白昼夢の警告と大喧嘩

 カルメの住む森には二つ湖がある。

 一つはカルメの自宅付近にあり、もう一つは自宅の湖よりもう少し上の場所にある。

 その湖は自宅付近の湖よりも一回りほど大きくて深く、二つの湖は川で繋がっていた。

 そのため、川をさかのぼってしばらく歩けば、そう時間をかけずに大きい方の湖へ辿り着くことができた。

 そちらの湖も、カルメのお気に入りだ。

 赤や黄色の木の葉たちが水面を泳ぐ様子は静かで美しく、ここにいると、世界には自分たち以外に誰一人として存在していないのではないか、とすら思えてしまう。

 ログは地面に大きな新緑色のタオルを敷いて、そこにカルメを座らせた。

 その隣にログ自身も座ると、持ってきていた鞄から弁当を取り出す。

 カルメも用意していた弁当を取り出した。

 二人とも持ってきていたのはサンドイッチで、しかも互いが互いの分まで作っていたので、その量はかなり多くなっていた。

「すごい量になっちゃいましたね」

「まあ、無いよりはましだろ。余ったら家で食えばいい」

 ログは困ったように頭を掻いたが、カルメは平然と言うと弁当箱を膝の上に乗せた。

 その弁当をチラッと見て、ログが照れたように頬を掻く。

「確かに、そうですね。せっかくですから、カルメさんが作ったサンドイッチを食べてもいいですか?」

「いいけど、それならお前のと交換な」

 二人は弁当を交換すると、「いただきます」を言ってサンドイッチを頬張った。

 カルメが食べたのはハムと野菜のサンドイッチで、ログが食べたのは卵と野菜のサンドイッチだ。

『コイツは調味料の使い方がうまいんだな。多分、使っているのは珍しいモノじゃないんだろうが、上手く使うことで新鮮な味へと変化させてるんだ』

 カルメはサンドイッチを夢中で食べると、

「美味かった。お前は料理上手いんだな」

 と、彼女にしては素直に笑って感想を言った。

 すると、ログは照れ笑いを浮かべ、

「そうですか? カルメさんの方が美味しいと思いますが」

 と、軽く頭を掻いた。

「そんなことないよ。私が作ったのはゆでた卵をすりつぶして適当に味付けした、よくあるサンドイッチだ。でも、今回は怪我しなかったぞ。だから言っただろ? ちゃんと料理できるって」

 カルメは無傷の両手をログに見せて、勝ち誇った。

 胸を張るカルメの姿は少し子供っぽくて可愛らしく、ログはクスクスと笑った。

「本当ですね、怪我が無いなら何よりです。カルメさんが痛い思いをしたと思うと悲しくなるので、気を付けてくださいね」

「なんだそれ、お前が怪我したわけでもないのに?」

 カルメは胡乱な目でログを見るが、ログは真剣に頷いている。

「ふーん。まあ、私も痛いのは嫌だし、頼まれても怪我なんかしないけどな」

 ぶっきらぼうに言うと、カルメは自分のサンドイッチではなく、ログのサンドイッチに手を伸ばす。

 それを見たログも、嬉しそうにカルメのサンドイッチへ手を伸ばした。

 食後、のんびりとお茶を飲んで眺める湖は澄んでいて、カルメはこれまで感じたことがないほどの晴れやかさを感じていた。

 隣に他人がいるはずなのに普段よりも落ち着いていて、それがどうにも不思議だ。

 不思議な気持ちのまま、カルメはログの横顔を眺めた。

 ログの表情はどこまでも穏やかで、静かに流れる風を楽しんでいる。

 不意にカルメの視線に気が付いたログが、真直ぐにカルメを見た。

 その瞳は、カルメの胸の奥に直接入り込んで絡みつく。

 酷く甘ったるくて力強いのに、やたらと穏やかで優しい。

 ここに嘘偽りや、錯覚の影響は見られない。

 真直ぐに見つめるその視線が、熱が、じんわりと心の氷を溶かすようで、カルメは心臓の中心が温かくなった気がした。

『まさかコイツは、本当に私が好きなのか?』

 これまでカルメが関わってきた人間と違って、ログはいつでも虚像ではない本物のカルメを見つめ続けてきた。

 そのことを直感で理解し、ようやくログの愛を信用できそうになった瞬間、カルメの心に住まう幼いカルメが、入り込んできた甘い熱に氷のナイフを振り下ろした。

 温まりかけていた心臓が、急激に凍っていく。

 幼いカルメは決してカルメを嘲笑わず、代わりに、無表情に言葉を吐いた。

『そんなわけないでしょ? 欠陥品の分際で、自惚れないでよ』

 いつか聞いたことのある気がする無機質な声は、紛れもない自分自身の声だった。

 異様に冷たい、自分自身から投げかけられる、氷のような言葉。

 これは、カルメの心の防衛本能だった。

 得られないはずの愛を得た気になって後から裏切られ、心を壊してしまうくらいならば最初から愛されない方がいい。

 そうやって他者からの愛を拒絶してきたカルメの臆病さが、ログを信頼しようとする淡い勇気を拒絶した。

 今なら滑稽な自分を嘲笑って、ログがいなかった頃の日常に戻ることができる。

 しかし、一度でも愛を受け入れてログを愛してしまったらなら、カルメは二度とログから逃げられない。

 もしもログに嫌われてしまうことがあったなら、カルメの心はバラバラになって未だかつて経験した事が無いような苦しみを味わう羽目になる。

 いつか訪れるかもしれない破滅から身を守るため、幼いカルメはどこまでも冷淡に言葉を重ねる。

『愛されないよ。だって、愛されたことないじゃない、誰にも』

 そう言って投影するのは、いつか自分に石を投げて「役立たず」「化け物」と罵った誰かだ。

『貴方は役に立たなければ捨てられるの。だって、互いに利益のことしか考えていないじゃない? でも、それがいいんでしょう?』

 諭すように言った。

『それに……』

 幼いカルメが影を動かして「誰か」を作ろうとした瞬間、

「酷い顔色ですよ。大丈夫ですか?」

 と、心配そうな表情のログが、カルメの顔を覗き込んだ。

 白昼夢から一気に現実に引き戻され、虚ろだったカルメの瞳にはほんの少し光が宿る。

 カルメは全身嫌な汗にまみれていて、気が付けば体中が痛いくらいに冷えていた。

 呼吸は浅く、顔色も酷い。

「あの、どうしたんですか? 何かあったんですか?」

 カルメを見つめる緑の瞳は不安げで、心底自分を心配する愛情深いものだった。

 そして、その優しい瞳がかえってカルメの心を刺激し、荒れさせた。

 ざわつく心臓を抑え、

「うるさい、問題ない」

 と、呟くと、そっぽを向いて舌打ちをした。

 ログを見れば見るほど心が寒くなっていくような気がして、カルメはますます視線を落とす。

「錯覚で心配されても嬉しくねえよ! バカにすんな!」

 そう怒鳴った途端、ログも大きな声を出した。

「錯覚じゃないです。いい加減にしてください!」

 怒鳴り声ではなかった。

 しかし、いつもの穏やかな声とは違って、そこには確かに、激しい怒りや悲しみが込められていた。

 明らかに不調であることを隠して虚勢を張り、あまつさえログの心配を錯覚だと嘲笑う姿をどうしても見ていられなかったのだ。

 様子がおかしいカルメへの心配、それを錯覚だと切り捨てられたことへの怒り、こんな時ですら頼ってもらえないことへの不甲斐なさと悲しさ、様々な感情がログの中で渦巻いていた。

 珍しく本気で怒るログを、カルメは凍り付いた胸を押さえてキッと睨んだ。

「錯覚じゃないなら、何だってんだよ」

 激しい怒気を込めて唸るように言ったが、ログは真直ぐにカルメを見つめ返して答えた。

「本当にカルメさんが好きなんです。だから心配だってするんです。この想いは錯覚なんかじゃない、もう何度も言っているでしょう。どうして信じてくれないんですか。どうして錯覚としか言わないんですか?」

 ログの言葉や視線には、怒りに内在して悲しさや切なさ、愛情が含まれている。

 しかし、カルメはそれらを無視して、ログを怒鳴りつけた。

「錯覚は本人にはわからねえ。だからその都度教えてやってるんだ。お前が早く錯覚から覚めるようにな!」

「余計なお世話です! それに、答えになっていません。どうして錯覚だなんて言うんですか。そんなに俺が不誠実に見えるんですか? 答えてください!」

 ログの悲しい言葉に、切なく震えるその瞳に、カルメは一瞬固まった。

 少し時間が経つと、その口から絞り出すような、掠れた、弱い、弱い言葉が漏れた。

「私は、母親に捨てられてるんだよ」

 一度でも言葉にすれば止められないようで、カルメは俯いたまま怒鳴った。

「私は母さんに捨てられてるんだ。動物や魔物ですら得られる愛を、私は受け取ったことがない。欠陥品なんだよ。愛する方法も愛される方法も分からない。そんな奴が本当の愛なんて得られるかよ」

 知らず知らずのうちに出てきた涙で瞳を潤ませ、きつくログを睨む。

 ぼやけた瞳では、ログがどんな表情をしてカルメを見つめているのか分からない。

 そもそも、カルメを見ているのかさえも分からない。

 けれど、今はそれがありがたかった。

「だから錯覚だ。本当の愛を得られないなら、それらしいものは全部錯覚だ。実際、今までずっとそうだった。みんな私のことが嫌いで、本当に私を好きになる奴なんていなかった。だからお前も錯覚なんだ。いい加減気づけよ!!」

 怒鳴るというより絶叫に近いこれらは、カルメが辛いからと考えないようにして、心の奥底に閉じ込めていた本心だった。

 怒りの奥底に怯えの滲んだ瞳で、ログを睨みつける。

「早く錯覚から覚めてくれよ! そして私の目の前からいなくなってくれ! そうしたら私は日常に戻れるんだ! 何も無い代わりに、何も辛くない日々だ! 怖いんだよ。いつお前が私をゴミみたいな目で睨むのか、いつも怯えているんだ! いつ好きが嫌いになるのか分からない! 怖いんだよ! これ以上、私を傷つけないでくれよ!!」

 心がボコボコと沸騰して、もう何も考えられなかった。

 ボロボロと零れる涙を強引に拭って、カルメは走り出そうとした。

 どこでもいい。

 傷つかない場所に、ログのいない場所に行きたかった。

 しかし、温かい手がカルメの腕を掴む。

 ログの心配するような、傷ついたような瞳が彼女を捉えた。

 途端、カルメは自分に向けられる感情の全てが恐ろしくて堪らなくなって、ログを拒絶した。

「放せよ!!」

 ログの腕を強引に振り払い、しりもちをつかせた。

「いたっ!」

 小さな悲鳴が聞こえて振り返ると、ログが手のひらからダラダラと血を流しているのが見えた。

 おそらく、転んで手をついた先に尖った石か木の根でもあったのだろう。

 これは、ただの事故だった。

 何故ならカルメはログから離れるために腕を振り払っただけで、怪我をさせるつもりなど微塵も無かったのだから。

 加えて、ログの怪我はそう重いものではなく、精々がかすり傷程度だ。

 ログなら魔法で直すことだってできる。

 転ばせた側が罪悪感を抱くには十分な出来事ではあるが、正直、大したことない事故ともいえた。

 だが、それにもかかわらず、カルメはその顔を絶望で染め上げていた。

『怪我をさせた』

 カルメはそのことだけで頭がいっぱいになって、怯えるようにログを見た。

 顔は青ざめ、唇や体は小刻みに震えている。

 普段、カルメは人に怪我をさせない。

 一見、怪我をさせるように見える行動をとることはあっても、実際は相手が怪我をしないように気を遣っていたし、脅しで攻撃をちらつかせることはあっても、やはり実際に相手を攻撃することは無かった。

 カルメ自身痛いことは嫌いであるし、怪我をさせてしまえば絶望的なまでに他者に嫌われると思っているからだ。

 他者から本気で拒絶されることを恐れているカルメは、絶対に他人に対して暴力を振るわないと決めていたのだ。

 そうであるにもかかわらず、よりにもよって「ログ」を怪我させてしまった。

 この衝撃は想像以上のもので、カルメは謝ることさえもできずにただ茫然とした。

 青い顔で、酷く狼狽えて、絶望するようにログの顔を見つめ続けた。

 ログはそんなカルメをじっと見つめ返すと、無言で立ち上がり自らの傷を癒した。

 そうしてカルメの罪の証を消し去ると、カルメには近寄らずに何かを語った。

 カルメはログの顔を見ているし、言葉も聞いているのだが、その表情や言葉がカルメに届くことは無かった。

 矛盾するようだが、ショック状態に陥ったカルメには何も見えていないし、聞こえていなかったのだ。

 だがそれでも、一つだけ言葉が届いた。

「今まで、申し訳ありませんでした。俺はもう、あなたに付きまといません。恋人も、今日で終わりです」

 カルメはそれに、自分が何を言って返したのかを覚えていなかった。

 もしかしたら、何も言わなかったのかもしれない。

 どうやって家に帰ったのかだって分からない。

 気が付いたら、ベッドの上で涙も流さず横になっていた。

 何一つ思考できない頭で一つだけ確信したことは、カルメはもう二度とログに笑いかけてもらえないということだった。

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