✦ 10 Night Songs and Stories -宵闇に融けるころ-

烏丸千弦

Track 01 - The Night Comes Down

「空室あり」 ①

「――1LDK、角部屋、対面式カウンターキッチンにバストイレ別、ウォークインクローゼット付き?」

 ドアが開くたび、蟬時雨が忍びこむ昼下がり。

 大学近くにあるファストフード店で、差しだしたスマートフォンの画面を覗きこみ、古峯こみねは小首を傾げた。小綺麗な恰好をし、髪も眉もきちんと整えられたその顔を見ながら、田名辺たなべは笑みを浮かべ、うんうんと頷く。

「しかも、1LDKっつっても六〇平米もあるんだぞ、めっちゃ広くない? ベランダも広くて南向きだし、最高だと思わね?」

「いや、そりゃ最高だと思うけど……でも駅近えきチカでこんないい部屋、家賃もめっちゃ高いに決まってんじゃん」

 長居して寛ぐには不向きな硬い椅子に凭れ、古峯はスマートフォンを突き返してきた。が、田名辺はふふん、と得意げに笑ってみせると、スマートフォンの画面を少しスクロールし、また古峯に向けた。

「高かったらこんな話しないって」

「えっ……うっそ、まじ?」

 その画面には『ドミール川添かわぞえ 賃料:38,000円 管理費等:5,000円 敷金:2ヶ月 礼金:なし』とあった。賃料の破格さに驚いたらしい古峯が顔をあげると、田名辺は「な、安いだろ? もう早く決めないと誰かに取られるんじゃないかと思ってさ、それで……相談したんだよ」と云った。

 片手に持ったままだったスパイシーチキンバーガーの残りを頬張り、古峯がもぐもぐと咀嚼する。怪訝そうな目を田名辺に向けながら次にコーラのストローを咥えると、ズゴゴゴ……と音がした。

 ふぅ、と息をつきながら飲み干した紙コップをトレーに乗せ、古峯は云った。

「……敷金貸せってか」

「貸せなんて、そんなふうには云わないって。ってか、わかるだろ? 今住んでるあの壁の薄いアパート、あれで家賃六万も払ってるんだぞ。絶対ここに越したほうが得じゃん」

「それはわかる」

「だろ? 二万の差はでかいぞ、メシとかもうちょっとまともなもん食えるって。……だから、敷金と、前家賃とかいろいろかかるだろうから十二万ほど貸してもらえたら助かる……。家賃が安くなるぶんで確実にちゃんと返せるし、そうしたらもうこれまでみたいにちょこちょこ貸してくれとか、奢ってくれって云わなくなるから! これで最後だから!」

 そう云って田名辺は両手を合わせ、拝むようにしてテーブルに顔を伏せた。ふーむと息をついて考えこんでいる気配を頭の上から感じ、そろそろと目線を上げる。

「……ってか、なんでこれ、こんなに安いんだ?」

「さあ。まだ見にも行ってないし」

 古峯はテーブルに置いたままだった田名辺のスマートフォンを手に取ると、何度かタップして「やっぱり」と呟いた。

「ほれ、見てみろ。このマンション、他にも空いてる部屋あるけど、家賃と共益費込みで八万超えんじゃん」

「えっ?」

 画面を覗くと、同じ1LDKでも少し間取りは違うが『賃料:76,000円』となっていて、マンション名は確かに『ドミール川添』とある。

「ってことは、半額?」

「これ、あれじゃねえの? 事故物件ってやつ。もしかして幽霊とかでるのかも」

「えー、まっさかあ」

 だってなにも理由がなくてこんなに安いわけないじゃん、と古峯は呆れたように云い、はい終了~と、ポテトやバーガーの紙容器を丸めてトレーに乗せた。

 だが田名辺は、少し考えこむ素振りをして、ぼそりと呟いた。

「……でも、おばけと同居すれば家賃半額ってんなら、ありかも」

 現実的に考えて怪奇現象などありえないと思いながら、田名辺は云った。問題があるとすれば、たとえば窓の向かい側にネオンサインがあって夜ちらちらと眩しいとか、そんなことなのではないか。

 もしも仮に、前の居住者が孤独死した部屋だったとしても、きちんと綺麗にクリーニングされ、死臭が残ったりもしていないはずだ。田名辺はそういったことに神経質ではない。というか、どちらかといえば鈍感なほうだった。

「うん、俺は気にならないな。サキュバス系巨乳美女の幽霊でもでてくれるんなら、歓迎するのにって思うくらいだ」

 そう云うと、古峯はありえないと首を横に振った。

「ってか、家賃の節約よりも、もっと割の良いバイトとかすればいいんじゃね?」

「それもしたいけど……ゼミのほうも忙しいし、なかなかいい仕事ないし」

「……あったらやんの?」

「そりゃ、空いてる時間にできるいいバイトがあるんならやるけど……、でも、どっちにしても先ずはこの部屋だろ」

 なあ、頼むよ、と縋るように云ってみる。すると、古峯は「わかった、ちょっと聞い……考えてみるわ」と立ちあがった。

 店を出て、灼けるような強い陽射しとジィジィと喧しい蝉の声に顔を顰める。眩しさに目を細め、肩を並べて歩き始めたとき「ところでおまえは食べなくてよかったの?」と古峯が尋ねてきた。

「今、もやし炒めとケチャップパスタでがんばってるんだ」

 いつものことなので恥ずかしげもなくそう答えると、古峯は大きく溜息をつき、ポケットから財布をだした。

「ぶっ倒れて病院に担ぎこまれたら、そっちのほうが金がかかる。メシはちゃんと食え」

 少し迷うように指を彷徨わせ、古峯は五千円札を一枚抜いた。田名辺は「恩に着る!」と両手で拝むようにして札を受けとり――おまえ、どうしていつもそんなに金回りがいいのさと呟いた。





 翌日。

 古峯に呼びだされ、田名辺はひとりなら入ることなどないであろう、小洒落た喫茶店に来ていた。

 時間ぎりぎりで間に合った人気のモーニングセットが並ぶテーブルを挟み、田名辺の前には古峯と、岩渕いわぶちという男が並んでいた。岩渕は古峯の友人の兄のゼミのOB、とかなんとか、まあそんな縁の知り合いらしい。

「――だからね、君が怖くなくても、その手の曰くを気にしないとしても、やっぱりなにかあるなら避けたほうがいいってことなんだ、わかる?」

「はあ」

 なにもなくて家賃が半額なわけがない。古峯は事故物件かもしれない部屋に友人が越そうとしているのを心配して、この岩渕に相談をしてみたそうだ。そして岩渕も、そんな怪しい部屋に住むなんてやめたほうがいいのではないかという意見で、田名辺は今ここで家賃半額の部屋を諦めるよう説得されている、というわけである。

「……って云ってもね。君も、そこが本当に事故物件なのかどうかもわからないうちに諦めろって云われても、なかなか納得できないと思うんだよね」

「はあ、正直そっすね。それに、俺は事故物件でも気にしないんで――」

「いや、気にしないのはわかったけどね。霊障っていってね、視えたりしない人でも、住んでるうちに身体の調子が悪くなったりとか、そういうこともあるから」

「はあ」

 そうは云われても、やはりピンとこない。田名辺はコーヒーを啜りながら、なんでこんな人連れてきたんだよと、古峯に目配せした。だが。

「まあさ、おまえも肝心の部屋見てみないと、やっぱわかんねえよな。でさ、岩渕さん、知り合いに霊感の強い人がいるって云うんで……」

 霊感の強い人? まだ誰か呼ぶつもりかと途惑いつつ、田名辺は古峯と岩渕の顔を交互に見た。

「うん。岡元おかもとっていう奴なんだけどね。さっき聞いてみたらいつでも来られるって云うんで……どうかな田名辺くん。今からその部屋を見に行かないか」

 え? と、想像しなかった展開に、田名辺は目を丸くした。

「今からっすか? えと、その……霊感強い人も一緒にってことっすか」

「もちろん。そうじゃなきゃ行く意味がない。ああ、もうひとり連れがついてくるかもしれないけど……」

 人が多いほうが心強いよね、と岩渕はそう云って、愛想のいい笑みを浮かべた。

 こうして、安価でボリュームたっぷりと評判のモーニングセットを――田名辺は古峯の奢りで――食べ終えると、三人は冷房の利いた店を出た。





 店舗に出向くよりも物件の場所のほうが近く移動にも慣れているということで、三人は内見するマンションのエントランスで不動産屋と待ち合わせることになった。

 霊感が強いという岡元と、もうひとり諫山いさやまという連れもマンションまで来るらしい。思わぬ大人数になってしまったが、まあみんな好奇心からなんだろうなと、田名辺は気にしないことにした。

 『ドミール川添』は、大学からは二駅、いつも買い物をしたり食べ歩いたりしている辺りから然程遠くない場所に建っていた。男三人、額に汗を浮かべながら特に話すこともなく黙々と歩を進め、商店街を過ぎ静かな住宅街に差し掛かる。カーブミラーと電柱を回りこんで細い道に折れると、程無く駐車スペースの奥に煉瓦色の建物と、洒落たエントランスが見えた。

「ここだね」

 賃貸情報の画像では大きなマンションのように見えていたが、近くで見ると思ったほどではなかった。とはいえ、田名辺が今住んでいる軽量鉄骨造のアパートとは比べ物にならない。岩渕は田名辺よりも先を歩き、ひょいと片手を上げてマンションの前に立っているふたりに声をかけた。

 ひとりは髪を長めに伸ばしてサングラスを掛けた、ファッション誌から抜けでてきたような男で、もうひとりはひょろっと色白で背が高い、童顔な男だ。

「早かったな」

「こっちは車だったからな」

 岩渕はそのまま岡元と諫山らしき二人組と話しこみ――なにやら難しい表情をしてこちらへ戻ってきた。なんだろう? とふと見やれば、童顔な男のほうが俯き加減にに胸を押さえている。

「……どうかしたんすか?」

「いや……岡元が、気分が悪いって云うんだ。それも、此処に着いてから」

「えぇ?」

 此処に着いてから、と意味ありげに云う岩渕に、田名辺は首を傾げ、古峯は大袈裟に怯えた様子を見せた。

「それってまさか、霊がいるからとか?」

「わからん。とりあえず、不動産屋が来て部屋に入れば、もっとはっきりするんじゃないかな」

 そして、それから三分もしないうちに不動産屋もやってきた。お待たせしまして申し訳ないですーと、挨拶もそこそこに調子のいい若い男がマンションに入っていく。岩渕に促され、田名辺と古峯もその後に続いた。

 気分が悪いらしい岡元と、一緒に来た諫山はどうするのかなと振り返ると、きょろきょろしながらゆっくりとついてきていた。部屋番号とダイヤル錠が規則正しく並んだ郵便受けと、宅配ボックスが設置されているエントランスを進み、不動産屋の男がエレベーターの呼び出しボタンを押す。

 そのときだった。

「……無理だ、ここから先には進めない! 悪い、俺は帰る、こんな……ここに住むなんて絶対勧めない、やめたほうがいい!」

 何事かと振り返る。声の主は岡元だった。岡元はがたがたと震えながら、念を押すように「とにかく俺は帰る、こんなところには一秒だっていたくない!」と上擦った声で云い、くるりと踵を返して駆け足で去っていった。

 田名辺は呆然と言葉を失ったまま、その後ろ姿を見送った。



「――おおぉ、すげえ、まじで広い」

 部屋に入ると、玄関から左手に廊下が伸びていることに田名辺はまず感激した。今住んでいるアパートは、玄関を開けるとすぐ台所――『キッチン』よりもこの呼び方がふさわしい――で、そのまま元は和室であったことが窺えるクッションフロアの洋間に繋がっているという造りなのだ。『下駄箱』を置くスペースもないアパートと違い、天井まで届くシューズクロークが設置されたマンションなど、田名辺は住んだことなどなく内見するのも初めてだった。

 廊下の左側にはトイレと、浴室に続く洗面所のドアが並び、反対側には六畳ほどの洋室。奥の壁一面はクローゼットで、角部屋なので窓もふたつあった。廊下の正面にある磨り硝子の入ったドアを開けるとそこはリビングで、右手にはコンパクトだが二口焜炉コンロのついたシステムキッチンとカウンターがあり、左手、リビング側にある折れ戸の中はウォークインクローゼットだった。

 二十畳ほどもある広いフローリングのリビングの奥は、二間分がバルコニーへの硝子戸になっていて明るい。柿沼かきぬまと名乗った不動産屋ががらりとその硝子戸を開けると瞬間、ジィジィと響いていた蝉の声が止んだ。

 涼しいとまではいかないが、ふぅっと風が通って汗を拭いながら息をつく。六階なので、外の景色もなかなかだった。見たところ懸念していたようなネオンサインも、騒音の元になりそうな工場や飲食店などもなさそうだ。

「いいお部屋でしょう! バスとトイレも別ですし、収納もたっぷりです。駅も近くて便利のいい場所ですけど、通りが一本ずれてるんで意外と静かで人通りも少ないんです。おすすめですよー」

 想像していたよりもずっと広く文句の付け所のない部屋に、田名辺はもうすっかり舞いあがっていた。早く契約したい気分でにやにやと笑みが顔から剥がれない。

 バルコニーから玄関まで戻り、あらためて玄関側の洋室、洗面所、自炊しないともったいないほどのゆとりのあるキッチンを眺めて歩きながら、田名辺は振り向いて古峯の顔を見た。田名辺としては、もう残っている問題は敷金だけだった。が。

「……本当にいい部屋だけど、ここ、なんで家賃が安くなってるの?」

 岩渕が訊いた。諫山も尋ねられた柿沼に注目している。柿沼は額の汗をハンカチで拭いながら、「なんで、と云われましても、その……」と、少し困った顔をした。

「えーとですね、こちらのお部屋はその、入居された方が長く住まわれない、ということがちょっと続きまして……。で、壁紙なんかも綺麗なままなもんで、そのままお貼り替えしていないんで、そのぶんお値下げさせていただいていると申しますか――」

 なんとなく歯切れが悪い。その説明で納得したのかどうか、諫山は何度か頷いたあと古峯に近づき、耳打ちをした。そして、今度は古峯が自分のところに歩み寄ってくる。田名辺はなんだ? と眉をひそめた。

 古峯は云った。

「……夜、もう一回見に来たほうがいいってさ」

「夜? また来んの?」

 そもそも、はなから幽霊やその手の曰くは信じていない田名辺である。広いだけでなく綺麗でいい部屋だし、別に変な臭いもしない。なのにどうして夜まで見に来なければいけないのか。もういいじゃないか住むのは俺だと、うんざりした表情をしていたが――。

「うん、物件探しって昼も夜も、できれば晴れの日も雨の日も見たほうがいいって云うしね。住み始めてしまったら、なにか問題があったとき避けようがない。そうほいほいと引っ越しばかりできるものじゃないからね、きちんと見ておいたほうがいいよ」

「いや、俺は別にもう――」

 もういいと田名辺は首を振りながら云いかけたが、その言葉を柿沼が遮った。

「でしたら鍵をお預けします! どうぞお好きな時間にご自由にご覧になってくださいませ。鍵はご覧になったあと、玄関横の扉のなかにある給湯器にでも引っ掛けておいてくださればいいんで……どなたであれ入居が決まりましたらどうせ鍵は新しく付け替えますんで、問題ないです!」

「そう、ありがとう。じゃあそうさせてもらうことにしよう。……よかったね、田名辺くん」

 にっこりと、岩渕がまるで詐欺師のような愛想のいい笑みを浮かべる。

 もう古峯が金さえ貸してくれれば契約する気だったのに、おまえが余計なことを云うから……と、田名辺はへらへらと営業スマイルを浮かべ岩渕に鍵を渡している柿沼を、恨めしそうに睨んだ。









[Track 01 - The Night Comes Down 「空室あり」 ② へ続く]

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