「リプライズ」 ②

 部屋に戻ると、ケイレブは自作の原稿を読み返した。

 もちろんこれは創作であるから、作中の殺人が〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟の犯行とまったく同じというわけではない。しかし事件の起こった街や被害者の殺され方、その服装や現場の状況など、ところどころ細かい部分が一致しすぎている。先程視たニュースを頭のなかで再生しながら何度も原稿を検めてみるが、とてもただの偶然で片付けられるようなものではないと思えた。

 これはいったい、どういうことなのか。

 そういえば、とケイレブは初めにこのストーリーが浮かんだときのことを思いだした。まるで扉が開いたかのように、いきなり降ってきたアイデア。否、アイデアだけではない。始まりのシーンから、次々と起こる事件、殺人鬼の心理と、ストーリーは実際に見てきたように映像を伴って、鮮明に頭に浮かんだ。

 ――もしも、本当に実際に見たのだとしたら?

 自分には、記憶の抜け落ちている部分がある。子供の頃のことなどは憶えているが、ある時期からの記憶が曖昧で、この療養所サナトリウムに来ることになった経緯などはまったくわからない。そして〝魅惑の殺人鬼〟ジョニー・ソガードは、死んだとされてはいるが遺体はみつかっていないらしい。つまり、生きて逃げ遂せている可能性も皆無ではないということだ。

 ――ひょっとして、自分がジョニー・ソガードなのでは?

 ふとそんなことを思いつき、ケイレブは考えた。もしも川に落ちたときのショックで記憶を失ったとしたら? そしてどこかに流れ着き、誰かに救けられて此処に収容されたのだとしたら――否。自分は金髪ではないし、さっきTVで視た写真はまったく別人だった。そんなわかりきったことに今更のように気づき、ケイレブはほっと息をついた。

 そうとも、そんなことは有り得ない。身元不明の記憶障害者が発見されたなら、こんな施設に収容される前に警察に届けられているはずだ。もしも自分がジョニー・ソガードであったなら、今頃は此処ではなく監獄にいるだろう。

 しかし、とケイレブは考えた。では何故、自分は〝魅惑の殺人鬼〟の事件についてこんなに詳しいのだろう? まさかとは思うが、三十六件と数えられている犯行のうち、一部はソガードではなく自分がやったことなのではないだろうか。それとも三十六件以外に、まだ明るみに出ていない事件があるのかもしれない。自分は模倣犯で、手口を真似るために〝魅惑の殺人鬼〟について調べ、犯行に及んだのでは――。

 窓辺の椅子に腰掛け、ケイレブはそんなことを考えながら自分の右手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。

 思えば小説を書いているとき、肉にナイフの刃をうずめる感触がありありと想像できた。湿気を帯びた空気に混じる血の匂いも、まるで知っているようだった。

 仮にも創作を志しているのだから、想像力が豊かなのは何ら不思議ではない。しかし、匂いという形の無いものを、こうもはっきりと――噎せかえるほどの血腥ちなまぐささを――頭で再現できるものだろうか。

 目を閉じる。聞こえてきたのは自動小銃M16の音、頭上にはヘリコプター。蒸し暑いジャングルのなか、轟く爆音。ケイレブは目を開けた。これは違う。これは、この記憶は――


「――戻ってらしたんですか、クロウリーさん。もうじきランチの時間ですよ、食堂に行かれますか、それともまたこちらで?」

 メアリーに話しかけられ、ケイレブは記憶の断片が漂う海から浮上した。

 そうだ、彼女なら知っているかもしれない。ケイレブはシーツの端を引っ張りぴんと皺を伸ばしているメアリーに向き、疑問を素直に尋ねてみることにした。

「メアリー。……変なことを訊くけど、その、僕はどうしてここにいるのかな。できれば、僕がここに来ることになった理由を教えてほしいんだが……」

 するとメアリーは少し驚いた様子で、目をぱちぱちと瞬いてケイレブを見た。

「よかったわ、クロウリーさん。このところお加減が良さそうだと思ってましたが、ほんとに良くなってきたのね。……そうですね、先生にお伝えして、明日か明後日にでもあらためて診察してもらいましょう。お話はそのときに」

 その言葉にケイレブは眉をひそめた。つまり、自分がここに来たばかりの頃はこんな質問もできないほど、或いは思いつきもしないほど酷い状態だったということだろうか。

「……メアリー、いったい僕は何者なんだ? 知っているなら教えてくれ。僕は、ひょっとしたら……人を殺してしまったかもしれないんだ」

 メアリーはさっきよりも大きく目を見開いた。ケイレブは続けた。

「もしかして、来たばかりの頃にもそう云ったことがあるんじゃないか? ……自分がここに来た経緯はさっぱりだが、ナイフで人を刺した感触を手が覚えてる気がするんだ……。それだけじゃない。頭に浮かぶまま書いた小説の殺人シーンが、実際に起こっていた怖ろしい事件と一致してた。……偶然だなんて思えない。僕は人を刺し殺したことがある。それもおそらく、一度や二度じゃない。

 僕は殺人鬼なのか? 記憶はまさか、その怖ろしい人格を変えるためになにか処置をした所為で――」

「ちょ、ちょっと待ってくださいクロウリーさん! とりあえず落ち着いて、今はなにも考えないでください! ……わかりました。今からすぐに来てもらえるよう、先生にお願いしてみます。だから今日はお部屋で――ランチもあとでこちらにお持ちしますから、ここでちゃんと待っていてください、いいですか?」

 メアリーの慌てぶりは、ケイレブにああ、やはり自分は殺人を犯していたのだと感じさせた。

 一部の記憶が抜け落ちているのも、なにか怖ろしい処置を施された所為なのかもしれない。昔は精神病院などで、ロボトミーや電気ショック療法などが行われていた。もしかしたら、今もそれに似た怪しげな治療があって、自分は実験的にそれを試されたのかもしれない。

 その結果、自分が犯した殺人のことを忘れ、ふっと閃いたアイデアだと信じて断片的に残る記憶をプロットとしてまとめ、小説の形に再生したのだとしたら――

 硬い椅子の上で悍ましいその可能性に凍りついていると、ノックの音がした。金縛りが解けたかのように顔をあげ、ランチを運んできてくれたメアリーを見る。メアリーはタイプライターや原稿が置かれている丸テーブルにランチのトレイを置こうとし、ケイレブは原稿の束を手に取りタイプライターを端に寄せた。

 どうぞ、とトレイを置きながら、メアリーはお薬も忘れないで飲んでくださいね、と云った。トレイの上にはいつもの白や水色の錠剤やオレンジ色のカプセルと、見たことがない気がする赤いカプセルがひとつ。

「……この赤いのは? いつもあったっけ」

「お薬は習慣になるから偶に変わるんですよ」

 食べたらちゃんと飲んでくださいね、とメアリーは念を押し、部屋を出ていった。

 ケイレブはトレイの片隅に置かれた薬を、じっと見つめた。

 これまで自分が毎食後きちんと服薬していたかどうかも、実はあやふやだった。が、云われるままに飲んでいたような覚えもなくはない気もする。しかし、そんな曖昧な記憶のなかでも、赤いカプセルなど初めて見るような気がした。

 どうしても違和感を拭えず、ケイレブは食事が済んだあと、出された飲み薬はすべてトイレにでも棄ててしまおうと決め、ズボンのポケットに入れた。



 夕食後、ようやく先生がおいでになりましたよとメアリーが呼びに来た。ケイレブは言葉であれこれ云うよりも読んでもらったほうが早いと、まだ完成はしていない小説の原稿を封筒に入れて持ち、部屋を出た。

 ケイレブの担当だという医師、アロイシャスは、ケイレブの話――自分は殺人を犯したことがあるのに、その記憶が失われているようだということ、その殺人は巷で話題になった〝魅惑の殺人鬼〟による犯行とされているものの一部ではないかということを聞くと、そんなばかなと笑い飛ばした。喰い下がるようにして示した原稿の殺人シーンも、アロイシャスは苦笑いするだけでまともに読む気すらもないようだ。

「いいですかクロウリーさん。そんなのはすべてあなたの妄想に過ぎません。大丈夫、安心してください。あなたは殺人鬼なんかじゃありませんよ。記憶に曖昧な部分があるのは、それは解離性障害によるものです。あなたはその治療のためにここにいるんです」

「いいえ先生、妄想なんかじゃありません……。断片的にですが、覚えているんです。血で真っ赤に染まった死体や、刺された女性の生前の顔や、刺した感触まで……! こんなの妄想では有り得ない。どうぞ、その原稿を読んで〝魅惑の殺人鬼〟が起こした事件についての新聞記事とでも見比べてみてください。一致しすぎているんです、だから、やっぱり僕は――」

 必死に訴えるケイレブに、アロイシャスは眉根を寄せた。話が途切れるのを待って「まあ、落ち着いて」とその顔を覗きこむ。

「クロウリーさん。ところで、食後のお薬はちゃんと飲まれましたか?」

 不意に訊かれ、ケイレブはぐっと言葉に詰まった。やはりという目つきで、アロイシャスは傍らにいたメアリーになにか指示をした。

「だめですよー、お薬はちゃんと飲まないと。せっかく良くなってきたんですから」

 程無く戻ってきたメアリーは、注射器となにかのアンプルを手にしていた。なにを打つつもりだとケイレブは思わず立ちあがり、「す、すみません。つい飲むのを忘れて……部屋にあるんで、戻って飲みます」と診察室を出ようとした。

「クロウリーさん――」

「大丈夫です、薬飲んで、もうやすみますんで! 変なことを云ってすみませんでした」

 たぶんあれは鎮静剤かなにかだろうとケイレブは思った。アロイシャスは自分の話をまともに聞こうとしていないようだったし、妄想を垂れ流す面倒な患者はおとなしく眠らせておくに限る、くらいに思っているかもしれない。

 ケイレブは逃げるように廊下を足早に歩いた。そしてふと、原稿をアロイシャスに渡したままだったことを思いだした。しまったと振り返り、戻ろうか、それとも明日メアリーにでも頼もうかと迷う。

 けれど、やはり大切な原稿だし……と、ケイレブはまた来た方向へと歩きだした。いろいろ考えるためにも、今はあの原稿は手許に置いておくべきだ。薬があると言い張れば、無理遣り注射を打たれることはないだろう。

 診察室のドアの前で立ち止まり、もし自分を無理遣り取り押さえようとしたりする素振りがあれば、すぐに逃げようと心の準備をする。ふぅと息をつき、ノックをしようと手を上げたそのとき、ぼそぼそと話し声が聞こえた。

 ドアにぴたりと耳をつけ、ケイレブはアロイシャスとメアリーであろうその会話を聞いた。

「――でも、せっかくあんなに良くなってきたのに……良くなってきたから、記憶の一部も戻ってきているのでしょう。なのに閉鎖病棟へだなんて、お気の毒すぎます」

 閉鎖病棟!? ケイレブは目を丸くして息を呑み、盗み聞きを続けた。

「しかしね、自分を殺人鬼だと信じこんでいるんだよ? こんな物騒な小説まで書いて、人殺しのことで頭をいっぱいにしてるんだ。殺した感触まで覚えてるだなんて、はっきり云ってまともじゃないよ。いつまた錯乱するかわからないし、そのとき本当に誰か刺されでもしたらどうする。

 閉鎖病棟に移すと云ったって拘束衣を着せるわけじゃなし、完全に自由を奪うわけじゃない。タイプライターさえ与えておけばおとなしいんだろう? 部屋を移動するだけだ、今までとなにも変わらない。移すべきだよ」

 それを聞き、ケイレブはそろそろと後退り、急いでそこから離れた。廊下を折れ、診察室から死角になると壁に背中をつけ、冗談じゃないと天井を仰ぐ。

 記憶が曖昧なのは解離性障害の所為だとアロイシャスは云った。古い映画で観た程度の知識しか自分にはないが、解離とかいうのは確か多重人格症のことではなかったか。

 もしそうなら、記憶に妄想か現実かわからないような曖昧な部分があるのも納得である。今は自分のことを小説家のケイレブ・ノーマン・クロウリーだと思っているが、それ以外に人格があって、その別人格が殺人を犯しているのだとしたら――なんとなく覚えているような気がするけれど、はっきり自分の記憶だとはわからないのも無理はない。

 とにかく、あのアロイシャスという医師は、自分を閉鎖病棟に移す気らしい。この施設のなかにそんなものがあったことさえ初耳だが、閉鎖病棟などと名がつくのがどんなところかは知っている。檻に閉じこめられ、食事にはスプーンしか与えられず、自由に部屋から出ることもできない。自殺防止のため二十四時間監視が付き、扱いやすいよう薬漬けにされるのだ。

 そんなところへ移されたら、今度こそ本当に頭がどうかしてしまう。逃げよう。もうここから逃げだすしかない――ケイレブはそう心に決め、交差している広い廊下の真ん中で足を止めた。ぐるりと見まわし、関係者以外DO NOT ENTER|立入禁止Authorized Personnel Onlyの看板が立てられているほうへ向かう。思ったとおりその先にはリネン室や備品室、仮眠室などスタッフのための部屋があった。

 ケイレブは男性用更衣室をみつけ、誰にも見られていないことを確認してそこへ入った。ずらりと並んでいるロッカーの把手に次々と手をかける。当然のようにどれも鍵がかかっていたが、左から五番めの扉が開くと、思わずやったと笑みが浮かんだ。

 だがその中に目当てのものは入っておらず、あるのはリヴ・リンデランドが表紙の古い〈PLAYBOYプレイボーイ〉一冊だった。がくりと肩を落とし、しかし諦めずにまた扉をどんどん引いていくと――今度こそ、開いたその中に服らしきものがあった。

 無雑作に放りこまれていた格子柄のシャツと草臥れたジーンズは、ケイレブにはサイズがやや大きかったが、小さくて窮屈なのよりずっとましだ。ストライプ模様のパジャマからそれに着替え、脱いだものは丸めてさっきの〈PLAYBOY〉が入っていたロッカーの奥に入れ、上に雑誌を乗せて隠す。

 そうしてケイレブは更に部屋の奥へと進み、窓を開けてそこに面格子がないことに、ほっと表情を緩めた。外へ出られる。ケイレブはそっと窓を開け、辺りに人影がないか月明かりを頼りに見まわした。窓枠に脚を掛け、誰の姿も見えないことを再度確認する。一階なので地面までは高が知れていたが、いったん窓枠に腰掛けるようにして、ケイレブは足先から飛び降りた。

 そうして無事に建物の外に出ることはできたが、周囲が高い塀で囲まれていることに気づくと、ケイレブは唇を噛んだ。塀があるということは門もあるだろうが、ならば当然、出入りをチェックする警備員もいるだろう。表のほうに行けばきっと捕まる。捕まれば自分は閉鎖病棟行きだ。それだけは避けたい。

 ケイレブは出てきた建物沿いに、表とは反対のほうへ移動した。そして小さな菜園らしい囲いを過ぎた先に、大きな樹があるのをみつけた。塀の傍まで太い枝を伸ばしているあの樹に登れば、塀を越えられる。

 ケイレブは無意識に駆け足になってその樹へと近づき――煙草を咥えながらドアを開けて出てきた人物と鉢合わせした。はっとして足を止めたが、それがかえって怪しまれる原因になったらしい。Tシャツ姿の男は「ここでなにをしてる? ……その靴……患者だな! 脱走か!?」と、咥えていた煙草を投げ棄てた。

 ケイレブは思わず足許を見た。自分が履いているのはスリップオンと呼ばれる紐のないキャンバスシューズで、そういえば患者はみな同じものを履いていた気がした。着替えたとき靴にまで気がまわらなかったのを悔やみ、じり、と一歩後退る。

 だが男は自分を捕まえようと飛びかかってきたりはせず、出てきたドアのなかに戻ろうとした。警備に連絡するつもりなのだと察し、ケイレブは急いで逃げようかどうしようかと迷いながら視線を彷徨わせ――ドアから漏れる灯りに照らされている菜園に目を留めた。なにかの苗を這わせたトレリスが並ぶ小さな菜園を、円柱形のコンクリートブロックが囲っている。その上に、鋭く先の尖った移植鏝いしょくごてがぽつんと置かれたままになっていた。

 咄嗟にそれを手に取り両手で握りしめ――ケイレブは壁に掛けられている受話器を取ろうとしていた男に、体当りするように向かっていった。衝撃と同時に、男がうぐぅ、と声にならない声を漏らす。少し身を離すと、鏝が男の背中に刺さっているのが見えた。刺さったところから血が滲み、Tシャツがじわりじわりと真っ赤に染まっていく。ケイレブは荒く息をつきながら鏝を抜き、その血に濡れた鋼の先を再び男に突き立てた。

 どくどくと血が溢れる。男は信じられないと云いたげな表情をケイレブに向けながら口から血を吹きだし、がくりと床に倒れこむと、そのまま動かなくなった。

 ――殺してしまった。しかし今ケイレブの頭にあるのは、一刻も早く此処から逃げなければということだけだった。

 血で汚れてしまったシャツを脱ぎ、厨房らしいその中に入ると、ケイレブはシンクの蛇口を捻りシャツを濯いだ。血は完全には落ちなかったが、無地ではなく柄物なのでそれほど目立たないだろうと、固く絞ってまた袖を通す。

 ついでに靴も男のアディダスを脱がせて履き替え、厨房を出てドアを閉める。そうしてケイレブは樹に登り、ようやく塀の外に出ることができたのだった。




       * * *




 ほとんど街灯もない寂しい舗道を、もう一時間ほども歩いただろうか。

 途中、サイレンを響かせながら警察の車が走っていった。誰かが死体をみつけ、通報したのだろう。このまま歩いていては捕まるのも時間の問題だ。ケイレブはどうしようかと辺りを見まわし、高く聳えるガスステーションのネオンサインを見た。

 トラックを捕まえ、州外に出てしまおう。そう決めると、ケイレブは広い道路の先にあるその巨大なガスステーション目指し、更に歩いた。

 しかし、ようやく傍まで辿り着いたとき、そこには警官がふたりいた。自分を捜しているのではないかもしれないが、なにかを怪しんで声でもかけられれば面倒だ。ケイレブは視界の隅で警官たちの様子を窺いながら、そこから離れようとした。

 そのときだった。肚に響いてくる排気音を背後に感じて振り返ると、給油を終えたらしい車がゆっくりと動きだしていた。夜の闇に融けていきそうな漆黒のコンバーチブルが徐行速度でガスステーションの出口へ向かおうとするのを、ケイレブは咄嗟に手をかけて停めた。

「乗せてくれ、頼む!」

 返事を待たず、ドアさえも開けずケイレブはその車に強引に乗りこんだ。文句を云われるかと思ったが、運転席の男は少し驚いた顔をしただけで、ケイレブに向かって頷くとそのまま車を走らせた。

 滑るように広い道路へ出ると、車は力強い走りで西へと向かい始めた。

 ほっとしつつ、なにも云わず黙って乗せてくれた金髪の男に、ケイレブは感謝の言葉を口にした。

「ありがとう、たすかった……。いきなり驚かせてすまなかった。あんたがどこに行くのか知らないが、どこか適当な場所で降ろしてくれていい。迷惑はかけないよ」

 カーラジオではニュースが流れていた。ニュースは速報です、とヒューストン郊外にある医療施設で起こった殺人事件について報じていた。

 だがケイレブは、ニュースには注意を向けなかった。意識のどこかでは自分のこととわかっているのに、別の意識が聞くことを拒んでいるような――気にしなくていいのだと、自分に言い聞かせているような、夢現の狭間にいるような心地でいた。

 既についさっき殺人を犯してきたことも、自分が今どうしてこの車に乗りこんだのかということも、霧に包まれたようにぼんやりとし始めていた。殺人の記憶は現実という名の水面からゆっくりと沈んでいき、やがて泥の底へと埋もれるということさえ、ケイレブは知らない。



『――で起こった殺人事件は、事件発覚と同時に姿を消したケイレブ・ノーマン・クロウリーによる犯行と見て、警察は捜索を続けています。クロウリーはヴェトナム従軍時の体験と非常なストレスによる外傷性神経症、及び解離性障害を発症し、この療養所で治療中でした。なお、担当医師によるとクロウリーは療養所に収容される前、新聞記者として〝魅惑の殺人鬼〟ジョニー・ソガードによる連続殺人についての記事を担当していたことがあり――』



 突然ラジオのチューニングを変え、男がケイレブの顔を見た。月明かりに照らされ、黙ったままにっこりと微笑んだその顔は、よく見るととてもハンサムだった。映画スターのようだからか、どこかで見たことがあるような気さえした。

 無口なのか、それともシャイなのかもしれない。まだ若く、真面目そうな好青年といった印象の男は黙ったまま運転を続けた。チューナーを合わせたラジオ局はドアーズの〝Moonlight Driveムーンライト ドライヴ〟を流していた。ステアリングに添えた指でリズムを取り始めた男に、ケイレブはその中心に刻まれた文字と、走る馬のエンブレムを見つめながら云った。

「……マスタングか、いいね。クールだ」

 その言葉が嬉しかったのか、男は再びケイレブに向かって笑顔を見せた。

「よ、夜のドライヴにはさ、最高だよ」

 確かに。ケイレブはつい一時間ほど前に人を殺してきたことをもう思い起こすこともなく、夜風の気持ちよさにほっと息をついた。

 エンジン音も心地好い。低く唸る振動に身を任せ、リラックスしてシートに凭れる。見上げると妖しく輝く月が、マスタングに繋がれた風船のようについてきていた。そして瞬く星たち。なんて美しい、なにもかも包んでくれる艷やかなサテンのような夜の空。

「ああ、最高だ……」

 ふたりを乗せたレイヴンブラックのマスタングは、夜の闇を切り裂くように緋い残像を残しながら、西へと走り去っていった。







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♪ "The Passenger" Iggy Pop, 1977

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