21. どろどろ……
幸い、落ちたのが田んぼの隅っこだったので、植えられたばかりの稲をつぶしてしまうことはなかった。でも、私たちは2人とも、みごとに泥だらけになってしまった。
「どろどろ……」 先輩が小さい声でつぶやく。
「ごめんなさい!」
「いや、こっちこそ。それより、早く立たなくちゃ」
「あ。ほんま」
ふたりで、お互いを支え合いながら立ち上がる。
「あ。しまった。手がどろどろだから、つかんだせいで、無事なところまで、どろどろに」
先輩が、少し情けない顔になる。
「ぶふっ」
先輩の顔を見ていると、思わず笑ってしまった。
「あ。笑ったな~」
先輩も笑い出した。どろどろの手を服で拭きながら、
「ところで、結局、何さがしてたの?」 不思議そうにいった。
「あ。すっかり忘れてました。カエルです。カエル」
「えっ!」
「好きなんです。アマガエル」
「たぶん、さっき、ぴょ~んと跳んでた子です」
「……」
先輩の顔がかたまっている。
「……もしかして、カエル、苦手ですか?」
黙って、こきざみにうなずいている。
「……む、虫とか平気なタイプ?」
先輩が恐る恐る言う。
「いえいえ。全然平気じゃないですよ。どっちかって言うと苦手です。あ、でも、カエルは虫じゃなくて、両生類、」
言いかけて、ふと見ると、私たちのすぐ近くに、緑色のその子がいるのが目に入った。先輩の気づかないうちに、急いでここを離れよう。ほんとはゆっくりこの子の相手をしたいところだけど。
「先輩、とにかく、この格好のままでは何ですから、うちに来てください。泥を落として、着替えしましょう」
「そ、そうだね」
先輩が、私の自転車を押して、2人で並んで田んぼの間の舗装道路を歩く。
「なんか、カッコ悪いな……」
先輩がつぶやく。きれいな形の鼻の頭に、どろがこびりついている。さらさらの髪もあちこちにどろのかたまりがくっついている。
「そんなことないですよ。申し訳ないですけど、私は逆に、ちょっと嬉しいです。先輩の違う一面発見!って」
「……情けないだろ」
「いいえ~。いつもパーフェクトに仕事ができて、頼もしくてカッコよくて、怖いものなんて何にもなくて、笑顔でどんなことでもスマートに乗り越える人、って思ってたけど」
「……がっかり?」
「いや、なんか、可愛いところもあるんだな、って。あ。ごめんなさい。可愛い、なんて失礼なこと言って」
「いや。いいよ。俺ね……子どもの頃から、虫とか苦手でさ、ゴキブリとかみると、飛び上がって逃げるか、その部屋封鎖して入らないようにするとか、してしまう方で」
「苦手なのは虫だけ?」
「いや、他の動物もやばいのある。例えば、サル。子どもの頃に、肩に乗られたことがあって、め~っちゃこわくて、『取って~取って~』って泣いてるのに、みんな笑って取ってくれなくってさ。トラウマになった。この子はひとに慣れてる子だから大丈夫、って言われても。……俺は慣れてない、ってば」
ぼやいている先輩が、可愛くて私はついつい笑ってしまう。
「じゃあ、動物園への遠足は……」
「オリの向こうから出てこないやつは大丈夫」
「なるほど」
そんな話をしているうちに、私の家に着いた。家の前に、白い車が止まっている。先輩の車だ。
とりあえず、裏庭の水道のホースを使って、おおまかな泥を落とす。
そのあと、裏口を開けて、そこから最短コースで、先輩をお風呂に案内する。
「とにかく、しっかりシャワーして、どろを全部落としてくださいね。タオル、ここ置いときます」
「着替えは……適当に見つくろってきますから」
「うん。わかった、ありがとう」
先輩は、申し訳なさそうな顔で、脱衣所に入っていった。
私は、自分も泥を落としたびしょ濡れの服を脱いで、いそいでTシャツとハーフパンツに着替える。
さて。先輩の着替えになりそうなもの……あったっけ。
ドラマなんかでよくあるのは、こんなとき、女子が彼のシャツやジャージを借りてオーバーサイズで着る、というシーン。でも、その逆パターンはあまり見たことない気がする。
先輩はスリムだけど、さすがに、肩幅とか、私と体格が違う。父は遠い昔に亡くなっているので、さすがに、タンスの奥にも残っている男性用の服はない。
となると。比較的大柄だった母親の服か。母の部屋のクローゼットを開けてみる。
使っていない袋に入ったままのTシャツとハーフパンツがある。どちらもLサイズだし、Mサイズの私のものよりは、大丈夫かも?
よしよし。これでなんとか。
そう思ってからハッとする。
下着。下着はさすがに、むり。う~ん。
ドラマでも、彼女が借りるのは、シャツとジャージくらいで、下着のことには言及されていない。
(う~ん。みんな、一体、どうしてるんだ? でも、下着なしで、服着るのいやだよね、きっと)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます