14.言えなくて。
帰って行く彼の車を見送って、自分の部屋に入る。
何から思い出せばいいのかわからないくらい、頭の中は混乱している。めちゃくちゃ嬉しいような、信じられないような。
その晩は、夢うつつのまま、お風呂をすませると、そのまま、ベッドに直行した。
明日起きたら、全部夢なのかもしれない。というか、今この瞬間も、長い夢を見ているのかもしれない、と思った。
翌日。昨日のことは夢かもしれない、そう思いながら出勤したら、駅で彼に出会った。
「おはよ。待ってたよ。一緒に行こう」
びっくりした顔の私に、彼は、
「どうした? 何かあった?」
「いえ、……夢かと思ってたので」
彼は笑って、
「夢じゃないよ。……何を言ってるんだか」
2人で、他愛もない話をしながら歩く。
ただ一緒にいられる時間が嬉しい。もうあと少しの時間しか残されていなくても。
ところが。
単純に喜んでいる場合じゃなかったのである。
彼は、自分の仕事を引き継ぐ相手として、私を指名したのだ。確かに、今、一番手が空いているのは、私だったというのもある。でも、まさか、私が、彼の仕事を引き継いでやることになろうとは。
(む、無理)
心の中で、叫んだけど。
「いや、そろそろ、仕事の幅を広げてもいいよね。大丈夫。野々原さんなら、やれるよ」
課長があっさりそう言って、他のスタッフも、ニッコリうなずいて。
「アメリカへ行くまでの間、しっかり引き継ぎするから、大丈夫」
彼も、ニッコリ笑って。
一緒に仕事をするようになってわかったことは、意外に、彼は厳しいってことだった。いつも笑顔で仕事していて、穏やかで優しいイメージだったけど、実際、その仕事に隙はなくて、驚くほど手際がよかった。だから、同じようにこなそうとするとけっこうきついのだった。
でも――――全部、覚えておこうと思った。一つ一つの仕事のしかたも。その笑顔も。ため息も。全部。だから、必死だった。
――――そう。ほんとに必死だった。
限られた時間の中で、精一杯、全力疾走するような日々だった。でも、幸せだった。仕事は、手応えがあったし、先輩のそばにいられる時間は、たとえ、仕事であっても、誰よりもそばにいられる、最高に贅沢な時間だったから。
帰りは、最寄り駅より少し先にとめている彼の車で、家まで送ってもらうこともあった。彼は、私を送り届けると、「おやすみ」と笑顔で手を振って帰って行く。
一度、帰る途中の車の中で、ラジオから、中島みゆきの「霧に走る」という歌が流れてきたことがあった。その中で、『寄っていってと もう何度も 心の中では 話しかけてる』というフレーズがあって、びっくりした。あまりにも同じ気持ちだったから。
この歌のヒロインは、自分を家まで送ってくれている途中の、運転席にいる彼の心が、霧の中にいるように感じて、だから、あと少しで家に着くけど、ほんとはもっとそばにいたい気持ちを口にできずにいる。そばにいたいけれど、それを言えない切なさ。
言えないのは、勇気がたりないから? それとも、彼の気持ちがつかみきれないから?
寄っていって。私も言いたかったけど、どうしても言えなかった。
夜に一人暮らしの自分の部屋に、彼を誘うって、どうなん? って思ってしまう自分もいるし。
たぶん、断られても、寄ってく、と言われても、めちゃくちゃ困惑してしまいそうな自分が、容易に想像できるから。
だから、ただ黙って、その歌を聴いていた。彼も黙って聴いていた。
歌が終わったとき、泣きそうな気持ちになっている私の手に、彼はそっと自分の手を重ねて、ほほ笑んだ。くちびるの両端をそっとあげて、とろけるようにほほ笑む、いつもの笑顔だ。
優しい笑顔に、何も言えなくて、私はただほほ笑み返した。
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