「空室あり」 ②

 ――そして、その夜。

 諫山いさやま岩渕いわぶち古峯こみね田名辺たなべの四人は、ドミール川添かわぞえの駐車場で再び顔を合わせた。


 内見後、岡元おかもとを除く四人は今夜十時に再び此処に集まることにし、いったん解散した。田名辺はやはり気乗りしなかったが、岡元の反応が気になるし、もしもなにかあるとすれば暗くなってからだろうから念の為、と云う岩渕に対し、とうとう断りきれなかった。


 柿沼かきぬまの云っていたとおり、表通りから一本入った住宅街は夜も静かで、車や人の往来はほとんどなかった。通りには飲食店など看板の類も見当たらない。ぽつりぽつりと並ぶ街灯と、マンションの建物と駐車スペースのあいだにある防犯灯のおかげで真っ暗ではないが、見上げると暗青色を切り取るようにマンションが黒く聳え立っていて、少し不気味だった。

「じゃ、行こうか」

 岩渕が云い、三人が後に続く。エントランスも、エレベーターを降りたフロアもしんと静まりかえっていた。まあ鉄筋コンクリート造のマンションなのだから、軽量鉄骨造のアパートのように物音が漏れないのは当然かも知れない。周囲が静かな所為か誰も口を利かず、岩渕もそっと音をたてないよう鍵を開ける。

「お邪魔しまーす……」

 誰に云っているんだと苦笑しつつ、外廊下までと違い、伸ばした手の先も見えない暗さに思わず立ち止まる。しまった、懐中電灯を持ってくればよかったと思った瞬間、誰かがスマートフォンのライトで足許を照らした。

 そうだった、そんな機能があったなと田名辺はポケットからスマートフォンを取りだした。同じように、残るふたりも手許から伸びる白い光で周囲を照らし始める。廊下の奥、リビングへと続くドアに填まったガラスにライトが白く反射し、田名辺は眩しさに顔を逸らした。

「こっち、洋間だったな。寝室にするとしたらここかな?」

「あっ、そうすね」

 諫山が玄関を入ってすぐのところにあるドアを開け、六畳の洋室に入っていく。田名辺はドアから顔だけだしてその様子を見ていた。諫山はライトで部屋の隅々までを照らしながらぐるりと歩き、クローゼットの扉も開けてみている。

「うん、なにもないな。当たり前だが」

 なにか起こるとしたら風呂場とかかな、映画でよくあるし――そんなことを云いながら部屋を出てきた諫山に背中を押され、田名辺は先ずトイレのドアを開け、次に隣にある洗面所に入ってみた。正面の鏡に光が弾け、ライトを持っている自分の姿がぼうっと浮かびあがったが、やはりなにも異常はない。

 ユニットバスじゃない、風呂だけの風呂いいなあ、と独り言を呟きながら、田名辺はリビングに進み、先に入っていた岩渕と古峯に近づいた。

「夜見てもやっぱりいい部屋だわー。なんも問題ないっしょ?」

 地上の光を呑みこんだ夜の青が、大きな窓から忍びこんでいる。そのためリビングは玄関側よりもぼんやりと明るく、岩渕と古峯はもうライトはつけていなかった。生暖かい空気が動くのを感じ、ふと見やるとバルコニーの硝子戸が左端の一枚だけ開けられていた。古峯はうーんと困ったように笑い、岩渕を見た。

「まあ、来たばかりでなにか起こったらびっくりするよね。みんなライト消して、もうしばらく様子を見よう。――ね? 諫山さん」

「ああ、そうしよう」

 そう云って岩渕と諫山がリビングの真ん中に腰を下ろし、足を組むのを見て田名辺は心底うんざりした顔をした。云われたとおりライトを消しながら古峯を睨むが、まあまあとその場に坐らされてしまう。岩渕と諫山はともかく、古峯の機嫌を損ねると金を貸してもらえなくなるのではという懸念があるため、もういいと帰りたくてもそうもできず。

 しょうがない、ともう田名辺は諦めた。最悪、夜明けまでここにいるとしても、あと五、六時間ほどのことだ。アパートに帰っても暑苦しい部屋で扇風機を回して、万年床になっている煎餅布団で眠るだけだ。ここで微かな夜風を感じながら転寝しているほうがましかもしれない。

 そんなことを考えながら、田名辺が壁に凭れてぼうっとバルコニーのほうを眺めていた、そのとき。


 ――ピシッ


「……なんだ?」

 どこからか、奇妙な音が聞こえた。


 ――パキッ……


「な……なんの音?」

「しっ」

 枯れ枝を踏み折るような音が、今度ははっきりと聞こえた。が、どっちからかはよくわからない。岩渕は片膝を立て、口許に人差し指を当ててこっちを見ていて、諫山は立ちあがって部屋を見まわしていた。

「ラップ音だ」

 諫山が小声で云う。まさかと眉根を寄せている田名辺と諫山の顔を、古峯が途惑ったように何度も見る。ラップ音なんてありえないと思いつつ耳をそばだてていると、またパシッ、という音がして田名辺は引き攣った笑いを浮かべた。

「……お隣さんじゃないの……?」

「そういう感じじゃないな」

 皆、緊張した様子でその場に留まり、静かに耳を澄ませている。すると――


 ――パタッ……


「……な、なに……?」


 ――ピタン……


 どこからか微かにピタン、と水が滴るような音が聞こえた。さすがに気味が悪く、すくっと立ちあがりながら田名辺と古峯はどちらからともなく腕を組み合った。

 パタッ……ピチャーン……と、水音は不気味に響き続けている。諫山と岩渕は頷き合い、またスマートフォンを取りだしてライトをつけると、そろりそろりとリビングを出た。

 その場に取り残されるのもなんだか厭で、田名辺は古峯と腕を組んだまま、その後に続いた。廊下に出、洗面所のドアを開けて諫山がその向こうに姿を消す。がらっと浴室のドアが開く音とともに、ピチャンと云う水音も更にはっきりと耳に届く。田名辺は思わず絡めている腕に、しがみつくように力を込めた。

「……蛇口から雫が落ちてるだけ、といえばそうなんだが……さっき、水なんか誰も出してないよな」

「出してない……」

「そもそも、入居が決まらないと水道って止められてるのでは?」

 うむ、と諫山の声がして、岩渕の後ろから風呂場のなかを覗きこむ。諫山は蛇口を捻ったりしてなにか確かめていたが――

「やっぱり水は止まってる。だが……見てみろ」

 そう云って、諫山は浴槽の中を照らした。岩渕が浴室に入り、ライトの先に目を凝らす。

「……ありえない。きちんと清掃されてるはずだ」

「ああ、昼間見たときにはなかった」

「えっ、なんすか。なにが……」

 田名辺も堪らず浴槽を覗きこんだ。そして、を認めた瞬間「ひっ」と息を呑む。

 浴槽の中、ライトの光が照らしだしたのは、水滴が伝った跡と、それに沿って貼りついている数本の長い黒髪だった。

 ――しかし、怪現象はそれだけでは終わらなかった。

「今度はなんだ……!?」

 キッチンのほうでガシャーンと、ガラスが割れるような音がした。ぎゅっと古峯の腕にしがみついたままの田名辺を押し退け、岩渕と諫山が洗面所を出る。リビングに駆けこんだ岩渕がキッチンを見て「……なにもないぞ」と云ったが、広いリビングを見まわした諫山は、こんなことありえないとでも云うように首をゆるゆると振った。

 恐る恐るついてきた田名辺も、諫山の背後に隠れるようにしながらそれを見た。暗がりの中、諫山がゆらりと照らした光に鮮明な色が浮かびあがる。いやでも目に入ってしまうに、田名辺は恐怖に慄き引き攣ったまま表情を凍らせた。

「……なんだよこれ!!」



『たすけて』『タスケテ』『たすけて』『みつけて』『たすけて』『たすけて』『タスケテ』『たすけて』『みつけて』『タスケテ』『みつけて』『たすけて』『タスケテ』『みつけて』『タスケテ』『たすけて』『たすけて』『タスケテ』『みつけて』――



 数えきれないほどの『たすけて』『タスケテ』『みつけて』という、まるで血のように赤い文字が、キッチンとは反対側の壁一面に書き殴られていた。これでぞっとしない者はいないだろう――怪現象など信じていない田名辺も、ついさっきまではなかった不気味な文字にがくがくと震えあがった。

 ライトの光を彷徨わせながら、諫山が独り言のように呟く。

「……これは凄い。家賃が安いわけだ」

「もういいじゃないか、田名辺……おまえ、これでもまだここに住みたいって云うつもりか!? もう帰ろうぜ、俺、もうやだよ、勘弁してくれ――」

「こんなとこ、俺ならただでも住みたくないね……! 田名辺くん、わかったろう。ここはもう諦めることだ……」

 確かに。古峯と岩渕に云われるまでもなく、こんな怖ろしい現象が起こる部屋に住むなんてとんでもない、無理だと思った。しかし――

 田名辺は考えた。これは、本当に本物の心霊現象なのだろうか。こんな、まるっきりホラー映画そのままのベタな怪現象が、現実に起こるものだろうか? ひょっとして、誰かが自分を騙そうとしているのでは――

 恐怖心は確かにあるのだが、田名辺はまだ半信半疑、これが本物の心霊現象かどうか疑っていた。諫山も岩渕ももう帰ろう、こんな場所から早く出ようと声をかけてきていたが、田名辺はまだこの部屋に未練があるようにバルコニーに向いたまま、その場に突っ立っていた。

 しかし。

 ひんやりとした風が入ってきて、部屋の温度が下がったと思ったそのとき――バルコニーに、すぅっとなにかが浮かびあがった。


 ぼうっと白い、ほっそりとした肢体。ワンピースかスリップのような薄い布を纏い、だらりと両手を下げた長い黒髪の若い女性。ぼんやりとシルエット程度しか視えていないはずなのに、何故かそこまではっきりとわかった。硝子戸の外側、どこからか来ることなどありえないその場所に、その女は立ち――

 ゆっくりと頭を上げて、その蒼白い顔をこっちに向けた。


「――ぎゃあああぁぁぁぁああああっ!!」

「で、でたっ……!!」

 文字通り跳びあがり、誰かに掴まりつつも千切るように押し退けて、我先にと部屋を飛びだす。もうパニックのような状態で、必死に走ってマンションの外まで辿り着いたとき、田名辺は自分がエレベーターを使ったのか階段を下りたのかさえわからなかった。両膝に手をつき、乱れた息を整えながら顔を上げると、同じように自分を見ている古峯と目が合った。

 来たときと同じにマンションは静かに聳え立ち、駐車場には他に人影もない。なんとなく、今見てきたのは現実だったのだろうか、という気がした。田名辺はそう尋ねるように、そのまま古峯の顔をじっと見ていた。すると。

「……困ったらまた貸してやるから。もう帰ろう。今日はうちに泊まるか?」

「……うん、そうさせてもらうかな」

 さすがに、もう此処に越したいという気持ちは消えていた。

 歩き始めてふと気づき、「岩渕さんたち出てこないけど、大丈夫かな?」と振り返る。しかし、古峯は首を横に振った。

「放っておけばいいよ。おまえは、あの人たちとはもう関わらなくていい。……俺が連れてきといてなんだけど」

「……おまえがそう云うなら、いっか」

 戻って施錠するために、部屋から離れただけでまだ留まっているのかもしれない。そうでなければ、自分が気づかないうちに反対側へ出ていったのかもしれない。田名辺はそう考え、もう岩渕と諫山のことは気にしないことにし、古峯と一緒にドミール川添を後にした。




       * * *




「――うまくいったな」

「すげえ、俺、嘘モンだってわかってるのにまじでびびっちまった。おまえ、凄いわ

 洋室のクローゼットから出てリビングにやってきた岡元は、得意そうにふふんと笑みを浮かべた。

「そんなに難しいことはやってないぞ。ただ蛇口を、髪の毛と水入れて凍らせておいたやつと交換して、壁の文字は二枚重ねて貼っておいただけだ。うまくいったろ?」

「二枚って、文字を書いたうえからもう一枚貼ってあったってことか。でも、それをいつどうやって剥がしたんだ? 剥がす音もなにも聞こえなかったぞ」

「上から覆ってあったのは薄い布で、すぐに剥がれるように養生テープで止めてあったんだ。大きさも色も壁とほとんど同じにしたし、暗いからわからなかったろ? あとは、端を結んだ細いテグスをドローンに繋いで、バルコニーに隠しておいて、みんなが風呂場に行った隙に――」

 岡元はそう云って、手をくるくると回しながら上げた。岩渕が感心したように「だから左側を開けろって云ったのか」と興奮気味に笑う。

「じゃ、あのなんか割れた音は?」

「あんなのスマホから再生しただけに決まってんだろ」

「それであんなリアルな音が響くのか? それに、音はキッチンから聞こえてきたぞ」

「流し台の下見てみ? いいスピーカー入ってるから」

Bluetoothブルートゥース で飛ばしたのか、なるほど」

「まあ、とりあえずよくやった。岡元にはボーナスを出そう」

 諫山はそう云ってにやりと笑った。「明日には契約して、部屋が使えるようになったらまた人員も増やす。おまえらも心当たりがあったら誰か連れてこい。いつも云ってるようになるべく彼女持ちじゃない、結婚もしてない奴、金に困っていて親にも頼れない、友達も大勢いないような奴だ。……ああ、口下手な奴はやめとけよ。ちゃんと電話で奴じゃないと困る」

 いわゆる振り込め詐欺グループのリーダーである諫山は、そう云って煙草を取りだし、一本咥えて火をつけた。諫山の右腕である岩渕がポケットから携帯灰皿をだしてぱちりと開き、カウンターテーブルに置く。

「しかし、ほんとに広いしいい部屋だな。別に家賃半額じゃなくても新たな拠点にちょうどよかった。ラッキーだな」

 岩渕の言葉に、壁一面に貼ってあったリメイクシートを剥がしながら、岡元が「そういえば」と振り返る。

「ここって、本当はどうして家賃が半額だったんだろうな」

「さあな。どうだっていいじゃないか」

「まあ、実は事故物件だったのかもしれんが、まさか本当に幽霊が出たりはしないさ」

 諫山が云うと、岩渕は「まったくだ」と笑った。

「しかし、水滴や文字のトリックはわかったが、最後のは特に凄かったな。あの女の幽霊、いったいどんな手を使ったんだ」

 その言葉に、岡元は怪訝そうに眉根を寄せた。岩渕もつられるように顔から笑みを消し、諫山も煙草を持った手を空で止め、真顔になる。

 岡元は云った。

「女の幽霊ってなに……俺、そんな仕掛けはしてない……」

 その言葉を合図にしたかのように、部屋の温度がまた下がった。その瞬間、諫山の煙草の火がふっと消え、三人は顔を見合わせた。

「なんだ……!?」

 風など吹き込んでいない。硝子戸はまだ開いたままだったが、風ではなく冷たい空気が――そう、まるで冷凍室を開けたときのような冷気が、すぅっと足許に忍び寄っていた。

 何故か額に冷や汗が浮かぶのを感じながら、三人は同時に、ゆっくりと――

 バルコニーのほうを向いた。







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♪ "The Night Comes Down" Queen, 1973

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