍らに酔いつぶれた趙が眠っていた。

 マーは趙が息子について話したことを反芻してみた。

 違う施設に預けられた二人の息子は違う反応を見せた。

 長男は趙に抱きついて泣きじゃくった。だが次男坊は直ぐに施設の遊戯施設で遊びに夢中になった。

 夢と記憶によれば、その長男がどうやらボクのようだ。しかし趙の話ではボクに弟がいることになる。ボクはアラとティラの一人っ子だ。兄弟が居て亡くなったとかそんな話は親から聞いたことがない。

 待てよ。玲さんらとトルファンの実家に行った時に医者の魏さんという人に出会った。その時はまだ記憶喪失状態で、古くからボクを知っている魏さんさえ何者かわからずに、魏さんに抱きつかれそうになってうろたえてしまったのを思い出す。その時に魏さんが、ボクが不幸の星の許に生まれたとか何とか言って、『預けられ……』っていう言葉を吐いた。その時は預けられるという意味がわからなかったけど、ボクが施設に預けられたという意味なら、趙の話と符合する。

 もしそうならば、趙がボクの父親という可能性が出て来る。

 マーは魏さんに連絡を取り、確認したいと思ったが、生憎連絡先を知らない。

 父さんか母さんに尋ねるのが近道だろうが、余程うまく聞き出さないと、両親の気分を損ねても嫌だ。

 しかし、ボクの記憶に引っかかっている趙さんの正体を知るためには、仕方がない。

 現状報告の傍ら、電話を入れて父母のどちらかに尋ねてみようと思った。

 ではどちらの方がいいのか。父親か、あるいは母親か。

 それは母親だろうと思った。ボクを産んだ人だから。

 ティラに電話を入れると、いつもの心配性が始まったが、久しぶりに息子の声を聴いて安心したのか機嫌は良くなった。

 が、マーが尋ねたいことを質問すると急に黙ってしまい、要領を得なかった。

 暫く待っていると、この話は父親も交えて会って話すのがいいから、翌日にでも家に来てくれということだった。

 翌日言われるままに出かけると、顔を合わせた途端から両親の表情は曇り、話しにくい雰囲気が流れた。

 改めて両親と向かい合わせに座り、思い切って話しかけた。

「昨日母さんに話しかけていたことだけど……」

 ティラに促されて父・アラが重い口を開いた。

「お前には今まで黙っていたことだ。昨日母さんと色んな話をして、お前にも本当のことを伝えた方がいいという結論に達した」

 父親の声がいつも以上にしわがれている。

 咳払いをしてアラが続けた。

「実はお前はある施設から預かった子なんだ」

『預かる……』すなわちボクからすれば『預けられていた……』。魏や趙と同じ言葉が父の口から出た。

「わたしらになかなか子供が出来ないので、魏さんに調べてもらったら、俺の精子が極端に少ないのが原因だとわかった。母さんはどうしても子供が欲しいという。その願いを叶えるため、隣の甘粛省の施設から子供をもらって来た。それがお前だ。ヨンフーという名前があったが、母さんが改めて回族の子として育てたいという希望があったので、この際と思いお前にグアンピンという新しい名前をつけさせてもらった」

 アラとティラはボクの本当の父母じゃなかった! 本当の親はボクを施設に預けた。そしてアラとティらが施設から養子としてボクを引き取り、今まで育ててくれたんだ。でも、二人は育ての親ということに変わりはない。マーは改めて、申し訳なさそうに下を向いている二人を見つめた。

「……そうだったの。でも、ボクを育ててくれて本当にありがとう。美人窟の菩薩さまに引き合わせてくれてありがとう」

 マーはこれからこの養父母とどう接してゆくのがいいのかを考えなければと思った。

「その甘粛省の施設の名前は?」

「天祝養育院だ」

 趙の言った施設と一致した。

「ボクは何歳の頃もらわれたの?」

「三歳の頃だ」

「ボクを施設に預けた人の名前は?」

「羅承基」

「よく覚えているね」

「そらそうだ。羅承基と言えば、ウイグル族を弾圧して止まない中国公安部のトップだった男と同じ姓名だ。忘れられる筈がない。しかし公安部長の羅は殺人犯として逃げ回っているとか。天罰が下ったんだ!」

「ボクがその羅の息子ということがわかっても、預かろうと思ってくれたの?」

 養父母は顔を見合わせた。

「新聞には羅に二人子供が居て、地方の施設に預けられているって出ていたし、お前が羅の子供だということは初めからわかっていた。羅はわたしらの人生を狂わせた極悪人だと今でも思っている。だけど、子供に罪はない。それにお前はもらいに行ったわたしらに笑顔を見せてなついてくれたんだ」

 ティラは三人の会話の最初から申し訳なさそうな表情を変えなかったが、マーの話になると大きく頷き、「本当に可愛かったんだよ」とマーを見つめた。

「わたしらはお前をとっても気に入り、連れ帰って一緒に暮らそうと決めたんだ」

 マーは養父母が自分を引き取ってからずっと愛してくれていて、今もそうだということがよくわかった。

 アラはさらに続けた。

「本当の親のことはお前に一切触れないようにしようと決めていた。でないと、お前の実の父親が回族のわたしらに対して行った許せない事柄をお前が知り、実の親を憎んだり、蔑んだりすることは忍びなかったからだ。そうならないために一切お前には告げないことがわたしらのためにも、お前のためにも一番いいことだと信じたのだ」

 アラの話を聞いて、養父母としての二人の立場がよく理解出来た。

「ありがとう。ボクのことを色々気にかけてくれて。この右脚が治るように、ボクを連れて何度も美人窟の菩薩さまに祈ってくれた。そしてボクはその同じ菩薩さまに失った記憶を回復してもらった。回復した記憶が本当の父親の存在を暗示し、ボクは真実を知りたいと思った。実際に実の父親らしい人物に出会って、その思いはますます強くなった。だから、きっと父さんと母さんを困らせることになるだろうと思いながらも、真実を知るためにこうして質問を投げかけることにしたんだ」

「ということは羅承基に出会ったのか? あの男はこの台湾に潜んでいるのか?」

「いや、まだそうはっきりとはしてないんだよ、母さん」

 マーは口を濁した。養父母を変に興奮させてはいけないと思ったからだ。

「真実がわかっても、わたしのことを母さんと呼んでくれるんだね」

 ティラの目から涙が溢れていた。

「当たり前だよ。ボクをこんなに大きく育ててくれたんだから」

 アラも涙を拭った。

「父さん、母さん。これからも今まで通りによろしくお願いします」

 マーは二人と手を握り合った。三人とも暫く涙が止まらなかったが、マーは弟のことが気になった。

「ボクに兄弟は居たの?」

「いや、お前は独り子だと施設で聞いたよ」

 しかし、趙は兄弟だと言った。弟のことは自分で調べなければ……。

 とにかく、これで間違いない。趙と名乗ってはいるが、本名は羅承基。趙はボクの本当の父親だ。そうなら、父はボクを産んでくれた母を殺したということになる。脅されたから殺したと言ったな。どういうことか。知りたいことがまだまだある。

 そう思いながらマーは両親の顔を改めて眺めた。

「父さん、母さん。言いづらいことを話してくれて本当にありがとう」

 母はマーに抱きついて激しく嗚咽した。父は母の背中を優しく擦っていた。


 マーは趙に会って、知った事実を突きつけてみようと思い、趙に会う約束を取り付けて、ウーライの温泉郷に向かった。

 いつものように風呂に入り、待合所で二人きりになった時、マーは切り出した。

「わかったことがあります。とても大切なことです」

「何だ、どうしたんだ……」

 マーの雰囲気がいつもと違うので、趙は何かを確かめるようにマーの顔を見つめた。

「趙さん、あなたはボクの父親です」

「……何を馬鹿なことを言っている! また何でそんなことを言い出すんだ……」

 趙は面食らって腕を組んだ。

 マーは趙から目を離さずに続けた。

「ボクが記憶喪失から回復して、幼児の頃の記憶までが戻って来たという話をしましたね。脳裏に広い原野が現れ、灰色の建物の前で大人と子供が手をつないでいるんです。灰色の建物の中から人が出て来て、大人と挨拶していました。子供はその大人と別れたくないのか泣き止もうとしない。大人は子供を抱き上げてあやし続けているんです」

 趙は最初マーが何を言い出したのか見当がつかなかったが、マーの話すことに耳を傾けているうちに、次第に自分自身の体験が蘇るのを感じ始めていた。

 あれからもう十四年の歳月が流れている。メイファンに脅されて彼女を殺し、息子らをそれぞれの施設に預けに行った。今マーが話しているのはヨンフーを預けに行った時のことのようだ。

 マーは話を続けた。

「今話した夢と言うのか記憶と言うのか、その話の中に出て来る大人と言うのは趙さん、あなたです。子供はボク、その時はヨンフーという名前でした」

 懐かしい響きの名前が趙の耳を捉えた。

「お前はいつ名前を変えたんだ?」

「ボクを施設からもらって育ててくれた養父母が付けてくれました」

 一旦席を外した趙は、しばらくして盆に高粱酒とジュースを載せて戻って来た。

「これを飲もう。喉が渇いただろ?」

 趙は高粱酒をグイと飲んで、ジュースを手にしたマーを見つめた。

「今俺の前に座っているお前がヨンフーなのか。いや、大きく立派になったなあ!」

 片腕を伸ばし、趙は握手しようとしている。

 コップに入ったジュースを盆に戻し、伸びた手を握った。温かいぬくもりが伝わって来た。

「まだ実感が湧かないけど、本当のお父さんの手だね」

「俺の本当の苗字は羅だ。羅承基だ」

 羅は両手で息子の手を握り、暫く見つめた。父の目から大粒の涙が溢れ出ていた。

「ボクには弟がいたんだよね」

「ああ、ミンヤンだ。あいつは貴州省にある施設に預けた。だが、あれから一度も会っていない。どうしているのだろうな」

「ここに母さんが居たらどんなにいいだろうな」

 マーはハッとして口を押えた。

 羅は下を向いてしまった。

 いずれ落ち着いたら母さんのことを聞いてみよう。マーは窓から広がる外の景色を眺めた。


 温泉から市内に帰るバスを待っている時に羅はマーの足元を見て尋ねた。

「お前はいつも右脚を引きずって歩いている。それはどうしたんだ?」

 マーは屈んで右脚を指で押さえながら言った。

「四歳の頃、暴走車に撥ねられたんだ。でも養父母がボクを連れて美人窟の菩薩にお百度を踏んでくれたので、お陰で記憶が戻った。そしてこうして父さんにも会うことが出来た」

 バスに乗り、市内の停留所でバスを降りた途端、羅が胸のホルスターにしまってある拳銃をいきなり引き抜いて両手で拳銃を握り、身構えた。

 その先にはこちらを見つめて間違いだと腕で何かを必死に否定する中年の男がいた。

「おい李! 俺ならお前独りで逮捕できるとでも思っているのか!」

 李と呼ばれた男は「待ってください!」と羅に頼んで両手を挙げて羅に視線を向けていた。

「何だ、両手を挙げよって……」

「羅部長、お許しください!」

 李は舗道に座り、羅の前で土下座をした。

 羅は拳銃を身構えた姿勢を少し緩め、李を立ち上がらせて、拳銃を持っていないかどうかボディ・チェックをした。

「何だ、どうしたんだ、拳銃は? 李!」

 弾んでいた息を静めながら李が言った。

「拳銃は今日は家に置いて来ました。羅部長にお会いするのに拳銃なんか要りません。先ほど本庁に辞表を出しました。わたしはもう公安部の人間ではありません」

 羅は首を傾げた。

「一体どうしたと言うんだ?」

 羅はようやく拳銃をホルスターに戻した。    

 昔の部下であり、公安部を辞めたという李を飲食に誘い、羅はマーと三人でくだんの居酒屋・大同に足を運んだ。

 いつもの二階部屋に三人で落ち着いた。

「李君。俺は今や君の上司でも部長でも何でもないぞ。俺を部長というのはよしてくれ」

「いや、昔お仕えして来ましたのでね、未だに口癖になっていまして、お顔を見れば直ぐに出ちゃうんですよ」

 二人は楽しそうに笑った。

 マーは父がウイグル族の弾圧の先頭に立っている公安部長だったことがわかり、決していい気分はしなかった。いくら立場上とは言え、あの優しい養父母の逮捕に動いた立場の人間だ。もしもマーが政治的な活動を志向する人間だったら、巡り合ったばかりの父親であっても絶交するか、刺し違えたかも知れない。

 しかし、今や父親は公安部長を解任され、殺人犯として逃亡中の身だ。そういう意味では政治的に父に対してそんなに大きなわだかまりはない。

 ただ、父が母を殺したことについてはまだ父としっかりと話していないから何とも言えないところが残っている。マーは母について父に果たしてどういう態度をとることになるのか、不安ではあった。

 当の羅は大好物の高粱酒をコップで飲み、李はビールを楽しんでいた。

 階下から主人が駆け足で階段を駆け上がって来た。

 一瞬羅がリュックの中にあるホルスターの拳銃に手を掛けて身構えた。

 主人が羅の耳元で囁いた。

 李は、どうしたのかと羅に尋ね、羅は一緒に階下で飲んでいる男が公安の人間かどうか確認してくれと李に頼んだ。

 二階から階下の客を見下ろして、主人が問題とする男を指差した。羅にはわからなかったが、李は頷いて羅に耳打ちした。

「あいつはわたしの後釜で部長を追っている楊応州という男です。若いが優秀な捜査員で、部隊長に抜擢されています。あの男には気をつけてください。部長を存じ上げない分、わたしのようには参りませんから……」

 羅はもう一度楊の雁首を見つめた。

「まあ、わたしの部下がしでかした発砲事件でこちらの警察が捜査に乗り出していますのでそう簡単に楊も動けないとは思いますがね」

 李はそう付け加えた。

 羅はコップになみなみと高粱酒を注ぎ、コップの口に唇をつけてこぼれそうな分を吸った。


 マーは殺された母親のことが気になっていた。記憶を呼び起こそうと心の中で菩薩さまを拝み、こめかみを両手で押さえながら瞑想してみた。

 薄暗い室内に顔のわからない女性に抱かれた乳飲み子のような子供が見える。女性は子供をあやしながら一生懸命に子供に話しかけている。子供は女性の肌の温もりを全身に感じている。脳裏にはそれとは別の映像が展開し、女性は胸に一人の子を、もう一人を背中に負ぶって舗道を歩いている。また別の映像が回り始め、遊戯施設のようなところでコーヒーカップがグルグル回り、子供は女性にしがみ付いて声を上げている。

 のっぺらぼうの女性は母で、子供はボクと弟だろう。しかし、父親の姿はそこにない。

 瞑想から戻ったマーは翌日羅に連絡し、いつものウーライ温泉郷で会う約束をした。

 待合室で羅はリュックの中から何かを取り出してマーに手渡した。小さな箱と手紙のようなものがビニール袋に入っている。

「桐箱を開けてみろ」

 マーはビニール袋から箱を取り出し、蓋を開けた。

「何だい、これ……乾いたミミズの切れ端みたい。気味が悪いな」

「お前とミンヤンのへその緒だ。母さんが大事に引き出しにしまい込んでいたのを、家を処分する時に見つけたんだ」

「ずっと持ち歩いていたの?」

「ああ」

 マーはへその緒をじっと見つめた。

「この手紙は?」

「母さんは妊娠した頃、中国語のわかる日本人の知り合いの女性とメールのやりとりをしていたらしい。日本から送られて来たメールにへその緒のことが書かれている。読んでみろ。プリントアウトしたメールに赤い線が引かれているところだ」

 マーはメールを受け取って読んだ。

『中国と違って日本ではへその緒は非常に大切にします。赤ちゃんと母親を繋いだ実物を保存して記念にするのです』

「母さんはその日本人の言葉に納得して自分の産んだ子供の記念にと残しておいたんだと思う」

 マーは羅の言葉に咬み付いた。

「でも、どうして母さんを殺しておいて、母さんが大切に保存していたへその緒をボクに渡すの?」

 羅は答えに逡巡している様子だったが、息子の疑問にこう答えた。

「へその緒を見つけた限りは捨てるのは簡単かも知れないが、お前たち兄弟を大切にし、愛していたという母さんの気持ちを少しでもお前たちに伝えておくのが父さんの義務だと思ったからだ」

「ふうん。そんなものかね」

 マーは箱の蓋を閉じて、箱とメールをプリントアウトした紙をビニール袋に戻した。

「ミンヤンの分もボクが預かっておく」

「そうしてくれ」

「ミンヤンの居場所はわからないんだね?」

「ああ」

「ボクが捜してみるよ。わからないかも知れないけど……」

 マーは羅の表情を探った上で、母親のことを切り出した。

「母さんのことだけど、聞いてもいい?」

 羅は一瞬目を逸らせて、二拍ほど置いてから絞り出すように言った。

「……ああ」

 父は母のことに触れられたくないのが明らかだ。そらそうだろう。でも、聞かなくっちゃ。

 羅は殺人を犯して逃亡していると最初に告白した時、自分の犯した二件の殺人のうちマーの母親を殺した方を口にしてしまったのを今更ながら後悔していた。もしもあの時、親子とわかっていたら、きっと隠し通したと思う。自分が殺し屋を殺した方ならば、親子とわかってからでも何とか言い逃れが出来たのに、実の母親を殺したと告白してしまったのだからもう逃れられない。

 下を向いて押し黙っている父の横顔を眺めながら、マーは尋ねた。

「母さんの名前は?」

「メイファン(美帆)だ」

「メイファン……メイファン……。綺麗な名だね」

「脅されたので殺したと言ったけど、母さんは何と言って父さんを脅したの?」

 羅は観念し、話さなくてはならないと思った。

「喉が渇いた。酒を買って来る」

 羅が立とうとしたら、マーが引き止めた。

「素面のままで話してよ」

 羅はゆっくりと腰を掛けて、座り直し、話し始めた。

「前にも言ったと思うが、正式な妻と娘がいたのに、父さんはメイファンが好きになり、男女の関係になった。そしてお前とミンヤンがメイファンのお腹に宿った。父さんは両方の家を掛け持ちする二重生活を強いられた。まあ、これは自分が蒔いた種だ。そのことをメイファンに知られてしまい、正式な妻と離婚するように迫られた。それだけならまだしも、父さんは公安部長という重要な職に就いていた。党の重要な職にある人間が愛人を作るっていうのは大きな罪になる。メイファンはそのことを党に知らせよう、すなわち告発すると言って脅した。父さんはどうしようもなくなって……」

 離婚だけではなく、次には多額の慰謝料を要求され、不倫を告発して俺からあらゆるものを奪い去るつもりではないかと恐怖に駆られたため殺す決意をしたというのは伏せた。

 少しでもメイファンの名誉を子供に対して守ってやりたいという気持ちから発したことだった。

「どんな方法で母さんを殺したの?」

 どこまで聞いたら気が済むんだ! 羅は息子の追及に腹立たしさを覚えた。

「人を雇って殺してもらったんだよ」

「自分の手は汚さなかったってわけ?」

 羅は息子の言葉に卑怯者という非難のニュアンスを感じ、胸が痛んだ。

「……いや、父さんは脅されたので……何もかも奪われてしまうと思ったので……」

 羅は思わず椅子から立ち上がった。体が打ち震えている。

 羅は何とか対面を保ち、自分を繕おうとしたが、それがどうしても出来ない歯がゆさに顔を歪めていた。

「もういいよ。もうたくさん!」

 マーは叫び、下を向いて顔を両手で覆った。羅は言いようのない恥ずかしさで目を白黒させた。

「父さんが母さんを殺すなんて! いくら言い訳を聞いても、もう母さんは二度と生き返って来ない……」

 顔を覆ったまま口籠って言った。

 羅は息子にかける言葉を失い、呆然として立ち尽くしていた。

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