18. 来訪者
門を通りぬけて、中に入る。荷物が重いので、キッチンの裏口の方まで、自転車を押していく。
カギを開けて中に入り、手を洗ってから、買ってきたものを冷蔵庫の中に入れる。頭の中で、メニューを組み立てながら、取り出しやすいように整理して入れ終えたとき、玄関のベルが鳴った。
ピンポーン。
(珍しい)
基本、うちにもうちの隣のこの下宿屋にも、来訪客は、まず、ない。
(誰? ってか、何用? 新聞のセールス?)
そう思って、ハッと気づく。
(そや。視線。さっきの。……もしかしたら、後をつけられてた?)
のんきなもので、田んぼや畑や御陵の緑を眺めながら、自転車でのんびり走って家に帰ってくるうちに、さっきスーパーで感じた視線のことを、すっかり私は忘れていた。
ピンポーン。もう一度ベルが鳴る。キッチンの壁に取り付けられたモニターのところへ行く。そして、恐る恐る、来訪者を映し出すモニターを覗く。
「え?! うそっ! なんで?」
モニターに映っていたのは――――尾野先輩だった。
「せ、先輩っ!」
(なんで? どうして? ここに?)
そんな疑問はさておき、私は、慌てて廊下を走って、玄関に向かう。つっかけを履くのももどかしく、つまづきそうになりながら、引き戸を開けると。
そこに、尾野先輩が立っていた。
見慣れたスーツ姿ではなく、少しラフな雰囲気のシャツにジーンズ姿で。
「久しぶり。……元気だった?」
くちびるの両端をそっとあげて、とろけるようにほほ笑む、いつもの尾野先輩の笑顔だ。
「せ、先輩……」
がっかりさせたまま、ちゃんと話もしないまま、別れた先輩が、今、目の前にいる。嬉しいような、申し訳ないような、自分でもどうしたらいいのかわからない思いが胸の中を駆け巡って、上手く言葉が出てこない。
「……ずっと、心配してた。ほんとはもっと早く会いに来たかったけど」
「……」
「……ごめんね。一番つらいときに、そばにいてあげられなくて。ひとりにしてごめん」
先輩の瞳が、揺れる。私は、やっとの思いで、言葉を絞り出す。
「……先輩が、悪いんじゃないです。私が、ただただ力不足で、がんばり続けられなかっただけ、です。先輩だって、アメリカで大変な思いしてがんばってたのに、私は……根性なしで、逃げてしまって」
「ちがう。俺が、もっと気遣うべきだった。自分のことでいっぱいいっぱいになってしまって、君の気持ちを支えることができなくて。ほんとに……ごめん」
「私こそ、せっかくお仕事、教えてもらったのに、ちゃんとできないまま、逃げてしまって……ごめんなさい」
「いや、俺の方こそ、ごめん……」
ごめんねの応酬が何往復もするうちに、次第に、私も先輩も、お互い笑い出してしまった。
「もう。先輩、『ごめんね』は十分ですよ」
「うん。そうだね。もう『ごめんね』はやめよう。それより、これからの話をしよう」
先輩の、薄茶のきれいな瞳に明るい輝きが戻る。ゆったりした笑顔で、先輩が続ける。
「やっと日本に戻ってこれたから。当分、海外に行くことはないから……また、会いに来ても、いいかな?」
少し遠慮がちに、先輩が言った。
「あ……えっと、はい」
私も、少しためらいながら答える。
「よかった。じゃあ、今日は、これで帰るよ。また来るね」
先輩は、にっこり笑った。
「あ、ごめんなさい。お茶も出さずに立ち話で。あの、よかったら、上がっていって下さい」
「いや。一応、ここは君の勤務先だし。遠慮しとく。さっきスーパーで、君が楽しそうに買い物してる姿を見て、元気にやってるってわかってホッとしたから。今日はそれで十分」
「え? あの。じゃあ。スーパーで、視線感じたのって」
「え? 視線、感じたの?」
「はい。なんとなく」
「そっか……ごめん。実は、坂下さんに頼み込んで、ここの住所教えてもらって、車で来てみたんだ。会えるかどうかわからなかったけど。そしたら、ここに来る途中、ちょうど自転車をスーパーの駐輪場にとめてる君を見かけて。めちゃくちゃ嬉しくて、思わず……ストーカーだよな。まるで」
すこしバツが悪そうに先輩が言った。
そうか。情報源は、あいりか。あいりは、先輩がもっと早く帰ってきていれば、私が仕事を辞めずにすんだのに、とすごく残念がっていたから。
「ついでに言うと、さっき、御陵の横で、君を追い越した白い車、アレも俺」
「あ」
「ゆっくり走ってみたけど、全然気づいてくれなくて」
先輩がちょっと恨めしそうな顔をした。
「まさか、こんなところで、先輩の車が走ってるなんて、夢にも思いませんよ」
「……だよね」
「でも、これからは、ちゃんと気をつけて見ることにします。とにかく、今日は、お会いできて、すごく嬉しかったです。ちゃんとごめんなさいも言えたし」
「俺も、会えてすごく嬉しかった」
先輩が、私の肩を包むように、そっと腕を回した。
「ありがとう。……元気でいてくれて。会えて嬉しかった」
「じゃあね」
ほほ笑みながら、そっと腕をほどくと、先輩は、門の向こうにとめた車に向かって歩いて行った。
白い車はゆっくりと走り出し、窓から、先輩が軽く手を振るのが見えた。私も手を振り返す。
車が御陵の向こうに見えなくなって、私は家の中に入った。
心の中が、ほっと穏やかな空気で満たされる。せっかく教えてもらった仕事を投げ出して逃げてしまったこと。ちゃんと話もしないまま、さよならしてしまったこと。
ずっと言えずにいたごめんなさいを、今日やっと、きちんと言えた。そのことが、何より、嬉しくて。
また来るよ。
先輩はそう言ったけど。きっと、彼も今頃、同じように、言いそびれたごめんを言えて、ホッとしているんだろうな。『ごめんね』をお互いに、直接伝えられたから、お互い、やっとこれで新しいスタートが切れる。……そんな気がして、私の心は、少し軽くなった。
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