Track 02 - Break On Through (To the Other Side)

「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの転機」 ①

 ――一九七三年六月 ハンティントン、ウェストバージニア州――



「――じゃあね、また」

 ヘザーがそう云うと、肩を並べ歩いていたダイアンとその恋人のマイケルは、その場でぴたりと立ち止まった。

「ああ、君はそっちだっけ……もう夜遅いから、家まで送るよ」

「そうよ、ひとりで歩くなんて危ないわ、ヘザー」

 だがヘザーは「大丈夫よ」と云って肩を竦めた。

「もうすぐそこだし、ひとりで帰ることなんてしょっちゅうよ。心配することないわ。それに、あんまりふたりのお邪魔してたら悪いしね」

「邪魔だなんて」

 ダイアンとマイケルは声を揃えて見つめ合い、ふたりして微笑んだ。

「そんなことより、レポートを手伝ってもらって本当に助かった。これで俺もやっと待ちに待った夏休みだ。お礼に今度、なにか奢るよ」

「ほんと? じゃあバーガーシェフのトリプルトリート、よろしくね」

「シェイクは?」

「チェリークリームがいいわ」

「チェリークリームって、なんだか卑猥」

「えぇ? やぁだ、ダイアンったら!」

 暫し冗談を云い合い、声をあげて笑ったあと。

 ヘザーは手を振り、恋人たちと別れた。


 大学からの帰り道。ダイアンたちは学生寮、ヘザーはそこから少し離れた貸家の一室で暮らしていた。同じ大学に通う女生徒七人で借りて、共同生活している家だ。

 街灯がぽつりぽつりと灯る広い舗道は、もう真夜中過ぎのこの時間、人はもちろん車すら通らない。一定の間隔を置いて建つ家々も、灯りの漏れている窓は殆どなかった。ヘザーは無意識に足早になりながら、歩き慣れた道を進んだ。六月の夜の空気は生暖かく、腕に感じる風がまるで誰かに撫でられているようで不快だった。

 ――ふとそれに気づいたのは足音だったのか、それとも気配だったのか――。ヘザーは振り返り、背後から人影が近づいてくるのを認め、少し歩くのを早めた。この時点では警戒というほどのこともなく、考え得るトラブルの可能性から距離を置きたいだけだった。

 だが、時折そっと肩越しに見やると、その人影は一向に遠ざかっていなかった。歩くペースを自分に合わせている――尾けられている? ヘザーは眉をひそめ、さらに歩く速度を早めた。いつものブロックを照らす街灯と標識が見え、その角を折れると駆けだした。

 背後など気にする余裕もなく、ヘザーは必死に走った。走って、走って、ようやく帰る家が見えてきたところでもう大丈夫だろうと足を止め、乱れた呼吸を整える。

 ふぅと息をついて再び振り返り、来た道を窺う。もうどこにも人影らしきものは見えなかった。ほっとして、汗で貼りついたブラウスの裾を抓み、扇ぐ。

 早く帰ってシャワーを浴びようと思い、ヘザーが向き直ると――そこに、誰かが立っていた。

「え――」

 黒尽くめのレインウェアのような上下にスニーカー――不審者めいた恰好と云えなくもなかったが、不思議と恐怖は感じなかった。さっき背後からついてきていたのが、この男だとは思えなかったからだろう。髭のない、清潔感のある若い男。長めに伸ばした金髪。優しげな面差しに薄く微笑みを浮かべた、ハンサムな青年だった。そう、思わずぽっと見蕩れてしまうような。

 うちの大学の人かしら? とヘザーは男を見つめながら、大勢で賑わうキャンパスの記憶を辿っていた。だからヘザーは、きらりと光るものが眼の前を一瞬過ぎり、云おうとした言葉が声にならなくても、なにが起こったのかわからなかった。

 襟刳りの広いブラウスから覗く胸許に、なにか温かいものが伝うのを感じた。頸から血が噴きだしていることに気づき、ああ、声がでないのはその所為だったんだと思ったときにはもう、ヘザーは地面に背中をつけ、星空と男のシルエットを見上げていた。男は横たわったヘザーに馬乗りになり、なんの躊躇いもなく何度も何度もナイフを振り下ろした。初夏の生温い風が金臭い血の匂いをかき混ぜ、刺激するように鼻孔を擽る。

 刺された回数を数えることなく、痛みや恐怖さえ感じることもないままに、ヘザーは二十年と少しの短い人生を終えた。開いたまま、もうなにを見ることもないその瞳には、男の恍惚とした表情が映っていた。




       * * *




 サミュエル・マクニールは遺体をあらゆる角度から撮った数枚の写真を眺めながら、盛大に溜息をついた。

「いったいなんだって連続殺人犯が彷徨いてるこのご時世に、ひとりで夜道なんか歩くんだ。今どきの学生はTVのニュースも視てないのか?」

「さすがに連続殺人のことくらいは知ってるでしょ。でも、警戒しろったって無理な話ですよ。なにしろこの州じゃ初めての犯行だ。此処の連中だって云ってたじゃないすか、これがあの〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟の仕業なのかって。FBI俺らが出張ってきてなきゃ、ただの怨恨かなにかだと思われてますって」

 ネッドがそう云うと、聞こえてしまったのかこの署に勤務する警官が片眉を上げてこっちを見た。大都市と違い、然程大きな事件のない地方の警察署にとって、自分たちは事件を奪いにきた余所者である。歓迎されていないのは百も承知、いつものことだった。

 サムはその警官に気づいていないふりで、捜査本部のドアを閉めた。

 捜査本部と云っても、空いている取調室に必要なものを持ちこんだ、間借りしているような状態の仮設である。デスクとパイプ椅子、赤く印のつけられたアメリカ合衆国ステイツの地図と現場写真などが貼られているホワイトボードの他は、電話機とごみ箱トラッシュカンと灰皿くらいしかない。

 サムは煙草を咥えながらパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろし、ぺらぺらと捲したてるネッドこと、エドワード・キャラハン捜査官を睨んだ。ネッドと組むのは今回は初めてだが、なんだかまだ学生気分が抜けていないような話し方と、真面目なのか不真面目なのかわからない飄々とした態度が気に入らず、サムは若造が偉そうに、と内心でごちた。

「そんなことは云われなくてもわかってる。ちと愚痴りたくなっただけだ」

 遺体も現場の様子も、これまでとほとんど同じだった。被害者は大学から帰宅途中の二十歳の女性、死亡推定時刻は友人の証言から深夜零時過ぎ、学生寮に帰る友人と別れた数分後。所持品に奪われたものはない模様。最初に喉を掻っ切られて悲鳴もあげられず、路上に倒れたあと胸部や腹部などを刃渡り4.5インチほどの刃物で二十七ヶ所、滅多刺しにされている。死因は失血性ショック、ほぼ即死であっただろうと思われる。性的暴行の痕跡はなし。犯人は返り血を浴びているはずだが、辺りは閑静な住宅街で人通りは日中でも少なく、目撃者は今のところなし。

 これと似たような事件が去年の暮れ、一九七二年の十二月からケンタッキー州、オハイオ州、インディアナ州と広範囲で起こっていた。そして今回ウェストバージニア州でおそらく初めての犯行、少なくとも十七人めの被害者である。

「〝魅惑の殺人鬼〟か。まったく、誰が云いだしたんだか」

「最初に気づいたのはあなたでしょ?」

 ネッドに云われ、そうだったとサムは苦々しく頷いた。

 これは同じ犯人によるもの、連続殺人事件ではないかとようやくその可能性に誰かが気がつき、連邦捜査局Federal Bureau of Investigationが一連の事件に介入すると決定したとき。担当を命じられたサムは、先ず起こった事件の管轄署まで出向き、厭な顔をされながら捜査資料を集めるという作業を被害者の数だけ熟した。



 この時代、まだオンラインで照会できるデータベースなどもちろんなく、あるのは各署内に保管された紙の資料のみである。警察署同士は連携などしておらず州を跨げば尚更で、捜査技術も未熟だった。殺人課の刑事など、然るべき人間が駆けつけたとき、捜査に不慣れな警察官や保安官に現場を足跡だらけにされていることもめずらしくなかった。

 通りには防犯カメラなどなく、当然のことながら携帯電話セルフォンもまだなく、緊急通報用電話番号も機能していなかった。全米で911の使用 Call 911 が一般化したのはこのおよそ十年ほど後、八〇年代に入ってからのことである。

 前科者は記録されてはいるものの、性犯罪登録簿はまだなかった。DNA鑑定もなく、かろうじて一九七二年にFBIが行動科学課を創設、捜査にプロファイリングを採り入れ始めているが、犯人像を統計学的に導きだすための膨大な情報がデータベース化されているわけではないため、当初は犯罪の専門家たちが議論し、捜査員に助言するくらいのものだった。



 被害者が十一人を数えた二ヶ月前。サムは凶器の形状が一致すると思われる刺殺事件の捜査資料から被害者の写真を取りだし、ホワイトボードに並べて貼った。

 被害者はいずれも十代後半から三十代前半までの女性だが、髪はロングヘアもショートヘアもボブもいて、色も金髪、赤毛、ブルネットとバラエティに富んでいた。体型も標準体型から痩せ型、胸のカップサイズもばらばらで、被害者たちにこれといった共通点は見いだせなかった。服装もカジュアルなワンピースドレス姿もいれば、ジーンズにTシャツといったラフな恰好もいて、狙われる特徴らしきものもない。学生、主婦、看護婦に教師、事務員にウェイトレスと、職業の類もいろいろだった。共通しているのは若い女性であることと、ひとりで夜道を歩いていたこと。その二点しかない。

 ただ、引っかかったことがひとつだけあった。

 偶々、他の事件の資料を見かけたサムは、その資料にあった遺体の写真と一連の事件の被害者の写真に、僅かな差異を感じた。サムは十一枚ある被害者の写真を、あらためてじっくりと見た。

 そして、違和感の正体に気づいた――どれも皆、恐怖の色を浮かべていないのだ。否、もちろん絞殺でない限り、他殺体が必ずしも苦痛や恐怖に歪んだ表情のまま死んでいるなんてことはない。だが、長年の経験からかサムはその十一人の女性たちの顔が、今にも笑顔でハイ、と挨拶でもしそうな様子に感じた。そこまでではなくても、眼の前に立っている人物がまさかこれから自分を刺し殺すなんて思いもよらなかったのでは、という印象を受けたのだ。

 署内でそんなことを話しているのを、どうやら記者が聞き耳を立てていたらしい。翌日にはこの連続殺人犯は〝魅惑の殺人鬼〟という異名で呼ばれ、新聞やTVのニュースを賑わすようになった。

 なにが魅惑だ、とサムは苦々しくデスクの上の捜査資料を指で弾いた。それで見た目がいかに好男子であっても警戒を怠ってはいけないと危機意識が広まるならいいが、くだらないTVショーの所為で、凶悪な連続殺人犯がまるでカリスマ的なロックスターのような扱いだ。

「――マクニール捜査官エージェント マクニール? ……サム! 聞いてます!?」

 名前を呼ばれ、はっとして我に返る。長く伸びた灰を灰皿に落としながら「ああ、なんだ?」と訊き返すと、カールコードを目一杯伸ばした受話器を持ったネッドが、興奮気味にこっちを見ていた。

「犯人らしき人物の目撃者がいました。昨夜の零時過ぎ、現場近くで男がひとりで歩いているのを見たという学生がみつかったそうです。距離があって顔までは見ていないそうですが、黒っぽい長袖の服を着ていて、金髪だったと――」

 金髪。サムはぴくりとそれに反応した。もしも〝魅惑の殺人鬼〟が本当に女性を見蕩れさせるような容姿の持ち主なら、金髪である可能性は少なくないかもしれない。

「よし、行こう」

 サムは椅子にかけてあったジャケットを引っ掴み、ネッドと一緒に仮設の捜査本部を出た。



 ――しかし。

 金髪の男が夜中にひとりで現場近くを歩いていた、などという目撃情報は結局、捜査になんの進展も齎すことはなかった。

 月に二件、多いときには四件と、特に一定の期間を置くわけでもなく曜日も定まらず、おまけに州を超えて神出鬼没に現れる殺人者。パトロールしていた警官が事件発生の報を受けて怪しい人物を発見し、追ったことが二度あるが、その男は逃げ足が速く、途中で姿を見失ってしまうという結果に終わっていた。

 現場には依然としてなんの手掛かりも残されず、事件解決の糸口はまったく掴めないまま、〝魅惑の殺人鬼〟はそれからも若い女性ばかりを殺し続けた。

 積みあげられていく捜査資料。写真に映る被害者たちは皆、二十ヶ所以上を滅多刺しにされていて、遠目で見るとまるで黒いインクを溢したようだった。




       * * *




『――の犯行と見られる連続殺人事件は、これでオハイオ州で十件、ケンタッキー州で七件、インディアナ州で六件、ウェストバージニア州で三件を数えることとなりました。被害者はいずれも十六歳から三十二歳の女性、実に二十六人に及びます。〝魅惑の殺人鬼〟が次に現れるのは何処なのか、そして、この残忍な犯行がいったいどれだけ続くのか――恐怖に慄く夜は、まだ終わる気配を見せてはいません』



「二十六人めだって? とんでもねえな」

「ああ、うちに娘がいなくてよかったよ。もしいたら、ひとりで外になんてとても出せやしねえ」

「娘の前に、おまえには女房がいないだろうが」

 フレッドはボブに向かってそう云い、笑いながら咥えていた煙草に火をつけた。

 炭酸飲料の缶と煙草を片手に、男たちは午後の休憩中であった。錆びた鉄屑と油の臭いがする工場の裏手に同じラインで働いている者たち四人が集まり、ラジオをかけながら駄弁っている。もうじき六十になるベテランのアルヴィンと、ボブとフレッドは働き盛りの三十代、そして、まだ学生のように見えるおとなしそうな青年がひとり。

「〝魅惑の殺人鬼〟は金髪の男前って話だぜ。ひょっとしてジョニー、おまえさんが犯人だったりしてな」

 そんなことを云われ、ジョニーと呼ばれた青年は困ったような顔で笑い、肩を竦めた。後ろでひとつに束ねた、伸ばしっぱなしのブロンドが仔犬の尻尾のように揺れる。はっはっは、そりゃあ怖ぇ、とボブは声をあげて笑ったが、顔に深い皺を刻んだアルヴィンが「フレッド、そんなこと冗談でも云うもんじゃねえ」と真剣な顔で嗜めた。

「わかってるさ。この真面目なジョニー坊やに、虫だって殺せるもんか」

 フレッドが云うと、ボブも「違ぇねえ」と同意し、7UPを呷った。ジョニーも気を悪くした様子もなく、笑みを浮かべて皆の顔を見ている。

 そのとき、ジリリリと鳴り響くベルの音が工場内から聞こえてきた。それを合図に皆が煙草を消したり、缶をくしゃっと握り潰して立ちあがり、伸びをする。

「さて、もうひと頑張りしますかね」

「おう。――よ、ジョニー。今日、仕事が終わったらまた一緒に飲みに行くか?」

 一番乗りで工場内に戻ろうとしていたジョニーは、ボブにそう声をかけられて振り返ると、少し悩むように小首を傾げた。

「あ、あああ、あり、が、と……で、ででも、い、いい」

 ジョニーは途切れ途切れにそう言葉を押しだすと、ベルトから下げていたカードの束を何枚か捲り、『今夜』『予定があります』と書かれたものを二枚示して微笑んだ。

「そっか。じゃあ、また今度な」

 ジョニーはにっこりと笑顔を浮かべたまま頷き、工場内へと戻っていった。

 その後ろ姿をじっと目で追い、アルヴィンが独り言のように呟く。

「……あの子は偉ぇよ。あの酷ぇどもりじゃ家に籠もったまんまになっちまっても不思議じゃねえのに、ああやって自分で工夫して働いてんだ。なかなか真似できるこっちゃねえ」

 その言葉に、フレッドも頷いた。

「しかもあいつ、日曜礼拝には欠かさず通って、ボランティアなんかもやってるらしいぜ」

「ああ、聞いた。なんでも耳やら言葉が不自由な子供らのためのバザーを手伝ったり、一緒に遊んでやったりするんだとさ」

「聞いたって、ジョニーからか?」

「まさか。教会にすんげえグラマーなシスターがいるんだ。彼女から聞いた」

「罰当たりめ」

 と、ボブとフレッドはまた軽口を叩いていたが――さあ行こうや、とふと振り返り、アルヴィンが涙ぐんでいるのを見て目を丸くした。

「おいおい爺さん、なに泣いてんだ」

「うるせえ。誰が爺さんだ。……あんなに信心深くて性根の優しい真面目な奴が、なんだってまともに口も利けねえのかと思ってよ。神さんはいったい、どこに目ぇつけてやがるんだろうな」

 フレッドはぽんとアルヴィンの肩に手を置き、薄暗い工場のなかでなお目立つバターブロンドに目をやった。

「きっと奴にも、そのうちいいことがあるさ」

「そうそう。そして俺にも、そのうちきっとグラマーな女房ができる」

「そいつはどうかな」

「まず通りで女を買うのと、シスターの胸許を見るのをやめなきゃな」

 さ、仕事仕事。とフレッドが促し、男たちは自分の持ち場へと戻った。









[Track 02 - Break On Through (To the Other Side) 「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの転機」 ② へ続く]

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