「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの誕生」 ②

 アラームの音に目を覚まし、ジョニーはベッドで半身を起こした。

 頭が重い。ぐっすり眠れたという感じはしなかった。ゆるゆると頭を振り、着替えもしないままいつ眠ってしまったのだったかと、ジョニーは少し考えた。

 そして、ああ、ラジオを聴いていて――消して、ベッドに横になってからつい昔のことを考えてしまったのだと思いだした。

 今日は木曜日だ。仕事に行かなければ――ジョニーは手早くシャワーを浴び、着替えをした。階段を下りてキッチンに行き、冷蔵庫からオレンジジュースのボトルを取りだす。タンブラーに注いで一息に飲むと、ジョニーは吊り戸棚からスライスされたホワイトブレッドを取りだした。

 プラスティックラップを切って敷いた上に二枚並べ、マヨネーズを塗り、ターキーハムを乗せてハニーマスタードを適当にかけ、挟んで包む。スライスしたトマトがあれば一緒に挟むのだが、切るのは面倒なので丸齧りするつもりでトマトをひとつ、できあがったサンドウィッチと一緒に袋に入れる。

 工場に持っていくランチの用意ができると、ジョニーは朝食は摂らないままキッチンを出、また部屋へと戻った。


 ジョニーが勤めているのは街外れにある金属加工業の製作所だ。といっても下請けも下請けの小さな自動車部品工場で、休憩を挟んで八時間、毎日ひたすら同じ流れ作業を続けるという仕事である。判で押したような作業の繰り返しに耐えきれず辞めていく者もめずらしくはなかったが、ジョニーは人と話したり電話をとったりする必要がないその仕事をとても気に入っていた。賃金はきつい仕事に見合う額とは云えないが、客に苦情を云われ店主に怒鳴られながらハンバーガーショップで働くよりは、ずっとよかった。

 着替えのTシャツとタオル、ランチの袋とバスを待っているあいだに齧る朝食代わりのスニッカーズをバックパックの中に入れ――底できらりと光ったものに目を留める。もうやめよう、もう切っちゃだめだと思い、どこかで棄てようと決心したきり、まだ手放せていないフォールディングナイフだ。

 手首をまた切りたくなるかもしれないから棄てられない、というのとはちょっと違っていた。また切りたくなることはわかっているのだ。そのとき、このナイフがもう手許になかったら、キッチンの重く大きな庖丁ナイフを使わなければならない。そうしたら今度こそ死ぬかもしれない。手首を切ることはなかなかやめられないけれど、決して死にたくてたまらないわけではないのだ。

 使い慣れない庖丁で切れば、意図せず傷が深くなってしまうかもしれない。死なないまでも手がだめになってしまうかもしれない。働けなくなれば、それはもう死ぬのと同じことだ。切るのならこのナイフでなければ――

 否。実のところ、庖丁がどうのというのは自分への言い訳だった。

 手首を切りはしなくても、このナイフを眺めているだけで落ち着けることもある。薄い皮膚に刃を滑らせ、緋い線を見れば厭な気分もリセットされる。そして、その鋭い刃を見つめていれば、いつだって自分を終わらせることができる、だから慌てる必要はないと奇妙な安心感を得られる。ジョニーにとってこれは、ぎりぎりのところで自分を守ってくれるアミュレットのようなものなのかもしれなかった。

 ナイフを棄てたいのではなく、棄ててしまっても平気な自分になりたい、というのが正確なところなのだろう。

 考えるように首を傾げ、ジョニーはナイフをバックパックの底に入れたまま、上からTシャツを突っこんだ。



 工場長のウィルキンスは、年季の入った皺に油の染みた腕を組み、本当に申し訳ない、とジョニーに詫びた。

「なにしろ、こんなちっぽけな工場だ。これまでなんとかやりくりしながら守ってきたが……儂にももうどうしようもなくてな。儂はこの我が子みてえな工場を失っちまうが、幸いここを買うってぇでかい会社は希望する従業員をそのまま使ってくれるっていうんで、もうサインしちまったんだ。連中、人の弱みにつけこんで買い叩きやがったもんで額は小せえが、それで辞める奴にも当座の生活費くらい渡してやれる。儂も齢だし……自分のくだらねえ意地や思い入れの所為で、皆を路頭に迷わせるわけにゃいかんからな。……しかしいちおう面接みてえなことはやるって云うし、あっちの工員らも含めて配置換えもあるらしいんで、ジョニー、おまえさんには負担かもと思ってな」

 それでこうして前もって知らせておこうと思ったんだ。そう云うウィルキンスに、ジョニーはこくこくと頷いてみせ、「あ、あああ……あり、がと、ごご……ございます」と礼を云った。

 宿酔ふつかよいで出勤してくる莫迦や、ラインから離れて裏で葉っぱ吸ってる奴らより、おまえさんのほうがよっぽど真面目で使えるってことは云っておくよ。力づけるようにウィルキンスに肩を叩かれ、ジョニーは笑顔を返すと事務室を出、自分の持ち場へ戻った。





 その日。仕事を終えて工場を後にすると、ジョニーはピートが帰宅するためバスを降りる停留所に向かった。

 ピートは進学し、今は立派な大学生だ。ジョニーと違い、ただ内気で人付き合いが得意ではなかっただけのピートは、成長とともに友人も増え、ファストフード店でアルバイトができるほどになっていた。あの迷子保護未遂事件のとき、警察署でジョニーのため必死に訴えたことも、彼にとっては自信の種になったのだろう。ちょうどあの後くらいから、ピートは少しずつ社交的に変わっていった。

 いつもと同じバスが六時少し前に停まり、ピートが降りてきた。ピートはジョニーの姿を認めると片手を上げ、なにか食いに行こうとジョニーの背中をぽんと叩いた。


「買収かあ、いま多いらしいな」

 馴染みの店でチーズバーガーとフレンチフライのセットを食べながら、ピートはジョニーの話に耳を傾けた。子供の頃と変わらず、辛抱強くジョニーが云いたいことをすべて言葉にできるまで黙って待ち、聞き取りづらかったところは確認して頷いてくれる。

「――そうか、あの工場長がいなくなるのは辛いな。でも、おまえは不安だろうけど、ちゃんと云っといてくれるってんなら大丈夫じゃないか? そうだ、面接やらで困るのが不安なら、返事用のカードでも作っておけばいいんじゃないかな。吃音があって会話に困ることがあるけど話は理解できています、って表紙に書いといてさ。あとは『わかりました』『問題ありません』『助けが必要です』とか、見せるだけでいいようにしておくんだよ」

 初めのうちだけなんとかなれば、あとはきっとこれまでどおり問題なく働けるよ。ピートはそう云ってジョニーを励ました。ジョニーは勇気づけられ、カードはともかくなんとか頑張ってやってみようと、チーズバーガーを平らげた。

 店を出ると、歩きながらピートは云った。

「来週、大学の友達と旅行するんだ。マイアミに行くんだよ、あっちはまだまだ泳げる暑さなんだってさ。ジョニー、なにか欲しい土産あるか?」

 マイアミと云われても、なにが有名なのかジョニーは知らなかった。「なな、なんで、も」と答え、ほら、とピートが取りだした観光案内のパンフレットと、航空券チケットをしげしげと眺める。

「ちち、チケット、は、初めて」

「そっか、そうだよな。……よし、俺が大学を無事でて就職が決まったら、一緒に旅行しよう。約束だ。だからジョニー、おまえも大変なこともあるだろうけど、頑張って貯金しとけよ」

 じゃあな、とピートと手を振りあって別れ、ジョニーは晴れやかな気分で帰路についた。





 ――ピートが云ってくれたとおり、カードを作っておけばよかったんだ。

 ジョニーはそう後悔しながら、これまでと勝手の違うラインで、今朝初めて顔を合わせた同僚からあれこれ指示されてはまともに返事ができず、怒鳴られていた。

 わかったらわかったってちゃんと返事してくれないと! こっちもずっとおまえひとりを見てるわけにいかないんだから! 理解してないならちゃんと訊かなきゃだめだろう! 事故が起こったら困るんだよ!

 すっかり萎縮し、ますます喋れなくなってしまったジョニーに、傍で見ていた新しい工場長は大きく溜息をついた。まったく、なんだってこんなまともじゃない奴を雇ってるんだ? ただのお荷物じゃないか。そう聞こえよがしに呟くと工場長は、今週中に周りに迷惑をかけず作業できるようにならないとクビだ、とジョニーに宣告した。そして、今日のところはもう帰れ、仕事の邪魔だ、とタイムカードも押させずジョニーを追いだした。

 ジョニーは真っ昼間に放りだされた街で泣きだしたい気持ちを、必死に抑えた。泣いてもどうにもならない。学校に通っていた頃もそうだった。環境が変われば周りの人間も変わる。自分のことなどなにも知らず、好奇の目だけ向けてきて、そのくせなにも理解してくれようとはしない人間ばかりになるのだ。そう、母親でさえ自分のことをわかろうとはしてくれないのだから――。

 ピートに会いたい。切実にそう思った。ジョニーは腕時計を見やり、まだこんな時間じゃ帰ってこないな、と息をつき――ふと、今日がマイアミ旅行に行くと云っていた日だと気づいた。

 がっくりと肩を落とし、ジョニーは空を見上げた――自分にはもうピートしかいないが、ピートには大学にたくさんの友人がいるのだ。それも、一緒に旅行するような。自分に気を遣って云わないだけでもう恋人がいてもおかしくないし、旅行するのだってその恋人とふたりでかもしれない。

 ――ナイフ、棄てなくて正解だったかもしれないな。ジョニーは自嘲気味に唇を歪めて笑うと、いつものバス停に向かおうと交差点を渡った。





 鍵を開けて家に入る。まだ陽の高いこの時間、母はスーパーマーケットで働いていて不在だ。もっとも、居たとしてもおかえりの言葉ももうかけてはくれないが。



 母とはもう、同じ家で暮らしていながらほとんど口を利くこともなく、一緒に食事をすることもなくなっていた。もしも間借りしている下宿人でもいたなら、そっちのほうがましかもしれなかった。下宿人なら少なくとも二週間に一度くらい、下宿代を払わせるために声をかけるだろうから。

 自分が最後に話しかけられたのは、もう数年ほども前のことだった――酔っていた母が溢した、おそらく本心からの言葉。帰宅した自分に向き、母は「ばかみたいに意地張って、あんたなんか産むんじゃなかった」と溜息とともに吐き、ビールを呷った。

 耳にこびりついて消えないその言葉は、僅かに残る幼い頃の母との想い出を、すっかり黒く塗りつぶしてしまった。



 玄関に入るとすぐ左手にある階段を上がりかけ、ジョニーは思いついて踵を返しキッチンに向かった。母がいるときはついつい遠慮するように避けてしまうが、こんなときくらいリビングでTVを見ながら食事をしよう。

 ジョニーは冷蔵庫から『SKIPPYスキッピー』のピーナツバターと、『SMUCKER'Sスマッカーズ』のブラックベリージャムの瓶を取りだした。そしてスライスされたホワイトブレッドを二枚、袋から出して皿に並べた。一枚にはピーナツバター、もう一枚のほうにはブラックベリーのジャムをたっぷりと塗り、合わせて挟む。これはジョニーの大好物だった。

 他にもなにかないかと戸棚をあちこち開けるとチートスがあった。これでいいやとジョニーはサンドウィッチPB&Jとチートスをリビングのテーブルに置き、TVをつけた。

 キッチンに戻って冷蔵庫からコーラを取りだし、ジョニーは缶を開けてそのまま飲みながらソファへ向かった。そして腰掛けようとTVのほうを向き――その画面を視て、ぴたりと動きを止めた。

 映っていたのはニュース番組だった。その画面には今、シカゴ、ニューヨーク、マイアミあたりをフォーカスした地図が映されている。その中心より少し上、シンシナティから赤い線が伸び、マイアミに向かって弧を描いていた。

 なんだろうと眉をひそめ、ジョニーはTVに近づくと、ダイヤルを回して音量をあげた。



『――が、十一時四十分頃、マイアミ国際空港の約三〇〇マイル手前で墜落しました。機体は大破し現在も炎上中ですが、周囲に民家などはなく、二次的な災害はないということです。現在、現場では必死の消火と乗員乗客の救出が試みられているようですが、今のところ生存者が確認されたという情報は入っておりません。繰り返します、シンシナティ・ノーザンケンタッキー国際空港からマイアミ国際空港に向かっていた航空機が――』



 画面には険しい顔つきでニュースを繰り返すアナウンサーと、墜落したという航空機のフライトナンバーと発着予定時刻を記したパネルが映っていた。その三桁の数字には見覚えがあった。思わず手にしていたコーラの缶を取り落とす。ジョニーはがたがたと躰が震えるのを感じ、込みあげてくる吐き気を抑えるように口許に手をやった。

 ――ピート。あれは、ピートが乗っているはずの便ではないのか。初めて見た航空券に記されていたあの数字――まさかそんな。ピートが、ピートが――

 そんなはずがない。信じられない、こんなことありえない。そう思いながらも、ちゃんと確かめなければとジョニーは居ても立っても居られずリビングを飛びだし――玄関に続く廊下に置かれている電話機に目を留め、立ち止まった。

 ピートの家の電話番号はアドレス帳に書いてあったはずだ。電話をかけて、子供の頃、遊びに行くと焼きたてのアップルパイやクッキーをだしてくれたおばさん――ピートの母親に、あの飛行機じゃないですよねと確かめる。たったそれだけのことだ。それできっと、フライトナンバーを自分が思い違いをしているか、予定が変わってピートは家にいるとか、そんな答えが聞ける。きっとそうだ。だが――

 やり場のない怒りや口惜しさや、たったひとりの友人を失う虞れへの慄き。そして、これまでに溜めこんだいろんなものが噴きだしたかのように、ジョニーは力を込めた拳で電話機を叩き落とした。その勢いのまま、壁を何度も殴りつけながら泣き叫ぶ。ちくしょう、どうして、なんで俺は。壁に穴が空き、拳が血に染まり、そしてその血が白い壁紙に散った。

 しかし、発している声はいつもと同じで、まともな言葉にはなっていなかった。









[Track 09 - Nights in White Satin 「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの誕生」 ③ へ続く]

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