「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの転機」 ②

 就業時間を終え、同僚たちが夜の酒場へと繰りだしている頃。ジョニーはいつものようにバスに乗っていったん帰宅すると、着替えてすぐ家の裏口から外に出た。

 キャスケットに裏地がボアのコーデュロイのジャケット、そしてベルボトムジーンズ。若者なら誰もがしているような流行りの恰好で、ジョニーは家から少し離れたところにある倉庫へと向かった。

 倉庫の扉を左右どちらも全開にする。薄暗かった空間にタンジェリンオレンジの陽が射しこみ、存在感のあるシルエットを浮かびあがらせた。倉庫内に入ると、ジョニーは銀鼠色ぎんねずいろのカバーを丁寧に捲り、現れた愛車に目を細めた。

 一九六七年型、フォード・マスタングGTファストバック。誰かと食事に出かけることもなく、偶に飲みに付き合っても同僚たちのように帰りに女を買ったりすることもなく。ただ慎ましく毎日を過ごしているうちに、いつの間にか貯まっていた金をはたいて買った、お気に入りの車だ。

 だがジョニーは、この車を買ったことを誰にも知らせていなかった。通勤には使わず、買い物や教会に行くにも、ジョニーは相変わらずバスを使って移動していた。

 まるで秘密の恋人のように大切にしている車だが、いつまでも眺めていたくなる流麗なボディは、あえて磨きあげられていない。どこにでも走っている、ありふれた車として人の目を逃れるには、少し泥が跳ねて薄汚れているくらいのほうがいいのだ。ボディカラーもペブルベージュという地味めな色で、その確かな走りを彷彿とさせる車体をいくらかおとなしく見せている。

 暮れ始めた空の下、ジョニーはカーラジオのスイッチを入れ、南へと向かって車を走らせた。車内に軽快なリズムのブギーロックが流れだす。デヴィッド・ボウイのヒット曲〝The Jean Genieジーン ジニー〟だ。

 ジョニーはリズムに合わせて頭を揺らしながら「The Jean Genie lives on his back……」と、楽しげに歌を口遊み始めた。




       * * *




 ――一九七三年十二月 ノックスヴィル、テネシー州――



 大学近くの住宅街には、同じような造りのアパートメントが何棟も並んでいた。そのあいだの路地は、片側がびっしりと路上駐車で埋め尽くされている。

 アスファルトにはうっすらと雪が降り積もっていて、現場は街灯や車のライトが反射し、深夜にも拘らず仄かに明るい。何台もの警察車両は、覆いを掛けられているその場所を大通りに集まる野次馬や記者たちの視界から遮るように、複雑に入り乱れ隙間を埋めるようにして停められていた。

 サムとネッドは路地を封鎖している『CRIME SCENE事件現場 DO NOT CROSS立入禁止』と記されたバリケードテープを潜ると、「FBIだ」とバッジを見せ遺体の傍に屈みこんだ。

 掛けられている覆いをネッドが捲る。遺体にはもう一枚、キャメル色のコートが掛けられていた。

「……これは? 第一発見者が掛けたのか?」

「いや、初めから掛けられてたみたいっすよ」

 ネッドが手袋をつけた手で、そっとそのコートを持ちあげる。サムは遺体の恰好を見て、そういえばこのコート無しじゃ薄着すぎるな、と頷いた。

「女物だし、サイズ的にもこの被害者のコートじゃないっすか、これ」

「うむ」

 車で出かけるためコートは袖を通さず手に持ち、アパートメントから出てきたところを狙われたか、とサムは路上に残る足跡を見やった。遺体は二十歳くらいの若い女性。このアパートメントの住人だとすれば、おそらく大学生だろう。

 懐中電灯を向け、遺体の様子をじっくりと注視する。深紅色のワンピースドレスを着たブルネットの――否。裾部分や袖を見ると、そのドレスはもともと白のようだった。ヴェルヴェットのように深く暗い赤に見えたり、鮮やかに見えたりしたのは刺された箇所と血だけが広がっている箇所、そしてその乾き具合によるものだった。

「滅多刺しだ。間違いない、奴の仕業だ。ありがたいね、また捜査資料が増える」

 いいかげんうんざりな気分でサムはそう云った。

 〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟によると見られる犯行はこれで三十四件めだった。しかし依然として犯人の手掛かりはなにもなく、代わりに厄介な問題がサムたちを悩ませていた。


 新たな事件が起こって報道されるたび、自分がやった、自分が〝魅惑の殺人鬼〟だと云って警察に出頭する者が現れ始めたのである。それも、ひとりやふたりではない。事件が起こったあちこちの州、都市で何十人も、である。

 犯人像などというものが無いに等しくても、その人物が本当に犯人かどうかなど、なんとなくわかるものだ。しかしそれでも、自首をしてきた者がいれば担当であるサムとネッドは取り調べをしなければならない。話を聞き、明らかに犯人ではないと判る供述がでれば迅速にお帰りいただく。そんなことばかりが続いていたのだ。

 それだけではない。サムたちFBIが躍起になっても、まだその正体の手掛かりすらつかめないというのに、あちこちの警察署には〝魅惑の殺人鬼〟宛のファンレターが大量に届いていた。これは犯罪性愛ハイブリストフィリアという犯罪者に惹かれてしまうフェティシズムで、一種の性的倒錯だそうだ。

 『ボニー&クライド症候群シンドローム』とも呼ばれるそれについて、プロファイリングチームのひとりに実例を挙げて説明されたとき、サムはわけがわからんと頭を抱えた。


 掛けられていたコートを遺体に戻しながら、怪訝そうな顔でネッドが云った。

「……これ、犯人ホシが掛けたんですかね? そうだとしたら隠すため?」

 白い雪の上に血塗れの死体じゃ、確かに目立ちますけどね、と続けたネッドに、しかしサムは首を横に振った。

「違うな。隠す気があるんなら、これまでだっていくらでも隠せた。ダンプスターゴミ箱の中でも陰でも、棄てられてる段ボールでもなんでも、ちょっと目隠しする程度のことならいくらだってできた。でも、こんなふうになにかを掛けてあるのは今回が初めてだ。たぶん、だろう」

「持ってたから?」

「ああ」

「どういう理由で?」

「わからん」

「は?」

 サムの返事に、ネッドが困惑気味に首をひねる。

「わからんが、そう感じたんだ。勘だよ」

「じゃあ、間違いないっすね」

 本気で納得したのか、それともからかわれているのか――まったくこいつは、とサムはちらりとネッドを睨み、遺体を指して「もういいぞ」と云い背を向けた。

 遺体はストレッチャーに乗せて運ばれ、検死にまわされる。だが、どうせ今回も凶器が同一であるとわかるだけで、手掛かりなどなにもみつからないだろう。

「でも、ノックスヴィルとは意外でしたね。まあのなかではありますけど……このぶんだと次はナッシュビルか、それともクリーブランドか……あ、今度こそシンシナティかもしれませんね」

 その言葉に、サムは車のドアを開けかけた手を止めた。

「シンシナティ?」

 眉根を寄せてネッドを見る。ネッドはいつもの飄々とした表情で、「ええ。ほら、地図にこれまでの犯行現場の印をつけてるでしょ? あれ見てて、犯人の行動範囲のど真ん中なのに、まだシンシナティじゃ事件が起こってないなーと思ってたもんで」と答えた。

 ――サムの脳裏に、毎日うんざりするほど眺め続けてきた、赤いピンを刺した地図が浮かんだ。

 地図のほぼ中央上からフォートウェイン、右のほうへ行ってアクロン、イーストリバプール、ピッツバーグ。左斜め下へ行ってチャールストン、ハンティントン。地図のほぼ中央下にレキシントン。さらに左へ進んでルイヴィル、エリザベスタウン、オゥエンズボロ、エバンズヴィル。そこから弧を描くように右上、インディアナポリス、アンダーソン、マンシー。

 そして地図の中心あたり、犯行が始まったフローレンス、リッチウッド、デイトン。そこから右方向にコロンバス、ニューアーク。ピンの位置には自信があったが、事件が起こった順まではさすがにすべては記憶していなかった――記憶していたのは、初めの二十件くらいまでだろうか。

 赤いピンはこの一年、毎月二個から四個ずつ増え続けてきた。今回の此処、ノックスヴィルの位置に頭のなかでピンを刺す。それを含めてすべてのピンを囲もうとすると、ネッドの云うように綺麗な環ができる。その環のほぼ中心にあるのがシンシナティだ。

 シンシナティは州都コロンバス、クリーブランドに次ぐオハイオ州内、第三の都市である。

 蔵書数の多さを誇る図書館があり、大学も多い。シンシナティ・チリやバイエルン料理のレストランやバーなど、ジョン・A・ローブリング吊橋の手前辺りは夜も賑やかだ。

 サムは舌打ちをした。――起こった事件ばかりを気にしていて、犯行が行われていない場所になど、まったく目を向けていなかった。

 サムは車のドアを開け、ダッシュボードから地図を取りだした。蛇腹折りのそれをボンネットの上に広げ、懐中電灯で照らす。

「サム? どうしたんです」

「ネッド、レキシントンとデイトンでの犯行は複数回あったな」

「レキシントンですか? ありましたね、初めの頃でしたっけ、確か四件も。デイトンは二件でしたか、あと近くのコロンバスでも三件あったし、インディアナポリスでも……それがどうかしたんすか?」

 若さか。さすがの記憶力だと感心し、サムは「ルイヴィルでも二件――」と、広げた地図を指で叩いた。頭のなかで考えを整理しながら、サムは独り言のように云った。

「比較的大きな街のほうが獲物をみつけやすいんだろう。コロンバスやインディアナポリスじゃ、間を置いて再び同じ街で犯行を重ねてる。たぶん、小さな町や辺鄙なところじゃ、ひとりで歩いてる女なんかみつけられないんだ」

 夜遊びする場所がありませんからね、とネッドは頷いた。

「だから僕も、次はシンシナティ辺りが怪しいんじゃないかって――」

「違う」

 サムは、地図の『Cincinnatiシンシナティ』という文字をじっと見つめながら云った。「おそらく今後もシンシナティで事件が起こることはない。奴は犯行を重ねるにつれて徐々に範囲を広げてきたんだ……自分が住んでいる街を避けて、だ」

 その言葉に、ネッドははっとしたように目を瞠った。

「……最初の事件がフローレンス、リッチウッド、次にデイトンで二件続いて、そのあとコロンバスとレキシントン……」

「フローレンスとリッチウッドは小さな町だが、シンシナティのすぐ南だ。デイトンはシンシナティから北へ車で一時間弱、コロンバスやレキシントンはさらに足を伸ばして一時間半ってところか。夜中にかっ飛ばせば一時間ちょっとで着くだろう。……間違いない。奴はシンシナティの住人だ。それ以外に、奴がシンシナティで殺しをやらない理由がない。賭けてもいい」

 ネッドはこくこくと頷いた。

「すみませんが、その賭けは成立しないですよ。……しかしじゃあ、どうします。シンシナティにいったい何人、金髪の男が住んでると? 美男コンテストでもやりますか」

 地図を畳みながら、サムはうーんと考えこんだ。

「……一連の事件が起こるより前に、シンシナティとその近辺で同様の死体がでてないか徹底的に洗い直してみよう。物事にはなんだって、きっかけってものがある。ひょっとしたら、俺たちが見落としてる事件があるかもしれない」

 女性を無差別的に狙うようになる前の事件がもしもあれば、そこから犯人の手掛かりをみつけられるかもしれない。サムとネッドは車に乗りこむと、やっと見えてきた微かな糸口が幻でないよう祈りながら、現場を後にした。




       * * *




 日曜日。ジョニーは朝から習慣である日曜礼拝に出かけた。この日はいつもの礼拝のあと、教会の庭園で月に一度のバザーが行われた。ジョニーもベイクセールのコーナーで、焼きたてのマフィンやクッキーを包装するのを手伝った。

 教会のシスターたちや、毎週やってくる熱心な信者たちとは、もうすっかり顔馴染みだった。皆「はぁいジョニー」「おつかれさま、ジョニー」と気さくに声をかけてくる。ジョニーはそのたびににっこりと微笑みを返した。

 バザーは大盛況で、ジョニーが丁寧にモールで綴じた袋入りの焼き菓子は早々に売り切れてしまった。簡単に片付けをし、それをシスターに報告すると、ジョニーと同じように吃音に悩んでいる子供が来ている、その母親に会ってくれと頼まれた。

 こういったことはこれまでにも何度かあった。幼い頃から吃音に苦しみながらも、おとなになった今、障害を持たない者と変わらず過ごしているジョニーは悩める者の希望であり、尊敬の対象であった。

 紹介された母子に教会の庭で会うと、ジョニーはまず分けてもらったクッキーをその六、七歳くらいの男の子にあげた。男の子は嬉しそうに「あ、あーー……りーがと」と、お礼を云った。ジョニーも「きょ、今日はき、きき来てくれて、あ、ありがとうね」とお礼を返した。男の子はジョニーの言葉を聞いて、ぱぁっと笑顔になった。

 そしてジョニーは、男の子の母親に自分の経験を語った。何度も言葉に詰まりながらも、こうして今のあなたのように、相手が待ってくれれば人と話すのは決して無理なことではないのだと伝えた。いつも使っているカードも見せ、これはそのまま相手に見せるという使い方もできるが、カードを見ながらだとすんなり言葉がでる場合もあるので試してみてと勧めた。母親は早速作ろうねと子供に微笑みかけ、何度も礼を云って帰っていった。



 教会からの帰り。いつもの停留所でバスを降りると、ジョニーは通り路にあるグローサリーストアに寄った。

 カゴは持たず、真っ直ぐ目当ての棚へと向かう。『SKIPPYスキッピー』という赤い文字のラベルが貼られたピーナツバターの瓶を取り、次に『Mrs. Miller'sミセス・ミラーの Homemadeホームメイド』の瓶がずらりと並んだ棚を眺め、目当てのものを探した。すると――

「あ」

 最後の一個だったブラックベリーのジャムをみつけて手を伸ばしたとき、それを誰かが先に取っていった。ジョニーは思わずその手を目で追い――「あっ……ごめんなさい」とこっちを見た顔に、動きを止めた。

「ひとつしかなかったのね、気づかないで取っちゃった……これ、いい?」

 柔らかくうねるライトブラウンの長い髪と、ヘイゼルの瞳。カウチンニットのカーディガンにジーンズというカジュアルな恰好の、仔栗鼠のように愛らしい女性がそこにいた。

「あ、ああああ……い、いい、です。どど、どうぞ……」

 俺はこっちの『SMUCKER'Sスマッカーズ』でいいので、と心のなかで云いながら、ジョニーはそちらの瓶を取った。本当は同じブラックベリーでもミセス・ミラーがいちばんの好物で、特にピーナツバターと一緒にパンに塗るのは他のものでは甘すぎたりして、気に入らないのだが。

「そう? よかった、ありがとう。……これ、美味しいのよね。ピーナツバターと合わせるのは、このミセス・ミラーのブラックベリーじゃないとだめなの、私」

 ――思わず、ジョニーは目を丸くして女性を見つめた。女性もこっちを見ていて、目が合ってしまったことに一拍遅れて気がつく。ジョニーはかっと耳が熱くなったのを感じると、そこから逃げだすように慌ただしくレジスターへと向かった。だが、陳列棚に挟まれた通路から飛びだしたジョニーは、会計を済ませ店を出ようとしていた五十代くらいの男とぶつかってしまった。

 男がちっと舌打ちをし、「おい! 気ぃつけろや」とジョニーに向かって怒鳴る。ジョニーは咄嗟には声をだせず、ふたつの瓶を抱えたまま頭を下げた。男は謝りもしねえのか、まったく今どきの若いもんは、とぶつぶつ云いながら店を出ていった。

 ジョニーはそのとき、足許に財布らしきものが落ちていることに気づいた。

「あ、あ、あああああの……さ、ささ、さい――」

 拾いあげながら男を呼びとめようとするが、こんなときはいつも以上に言葉が出ない。商品を持ったままのジョニーは店から出るわけにいかず、男の姿はもう見えなかった。

 どうしようこの財布、店の人に預けておこうか、とジョニーが迷っていると――

「貸して! そのかわり、これ持ってて」

 さっきの女性が最後のひとつだったブラックベリーのジャムを押しつけ、ジョニーの手から財布を取りあげた。ジョニーは驚いて顔を上げたが――女性は既に踵を返して店を飛びだし、男を追いかけていった後だった。









[Track 02 - Break On Through (To the Other Side) 「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの転機」 ③ へ続く]

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る