16. 買い占め?
「なんかあった? ため息ついて」
後ろから声がした。びっくりして、私が振り向くと、目の前に立っていたのは、ヒロヤだった。
「え? そっちこそ、どうしたん? なんかあった?」
「いや。ちょっと忘れ物。出張ついでに、取りに戻った」
ヒロヤが、手に持った茶封筒を軽く振ってみせる。
「え、言ってくれたら、届けるのに」
「自転車で?」
「うん」
「ふふ。ありがたいけど、それは、ちょっと時間かかるな。それに、どこに置いてるのか、ちょっとわかりにくかったしね」
「そっか。車で戻ってきたん?」
「うん」
彼らは、この下宿屋から全員そろって車で最寄り駅まで出かけ、車を駅前駐車場において、電車に乗り換え、それぞれの職場や学校まで行くのだ。
「じゃ。また、行ってくるわ」
そう言うと、玄関の方へ歩き出した。かと思うと、
「あ。忘れるところやった。これ」
そう言って、私に差し出したのは、駅前のベーカリーの袋だった。
「カヌレ。いつもタイミングがあわへんって言うてたやろ」
そのベーカリーのカヌレは、私の一番のお気に入りで、しかも、私以外にも、お気に入りの人が多いらしく、いつも売り切れている。なかなか買えないとぼやいていたのを覚えていたらしい。
「ありがとう! ここの最高。シンプルで、大きさもちょうどよくて」
「買い占めてきた」
ちょっと得意そうにヒロヤが言う。そして、急いで付け足す。
「いうても……3コやけど」
「ふふふ」
顔を見合わせて笑う。なんだかほかほかした気持ちになる。嬉しくて、私はカヌレの袋をそっと胸に抱える。
それにしても、彼はいつも、まるでどこかで見ていたみたいに、タイミングよく私の気持ちをホッとさせてくれる。ありがたいな。素直にそう思う。
「じゃあ。今度こそ、ちゃんと行ってきます」
そう言いながら、ヒロヤが鼻の頭を軽く人差し指でこする。テレているときによくやる仕草。
「はい。行ってらっしゃい。お気をつけて」
袋を抱えて、家の前にとまっている車のそばまで行って、見送る。
「ありがとう!」
「じゃあ。行ってくる。無理せんと、休憩しっかりとりや」
「うん。ありがと」
手を振って見送る。
ヒロヤの運転する車は、田んぼと畑の間の道を抜けて、小さな御陵の横を曲がって見えなくなる。
手に持ったカヌレの袋は、なんだかほんのり温かい。
(よし。休憩しよう。美味しい紅茶でもいれて、カヌレ食べながら晩ご飯のメニュー考えよう。今日は、ちょっと手の込んだもの作ってみるのもいいな)
私の気持ちは、ゆっくりとほどけていく。
過去は過去。今の自分の過ごす時間を大切にしよう。
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