Track 10 - The Passenger

「リプライズ」 ①

 ――一九七七年六月 ヒューストン、テキサス州――



 面格子の付いたハング窓からは眩しい陽が降りそそぎ、部屋の白さを際立たせていた。片隅には坐り心地の良さそうなロッキングチェアがあり、部屋の半分ほどは薄いマットレスの敷かれた窮屈そうなパイプベッドが占めている。

 しかし今、この部屋の主であるケイレブ・ノーマン・クロウリーはそのどちらでもなく、窓とベッドのあいだに置かれた丸テーブルに向かい、古びた木の椅子に腰掛けていた。

 殺風景な部屋の中、ケイレブはぱちぱちとタイピングの音を響かせていた。近年目覚ましく進化した電動式ではない、手動式の古いタイプライターの上で両手を踊らせ、ケイレブは夢中で文字を紡いでいた。打った文字が右端までくるとレバーを操作してまた左端から、改行してさらに文字を打っていく。それを繰り返し、文章の切りのいいところで手を止めると、ケイレブは原稿を抜いて読み返し、興奮した様子で笑みを浮かべた。

 ――凄い。我ながら素晴らしい出来だ。きっとこれは、自分にとって最高傑作になる。

 これまでに書いた二十数枚の原稿を大事そうに束ね、一枚めに『Kaleb N. Crowley』とサインを入れると、ケイレブはさらに書き進めようと新しい用紙をタイプライターにセットし、丁寧に位置を整えた。



 この小説が特別なものになることは、最初からわかっていた。それは衝撃的な、まるで天啓を受けたかのような体験であった。頭のなかでいきなり扉が開き、そのストーリーやそこに立つ人物がまるごと、映像として見えたのだ。

 この閃きを逃してはならない。ケイレブはいきなり降ってきたアイデアを、慌てて手近にあったメモ帳に書き留めた。物語の初めのシーン、展開、起こる事件、登場人物の心理、追う捜査官たちの考察――ペンを持つ手は書いても書いても止まることを知らなかった。浮かんだあらすじだけを書き留めるつもりが、書けば書くほどその場面が鮮明に頭に浮かび、ざっくりと流れを書いた物語の隙間は見る見るうちに埋まっていった。

 そうして頭のなかで展開するストーリーをどんどん書き留めながら、同時に細かなアイデアをさらに思いつくと、ケイレブはそれも書き足し、綿密なプロットに仕上げていった。構成も時系列を前後させることで謎は深まり、ラストも劇的になると考え、びっしりと書きこんだメモに番号を入れた。

 気づけば煉瓦のように分厚かったメモ帳は残り少なくなるほどで、この数時間で書いた文字の数は、軽く短篇一本分くらいはあるのではと思われた。

 こんなことは初めてだった。プロットを書きあげたあとも、頭のなかでは降りてきたストーリーが、まるで映画のように流れ続けていた。プロットを仕上げたというだけでは、ほっと息をつくことなどできなかった。

 書かずにはいられない。書かないと頭がどうにかなってしまいそうだ――ケイレブは書きかけで手が止まってしまっていた短篇を丸めて屑篭に棄て、用紙をセットして早速書き始めたのだった。



「――今日はいいお天気ですよ、クロウリーさん。皆さんと一緒に外でレモネードでもどうです?」

 部屋に入ってきてそう声をかけたのは、ぽっちゃりとした体型で踊るように動く、白いエプロンを着た女性だった。頭にはナースキャップのような帽子を着け、その胸許には『Maryメアリー』と記された名札を付けている。

 ケイレブはタイピングしていた手を止め、振り返った。

「レモネードはありがたいけど、外になんて行ってる暇はないよ。聞いてくれ、いま書いている小説が信じられないほど素晴らしい出来なんだ……! これはきっと僕の最高傑作になる。そうだ、もし興味があるならちょっとさわりを読んでみるかい? 感想を聞かせてくれると、僕としてもありがたいんだが……えっと」

「メアリーですよ」

 メアリーはもう慣れっこだという様子で名前を云い、ちらりとテーブルに置かれたタイプライターと積まれている原稿を見た。「それで、今度はいったいどんなお話なんです? フィリップ・K・ディックばりのSFですか、それともオーガスト・ダーレスみたいなホラー?」

 私はパトリシア・ハイスミスみたいなミステリーが好きですけどね、と続けたメアリーに、ケイレブは「そうだな、ミステリっぽくもなくはないけど、正確に云うなら人間を描いた悲劇的なサスペンスかな。若い女性を次々と惨殺する殺人鬼の話なんだ。どうだ、おもしろそうだろう」と、答えた。

 するとメアリーは眉をひそめ、怪訝そうな表情になってケイレブを見た。

「どうかしたかい?」

「いえ、なんでも。……とりあえず、ずっと部屋に籠もってるのはよくありませんよ。気分転換も必要です、お陽さまと風にあたって、躰を伸ばしてきましょう。レモネードももうお庭に置いてますからね」

 そうか、じゃあそうしようとケイレブが返事をすると、メアリーはケイレブに寄り添い、介助でもするように背中に手を添えて歩き始めた。


 木々に囲まれた広い芝生の庭に出ると、そこにはギンガムチェックのクロスが掛けられた大きなテーブルと、ラタンのチェアが置かれていた。テーブルにはレモネードで満たされたピッチャーの他に、琺瑯ホーローのポットもいくつか並んでいる。その横にシュガーポットやミルクピッチャーがあるところを見ると、あれはコーヒーなのだろう。傍にはペーパーナプキンを敷いたバスケットがあり、クッキーや四角くカットされたチョコレート色の焼き菓子などがどっさりと入っていた。

「はい、どうぞ。テキサスシートケーキも美味しいですよ、適当に好きなものを取って食べてくださいね。午前中はまだ暑くなくて、お外も気持ちいいでしょう。偶には他の人たちともお話してくださいね」

「ありがとう」

 着席してレモネードを受け取りながらそう返事をし――他の人? とケイレブは周囲を見まわした。広い庭に集まっている者たちは皆、白と淡いグリーンのストライプのパジャマを着ていた。なかには上だけ真っ白なTシャツを着ている者や、カーディガンを羽織っている者もいるが、メアリーのようにエプロンを付けた女性以外は全員、同じ恰好だった。

 ふとケイレブは視線を落とし、自分の恰好を確かめた。やはり皆と同じストライプのパジャマ姿だった。不思議そうに小首を傾げたそのとき――近づいてきた気配に、ケイレブははっと振り返った。

「やあ。よければそっちにあるケーキを取ってもらえないか。あっちのテーブルのはもうなくなっちまってね」

 声をかけてきた男は車椅子に乗っていた。やはり同じ恰好で、片袖が不自然にだらりと下がっている。ケイレブがつい目を離せずにいるとその袖が風に吹かれ、ふわりと揺れた。袖の中は、どうやららしかった。

「あ、ああ……、あのケーキだね。ひとつでいい? クッキーは?」

「ケーキだけでいい、たすかる」

 小皿にカットされたテキサスシートケーキを取ってやり、ケイレブはフォークを添えて渡した。

「大丈夫、食べられる? ……その、いったいその腕は……」

 すると男は少し驚いた顔をして、呆れたように云った。

「なに云ってんだ、此処は俺みたいな奴が大勢いるじゃないか。……ははあ、おまえさんはあれか、頭のほうをやられたクチか。そういや見ない顔だな、新入りか?」

 頭をやられた、などと云われ思わずかちんときたが、男はケイレブを莫迦にするつもりはないようだった。

「ほら、あっちにいる奴らも同じだ。両脚を吹っ飛ばされた奴やら、片腕を失った奴やら、片眼を潰された奴やらいろいろさ。あんたみたいに躰はなんともなくても、精神的にぶっ壊れた野郎も多い。ま、そういう奴らのほとんどは、別なところに閉じこめられてるけどな」

 男が指したほうを見やり、ケイレブは途惑いながら尋ねた。

「いったい……此処は」

「此処か? なんだ、それもわかってないのか。此処は療養所サナトリウムだよ。街のほうにある病院の別館みたいな施設さ。以前は結核患者なんかがいたらしいが、今いるのはヴェトナム帰りの問題を抱えた奴ばっかりだ。……脚も腕も、みんなヴェトナムでやられちまったんだ。見たところ手脚は満足に揃ってるが、あんたもそうだろ?」

 訊いても頭や心をやられたんじゃ答えられねえか、と云いながら、男はさっさとケーキを口に放りこみ、離れていった。


 動揺し、ケイレブは一息にレモネードを呷ると建物内に戻った。出るときは気にもしなかったが――ひょっとすると、無意識にそうしていたのかもしれない――確かに此処は大きな屋敷というのではなく、病院かなにかの施設に見えた。

 どちらを向いても壁は白く、廊下には手摺が付けられ、すべての窓には面格子が嵌っている。そしてずらりと並んだドアの左上には、番号と名前が記されていた。

 ――僕も、患者なのか。

 ケイレブは自分がなぜ此処にいるのか思いだせず、ふらふらと広間のほうへ向かった。


 LOUNGE談話室 とプレートに記された広間には、小さなテーブルと椅子が何セットも置かれていた。壁には風景画が掛けられていて、窓際には花も飾ってある。片隅にはTVもあり、今は外で過ごしている患者たちがこの広間に集まって時間を潰すのだろう光景が、容易に想像できた。

 そんなふうに過ごした覚えは、自分にはなかったが。

 ケイレブは自分のなかにある記憶を辿った――子供の頃のことや両親、祖父母の顔はちゃんと憶えている。学生の頃から本を読むのが好きで、いつか小説家になりたいと夢をみていた。その勉強のため、さらに様々な書物を読み、新聞も毎日隅々まで読んだ。そのおかげか、学校の成績も常に上位だった。

 そして夢は叶って小説家になり、いつもタイプライターに向かっていた――と思う。しかし、あらためて考えてみると自信は持てなかった。小説を書いていたのは確かだが、書いた本が出版されたことがあるかどうかはわからなかった。

 ――否。原稿を催促する電話を、しょっちゅう受けていたような気がする。ケイレブは目を閉じ、必死に頭の片隅に残る記憶の欠片を掴もうとした。タイプライター、ペンと手帳、そしてデスクの上いっぱいに広げた資料。ふと鳴り響く電話の音と、大勢が忙しそうに動いている光景がぼんやりと浮かんだ。壁一面が窓になっている広いフロア、ずらりと並んでいるデスク。煙草のけむりで白く靄がかかっている天井には、直管型の照明が整然と埋めこまれている。

 ……ここはいったいどこだろう?

 しかし思いだそうと手を伸ばすと、その光景は砕けるように散ってしまった。かわりに浮かんだのは、ついさっきまで書いていた、殺人鬼が若い女性を惨殺するシーンだった。まるで実際に見たかのように被害者と現場の様子、そして蒸し暑い夏の空気に融ける血の匂いや、ナイフで刺す感触までもがありありと想像できた。

 頭のほうをやられたクチか。さっきの男の言葉を思いだしてしまったが、ケイレブにはヴェトナムへ行った記憶もなかった。自分はいったい、なぜ此処にいるのか。本当にヴェトナムで頭がどうにかなってしまったのだろうか。

 ――だとしたら自分はいったいなにをして、なにを忘れてしまったのだろう。

 足許がぐらつくような感覚に、ケイレブはふらふらと背後にあった椅子にへたりこんだ。




       * * *




「――朝からずっと書いてたんですか? クロウリーさん。お外、雨が降ってるんで窓閉めますね。暑かったら広間のほうへいらしてくださいな。皆さん、パイナップルジュースを飲みながらTVを視たり、お話してらっしゃいますよ」

 ぽっちゃりとした白いエプロンを着た女性にそう云われ、ケイレブは「そうだな、少し休憩するとしようか」と返事をした。よく知っているような気がするその女性の名前を呼ぼうとして、えーっと、と考えていると、それを見透かしたかのように「メアリーですよ」と名乗られて面食らう。

 まるで病人に付き添うようにメアリーに背中を支えられながら、ケイレブは広間へと向かった。


 メアリーの云ったように広間には大勢が集まり、皆ジュースやアイスティーを飲みながら過ごしていた。テーブルの上で顔を突き合わせ話しこんでいる者、ポーカーに興じている者、ひとりで本を読んでいる者――そして広間にひとつしかないTVの傍に坐っている者たちは、今は『ルーニー・テューンズ』の画面を視てくすくすと笑っていた。

 ケイレブは子供向けのアニメーションか、とがっかりしつつ、そのうち番組が変わるかもと空いた席に腰を下ろした。メアリーがパイナップルジュースを持ってきてくれ、ありがとうとアクリル樹脂のタンブラーを受け取る。喉が渇いていたので早速一口飲むと、ちょうどそのときニュース番組が始まった。



昨日さくじつ、殺人事件の裁判の休廷中に逃亡したテッド・バンディの行方は、今も捜索が続いています。

 バンディは、コロラド州ピトキン郡の裁判所の二階にある図書室の窓から地上に飛び降り、逃亡したのを目撃されています。バンディは過去に起こった複数の未解決殺人事件でも重要参考人となっていますが、今回はメリッサ・アン・スミスとキャリン・アイリーン・キャンベルの失踪と殺人に関与した疑いで、被告として裁判を受ける予定でした。ロー・スクールで法律を学んだバンディはこの裁判で自らを弁護することを希望し、それが認められ、裁判の準備のため図書室の利用を許可されていたということです――』



 テッド・バンディ。

 その名前には聞き覚えがあった。ケイレブは、逃げたということは殺してたんだろうな、と思いながらTVの画面を眺めていた。番組はしばらくテッド・バンディが関与したとされる過去の事件について触れていたが、CMが終わると今度は有名な連続殺人事件についての特集が始まった。

 〝ブルックリンの吸血鬼 Brooklyn Vampire 〟、〝プレイン・フィールドの屠殺解体職人  The Butcher of Plainfield  〟、〝ボストン絞殺魔The Boston Strangler〟――殺人鬼たちの悍ましい犯罪の記録が次々と紹介されていき、ケイレブは顔を顰めつつも興味津々に視ていた。いま書いている小説の主人公も殺人鬼である。熱心に視るのは当然だ。

 年代順に何人かの殺人鬼についての解説が続き、最後に一九七二年十月から七四年九月のあいだに三十六人の女性を殺したという〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟について、番組のホストが話し始めたときだった。

 画面にフォーカスされた写真には、長めに伸ばした金髪と、整った優しげな顔の若い男が写っていた。『〝魅惑の殺人鬼〟ジョニー・ソガード』とテロップもでている。その文字の並びを見ていて、ケイレブは〝魅惑の殺人鬼〟という異名を自分はよく知っている、という感覚に陥った。

 まだ記憶に新しい事件です、とレポーターが事件の起こった場所で概要を説明する。テネシー州ノックスヴィル、大学近くにある、学生向けのアパートメントが建ち並ぶ路地。事件当時は雪が積もっていたというその風景を、ケイレブは見たことがあると感じた。脳裏に浮かんだのは夜、路上駐車で片側が埋め尽くされている路地。しかし、画面に映る昼前の明るい路地には車など、二、三台しか駐められてはいなかった。

 自分はあの場所に行ったことがあるのだ。ケイレブはそう確信し、いつ、なんのために行ったのだろうと疑問に思った。

 レポーターは、この場所での殺人のあと〝魅惑の殺人鬼〟ジョニー・ソガードはおよそ八ヶ月ものあいだ犯行を止め、捜査も行き詰まってしまいます、と解説を続けている。そしてカメラがスタジオに切り替わると、司会者がパネルを指し、あらためてそれまでに起こった殺人について振り返り始めた。

 整然と並んだ三十件以上もの犯行について、パネルには日付と現場となった街の名前が記されていた。デイトン、レキシントン、コロンバス、インディアナポリス――ケイレブは驚愕に目を瞠った。それは、自分が書いた小説とまったく同じだった。

 それに気づいた瞬間――またも脳裏にいくつかの光景が浮かんだ。

 夜道に転がっている、真っ赤に染まった女性の死体。水溜まりのように血痕が広がった舗道。若くして命を奪われた不運な被害者たち。ブルネットの、赤毛の、金髪の――たくさんの若い女性たちの、生前の顔までが瞼の裏で瞬いた。

 どういうことだろう。自分はこの事件を、この殺人鬼の犯行を知っている。知りすぎている。

 困惑し、暫し茫然としていたケイレブは、ロザリー・ブラニガンという名前を耳にし、はっと番組に注意を戻した。画面には快活な笑顔の、長いブルネットの女性の写真が映されていた。まるで仔栗鼠のように可愛らしいその女性は〝魅惑の殺人鬼〟ジョニー・ソガードによる殺人の最後の被害者であり、妻であったと紹介されていた。

 そして最後に、ソガードは逃亡中に警察に包囲されオハイオ川に転落、その後の捜索で発見されないまま死亡したものとみられています、と司会者が締めくくった。

 がたんと椅子を蹴って立ちあがり、ケイレブは逃げるように広間を出、部屋に戻った。









[Track 10 - The Passenger 「リプライズ」 ② へ続く]

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