どうか、恐怖を受け入れて
カルメたちは、穏やかに揺れる湖を眺めている。
「カルメさん、遠くないですか?」
二人の間には、人がもう二人入れるくらいのスペースが開いている。
恋人になる前の方が、彼女たちの物理的な距離は近かったかもしれない。
指摘されたカルメはギクリと肩を揺らした。
「やっぱり、俺の事好きじゃないんじゃ」
「ち、違う。ちょっと照れただけだ。ちゃんと好きだから」
落ち込むログを想像し、慌ててくっつくと、悪戯っぽく笑うログが見えた。
「揶揄ったな」
不貞腐れるカルメの頭を、ポンとログが撫でた。
「ごめんなさい、つい可愛くて」
「可愛いで誤魔化されると思うなよ」
そう言いつつも、カルメは確実に怒りをおさめており、明らかに顔がにやけていた。
「今まで、悪かったよ」
不意に、ポツリと謝った。
「ログが好きだと気が付いたのは、ログが目の前からいなくなって独りぼっちになった時だった。でも多分、本当はずっと前からログのことが好きだったんだ。それがいつの事なのかは、正確には分からないけれど」
カルメは俯きがちだ。
小さな唇から落とされる言葉を、ログは静かに聞いた。
「怖かったんだ。自分の気持ちに気が付くのが。ログの気持ちを認めるのが。だって、大切な人は幸せももたらすけれど、好きになってしまった分、幸せになってしまった分、裏切られた時に不幸や苦しみをもたらすだろ。心から大切な人なんていたことなかったから、知らないことが怖かったんだ」
声と共に震えるカルメの手の上に、ログも自分の手のひらを重ねる。
「ログが大切になる前に離れたかった。そうやって意固地になるころには、きっとログのことが好きで、本当に離れる事なんて出来なかったのに」
ずっと下を向いていたカルメが、ようやくログの顔を見た。
その瞳は潤み、涙で溢れそうになっている。
けれどカルメは涙を溢さずに、ずっと謝りたかったことを口にした。
「あの日、怪我させてごめん。すぐに謝れなくて、ごめんなさい。今まで、いっぱい傷つけて、ごめんなさい」
ログは、必死に謝るカルメの髪をそっと撫でた。
「いいんですよ。俺も、あなたの気持ちを考えていなかった。カルメさんが俺のせいで傷ついているなんて、思ってもいなかったんです。ずっと自分の気持ちばかり押し付けてしまったんですから」
ログはそう言って、スカートに顔を埋めて泣くカルメの背中を撫でた。
今まで傷つけた分を労わるように。
そうしたら今度は、カルメがログの背中を頼りなげに撫でた。
もらった分を返すように、その傷を癒すように。
「今までいっぱい拒絶してごめん。ログを好きになって分かったんだ。好きな人に拒絶されるのは、凄く苦しいってこと」
涙も落ち着いた頃、カルメは震える声で謝罪を繰り返した。
「それも、いいですよ。実際かなり迷惑だったでしょうし」
「でも、傷つけた」
落ち込むカルメの肩を、ログは優しく抱き寄せる。
「いいんですよ。確かに俺も傷ついた。でも、カルメさんだって傷ついた。お互い様です。もし悪かったと思うなら、今日から俺に優しくしてください。俺もカルメさんをいっぱい甘やかしますから。傷つけた分以上に甘やかして、大切にしますから」
優しく甘い声はスルスルとカルメの中に入ってきて、心の中の氷をじんわりと溶かしていく。
あの日、ログを拒絶した幼いカルメは、心地よさそうにその熱に身を任せていた。
もう、氷のナイフは握っていない。
「すでに十分甘いくせに……でも、分かった。私は多分、不器用で可愛くないから、上手くできるか分からないけど、それでも頑張るよ。その、ログの事、大切にする」
モソリと恥ずかしそうに言って、ログの背中に不器用に腕を回した。
「なあ、ログ、聞いてほしい話があるんだ。あの日、私が怒鳴り散らした話の詳細。話したからって何かあるわけじゃないんだけれど、出来たらこの重荷を、一緒に背負ってほしいんだ」
どうしても受け入れてほしい、カルメの暗い部分。
それを願うことは勇気がいることだ。
カルメは必死にログの瞳を見つめて頼んだ。
「もちろん、聞きますよ」
カルメの必死の願いを、ログは優しく聞き入れた。
カルメが話したのは、自分の生い立ちと母親に捨てられたときの話だった。
カルメが生まれた場所は、とある町の大きな屋敷の一室だ。
そして、カルメが育ったのは、その町の中にある閑静な住宅街だった。
カルメの母、アルメは美しかったが生まれつき貧乏で、裕福になることに執念を燃やしていた。
そこで、アルメは屋敷のメイドとなり、カルメの父であり、その屋敷の主人でもある男、バスクを口説き落として愛人となった。
アルメの予定では、そのまま子供を授かり、それによって本妻に成りあがるつもりだったのだが、カルメが生まれる前にバスクは本妻との間に男児を儲けてしまった。
アルメが本妻になる道は、唐突に断たれた。
加えて、本妻にアルメとバスクの関係がばれてしまった。
温情でカルメを産み落とすまでは屋敷に滞在することが許されたが、それ以後はアルメとカルメは屋敷を追い出されることとなっていた。
だが、本妻やアルメにとってすら誤算だったのは、バスクのアルメへ向ける愛の深さだった。
バスクはアルメに新居を用意し、金銭や食料、子供のためのおもちゃなどを送り、手厚く支援した。
そのため、アルメは赤ん坊を抱えながらの生活に、予定よりも苦しまずに済んだ。
物だけで見れば、むしろ豊かですらあった。
そんなアルメはカルメに対し、本妻にのし上がるための道具以上の価値を見出していなかった。
少しも愛していなかったが、それでも必要最低限の世話はして、言葉や文字を教え、本を読ませた。
生活に必要なマナーも教えた。
親としての責任感を感じていたからではない。
バスクはアルメへの愛情だけでなくカルメに対しても愛情と罪悪感を抱いており、それによって手厚い支援がなされていることを知っていたからだ。
それに、本妻との子供が何かの拍子に亡くなった時に、ある程度賢く礼儀のなった子供、カルメがいれば、バスク達はカルメを跡取りにと求めるかもしれない。
そうすれば、アルメはカルメの母親として屋敷に戻り本妻になれる、とも考えていたのだ。
それ故に、アルメはカルメを一切愛さなかったが、一応世話はし続けた。
しかし、アルメの密かな野望はある日突然に砕かれてしまう。
バスクが病死したのだ。
バスクがいなくなれば、今までの支援は一切なくなってしまう。
カルメを本妻になるための道具として使うことも、できなくなってしまった。
アルメにとって、カルメは一切の価値をもたなくなってしまったどころか、自分の人生をめちゃくちゃにしかねない存在として認識されるようになってしまった。
知らせを受けた日の夜、アルメはカルメを深い湖のある場所まで連れて行った。
アルメは、恐怖で涙を浮かべる我が子に何も声をかけなかった。
何も言わずに、大きな湖にかけられた橋からカルメを突き落とした。
当時、カルメは8歳の幼い子供で、湖に投げ込まれてしまえばひとたまりもない。
しかし、当時から魔法で水を器用に操ることができ、天才としての道を歩みだしていたカルメは、何とか魔法で湖の水を操って陸まで流れ着くことができた。
そして、湖の畔に流れ着いたカルメは、翌朝に中年の男性に保護され、魔法の扱い方と生きるための術を教わった。
しかし、保護されてから三日後、唐突にカルメは男性のもとを追い出されてしまう。
それからカルメは、村を渡り歩く旅を始めた。
一度所属した村から他の村へ移る理由は様々だが、カルメは振り返ることなく、進んだ。
できるだけ故郷から遠く離れるように。
そうして辿りついたのが、カルメが現在所属する村だった。
カルメのログを抱く手には不自然に力が入っていて、小刻みに震えていた。
ログの前では虚勢を張る必要が無かったから、カルメは素直に当時の恐怖や寂しさを思い出して震えていた。
「母さんは、一ミリも、私を愛していなかった」
いつ何時でも無関心で冷たい目を向けてきた母を思い出し、カルメはブルブルと震えた。
震える背中を、ログは何度も撫でた。
「母親からさえ愛情をもらえなかった私が、愛されるはずないと思ったんだ。幼い頃は母さんに愛されたかった。でも、駄目だった。期待すると捨てられたときに寂しくなるのは、よく分かっていたから。だから、期待するのは止めようと思った。全部錯覚なんだって。全部嘘なんだって思った」
カルメの声は震えていたが、決して泣かなかった。
「実際さ、私を好きだっていう奴は皆、本当の私なんて見てなかった。虚像を見ている錯覚だった。だから、ちょっと厳しい言葉をかけてやれば逃げ帰った。一ヶ月以上も私にかかわってきたやつは、ログ、お前しかいなかった」
「そりゃあ、俺の恋は錯覚なんかじゃないですから」
ログはドヤッと胸を張り、自信のある様子だ。
そんな姿が可愛らしくて、カルメもクスクスと笑った。
「うん、今なら分かる。本当は、もっと前から分かってたんだ。ログが私の瞳を見て、きったねえってしか言われなかった、この私の瞳を好きだと言ったその時から。でも、私は捻くれてたから、それを認められなかった」
話す言葉にほんの少し熱が戻る。
ログの話をすれば、カルメの冷え切った心臓がじんわりと温かくなった。
「今は、認めてくれるんですね」
「ああ。ログにだけは、素直になれるんだ。あの日、甘えたからかな」
病気になった時のことを思い出し、カルメは照れて頬を掻いた。
「俺はびっくりしましたけれどね。急に甘えてくるから。正直、理性と戦いました」
「理性と?」
カルメがキョトンとするとログは背中を撫でていた腕をカルメの腰まで回し、そっと抱き寄せた。
「抱っこって泣きつくから、こうしてあげたくなったんですよ」
カルメは一瞬ギョッとして身を引きかけたが、すぐに顔を真っ赤にしながらログの方へ身を寄せた。
「そうしてくれてもよかったのに」
カルメが口をとがらせると、ログは困ったように笑った。
「だって俺は、あの時、カルメさんに本気で嫌われているんだと思っていたから」
「……ログは変な奴だな。私は、いくら好きでも嫌われている奴に尽くしてやれる気がしないよ」
そもそも、自分を嫌いだという相手を好きでいられる自信もなかった。
「俺も、俺ってちょっと変わってるのかなって思います。でも、やっぱり好きは止められないので。むしろ俺がこの恋が錯覚ならいいのに、って思ったくらいでしたよ」
ログは苦笑したが、カルメは顔を青くした。
「それは困る!」
ギュウッと抱き着いてくるカルメを軽く抱き返して、ログは嬉しそうに笑った。
「だったらいいのに、ですから、錯覚じゃないですよ」
「分かってる。分かってるけど……」
カルメが顔を青くするのを見て、ログは、
『可哀そうだけど、ごめんなさい。かわいい……本当に俺のことが好きなんだな』
と、内心、少しほくほくしていた。
ほくほくしたが、やはり可哀そうでもあったので、
「大丈夫ですよ。世界で誰よりも大好きですから」
と、柔らかく頭を撫でた。
カルメは少しの間押し黙った後、唐突に質問をした。
「なあ、私がこの村を出ても、本当についてきてくれるのか?」
「もちろん。俺はカルメさんと一緒にいたくて、この村に住むことを決めたんですから」
即答だ。
あまりの返事の速さに、カルメは思わず笑ってしまった。
「でも、どうしたんですか? 出ていきたくなったんですか?」
「いや、違うよ。私は追い出されない限り、村を出ないから」
カルメの言葉が、少し沈む。
「名前、なんて言ったかな。あの腹黒い村長娘」
「サニーですよ」
二人同時に思い浮かべるのは、ニコリと愛想よくしながらも常に何かを企んでいる風の女性だ。
「そんな名前だったか。アイツはログのせいで私が出てくんじゃないかって、心配してたよな。あれ、本当は杞憂だったんだ。私は追い出されない限り、追い出されそうにならない限り、村を出ないから」
カルメがズーンと沈んだ声でボソボソと呟くと、
「追い出されたことがあるんですか?」
と、ログが眼光を鋭くして聞いた。
カルメが寂しい思いをしたのではないかと心配するあまり、目つきが少々悪くなってしまったのだ。
それに対し、カルメは何でもないように答えた。
「あるよ。何回も。アイツら全員、私を神か何かだと思っていやがって、病気みたいな私にすら対処できない問題が出てくると、すぐに役立たずの化け物扱いしてくるんだ。そして追い出すんだ。もっとムカつくのは、いけ好かない村長娘が自分の悪事を全部おっかぶせてきたことだな」
カルメは思い出しながらだんだんイライラとしてきていたのだが、ログの表情を見て怒りが吹き飛んだ。
「どこですか? その村。焼いてきましょうか」
どうやらログは本気で怒ったようで、普段はニコニコと笑うその顔を憤怒に染め上げて、地を這うような声で言った。
あまりの怒りに、カルメの方が慌ててしまう。
「いいって。もう興味もないし、忘れたよ。まあ、とにかくさ。私はそんな感じで村から追い出されることがあっったんだ。この村でも、そんな事態にならないとは限らないし。その時にログがついてきてくれるなら、何も怖くないって思っただけなんだ」
モジモジと言葉を口にすると、ログは少し表情を和らげた。
「もちろん俺は、あなたがいらないって言ってもついていきますよ。ただ、もしこの村でそんなことが起こったら、村にちょっとだけ攻撃してから他に行きましょうね」
サニーがここにいれば、怯えたことだろう。
そんな黒い笑みを、ログは浮かべている。
カルメはログの黒い笑顔を見て、おかしそうに笑った。
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