28. イジワル


 ピンポーン。

 誰か来た。夕食準備のまっただ中に。


 さっき、不思議な夢から覚めたあと、私は、つかの間ぼんやりしていた。けれど、ぼやけてしまった面影の輪郭は、そのまま、霧の中に消えて戻っては来なかった。

 ふと気づくと、時計の針は、そろそろ夕食の下ごしらえにかかった方がいい時間を指していた。デジタルと違って、アナログ時計だと、残り時間があとどれくらいかを計算しやすい。なので、私は、ずっとアナログ派だ。


 洗濯は、屋根の下の洗濯室に干していたので、なんとか濡れずにすんで助かったなあ、などと思いながら、今は、夕食準備に励んでいるところなのだ。

 

 しかたない。手を止めて、インターホンの画面を見ると、映っていたのは、尾野先輩だ。

「こんにちは~」

 画面の向こうで、にこやかに手を振っている。

 薄茶の瞳をきらきらさせている先輩は、なんだかすごくゴキゲンな様子だ。

 慌てて、通話ボタンを押す。

「先輩? え? どうされたんですか?」

「偶然、こちらのほうに用事があってね。それで、この前お借りした服返しに来たよ」

「え、わざわざ? こんな遠くまで?」

「わざわざじゃないよ。用事のついで」

「あ。とりあえず、玄関行きますね。ちょっと待ってて下さいね」

「うん。ありがと」

 

 玄関を開けると、薄いブルーのシャツに少しラフな雰囲気のジャケット姿で、尾野先輩が、2つの袋を差し出してきた。

「こっちがね。この前借りたシャツとジャージ。貸してくれた彼にほんとにありがとうって伝えてね。ささやかなお礼に、美味しいおせんべい添えたんだけど、彼、食べてくれるかな?」

「はい。たぶん。」

 ナオトは、ケーキとかより、たぶん、おせんべいの方が好きだろう。

「で、こちらは、野々原さんの分」

「あ。ありがとうございます」

 差し出された袋を見ると、『埼玉 深谷ねぎ 味噌せんべい』と書いてある。

「あれ? 先輩、埼玉に行ってはったんですか?」

「ううん。デパ地下で、全国の名産お土産コーナーがあってね。前に食べたとき、すっごく美味しかったの、思い出して」

 おせんべいを見ている笑顔が、自信たっぷりだ。その表情から察するに、ほんとにかなり美味しいおせんべいだという気がする。


「あ、先輩、あがってお茶でもどうですか?」

「いいの? ここ、野々原さんの職場だし、いいのかな?」

「う~ん。そうですけど、今、夕食準備中なので、自分の家の方に行ってる時間なくて……」

「じゃあ、もう失礼するよ。邪魔しちゃ悪いから」

 先輩の笑顔の向こうに、わずかにしょんぼりした雰囲気が漂う。

「え、でも、せっかく来てくださったのに」

 せっかくなので、もっと話したい気がする。前に、一緒に泥まみれになったあの日から、なんとなく、先輩との距離はぐっと縮まったように思える。前は、話すときはいつも緊張して、ドキドキしていたのに、今は、安心して気安く話せるようになってきた気がする。


「お料理しながらでもよかったら、キッチンのテーブルのところで、おしゃべりするのはどうですか?」

 提案すると、先輩の顔が一気に、溢れるような笑顔になった。

「いいの? やった!」

 なんとなく、最近の先輩は、会社で一緒に仕事をしていたときと違って、人懐こい大型犬みたいな、どこか可愛い感じだ。

 そういえば、ヒロヤは、豆柴? チワワ? なんてことを一瞬思ってしまう。


「ねえ。ちょっとぐらい手伝うよ」

 キッチンテーブルで、お茶を飲みながら、先輩が言う。

「いえいえ。これは、私のお仕事なので。先輩は気にせず、しっかりお茶飲んで、話しててください」

「はい。……しっかりお茶飲みます」

 先輩が、笑いながら言った。

「あ。しっかり、じゃなくて、ゆっくり、ですね」

 私も笑いながら、訂正を入れる。

 先輩が、目を細めながら、

「なんか……野々原さん、会社にいたときと同じ、テキパキした雰囲気だね」

「え? そうですか?」

 茹でたジャガイモをつぶしながら、応える。

 今日のメインは、コロッケにするつもりだ。中身に、コーンや人参、ブロッコリーなどのいろんな野菜や、ベーコン、チーズなどをうめこんだ小さめサイズのものをいっぱい作って、どれがあたるかお楽しみ、にしようかな、などと考えている。

 食べているみんなの顔が頭に浮かんで、思わず笑ってしまう。

 

 そんな私の手元を見ながら、先輩が言う。

「うん。あの頃も、仕事してるとき、いつもアイデアに溢れてて、いろんな工夫をするのが楽しくて、どうやったら、仕事がスムーズに行くかも、よく考えてて。俺、野々原さんのこと、すごくいい仕事する人だな、って思ってた」

「わあ。どうしましょう。そんなふうに言ってもらえて、すごく光栄です。でも、光栄すぎて、もったいないですよ。私は、いつも、先輩の足を引っ張らないように、なんとかして、ちゃんとお仕事引き継げるように、ってギリギリいっぱいだっただけなので」


 先輩は、くちびるの両端をあげて、ゆっくりほほ笑むと、静かに首を振った。

「俺は、君の仕事、すごく評価してたよ。もちろん、経験不足はあっても、それ以上に、心配りが細やかな、気持ちのいい仕事をするひとだなって……だから」

 言葉を切って、先輩が、真っ直ぐに私を見た。

「だから。もう一度……戻ってこない?」

「戻るって……?」

「会社に。僕の部署で、中途採用の社員募集してるんだ。もう一度、一緒に働かない?」

 ほんの一瞬、心に大きな揺れが起きた。

 もう一度、一緒に働く。先輩のそばで。

 それは、あの頃の私が、心から願っていたことだ。

 でも。


 もう一度。あの場所へ。

(君なら、即戦力だし、お給料も、前に勤めていたときのことも考慮して、さらにアップできると思うし。考えておいてくれる? 今すぐじゃなくていいよ。ちゃんと考えて。でも、できるだけ早めに、返事もらえると嬉しいな)

 先輩はそう言って、帰って行ったけれど。


 その場で先輩の顔が曇るのを見たくなくて、「考えておきます」とは言ったものの、私には、もうあの場所に戻る元気は湧いてこなかった。

「一晩考えたけど、やっぱりムリです」と明日にでも電話しよう。

 そう考えると、気持ちが落ち着いた。


 コロッケに入れる、人参やブロッコリーを小さ目に切って、レンジにかける。

 私は、今の仕事が、気に入っている。誰かに、嫌がらせされたり、陰口を言われたりすることもない。自分のペースで、自分のアイデアで色々工夫して動ける今の仕事がいい。

 小さなコロッケに、それぞれ違う具材を仕込み、衣をつけて、大きめのバットに並べる。一応、今の段階では、どのコロッケに何が入っているかはわかるけど、揚げてしまえば、どれがどれかはわからない。

 野菜嫌いのヒロヤには、いっぱい野菜のがあたりますように……そう思って、ふと笑いがこみ上げる。人参やブロッコリーのばかりあたって、ぼやいている彼の顔が浮かぶ。ふふふ。

――――私は、ちょっとイジワルだ。

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