「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの転機」 ③

「うん、やっぱりこれでなくちゃね」

 ブラウンブレッドにスキッピーのピーナツバターと、ミセス・ミラーのブラックベリージャムを塗ったサンドウィッチPB&Jを手に、ふたりは公園のベンチに並んで坐っていた。


 あのあと、女性は程無く店に戻ってくると、無事に落とし物の財布を渡してきたと息を切らしながら報告した。ストアの店主も感謝し、ふたりが順番にジャムの代金を支払うと、サービスだと全粒粉のパンブラウンブレッドをつけてくれた。

 そしてロザリーと名乗ったその女性は、いいことを思いついたと云ってジョニーを公園に誘ったというわけだ。


「もうひとつ食べる?」

「う、うう、ううん……も、ももももう、い、いい」

 ジョニーは恥ずかしくて下を向いた。なんだかいつもよりも吃りが酷くなっている。きっとロザリーがこんなに綺麗で可愛くて、素敵な女性だからだ。

 こんな優しい女性であっても、自分がまともに話せないでいればきっとそのうち、苛つき、呆れ、溜息をついて離れていく。これまで、ずっとそうだった。それが堪らなく怖い。怖いからなお、喋れない。

 だがロザリーは、なにも云わずただ黙って、空を見上げながらサンドウィッチを食べていた。視線を感じたのか、ふとこっちを見て目が合うと、にっこりと微笑む。その笑顔は自分が浮かべるのと同じように、美味しいね、と云っているように感じられた。

 その瞬間、なんだかとても幸せな気分になれた。この女性ひととなら、言葉なんてなくても通じあえるのではという気がした。ついさっきまで怖れていた過去の亡霊も、どこかへ吹き飛んだみたいだった。

「いいお天気でよかった。空気は冷たいけど、なんだか気持ちいいわね」

 一月の公園はゆっくり過ごすには気温が低すぎたが、ロザリーの云うように陽が降りそそぎ、寒くて堪えられないというようなことはなかった。人影も疎らでジョニーにとっては落ち着けたが、さすがに指先がじんと冷えてきた。

 サンドウィッチを食べ終え、指先に息を吹きかけながら、そういえば飲み物を買わなかったなと気づく。こうして外で食べるなど、想像もしなかったからだが――

 ジョニーはさっきのストアの向かいにカフェがあったなと思い、ゆっくりと口を開いた。

「あ、温かいコーヒー……飲みに行かない? お、お礼に奢るよ」

 ――つい今しがた、いつもより酷くなっていると思ったばかりなのに。

 誰かにこんなふうにスムーズに話せたのは、もう何年かぶりだった。学生時代、仲のよかった友達と過ごした、あの頃以来だ。ジョニーは信じられないと興奮気味に笑みを浮かべ、ロザリーを見つめた。

「コーヒーを奢ってくれるの? 嬉しい、ありがとう」

 ロザリーは、柔らかく綻ばせた顔をこちらに向けた。冷たい空気に触れて薔薇色に染まった頬が、とてもチャーミングだとジョニーは思った。



 カフェで一緒にコーヒーを飲んだあと。ジョニーは送ると云ってロザリーと歩きながら、自分についていろいろな話をした。

 子供の頃から吃音の所為で苛められたり、いろんなことがうまくいかなかったこと。いちばんの友達が助言をくれたおかげで今、普通に働けているということ。しかしその友達はもうどこにもいないのだということ――そして、こうして軽い症状しか出ずに話せているのが、その友達と話していた頃以来だということ。

 ジョニーは、ロザリーはひょっとしたら看護婦で、吃音症について詳しいから途惑ったり厭な顔をしたりしないのかと思ったが、そうではなかった。ロザリーは看護婦ではなくバーベキュー&チリ・レストランのウェイトレスで、吃音についてなど初めて知ったと云った。そして、こう付け加えた――口にしないだけで、問題のひとつくらい、誰もがみんな抱えてるものよね。

 ロザリーは自宅に向かって歩いているのかと思いきや、またさっきとは違う公園に立ち寄った。落ち着ける場所にあるベンチに腰を下ろし、ロザリーは自分のことを話し始めた。

「私は、男の人が苦手なんじゃないんだけれど、その……夜のことができないの。あ、別になにか厭な経験をして、怖くてできなくなったとかじゃないのよ。たぶん、そう生まれついてるの。もともとそういうことに興味がないっていうか。どんなに好きになった人でも、したいと思えないの。

 でも、男の人はやっぱり、そんなの無理じゃない? これを云うと大抵、みんな困った顔をして離れていくの。じゃなきゃ、そんなの歓びを知らないからだとか云って強引に……おかげで、片手でバットを振るのがうまくなったわ。でも、そんなことがあっても誰も私の心配なんてしてくれない。母親でさえいつまで処女でいる気なの、結婚するつもりはないの? って私を責めた。理解してくれる人なんてひとりもいない。……でも、こんな女、他にいないもの。しょうがないわよね」

 ジョニーはその話を聞き、運命を感じた。

「お、俺も……その、で、できないんだ。今まで一度も、け、経験がない。お、俺、言葉がこんなだから、もう誰ともつ、つきあったりできないって――」

 ロザリーはジョニーが吃りながらする話を、厭な顔ひとつせず黙って聞いてくれた。そしてジョニーの言葉を繰り返し、首を振るだけでいいような質問をまじえてちゃんと理解しようと努めてくれた。

 これまで誰にも語ることなどなかった自分の半生について、ジョニーは堰が切れたように夢中で語った。そして語り終えたそのときには、ジョニーにとってロザリーはもう、かけがえのない存在になっていた。

 ロザリーは別に気の毒そうな顔をするでもなく、くすくすと笑いながら恥ずかしそうに両手を頬に当てた。

「なんだか変な感じだわ。初めて会った人とこんな話をするなんて」

 私たち、似た者同士ね。ロザリーはそう云ってから、小首を傾げてこう付け足した。

「あ……でも、できないのと、したいと思わないのとでは違うかも。……ねえジョニー。あなたは夜、ベッドで愛を確かめあうことのできない女でも、愛情を感じられる?」

 ジョニーは、自分にできる方法でせいいっぱい愛するよ、と微笑んだ。




       * * *




 ――一九七四年三月 シンシナティ、オハイオ州――



 捜査は行き詰まっていた。サムとネッドはシンシナティとその周辺の警察署へ片っ端から出向き、〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟の犯行が始まったとされるより前に似たような遺体が出ていないか、しらみ潰しにあたった。しかし若い女性の刺殺体はもちろん、ナイフで襲われたなどの未遂事件も含め、該当するような記録はみつからなかった。

 サムたちは疲弊していた。期待した手掛かりをみつけられなかったから、というだけではない。〝魅惑の殺人鬼〟による連続殺人事件は、昨年十二月二十三日のノックスヴィルのあと、もう二ヶ月半も起こっていないのだ。もちろん、事件が起こらず新たな被害者が出ていないのは喜ぶべきことなのだが――心境はまるで、ポーカーでごっそりと勝ち逃げされたときのそれだった。

 捜査本部を移した連邦捜査局FBIシンシナティ支局に戻り、赤いピンを留めたアメリカ合衆国ステイツの地図と、被害者の写真が貼られているホワイトボードをサムが恨めしい思いで眺めているとき。別の事件を捜査していた同僚が、一月からワシントン州やオレゴン州など太平洋岸北西部で若い女性が姿を消すという案件が続いているそうだと云ってきた。ひょっとしたら犯人は足が付くのを怖れて移動し、拉致してから殺し、死体も隠すように犯行のやり方を変えたのでは、と。

 まさかと思いながらサムは、いちおうその行方不明者のリストを確認した。そして、これは違う、別の奴の仕業だときっぱり云った。何故そう云い切れるのかと尋ねられ、サムは答えた――いなくなったのは皆、長い髪を真ん中から分けた似たタイプの女性ばかりだ。拉致されたとして、この犯人には獲物に好みがある。おそらくレイプ目的だろう……俺の追っている奴の犯行じゃない。

 同僚は納得し、こっちの事件とは無関係だと電話で伝えておくと云い、自分のデスクに戻っていった。

 その様子を黙って見ていたネッドは、生死不明で行方がわからないのと、死体はあるけど手掛かりがないの、どっちの解決が早いですかね、と苦笑した。

「こっち、もうあと一件くらい事件を起こしてくれると助かるんだけどなあ……、できれば週末を避けて」

「おい、不謹慎だぞ」

 嗜めたものの、サムもそう云いたくなる気持ちはわからないではなかった。

 ケンタッキー州で九件、オハイオ州で十一件、インディアナ州で七件、ウェスト・バージニア州で四件、ペンシルバニア州で二件、テネシー州で一件――これまで三十四件、即ち三十四人もの女性が殺された事件が、なんの手掛かりもみつけられないうちにぴたりと止まってしまったのだ。このまま事件が迷宮入りすれば、それぞれの州警察と自分たちFBIの完全なる敗北である。

 やはり次の犯行を期待するしかないのだろうか。しかし次の犯行があったとして、これまでと同様、目撃者や遺留品などの手掛かりがなければ同じことだと、サムはシンシナティを中心に広がる赤いピンを睨んでいたが――

「……週末?」

 ふとそれが引っかかり、サムはそう聞き返しながらネッドに向いた。

「え?」

「いや、おまえ今、週末を避けてって云ったろう。なんでだ?」

 〝魅惑の殺人鬼〟の犯行は毎月二件から四件と続いてきたが、特に曜日は定まっておらず、間隔もばらばらだった。犯行時刻はいずれも深夜頃、十一時から一時のあいだ。なので零時を過ぎても日付を変えずに考えて――金曜に十二件、土曜に八件と、確かに週末は他の曜日より多く犯行が行われていたが、それについては標的をみつけやすいからだろうという推測が成り立っていて、特に疑問はなかった。

 ネッドは自分よりずっと若いが、まだ独り者で週末くらいは早く家に帰りたいというタイプではなかった。なので、どういう意味でそう云ったのかが気になったのだ。

「いや、この犯人ホシ、週末の事件のときはシンシナティからかなり離れてることが多いんで……なんかもうこうして支局にいると、余所に出向くのがめんど――サム?」

 サムはネッドの言葉に弾かれたように椅子を蹴って立ちあがると、資料の山をひっくり返し始めた。目当てのファイルをみつけるとそれを引っ掴み、ホワイトボードの地図に向かい赤いピンの傍に日付を書き込んでいく。

 十二月二十三日のケンタッキー州フローレンスから始まり、一件ずつ順に三十四件――すると、そのうちサムにもはっきりとわかった。犯人がシンシナティ在住であるという推測を前提にすると、五月十九日のインディアナ州エバンズヴィルからオハイオ州アクロン、イーストリバプール、ペンシルバニア州ピッツバーグと、徐々にすることが増えている。

 そのうえ、車で約三時間半ほどで着ける街で犯行があったのは土曜ばかり、そして四時間半はかかるであろう街で犯行が起こっているのは、決まって金曜だった。

「……遠出をするとき、週末を選ぶのはまあ、当たり前といえば当たり前だが……」

「遠出ですか? そりゃそうっすね、平日にやっちゃあ、仕事に響きます。それに金髪の男が事件の翌日に決まって休んでたら、さすがに怪しまれるでしょう。本気じゃなくても、冗談の種くらいにはなるんじゃないすかね。あと、夜遊び帰りの若い女が彷徨いてるのも大抵、週末ですし」

「しかし、ならもっと土曜が多くてもよさそうなもんだ。なんで金曜のほうが多くて、しかも遠い?」

 ネッドはそれほど疑問に思わない様子で、ひょいと肩を竦めた。

「さあ……。土曜の犯行の後は早く帰らなくちゃいけないとか」

「だから、なんのために早く帰らなくちゃいけないんだと思う?」

「なんのためって……日曜は朝からなにか用があるとか」

「日曜に用? 日曜の朝と云えば、なにがある」

「……日曜礼拝、ですかね?」

 日曜礼拝?

 連続殺人犯が毎週熱心に日曜礼拝に通っているのを想像し、サムは出来の悪い冗談だと頭を振った。

「ネッド。おまえ、信心深いほうなのか?」

うちはプロテスタントですけど、日曜礼拝なんて子供ガキの頃に連れていかれたきりっすね」

「ま、そんなもんだろうな」

 神頼みで事件解決の糸口がみつかるなら、いくらでも祈るんだがな、とサムは溜息とともに弱音を溢した。

 犯行がもう起こらないなら、本当に迷宮入りかもしれない。凶悪犯が野放しのままなのはもちろん問題だが――もうこれ以上、人生はまだこれからという年頃の遺体を見るのも、泣き崩れる母親を見るのも懲り懲りだ。

 三十五人めの被害者が出て事件が解決するか、このまま二度と犯行が行われず迷宮入りかの二択なら後者のほうがいい、とサムは思い、捜査官失格だなと苦笑した。




       * * *




 母の仕事先の同僚たちと会うのはこの日が初めてだった。なかには息子さんがいらしたなんて聞いたことがなかったと云う者までいて、ジョニーはどんな顔をすればいいのかわからず俯いた。こんな吃りの息子など、誰にも紹介する気はなかったということか。

 ほとんど酒代のために働いていた母の死因は過労と、風邪をこじらせたうえに起こした肺炎だった。最後までわかりあえなかった母の葬儀は、ジョニーが他人事のように見ている前で淡々と進んでいった。

 隣にはロザリーが寄り添っていた。ロザリーは通夜ビューイングから、こうして母を埋葬するまでずっとジョニーの傍を離れず、必要な場面でサポートをしてくれた。おかげでジョニーが表情を動かさず、言葉も発さずにいても、ショックが大きく茫然自失なのだと思われたようだ。ロザリーは自分のことをジョニーの婚約者だと云い、あとから嘘を云ってごめんなさいと詫びた。

 だが、ジョニーがそれを厭なはずがなかった。



 仕事はしばらく休みを取った。ジョニーはそのあいだに母の遺品や不用品を処分し、家屋の傷んだところを修繕した。壁も塗り直し、カーテンやソファのスローも新しく買ったものに交換すると、家の中の雰囲気はがらりと変わった。

 ジョニーは、葬儀のときに云ったこと、嘘じゃなく本当になってほしい、とロザリーに伝えた。ロザリーは、私、本当は途中から嘘って気がしてなかったの、と笑った。ジョニーはロザリーの手を握り、慈しむような優しいキスをした。

 そして、いつものようにジーンズ姿のロザリーが、少しの荷物と一緒にやってきた。これから一緒に暮らすのだ。

「おじゃまします」

「きょ、今日から君の家だよ」

「ふふ、そうだった」

 ジョニーはロザリーの頬に軽く口吻け、ベルトが二本掛かった革のトランクを持った。ロザリーも小さめのトランクを運び入れながら「そのトランク、中身はぜんぶ服なの。ワードローブはどこ?」と尋ねた。

「二階だよ。き、君の部屋」

 お先にどうぞ、とジョニーはロザリーを階段へと促した。

「すごい。前に来たときとずいぶん変わったのね。素敵」

 ロザリーはうっすらと灰色がかった淡い黄緑色の壁や、ダマスク模様のカーテンを見て華やぐような笑顔を見せた。

「う、うん。俺もき、気分転換になって、よかったんだ」

 真新しい小花模様のベッドスプレッドやクッション、そしてこれまでにはなかったドレッサーをひとつひとつ確かめるように、ロザリーは部屋の中を一周した。

「これ、私のために? ……嬉しいわジョニー、ありがとう」

 ハグをし、しかしロザリーは少し途惑ったような表情でジョニーを見上げた。

「でも、どうして私の部屋にベッドが? ……やっぱり、営み無しなのに一緒に寝るのは無理?」

 その質問に、ジョニーは慌てて首を横に振った。

「ち、ち、違うよ。お、俺は一緒に眠りたいよ。き、君が別のほうがぐっすりね、眠れるのかなって思って……」

「ほんと? じゃあ、ジョニー。あなたのお部屋もあとで見せてね」

「も、もちろん」

 そう云うとロザリーは、早速トランクを開けて荷物を片付け始めた。

「大きなワードローブね。余っちゃう」

 ジョニーは、ロザリーが洋服をワードローブにしまうのを笑みを浮かべ眺めていたが、トランクの中に下着らしきものが見え、「し、階下したでコーヒーを淹れてくるから、す、済んだらおいで」と部屋を出ようとした。

「ありがとう。……ね、ほら見て。いつもこんな恰好ばかりだけど、いちおうこんな服も持ってるのよ。似合う?」

 その声にジョニーは振り返り――どくんと打った心臓の音を聞きながら目を瞠った。

 ロザリーは得意げな顔で、赤いワンピースドレスを肩から当て、踊るように躰を揺らしていた。不規則に散らばった細かなドット模様はまるで夜空に瞬く星のよう、そして華やかなフリルや広がった裾は溢れ出る血のようで――

 頭の中に、これまでに殺した女たちの姿が瞬いた。

「……ろ、ろろ、ロザリー……、お、おねがいがある。た、頼むからお、俺の前では赤はき、着ないでくれ――」

 不思議そうに小首を傾げるロザリーを前に、ジョニーは沸き起こる衝動をぐっと抑えて背を向け、階段を駆け下りた。







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♪ "Break On Through (To the Other Side)" The Doors, 1967

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