甘い二人に忍び寄る影
サニーと別れたカルメは、ログのいる診療所までやってきた。
ログは診療所の庭にある木に腰掛けて、医学書を呼んでいる。
この村の診療所は暇で、村人はよく遊びに来るが患者はあまりいない。
そのため、ログは空き時間に勉強を、ミルクは村人たちとおしゃべりをすることが多かった。
また、ログとカルメがしょっちゅう一緒にいられるのも、診療所が暇で時間をもてあましているからだ。
カルメは息を殺して、そっとログに近づく。
そして気づかれないようにログの顔を、特にその瞳を見た。
『相変わらず綺麗だ。どこまでも透明で、まるで新芽のようで』
実は、ログは目つきが悪い。
切れ長の目はキツイ印象を与えがちで、地顔でいえばカルメの方がずっと柔らかい印象を与える。
しかし、カルメがその態度や心の内の凶暴性が人相を悪くしてしまっているように、ログは、心の内にある穏やかさが滲み出て、あるいは本人が笑顔を心がけることで、その人相を良いものへと変えていた。
そして、カルメはそのことに気が付いていた。
『よく集中しているな』
カルメが大分そばに近づいても、ログは彼女に気が付かず、本を読み続けている。
「ログ」
知らず知らずのうちに、これまでのカルメでは考えられなかったような優しく甘い声が出た。
すると、ログは今までジッと視線を向け続けていた本からパッと目を離し、カルメを見た。
彼女を認識した途端、少し悪くなっていた目つきが緩む。
穏やかになって甘みを増し、愛が滲む。
『この瞬間が好きなんだ。私を見た瞬間、透明な瞳の感情が、色が変わる。私の言葉一つで、揺れて、愛が溢れて、濁っていたってすぐに綺麗になってくれる。まるで、ログの全てを手に入れた気になってしまう』
ログがカルメの瞳を好むように、カルメもログの瞳を好んだ。
「カルメさん、来てたんですね」
ふんわりと微笑んで紡ぐ言葉には、嬉しさに満ちている。
「ああ、さっきまでサニーのところに行ってた」
カルメの口からログ以外の名前が出ること自体、珍しくて、彼は目を丸くした。
「サニー? 珍しいですね。何か用事があったんですか?」
「私たちが錯覚じゃなくてちゃんと付き合ってるって報告してきた」
カルメはログの隣に座って言った。
「そうでしたか。何か言ってました?」
「知ってるって言ってた……あ!」
言いながら、カルメは急に青ざめた。
「どうしたんですか? サニーに何かされましたか? 縛り上げましょうか?」
ログはギッと目つきを悪くして、低い声を出す。
サニーへの風評被害が甚だしい。
今頃眠っているサニーも、ログのセリフを聞けば怒り出しただろう。
「いや、違う。ただ、ログに悪いことしてたのを思い出した。出来れば言いたくない……」
カルメは暗い表情で俯いて、モソモソと口を動かした。
「そう、ですか。どうしても言いたくないなら、言わなくてもいいですよ」
ログは苦笑いを浮かべて、緩くカルメの髪を撫で、甘やかし出す。
だが、彼女はフルフルと首を振った。
「いや、そうもいかない。出来るだけ嘘はつきたくないし、内緒も無くしたいんだ。ただ、ログが傷つくんじゃないかと思うと、怖い。私も、嫌われるかもしれないし」
胸の前で手を組み、モギモギと動かすカルメは不安げだ。
しかし、ログはにっこりと笑って火のの手をとり、柔らかい視線で俯く顔を覗いた。
「前に言ったでしょう。傷つけたら、甘やかしてくれればいいって。それに、嫌いませんよ」
「うん」
真直ぐな言葉を信用して、カルメは一呼吸を置くと、ログと恋人になったのは、サニーの作戦にのって彼の錯覚を覚ますためにしたことだった、と明かした。
「あの頃は、ログの事好きだったから恋人になったわけじゃないんだ。いや、多分、自覚が無かっただけで、本当は好きだったんだと思うけど。でも意識の上では好きじゃなかったんだ……ごめん」
言い終わると、カルメは心配そうにログの顔を覗き込んだ。
けれどログは苦笑いを浮かべ、
「知ってましたよ」
と、あっさり頷いた。
「え? なんで?」
カルメの目が驚きで丸くなるのを、ログは面白そう眺めてクスクスと笑った。
その笑顔が何だか悪戯っぽくて、カルメの胸がキュンと鳴る。
「サニーから聞いたので」
赤面しつつ、カルメはますます混乱した。
彼女はあまり人と関わってこなかったため、複雑な人間関係や取引が苦手だ。
そのせいもあって、余計に脳がバグってしまったのだ。
『どういうことだ? サニーは一応、私がログと離れることを手伝ってくれて。でも、結局そうはならなくて、あれ? 本当に、どういうことだ? なんでログに?』
混乱して頭から湯気を出すカルメの頭を、休ませるようにそっと撫でる。
そして、サニーは自分の利益のためにログとカルメをくっつけたがっており、そのために、それらしい理屈をつけた「恋人作戦」を決行させ、これによって二人の仲を進展させようとしたということを簡単に説明した。
「やっぱアイツ、腹黒いな」
カルメの表情が、苦虫を噛み潰したような複雑なものへ変化する。
「俺も、さすがに怒りましたからね」
当時を思い出すログの眉間にも皺がよっていて、不服そうだ。
「やっぱり、傷ついたか?」
微笑みながらも瞳が寂しく揺れているのに気が付いて、カルメは心配そうにログを見つめた。
「そうですね。流石に、当時は傷つきました」
遠い目をするログに、カルメが真っ赤な顔になって、
「甘やかすか?」
と、ポムポムと膝を叩くと、彼は嬉しそうに頷いた。
だが、甘やかすという意気込みを見せたはいいものの、ログの頭が太ももに乗ると妙に恥ずかしくなってしまって、カルメはそっぽを向いた。
不意に、嬉しそうにカルメを見つめていたログが、ポツリと言葉を漏らした。
「ねえ、カルメさん。カルメさんは、錯覚を解くためなら、俺じゃなくても付き合ったりしてたんですか?」
ログは大きな両手で掴むようにして、自分の顔を覆っている。
『きっと俺は今、醜悪な表情をしているんだろうな』
そう思ったから、ログは顔を隠した。
「いや、そもそもログほど粘ってきたやつなんかいなかったから。だから、タラレバ話になってしまうが、私は、ログ以外だったら付き合わなかったと思うよ」
「本当ですか?」
誰かがカルメの隣を陣取って、彼女を笑わせていたと思うと、それだけで胸が痛む。
女々しいと思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「本当だよ。言っただろ、気づいていなかったけれど、きっと、あの頃から好きだったんだって。そうじゃなきゃ、妥協でも付き合えない。なあ、その手、退けてみてもいいか?」
カルメが、そっとログの腕を包んだ。
だが、ログは顔を覆い隠したまま、力なく首を振る。
ログの青い髪の毛がパサリと揺れて、カルメはくすぐったそうに目を細めた。
「きっと、醜い顔をしているので」
「見てみたい」
カルメがはっきりと言うと、ログはそろりと両手を退かした。
ログは眉を八の字に下げ、酷く不安げに瞳を揺らしながらカルメを見つめた。
「嫌わないでくれ」と訴える表情は弱り切った犬のようで、それをまともに見てしまったカルメは、一瞬で心を奪われた。
『かわいい』
それだけで頭がいっぱいになってしまった。
「何かしてほしいことはあるか?」
熱に浮かされ、夢心地で問いかけた。
深緑の瞳はトロンと溶けて、その頬は全体的に赤みがかっている。
甘い声は子供をあやすようだ。
ログはカルメの甘い表情に心臓を鳴らしながらも、不安で胸を焦がした。
自分の酷い表情と不安を払しょくさせるために、カルメが普段は見せないような顔をしているのではないかと思ったのだ。
「俺、そんなにひどい顔をしていますか?」
カルメはフルリと首を振る。
「いや。ただ、見ていたら何かしてやりたくなった。大丈夫……変な顔じゃないよ」
カルメは好き、かわいい、カッコイイ、愛おしい、がなかなか言えない。
「変じゃない」というような言葉は、カルメにとっては言えない言葉たちとほぼ同義だ。
ログはそれを知っていたから、ホッと安心することができた。
「それなら、名前を呼んでください」
不安は鳴りを潜め、ログは甘く願った。
「名前? ログ?」
「はい」
カルメが不思議そうにログの名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに返事をした。
「ログ」
「はい」
「ログ……これ、楽しいのか?」
楽しそうに返事をし続けるログに、カルメは心底不思議そうに首を傾げた。
「はい。だってカルメさん、熱が出たあの日まで、俺の名前を呼んでくれなかったでしょう? 俺はずっと、名前を呼んでほしかったから。今のは、その分です」
無邪気に笑うログに図星をさされ、カルメの胸がズキンと痛む。
「気づいてたのか。呼ばなかったんじゃない。多分、呼べなかったんだ」
カルメはぐしゃぐしゃと自分の頭を掻いた。
「私は個人性をもった他人と関わりたくなかった。名前ってやつは、そいつのアイデンティティーだから、名前で呼んだら、そいつと、個人と繋がるようで嫌だった。大切な奴ほど自分の中に入ってくるようで、ログだけは絶対に呼べなかった。どうでもいいやつだったら、サニーとか、ウィリアとか、そういう奴らだったら、嫌でも呼べたんだけどな」
さらりとサニーやウィリアを貶めて、カルメは爽やかに笑う。
「カルメさんは悪い人ですね」
ログも、悪戯っぽく笑った。
「カルメ」
ログが柔らかな声で、カルメの名前を呼んだ。
「……なに?」
「カルメ」
「…………なんだ?」
「カルメ」
「………………なんだよ」
回を重ねるごとにログの声は甘くなっていく。
そして、カルメは呼ばれるたびに少しずつ顔が赤くなっていき、気が付けばリンゴよりも真っ赤になっていた。
嬉しさに反比例して、コトバもぶっきらぼうになる。
「名前を呼ばれるの、楽しくないですか?」
「……別に」
あまりの恥ずかしさに、カルメは今だけは捻くれて素直になれなかった。
「そう言えばカルメさん、冷気の魔法を使わないんですね」
唐突な質問に虚をつかれたカルメは驚いて固まった。
「え?」
以前のカルメは、自分の顔色を誤魔化すために頻繁に冷気を纏っていたのだが、熱を出したくらいからログの前では魔法を使わなくなっていた。
一応の理由はあるが、恥ずかしくて、あまり言いたくなかった。
「最近、あまり冷気を使って顔を冷やさないな、と思ったんですが」
聞こえていないと思ったのか、ログはもう一度、言葉を繰り返す。
そして、
「もしかして、魔法が使えなくなっちゃったんですか?」
と、見当違いの心配を始めた。
「いや、違う。教えなきゃ、駄目か?」
カルメがほんのり顔を染めて困ったように問うと、ログも不安げな表情になりつつ微笑んだ。
優しい笑顔は少し寂しそうだ。
「どうしても嫌ならいいですが、何かあったなら言ってくださいね。心配してしまうので」
「いや、そんな心配されることじゃないんだ」
ログの心配に罪悪感を覚える。
やがてカルメは一つ覚悟を決めると、口を開いた。
「……だと思ったから」
カルメの言葉はボソボソとしていて、なかなか聞き取れない。
ログが何とか言葉を拾おうと上体を起こそうとすると、カルメが肩を押さえつけて阻止した。
「いい! ちゃんと言うから、顔を近づけないでくれ。心臓が爆発しそうなんだ」
そう言って、カルメは真っ赤な顔で豊かな胸を押さえつける。
ログは無理に起き上がるのをやめて、カルメの言葉を待った。
「……好きなんだと思ったから! ログは、私の照れた顔が好きなんだと思ったから!」
語気を強める割に、あまり大きな声ではない。
しかし、ログの耳には確かに届いた。
ログは一瞬虚をつかれてから破顔して、何かを言おうとしたが、その前にカルメが口を開き、
「それに毎回冷気出すのも地味に疲れるんだ! 大体、ログなら照れた顔を隠す必要だってないだろ!」
と、畳み掛けるように言葉を出した。
真っ赤な顔を両手で隠すと、その腕にそっとログが触れる。
「その通りです。俺はカルメさんの照れた顔が好きだから、見せてくれませんか?」
「だ、駄目だ! 今は恥ずかしすぎるから駄目だ!!」
カルメが顔を覆う両手の力を強めると、ログはふわりと立ち上がって、今度は彼女を包み込むように抱き締めた。
カルメの熱い顔面がログの胸元に押し当てられる。
「恥ずかしいなら、隠していてもいいですよ」
いつもカルメがやってしまう照れ隠しを、ログの方から勧めると、彼女もソロリと腕を伸ばして抱き返してくる。
「うん。あのさ、傷ついたわけじゃないからな。拒絶したわけでもないから」
顔を胸元に押し付けたまま、ゴニョゴニョと呟くと、ログは嬉しそうに笑って頭を撫で始めた。
「わかってますよ。カルメさんが可愛すぎたから抱きしめたくなっただけです」
「分かってるなら、いい」
綺麗な白衣に顔を押し付けて、カルメはこっそり溜息を吐いた。
『こんなに恥ずかしがってて、私にアレができんのかよ』
「アレ」というのは、この間カルメがログにやってみたいと思った事だ。
好きすらいえないカルメにとって、たとえ脳内でもそれを正式な名前で呼べない。
だからカルメは「アレ」と呼んでいた。
カルメはこっそりログの顔、口元を盗み見る。
『今日は、無理だな』
そのままカルメが顔を埋めていると、軽い足音が聞こえてきた。
「ログ、誰かが来た。放してくれ」
カルメはログといちゃついているところを他人に見られたくないので、軽く胸を押して頼む。
これに対して、実はカルメとイチャついているところを積極的に他人に見せ、彼女を自分のものだと大々的に主張したいログは、
「え? 誰か来てます?」
と、惚けて首を傾げた。
「来てる。放してくれって」
カルメが慌ててモタモタと背中を叩くと、ログは名残惜しそうに彼女を解放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます