森の捻くれ者は恋を厭う

 カルメの自宅は、村から少し離れたところにある湖の近くにある。

 森に囲まれたその場所は、生活するのに少々不便であったが、湖が特に好きで他者から距離をとりたいカルメにとっては都合のいい場所だった。

 太陽がさんさんと降り注ぐ温かな朝、カルメは花壇の花に水やりをしていた。

 丁寧に作られた花壇の中で、赤や白、黄色の、色とりどりな花たちが咲き誇っている。

 そこには花弁が大きなものや小さなもの、一見、葉のように見えるものや動物のように開閉する口のようなものが付いているものなど様々な花があって、カルメはその全てに等しい愛情を注いでいる。

 鼻歌を歌って、微笑んで、

「今日も綺麗だな」

 と、優しい言葉をかけてやる。

 そうして育ててやると花は胸を張って自信満々に咲いてくれる、一際美しくなってくれるのだ、と誰かから聞いて以来、カルメは毎日欠かさず、花に話しかけた。

 何より、自分が育てた花が楽しそうに揺れているのを見ると、話しかけずにはいられなかった。

 花々に水を与え終わると、ジョウロを足元において、

「ごめんな」

 と、謝りつつ花壇に生えた雑草を摘んだ。

 そしてそれを、鈍い銀色の箱のような見た目の魔法道具の中に入れていく。

 この魔法道具は入れた植物を肥料に変換するというもので、カルメの愛用の品だ。

 手をかざして魔力を込めると、箱の天辺に涼しげな青で描かれた魔法陣が浮かび上がる。

 魔法陣が青で満ちると、魔道具はガゴガゴ、と乱暴な音を立てて動き出した。

 しばらくの間は騒がしい音を出しながらガタガタと揺れていたが、時間が経つと段々に揺れは緩やかになり、やがて箱は静かに停止した。

 蓋を開けてやれば、中にサラサラとした砂のような肥料が入っているのが見える。

 カルメは中身の肥料を見て、その出来に満足すると頷き、そっと蓋を閉じた。

 これはおそらくエゴなのだろうが、カルメは綺麗な花のために摘まれてしまった雑草の命が無駄に捨てられるのを嫌って、雑草や枯れた植物などから肥料を作った。

 そして、それを使って綺麗な花を咲かせると、摘んでしまった雑草たちの無念が浄化される気がしたのだ。

 不意に誰かの足音が聞こえ、カルメは緩んでいた頬を引き締めた。

『一体、誰だ?』

 不愛想で態度が悪く、かつ徹底的に他者を排除しており、おまけに強大な力をもったカルメを村人たちは化け物のように感じて恐れている。

 そのため村が魔物に襲われたり、大火災が発生したりというような危機でも発生しない限り、誰もカルメの家を訪れたりしなかった。

 誰がどんな目的で自分を訪ねているのか、皆目見当もつかない。

 カルメが警戒心を強めていると、

「カルメさん、ですよね?」

 という、男性の窺うような声が、カルメの背後から聞こえてきた。

 その声は低いがとても柔らかく、穏やかな響きをもっている。

 声で人物を当てるなどと言う真似がカルメにできるわけもなく、不機嫌に舌打ちをした。

「誰だ」

 振り返りもせずに、元は可愛らしい声を可能な限り低めて威圧するように言った。

 しかし、威圧された男性の声は明るい。

「えっと、先日カルメさんに助けてもらった、ログです。ミルクさんのおかげで傷もすっかりよくなりました」

 ログはそう言って笑うと、袖をめくりあげて傷があった場所を晒した。

 傷跡一つない綺麗な肌が太陽に照らされているが、もちろんカルメはそれを見ない。

 ログの傷が治っていることはとっくに確認済みであるし、そもそもカルメは村人を救おうとしたというポーズさえ見せられれば、ログが死んでしまっていても構わないとすら思っていた。

 別にログに死んでほしいと思っていたわけではないが、単純に他人の生死にあまり興味が無かったのだ。

『どうでもいいわ、さっさと帰れ』

 心の内でも舌打ちをして、カルメはログに背を向けたまま、

「そうか、よかったな。帰れ」

 と、ぶっきらぼうに言った。

 そして、そのまま、速やかに家に帰ろうとする。

 しかし、カルメが動き出すよりも先にログが動いた。

 ログはごく自然にカルメの隣まで行くと、そっとカルメの腕をとって花壇の花々を眺めた。

「綺麗な花ですね。カルメさんが育てたんですか?」

 ログの穏やかな声にカルメは嫌そうに顔をしかめて舌打ちをすると、叩きつけるように腕を振り払った。

 そして、埃でも払うかのように触れられた箇所を叩く。

 まるで汚物にでも触れたかのような仕草で、苦々しい表情を浮かべている。

「触んな、気持ちわるい。さっさと帰れ。でないと……」

 その声は決して大きくなかったが、凄まじい怒気が込められており、酷く威圧的だ。

 カルメは右手にシュルシュルと涼しげな青の魔力を込めると、見せつけるように真っ青な腕を上げ、魔法を使う準備をした。

 辺りの空気がパキパキと凍っていき、今にも攻撃されてしまいそうな、恐ろしげな雰囲気を作り出していく。

 辺りに緊張感が漂うが、実のところ、カルメはログを攻撃するつもりは無かった。

 魔法を使って酷い目に遭わせてやるぞ、と威嚇して、ログをこの場から立ち去らせようとしていたのだ。

 ログが「近寄るな、化け物!」と恐怖に顔を歪ませて怒声を上げる姿や「ごめんなさい、二度と舐めた真似はしません」と謝罪しながら走り去るのを想像しつつ、ゆっくりとログを睨みつける。

 わざと瞳に怒気を込め、今すぐに人を殺してもおかしくないような雰囲気を全身から醸し出した。

 他者を遠ざけるための演技を十数年かけて身に着けてきたカルメのソレは完璧で、少なくともカルメがこれまで関わってきた人々の多くは、このように威嚇してやれば一目散に逃げだしていった。

 しかし、ログのとった行動はカルメの予想から大きく外れるものだった。

 ログは申し訳なさそうな表情を浮かべて、

「すみません。いきなり女性に触れるなんて、不躾でしたよね」

 と謝った。

 その表情や声には、恐怖など一ミリも含まれていない。

 その姿に、むしろカルメの方が狼狽えてしまった。

『なんだ、コイツ……いや、でも、これまでも威嚇程度じゃ引かない奴だっていた。もう少し脅してやれば、どっか行くだろ』

 カルメはそう心の中で呟くと、

「気もちわりぃって言ってんだろ。さっさと帰れよ……殺すぞ」

 と、今度は明確に脅し文句を口にした。

 不気味に口元を歪めて嗜虐的な笑みを作り、さらに強い魔力を右手に込める。

 周囲の空気が更にバキバキと凍り、刺すような寒さを感じるようになっていく。

『そろそろ、いい加減に逃げ出すだろう』

 そう思いながら、人殺しの目でログを睨み続ける。

 しかしログは、

「すみません……勝手に腕に触ってしまった事、本当に反省しています」

 と、心底申し訳なさそうに謝ってきた。

 相変わらずカルメに恐怖を感じている様子はなく、あえて言うなら気持ち悪いと言われたことに少し傷ついている様子だ。

 そして、一向に帰る気配はない。

 暖簾に腕押し。

 カルメはあまりにも予想と違う反応に恐怖を感じ、ゾワリと鳥肌を立たせた。

『なんなんだよ、コイツ! 全然帰らねえし』

 未だかつて経験したことのない反応にカルメは怯え、かえってまじまじとログの姿を見た。

 改めて見ると、ログは身長の高い男性で、年はカルメと同じ二十歳くらいのようだ。

 太陽の光を受け、キラキラと輝き揺れる草原のような薄緑の瞳と、小川のような美しい青の髪をもっている。

 顔は非常によく整っていて目つきは柔らかく、穏やかな笑顔がよく似合っていた。

 陰鬱な雰囲気が染みついたカルメとは正反対の、穏やかで明るく、他人を和ませるような雰囲気をもっている。

 また、ログは村人たちがよく着ているシャツとズボンを身に着けていた。

 元々ログが着ていた服は血まみれでボロボロになってしまったので、それを憐れんだ村人の誰かがおさがりをあげたのだろう。

 白いシャツに黒っぽいズボンという格好はシンプルで素朴だったが、それがかえってログ自身のもつ魅力を引き立てているようにも見える。

『なんてことない、普通の青年、だよな』

 少なくともその見た目や雰囲気におかしなところはなく、今までカルメに怯えて媚びへつらってきた村人たちと、たいして変わりないように見える。

 それにもかかわらずカルメの威嚇に耐え、平然と隣に立つログの存在が不気味に思えて、カルメはログの観察を続けた。

 すると、意図せずカルメの視線とログの視線がぶつかる。

 ログは一瞬、驚いたように目を丸くした後、照れたような表情で真直ぐにカルメを見た。

 ログの視線は心なしか熱っぽく、特にカルメの瞳を熱心に見つめているようだ。

 カルメは得体のしれない恐怖に身を竦ませたが、それを微塵も表に出すまいと虚勢を張って吠えた。

「おい、お前。いい加減にしろよ。私は謝れなんて言ってない。帰れと言っているんだ! どうして帰らないんだ!」

 恐怖と焦りで想定よりも大きな声が出たが、カルメはむしろその勢いのままにログを睨みつける。

 しかし、やはりログは怯むことなく優しい雰囲気のままで、困ったように笑った。

「あはは、すみません。まだちゃんとお礼を言えていなかったから。カルメさん、俺を助けてくれて、ありがとうございました」

 照れて礼を言うログに、カルメは一つ舌打ちをすると、ドンと肩を押した。

「礼なら今言っただろ。気持ちわりぃから二度と来るな。消えろ!」

 怒鳴りつけて、クルリとログに背中を向ける。

 その背中は明確に拒絶を語っていて、礼を言われたことに対する照れや喜びは感じられない。

 少しの沈黙の後、カルメが家に帰るために足を踏み出した瞬間に、ログがためらいがちにカルメへ問いかけた。

「カルメさん、恋人はいますか?」

「あ?」

 予想外の言葉に、カルメは不機嫌に聞き返した。

 しかし、ログの方はもう一度、はっきりとした声で問うた。

「カルメさんに、恋人はいますか?」

「……いねえよ」

 今度は面倒くさそうに言った。

 そして、カルメは一度大きくため息を吐くと、

「貴方に助けられて、僕は恋に落ちました。貴方の勇敢な姿。それに貴方は僕を助けるために、僕を背負って深い森の中を一生懸命歩いてくれました。助けてくれたのにもかかわらず、貴方はそれを鼻にかけない。気取らない。素晴らしい女性です。どうか僕と付き合ってくれませんか……だろ?」

 と、大きな身振り手振りをしながら、あちこち歩きまわってヘタな演技をした。

 その声には明らかな嘲りが混じっていて、極めつけには馬鹿にするような目でログの顔を覗き込んで嗤った。

 人の神経を逆なでする、最悪な態度だ。

 表面上は先程と同様かそれ以上に酷く見えるカルメの態度だが、実のところ、カルメは失っていた余裕を取り戻し、恐怖から脱却していた。

 というのも、先程までのカルメは、何故ログが自分の威嚇にも怯えずに微笑み続けるのかが分からず、その不可解さに怯えていたのだが、その理解不能の態度が自分への恋心に由来するものだと理解できたからだ。

 カルメは、以前から他人を助けてその相手に惚れられる、という経験をしたことが何度かあった。

 そして、その度に相手の言う恋心を打ち砕いて、自分から遠ざけてきた。

 人間、理解できないものは恐ろしくて上手く対処できないが、一度経験したことで、かつ対処方法が分かっている物事には強いものだ。

『簡単だ、嘲笑って自尊感情を傷つけてやればいい。どうせ錯覚の恋だ。すぐに冷める』

 カルメは相手の言う「カルメへの恋」を本気にしたことは一度もなかった。

 助けられたことにより、勝手にカルメを「素晴らしく優しい女性」だと勘違いして恋に落ちる錯覚の恋や、死にかけたときの恐怖を恋だと勘違いする、吊り橋効果の恋なのだと信じて疑わなかった。

 ログの態度は、これまでカルメに錯覚の恋をしてきた人間よりも図太いものだったが、それでもログが錯覚の恋の力で自分に近づいているのだと理解すると、恐怖は消えて安心することができた。

『さっさとキレろよ。じゃなきゃ、そんな人だと思わなかったって泣いて、帰ればいい』

 ニヤニヤと嗜虐的で、とことんまで人を馬鹿にした笑みを浮かべ、嘗め回すように嫌な視線を浴びせる。

 そして、態度とは反対の冷静な心でログの反応を観察した。

 ログは驚いたような顔でカルメを見つめ返すと、

「まあ、その通りです。お見通しなんですね」

 と言って、照れたように笑った。

 頬はほんのりと染まっており、とても嘲笑われた人間の反応とは思えない。

 カルメにとって予想外の反応ではあったが、今回はログの反応が錯覚の恋に基づくもの、という意識があるのでかろうじて平常心を保つことができた。

『さっきからコイツは、私の予想を超えてきやがる。頭がおかしいのか? まあいい、対応策は分かっているんだ、狼狽えるな。私だったらコイツを追い返せる。怯えるな』

 叱咤激励をし、次の言葉をスムーズに出すために舌打ちをする。

 必要以上にログを睨み、絡みつく蛇のような、どこまでも人を馬鹿にした瞳を意識した。

 もちろん歪んだ笑みも崩さずに、敢えてログの懐に入って下から睨みつける。

 近寄った瞬間にログが嬉しそうな顔をしたのが見えたが、カルメはそれを無視して口を開いた。

「やっぱりな。だが、お前の持つ恋心とやらは錯覚だ。お前は、私に恋をしていると勘違いしているにすぎない」

 小馬鹿にしつつも、病状を説明するような確固たる口調で言った。

「どういうことですか?」

 ログが怪訝な顔でカルメを見つめる。

 そんなログの様子にカルメは心の中でガッツポーズをして、嫌らしい態度を崩さずに言葉を吐き出した。

「お前、吊り橋効果って知ってるか? ざっくり言えば、吊り橋の上で感じる恐怖のドキドキを恋と勘違いするってやつだ。お前は死に瀕して、さぞ恐怖を覚えたはずだ。そして診療所で目覚めた時、お前は自分の死の可能性に怯えた。心臓は跳ねて鳴りやまない、そんな中、私の顔を思い出したお前は勘違いをしたんだ。私に恋をしてるんだってな」

 カルメは滔々と話すが、ログは理解できないといった様子で首を傾げていた。

「わからないのか?」

「はい」

 ログが素直に頷くと、カルメは舌打ちをした。

「なら、分からせてやる」

 そう囁くと、カルメは手のひらに魔力を集中させた。

 集まった青はやがて塊になって一つの形を作り出し、氷のナイフへと変化する。

 右手に握られた氷のナイフは、女性が持つにしては少々大きく無骨だ。

 どこまでも透明なナイフはいっそ寒々としていて、他者を傷つけ、拒絶するためだけに存在しているようにさえ思える。

 美しいがそれよりも妙な妖しさがあり、触れればただでは済まないことが一目で分かった。

 そして、カルメは躊躇することなくナイフを下から突き上げると、ログに刺さる一歩手前のところ、その眼前でナイフを止めた。

 ナイフを作ってから突きつけるまでの時間は数秒もなく、一瞬の出来事だった。

 あまりの出来事に驚き固まるログに、カルメは嘲りの表情を浮かべた。

「ほら、怖いな。ドキドキするな。それがお前の言う恋の正体だ。分かったらさっさと帰れ」

 歪んだ口元から、ねっとりとした嫌らしい言葉が漏れる。

 酷く、嘲る。

 今度こそ逃げるだろうと思ったが、やはりログはピクリとも動かない。

 まるで、彼だけ時が止まってしまったかのようだ。

『ビビらせすぎたか?』

 脅し慣れているカルメは脅し過ぎたせいで恐怖に身が竦み、動けなくなってしまった人間を何人も見てきた。

 仕方なくログの顔を窺うと、ログがボーッと見蕩れるようにナイフを見つめているのが見えた。

 その薄緑の瞳は愛に染まって、頬はほんのりと赤い。

 まるでナイフに恋でもしているかのようで、もちろん彼の表情に恐怖の色は見えなかった。

 その姿こそが異常で、二の腕どころか頬にまで鳥肌が立つ。

「おい! なんだ、その目は!」

 恐怖で身が竦みそうになるのを、怒鳴り声を上げることで何とか堪えた。

 カルメの経験上、ナイフを突きつければほとんどの人間は怯え固まり、帰れと一声かけてやれば一目散に逃げ帰った。

 このような異常な反応をする者は、ログの他にはいなかった。

 カルメが怒鳴り散らしても、ログの表情は変わらない。

 放心するような、唯一の宝でも見るような危なげな瞳で、少し動けば触れてしまいそうなほど近くにあるナイフを見つめた。

 それから、ナイフで顔が傷つけられないように瞳だけを動かして、真直ぐ、カルメの瞳を射抜くように見つめた。

「綺麗な瞳ですね」

 ふわりと笑うその瞳は相変わらずトロリと熱っぽく、そこには確かにカルメへの愛情が映っている。

 カルメの瞳は本来ならば確かに美しい色をしているのだろうが、今は濁り切ってしまっている。

 子供の頃にだって「きったねえ目だな」と言われたこの瞳を美しいと形容する者など、存在しなかった。

 まして、ログの視線や言葉は、ナイフを突き付けて脅すような相手に向けるものではない。

 絡みつくような熱っぽい視線が、カルメの瞳を通して胸の中に染み込んでくるように感じ、得体のしれない恐怖と混乱に襲われて、とうとうログから逃げ出した。

 ナイフを持つ腕を自分の方へ引いてログの眼前から離すと、ヒョイッと後ろに跳んで、そのままログの方へナイフを構える。

『なんなんだよ、コイツ!』

 脅して帰らせるためではなく、わけの分からない恐怖から身を守るために、カルメはナイフの刃先をログの方へ向けて威嚇した。

 それはまるで手負いの獣のようで、その瞳は不安に揺れている。

 しかし、ログは穏やかで愛情に染まった表情を崩さない。

「……綺麗ですね」

 独り言のように言うと、散歩のような軽やかで自然な足取りでカルメの方へ近づいていき、そっと腕を伸ばした。

 その手は、真直ぐに氷のナイフへ向かっている。

 そう、ログは氷のナイフに触れようとしたのだ。

 突然の奇行にギョッとしたカルメは、作り出したナイフを握りつぶした。

 ナイフを握った拳からは、パラパラと氷の欠片が零れる。

『このバカ! 頭がおかしいのも大概にしろよ! 怪我でもするつもりか!』

 そう怒鳴りつけようと口を開くと、言葉を発する前にログがカルメの両手を掴んで引き寄せた。

「カルメさん! 怪我はしていませんか!?」

 怯えた表情でカルメの怪我を確認しようと、手のひらを開こうとする。

 カルメの見たかった表情が、声が、全く想像もしなかったタイミングで出てきた。

 カルメは驚きながらも舌打ちをしてログの手を振り払うと、そのままパッと手のひらをさらけ出した。

 手のひらは水に濡れ、ポタポタと水滴が垂れているだけで傷などは一切ない。

「私が作ったんだ。怪我しねえように壊すことくらいできる。触んな!」

 イライラと吠えて、ログを睨んだ。

 しかし、睨まれて怒鳴られたはずのログは、カルメの無事を確認すると心底ほっとしたような表情になって、

「怪我をしていなくて、よかったです」

 と笑った。

 呑気な表情と言葉にカルメは苛立ちを感じ、

「怪我するのはお前だよ。二度と触んな」

 と怒鳴った。

 すると怒鳴られたログはシュン、と落ち込み、

「すみません。カルメさんの瞳みたいに綺麗だったので、つい……」

 と、頭を下げて謝った。

 カルメはもはや、目の前の男性に感じているモノが、怒りなのか、恐怖なのか、不安なのか、それすらも分からなくなってしまっていた。

 それでも思うことはただ一つ、

「黙れ。いいから二度と私に近づくな」

 ということだった。

 カルメはそれだけ言うと、逃げ帰るように家の中に入って普段は使わない鍵をしっかりと掛けた。

 家という安全地帯に逃げ込んだカルメはドアに背をもたれさせてへたり込み、大きな溜め息を吐いた。

 家に入ることで安心したことを自覚すると、そんな自分自身に無性に腹が立ち、カルメは舌打ちをした。

『ちょっと頭のおかしい奴と関わったくらいでビビッてんじゃねーよ、このバカ!』

 心で呟いて、自分の足をペシンと叩いた。


 ある日の昼過ぎ。

 太陽は優しく輝いて、頬に当たる風が優しい。

 また、カルメの自宅近くにある湖はゆらゆらと揺れて煌めき、非常に美しい輝きを放っている。

 普段ならば気持ちが良くて仕方がない天気も、今だけは雨に嵐の最悪な悪天候のように思えた。

 カルメの眼前には、色とりどりなバラの花束があったからだ。

 それを見ると不機嫌さを隠さずに、嫌そうに舌打ちをした。

『洗濯物を干すつもりだったのに』

 カルメは洗濯籠をだるそうにぶら下げて、頭を押さえた。

 晴れやかな気分が台無しだ。

 そう、目の前の男のせいで。

「心からカルメさんのことが好きです。どうか俺と恋人になってください」

 跪いて花束を差し出すログを見下すと、カルメは短く舌打ちをして、

「邪魔だ。どけよ」

 と文句を言い、ログの膝を蹴った。

 しかし、ログは怯むことなく花束を掲げ続ける。

 ログが口を開く気配を感じると、カルメはそれを制するように、

「黙れ」

 と言い、ログを避けて家の中に入ろうとした。

 しかし、それでもログはスッと立ち上がると、ドアの方へ回って通せんぼし、

「せめて、花束だけでも受け取ってください」

 と頼んだ。

『埒が明かない』

 観念したカルメは舌打ちをして、強引にバラの花束をひったくるとログを睨んだ。

 それに対し、ログは、

「また明日も来ます」

 と笑った。

「二度と来るな!」

 舌打ち交じりにカルメが怒鳴るものの、ログは手を振って帰って行く。

 花束を受け取ったことが脈ありのサインだ、とログが考えていることは容易に想像がついたが、カルメは花を無碍に扱うことができなかった。

『これがしょうもないアクセサリーとかなら、ぶん投げてやるのに』

 カルメは舌打ちをして家に入ると、思い切り家の中の匂いを嗅いだ。

 辺りから漂う木の香りに、イライラとした心がほんの少しだけ落ち着く。

 カルメの家は木製で、ドアや床はもちろん、テーブルや椅子などのほとんどの家具も木でできている。

 温かみのあるそれらは、人の心を安らげるよい香りを放っていた。

 自宅はカルメの安心できる場所の一つで、ログはもちろん、自分以外は誰も入れたことが無かった。

 カルメは玄関に洗濯籠を置くと、自室へと入って行く。

 そして、木枠で囲われた窓に置いてある陶器製の花瓶に、もらった花束を差した。

『よくもまあ、綺麗に咲いたもんだ』

 バラを労わるようにそっと撫でて微笑むと、部屋にあるハンモックの上に飛び乗って横になった。

 深いため息を吐いて目を瞑る。

『こんなことなら、助けなきゃよかった。結局、村人じゃなかったんだし』

 心の中でも、深く、深くため息を吐く。

 ログが家にやってくるのは、今日で七度目だ。

 その度に舌打ちと暴言、時に怪我をしない程度の暴力で退けていたが、ログは全く懲りる気配がない。

 カルメがログを嫌がるのはもちろん、ログが怖いからだ。

 錯覚の恋にしてもログの行動は行き過ぎているように映ったし、特にカルメを見つめる愛の溶け込んだ、熱に浮かされたような瞳が恐ろしくて仕方が無かった。

 しかし、そもそもカルメは、ログ以外の他人とも友人や恋人のような特別な関係になることを異様なほどに嫌がり、他者との付き合いを徹底的に避けて生きてきた。

 カルメが今のような暮らしを始めたのは、もう十年以上も前のことになる。

 一応どこかの村に所属しつつも、できるだけ人からは離れた場所で暮らしつつ村を守り、代わりにその村から食料や金などを提供させた。

 そして、もしもその村が嫌になったら一方的に見捨てて次の村へ渡り歩く、ということを繰り返していたのだ。

 そうやって渡り歩いてきた村の中には、カルメに助けられることでカルメを過剰に神聖視したり、カルメに対し恋心を抱いたりする者が何人かいた。

 しかしカルメは彼らの語る恋愛感情や親愛の情を信じられず、酷い態度をとり続け、最後には彼らがカルメに失望するのを見ては安心するということを繰り返していた。

 だからこそ、カルメは錯覚の恋や錯覚の親愛という考えに絶対の自信をもっていた。

 確かにログはカルメにとって未知の恐怖をもつ存在ではあるが、何もただログが怖いから拒否し続けているというわけではなかったし、ログだけを遠ざけているというわけでもなかったのだ。

 ただ、そうやって拒否している割に、なかなかログはカルメを諦めてくれない。

 カルメのもとに挨拶をしに来て以来、ログは毎日毎日、飽きもせずにカルメに花束を持ってきては告白をした。

『最悪だ。アイツがいるかもと思うと碌に外にも出られねえ。大体、旅人のくせにいつまでこの村に居座る気なんだ、ムカつく! さっさと出てけよ』

 イライラするのに加えて今は昼過ぎで、とても眠れるようには思えない。

 しかし、ログに遭ったことですっかり疲れて気力がなくなってしまい、カルメはそのままハンモックに揺られ続けた。

 どうやってログと関わらずに過ごすか、そればかりを考えている。

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