「マイ・ライフ」 ②

「おかえり、昭人」

「ただいまー。今日の晩飯はなにかな」

「うん、もう支度はしてあるんだけど……ちょっとその前に、いい?」

 やれやれとシャツを抓んで扇いでいる昭人に坐ってと促し、聡子はタンブラーに注いだ麦茶をテーブルに置くと、自分も角を挟んでクッションに腰を下ろした。

「なに? 腹ぺこぺこなんだけど」

「うん、ごめんね。ちょっと話があって……」

 聡子は、実はこのところ体調が悪いということと、生理が遅れていることを端的に伝え、バッグのなかから取りだした検査薬の箱をテーブルに置いた。

 昭人は途惑ったように眉根を寄せ、じっとその箱を見つめた。

「え、まさか……だろ? できたの?」

「それを今から確かめるの。私ひとりのことじゃないから、一緒に結果を受けとめたいなって思って」

 昭人は真剣な顔をして黙りこくっている。じゃあ待っててねと聡子は箱を手に取ると、立ちあがって部屋を出、トイレに入った。

 説明書どおりに使用し、洗面所でしっかり手を洗ったあとタオルで検査薬の容器も拭く。そして鏡を見つめると、聡子は覚悟を決めたかのようによし、と自分に向かって頷いた。

 部屋に戻り、聡子は元いた場所に坐ってテーブルにティシューを敷き、そこに検査薬を置いた。判定結果が出るまで一分から三分ほどかかりますと書いてあった。洗面所にいた時間もあるし、もうそろそろではないかと聡子はじっと判定結果の出る小窓を見た。ちら、と視線を上げると昭人も同じように検査薬を見つめている。

 結果が出る前に、聡子は祈ろうとして――どっちに? と迷った自分に途惑った。

 小窓の中にうっすらと赤紫色の線が出始める。一本なら陰性、二本なら陽性。

 やがて、一本の線がくっきりと浮かび、しかしもう一方は真っ白なままなのが確認できた。陰性。妊娠反応なし、だ。

 はぁ、と聡子は全身から緊張が抜けていくのを感じた。なぁんだ、せっかくいろいろ考えていたのに、という可笑しさや、拍子抜けといった感じや、少しがっかりしたような、心の片隅ではほっとしたような、いくつもの感情が入り混じった複雑な境地だった。そして同時に、ほんの少しでもほっとするようでは覚悟が足りなかったのではないか、母親になるのはまだ早いのかもしれないということかもと反省もした。

 聡子がそんなふうに、頭の中と心の内をぐるぐると巡って自分と自分の人生を顧みていると。

「え、どっち? これ、陰性? できてなかったってこと?」

 昭人が訊いた。そうだ、と聡子は入っていた箱や説明書を洗面所のゴミ箱に棄ててきてしまったことに気づいた。昭人にはまだ結果がはっきりわかっていないのだ。

「あ、ごめん。云ってなかったね、これ、一本だから陰性。赤ちゃん、できてなかったみたい」

 ちょっと気まずさを感じながらそう云うと――昭人は、はぁ~っと大きく息をついて足を伸ばし、後ろ手をついて天井を仰いだ。

「よかったー。まじでできてたらどうしようって思ったわ。……ったく、自分で検査して、確実にできてるってわかってから云ってくれりゃいいのに。いや、よかったな、できてなくて。まじよかったよかった」

 そう云った昭人の、その心底ほっとした様子に、聡子はすぅっと表情を消した。

「早くメシにして。もうめっちゃ腹減った、今日はなに? あ、お茶もおかわり」

 ――この人、なんなんだろう。

 なんだか、いきなりなにもかもが見えた気がした。どさくさに転がりこんできて、家事の一切は私にやらせて毎日の弁当までつくらせて。生活費を入れるといっても家賃の半分ほど、実際には光熱費や食費や日用品にサブスクなどを含む通信費まで、自分のほうが八万ほど多く出している。食費が嵩むようになったので、独り暮らしだった頃と出費はほとんど変わらない。

 だいたい――自分がこのところ体調が悪いと云ったときも、心配するような素振りも言葉も、なにもなかった。そして妊娠していなかったとわかると、この態度だ。あの、風邪をひいたときの優しさはなんだったのだろう。あれは私を助けるためじゃなく、端からここに住み着くつもりでやったことだったのだろうか。

 聡子は自分を盲目にしていたフィルターが剥がれたのを感じ、はっきりと思った。

 こいつ、ただのパラサイトじゃないの。

「話の続きをしましょう、昭人」

 聡子はにっこりと笑った。「今日はね、サラダ冷麺と揚餃子。もう二人分つくっちゃったから食べさせてあげるけど、食べたら出ていってくれる? 荷物は今度取りに来てくれればいいから」

「は?」

 昭人は怪訝そうな顔で云った。「なに云ってるの? 食べたら出ていけ? ……今度はなに、新手の冗談?」

「冗談なんかじゃないよ。私の人生に、昭人は要らないってわかったの。だから出ていって」

「いきなりなんだよ」

 昭人は険しい顔で立ちあがり、聡子を睨みつけた。「わけわかんねえよ! 妊娠したかもみたいな話されて、せっかくできてなかったってわかってほっとしたら今度は出ていけ? ふざけんなよ!」

「妊娠したかもって思って、いろいろ考えたから見えたの。あなたは最低のクズよ、自分に都合のいいように適当なことばっかり云って、自分が楽なように立ちまわって……! これまでの自分が莫迦だったって、勉強させてもらったことだけお礼を云うわ。私とあなたはもうおしまい。人生は有限なの、これ以上間違えたくない」

「このあま――」

 昭人が右手を振りあげた。はっと身を竦めながら、聡子はしかし気丈にその眼を睨み返した。

「殴るの!? いいわよ殴りなさい、痣がしっかりつくくらいね! そしたらすぐ病院へ行って記録を残して、出るところへ出て慰謝料としてこれまで浮いた家賃分の貯金、ぜんぶもらうから」

「ざっけんな、貯金なんかねえよ! ってかあっても払うかよそんなもん!」

 その言葉を聞き、聡子はもうおかしくなり、声をあげて笑った。

 やっぱりこの男、クズだ。

「いいわ……お金なんかどうでもいい。一銭も払えって云わないから、私の前から消えて。出ていって」

「出ていけって、どこに行けって云うんだよ! ばっかじゃねえのかこのクソあまが! アパートはとっくに引き払ったろうが!」

「そんなのあなたの勝手でしょう? ここに転がりこんだのも、アパートを引き払ったのも、貯金してないのもなにもかもあなたの勝手。私は知らない、もう関係ない。早く出ていって。……あ」

 聡子は思いだして、キッチンヘ行くと冷蔵庫からサラダ冷麺の皿を取りだした。

「これを食べたらって云ったっけ。どうぞ、これお皿ごとあげるわ。どこかその辺で食べなさい」

 頭にきたのか、昭人は聡子の手からその皿を叩き落とした。派手な音が響き、かけてあったラップの下でレタスや卵や麺と、白い欠片が床に散らばる。

「頭がおかしいんじゃねえのか! おまえみたいなクソあま、こっちがもうごめんだわ!」

 そう吐き棄て、やっと昭人が部屋を出ていった。聡子はすぐに玄関のドアを施錠し、チェーンもかけた。鍵を返してもらうのを忘れたなと思ったが、交換してもらうか、なんならもう引っ越そうかと思いつく。自分は引っ越しをして、一年くらい仕事をできないようなことがあっても困らない程度の貯金は、ちゃんとあるのだ。

 ――まったく、浮いたお金をなにに使っていたのか。まさか貯金もしていなかったなんて。

 妊娠していなくてよかった。このとき聡子は、初めてはっきりとそう感じたのだった。




       * * *




「――どう? 久々の独り暮らしは」

「すっごい快適」

 いつものように、聡子たち三人はSNSで話題になっていたヴィーガン向けメニューの豊富なレストランにやってきていた。ランチプレートのメニューから『雑穀米と有機野菜のホットサラダ&ソイミートのハンバーグ』を選んだ聡子は、あぁやっぱりこういう素朴でヘルシーなものが好き、と美味しさと幸せを同時に噛み締めた。

「でも、ほんとに妊娠でも重い病気でもなくてよかった。心配してたんだから」

「ありがと。奈津美のおかげ。妊娠じゃないかって奈津美が考えさせてくれたから、あのクズっぷりにも気づけたわけだし」

「まじ、そんなクズだったなんてびっくり。トイレットペーパー以外、問題なんかなんにもないっぽかったのにね」

 そう云った真由の顔を見て、聡子は「ほんとにね」と笑った。


 妊娠検査薬の判定は陰性だったが、それでも体調が悪いことに違いはない。聡子は昭人を追いだした翌日、有給休暇を取り病院へ行ってみた。

 念のため、半日もかけていろいろ検査を受けたが、そのすべての結果が出る前に、医師にはちょっと胃が荒れてるけど、単なる自律神経の失調かもしれないねと云われた。

 自律神経失調症とは、交感神経と副交感神経がストレスなどによってバランスを崩している状態なのだそうだ。仕事や生活環境が最近変わったり、ひどく疲れるようなことはないかと訊かれ、聡子はあります、と頷いた。

 そうか。体調を崩したのも、あのクズの所為だったんだ。

 これまで、数は多くはないとはいえ、何人かの男との別れを経験してきたが、これほど別れてほんとに、本当によかったと繰り返し感じたことはない。聡子は医師の、環境を変えてゆっくり、のんびり過ごす時間を増やすといいですよ、という言葉を聞き、ひとつの計画を決めた。


「――で? いつから行くの、マレーシア」

「うん、来月かな」


 聡子は駄目で元々と、会社に三ヶ月の休暇を申請した。理由を尋ねられ、自律神経失調症の診断が出ていて、体調を整えるためにゆっくり過ごす時間が必要なんです、三ヶ月が長過ぎるなら一ヶ月でもかまいませんと云うと、じゃあ間を取って二ヶ月とお許しがでた。聡子はありがとうございますと心からの感謝と、仕事を辞めるつもりはないことを言葉の裏に込め、浦島太郎にならないよう、ときどきリモートで部署の様子を窺いますと伝えた。

 そのリモートの相手は云うまでもなく、奈津美と真由だ。


「いいなあ、クアラルンプールだっけ。私も行きたーい」

「来ればいいじゃない、週末とか。一泊か二泊くらいなら泊めてあげるよ」

「まじ? やった! 行く行く、絶対行く!」

「あっちのアパート、広いもんね。ジムとかプールもあるし」

「えーっ、私も滞在したーい」

「外食も安いしねー」


 もうネットで調べ、何軒かのコンドミニアムに目をつけてある。どれも奈津美の云ったとおり、建物内にプールとジムがあって宿泊者は使い放題、外に出れば少し行ったところに地下が巨大なフードコートになっているショッピングモールや、夜毎賑わうフードストリートがある。

 独身のうちいましかできないこと、しっかり楽しまなくちゃ。

 聡子はソイミートのハンバーグをぱくりと口に入れ、晴れやかに微笑んだ。







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♪ "It's All Over Now, Baby Blue" Marianne Faithfull, 1985

 (Originally recorded by Bob Dylan, 1965)

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