Track 03 - It's All Over Now, Baby Blue
「マイ・ライフ」 ①
金曜のランチタイム。
『女性に人気! いま大注目のマレーシア――滞在するならここ! クアラルンプールのおすすめコンドミニアム』と書かれた表紙に惹かれて買った女性向けの情報誌。今日来たこのお店は、そのなかの『おしゃれでヘルシー! インスタ映えランチが食べられる穴場カフェ』という特集ページに載っていたところで、穴場どころかかなり混んでいた。
人気の『十穀米とオーガニック野菜のタコライスプレート』を食べ終わり、ジンジャーエールを飲みながら聡子は「違うの、そうじゃなくて」と、つい溢した愚痴について説明を加えようとした。高い天井の店内にはインストゥルメンタルのBGMが流れ、女性客の多い他のテーブルもお喋りに余念が無い。ノイジーな空間は、プライベートな話も憚らず口にしやすかった。
「トイレットペーパーがなくなってもそのまんま、なんて、男の人あるあるだってわかるわよ。うちは違うの。なくなりそうってわかってて、次をセットしておく義務が生じるのを避けるみたいに、数センチだけわざと残してあるの! 毎回!」
それを聞いて同僚たちは二通りの反応を見せた。
「うっわー、策士!」と笑ったのはまだ独身で親元にいる、
「……それ、ちょっとなんか厭な感じ。ごめんね、人の彼氏を悪く云うみたいだけど……すごい小狡いっていうか、責任逃れが得意な感じが」
「そう! わかってくれる? なんかね、気がつかなくてやらないよりも肚が立つのよ」
「本人にそう云えば?」
無邪気に真由が云う。聡子は「けっこう前に云ったよ? 云ったんだけど、しらばっくれるのよ。もうなかった? 気づかなかったって」と唇を尖らせた。
「でも、悩みってそれだけなんでしょ? 別に浮気するでもなし、怒りっぽかったり手をあげたりもしないんでしょ?」
「そうだけど」
「偶にでた愚痴がトイレットペーパーなんて、笑い話にしかならないよ。私の前彼なんかどうすんのよ。……あー、思いだしちゃったじゃない、もう!」
「ごめんごめん」
苦笑しながら、聡子は真由に謝った。真由は、前に付き合っていた彼氏に三股をかけられていたのが原因で、別れているのだ。
聡子は考えた。――確かに彼は仕事は真面目なようだし、女癖が悪いなんてこともないし、いつも自分のことによく気がついてくれる、優しい人だ。確かに、トイレットペーパーの件なんて、くだらない、笑うしかないようなことではあるのだけど……。
「まあでも、一緒に暮らしてると、ちょっとしたずれって大きなストレスになったりもするしね。こうして愚痴って発散してれば済むんなら、それでいいけど」
「うん……」
さ、もうそろそろ戻ろっか。時計を見た奈津美にそう促され、聡子はそだね、と残りのジンジャーエールを飲み干し、席を立った。
恋人の
きっかけは風邪で熱をだしたことだった。聡子が独り暮らしをしていた頃のこと――朝からずっと
すると昭人は、スポーツドリンクやレトルトの粥、即席カップうどん、ゼリーやプリンなどを買い、すぐにうちに来てくれた。そのとき聡子はあまりのありがたさと心強さに涙した。躰の具合が悪いときは気持ちも弱りがちだとは云うけれど、そのときは本当に、昭人がいなければ自分は独りで死んでしまっていたのではとまで思った。
無事に熱が下がったあとも昭人は、まだ心配だと云ってすぐには帰らなかった。そしてそのうち持ちこんだ荷物がだんだんと増え、いつの間にか同棲と呼ばれる状態になっていた。
一緒に暮らそう、という互いの意思の確認もないままそうなってしまったことに、聡子は少し途惑った。だが、独りで暮らしていることの心細さを痛切に感じたばかりだった聡子は、ふたり一緒のほうがなにかと安心とその状況を受けいれた。ある日昭人が、家賃が無駄だから、もう自分のアパートは引き払ってこっちに生活費を入れるよと云ったときも、ありがとう、助かると本心から礼を云った。
たぶん、このまま何年か経ったら、私はこの人と結婚するのだろうな、とも思った。
聡子も昭人もフルタイムで働いている正規雇用の会社員だ。だが、家事はなにもかも、聡子が一手に引き受けていた。
初めはいいよ、ついでだからとやっていたのだが、それが当たり前のようになってくるとさすがに不満が募ってくる。残業で疲れて帰宅し、昭人がなにもせず部屋で自分を待っていたとき聡子は、できるときは食事の支度ぐらいして、と云ってみた。しかし昭人は、ごめん、俺やったことがないんだ。独りで住んでたときは外食かコンビニかデリバリーしか食べたことがないんだよと答えた。料理など、目玉焼きすら作ったことがないのだと。
できないならしょうがない。聡子は、じゃあせめて掃除や洗濯くらい分担してと頼んだ。だが昭人は、タンスの上とか勝手に触っていいのかどうかわからなくて、とか、女物のつるつるした服って洗濯機で洗えるの? などと云って、家のことは結局なにもやらずじまいだった。
そんな感じで少しもやもやすることはあったが、昭人は聡子にとても優しかった。
日本人の男としてはめずらしいのじゃないかと思うほど、なにかにつけて綺麗だとか、可愛いよと云ってくれる。夜ベッドで愛しあったあとも、すぐに背を向けて眠ったりせず、後ろから抱きしめて睦言を交わしてくれる。イベント事の類も忘れることはなく、花やアクセサリーなど、プレゼントにもまめだ。
聡子が作る料理にも、いつも美味しいという言葉と笑顔を忘れなかった。だが、その満点な態度のままで、昭人は徐々に云いたいことを云うようになってきた――聡子ってけっこう古風で、昔からの日本の家庭料理! みたいなのが得意だよね。でも俺は、こういうのもいいけど偶にはハンバーグとかロールキャベツとか、グラタンとかが食べたいな。
聡子は、そういうのは外で、ランチで食べたりしがちだからいいかなーと思って、と答えたが、昭人はそこで話の方向を変えた。そういえばランチって無駄遣いだよね。聡子、お弁当つくってくれない?
聡子はまさかの提案にえぇ? と眉をひそめたが――将来のために貯金しなきゃいけないし、と昭人が云うのを聞き、そうねと賛成してしまった。
以来、聡子は朝六時前に起きだし、二人分の弁当と朝食の準備と、夕飯の下拵えを済ませてシャワーを浴び、ある程度の身支度をしてから昭人を起こすという毎日を送るようになった。
ニュースでは毎日のように熱中症に注意と呼びかけている。今年も世界規模の異常気象のなか、湿気の多い日本の夏はうんざりするほど厳しい。
いつものように、真由と奈津美のふたりと一緒にランチに来た聡子は、三分の一ほど食べたパスタの皿を見下ろして息をつき、フォークを置いた。
この時期、食欲が落ちるのはいつものことだ。だから口当たりの良いものをとメニューを調べてこの店に来たのだったが、『フレッシュトマトとたこの冷製パスタ』はちっとも喉を通らなかった。
「どうしたの聡子。思ってる味と違った?」
奈津美に訊かれ、聡子は「ううん」と首を振った。
「なんかちょっと、気分が悪くて……熱中症じゃないと思うんだけど」
「あら。熱中症じゃないなら風邪?」
「違うーって自分では思ってても、やっぱり熱中症だったって多いみたいよ」
結局半分以上残してしまい、会計しながらすみませんと一言添えて店を出る。
気をつけて水分は摂っているんだけど、と聡子はふらつく足を止め、ハンドタオルを握った手を額に翳した。すると、いきなりぐらりと景色が回転した気がして、聡子は傍にいた真由にしがみついた。
「ちょ、どうしたの!?」
「ごめん、なんか目眩がして……貧血かなあ。やっぱ無理してでも食べなきゃだめね」
そう答え、もう大丈夫と聡子は真っ直ぐに立って笑顔を見せたが。
「ねえ聡子……、前に、生理不順だって云ってたよね。ちゃんときてる? もし遅れてるなら薬局寄って、検査薬買ったほうがいいよ」
奈津美にそう云われ、聡子ははっとした。――妊娠。
自分は学生の頃から月経のリズムが不規則で、たしかに今も始まるはずの日を過ぎていた。きちんと避妊しているとはいえ、毎晩ベッドを共にして、週に二、三度は行為をしているのだ。そんなはずはないとは云いきれない。
そのときはやだ、違うよーと否定したが、奈津美の云うように検査薬は使ってみたほうがいいだろう。しかし――
聡子は思った。自分の性格的に、検査してはっきりさせる前に、いろいろ考えて心の準備が必要だ。
マンションに戻ったとき、昭人はまだ帰ってきていなかった。
キッチンで水を飲み、いつもしているように
『ごめん。飲みに誘われちゃって。今日は晩飯いらないや』というメッセージと、犬なのか熊なのかわからないキャラクターが『ぺこり』と頭を下げているスタンプ。偶にはしょうがないよねと、聡子はコンビニに寄って買ってきたサラダチキンと、梅干しとちりめんじゃこの冷たいお茶漬けで夕飯は簡単に済ませた。
部屋で独り過ごす夜に、なんとなくほーっと息をつく。聡子はソファからずり落ちるようにして、ラグの上で足を伸ばした。
もしも妊娠していたら、自分はどうするのだろうと考える――昭人と結婚。子供ができたとなればそれは当然の帰結で、自分もいつかそうなるのだろうなと朧気に思っていた。
しかしそうなると、この部屋では狭すぎる。当然である。ここは聡子が独りで暮らすために借りていた部屋なのだから。料理が好きで、自炊のために二口コンロの置けるキッチンがついた部屋を探したため、クッションフロアのキッチンは以前はかなり余裕があった。しかし今は小さなダイニングセットは壁際に追いやられ、昭人のメタルラックやデスクが置かれていて、かなり窮屈になっている。
そこまで考え、聡子はそうだ、と気がついた。昭人は弁当を頼むと云ったとき、将来のためにと貯金の話をしていた。将来というのはもちろん結婚のことだろう。優しい昭人のことだ、ここに住むようになって浮いた家賃から、出してくれている額を差し引いても、引っ越しに必要なくらいはもう貯まったのではないか。
自分も少しは蓄えがあるが、それは出産準備などに使えばいい。買うのは2LDKくらいの部屋に引っ越してからだなと考える。ベビーベッドや布団のセットやベビー服、ガーゼタオルにベビーカー――要るものはたくさんあるはずだ。
想像して、聡子はふと自分が母親になって子供を育てることなどできるのだろうかと不安になった。
仕事はどうすればいいのだろう。ぎりぎりまで働いたとして、産後にちゃんと職場復帰できるのだろうか。そもそも産休ってどのくらいあるのだろう? 今は父親も育児休暇を取るのが当たり前、という風潮になってきているけれど、それを許可しておきながら、その後の風当たりが強くなったり、閑職にまわされて給与が減るなんてこともよく聞く。
それに、産後に職場復帰するといっても、それなら赤ちゃんを保育園に入れなければならない。この辺りは都会のように空きがないなんてことはないとは思うが、それでも通勤途中で立ち寄りやすい立地のところを探すなど、ちゃんと考えて選ばければいけない。
はあ、と息をついて聡子は立ちあがると、またキッチンへと向かった。時計を見るともう夜の九時をまわっている。冷蔵庫を開けるとドアポケットに缶チューハイがあったがなんとなく飲む気になれず、オレンジスカッシュのペットボトルを手に取った。
戻ってソファに腰掛ける。……もしも本当に妊娠していたら。私はちゃんと母親になれるだろうか。そもそも、私は母親になりたいのだろうか? しかし、そう考えてみたところで実際にできていたら、堕ろすなんて選択肢はない。この先、もしも昭人と――否、他の男性の可能性もあるけれど――結婚し、子供をもうけたとして、その子供の顔を見るたびに堕胎のことを思いだすなんて堪えられない。
昭人はどうだろう。彼は、もしも自分が妊娠しているとわかったら、どういう反応をするのだろう。想像してみる――いつも優しい、私のことを大切にしてくれる昭人。きっと驚きながらも喜んで、じゃあもう急いで結婚の準備をしなくちゃと云ってくれるに違いない。
そう。きっと大丈夫――妊娠検査薬、明日にでも買ってこよう。
その晩は結局、昭人の帰りを待たずに先にベッドに入った。開けたオレンジスカッシュは飲みきれずテーブルに置いたまま、仄かにシトラスの香りを漂わせていた。
[Track 03 - It's All Over Now, Baby Blue 「マイ・ライフ」 ② へ続く]
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