「鏡」 ③

 どうしたらいいのかわからず、タイラーは茫然としたまま窓から離れた。

 目を開けたまま動かなくなった母の姿はまるで、持たされた花を置いたときの、箱の中の父のようだった。お別れ、もう帰ってこない、死んでしまったと、何度か聞いた言葉が頭に浮かんだ。

 ――ママが死んじゃった。

 どうしよう、どうしたら、と押し寄せてくる混乱に押しつぶされそうになり、タイラーは泣くことすらできずにいた。ザック、ザックはどこ? と、タイラーはこの部屋に自分を閉じこめたのがザックであることも忘れ、「ザック! ザックー……!」と叫びながら部屋を横切り、ドアを叩いた。

 手を止め、「ザックぅ……」と泣きそうな声で名前を呼ぶ。しかし、ドアの向こうはしんと静まりかえっていて、ザックも誰もいる気配はなかった。タイラーは諦めず、ドアを叩き続けた。

 そうして繰り返し何度も叩いているうち――ドアは不意に開いた。

 ぎぃ、と音をたてるドアの隙間から廊下を覗くが誰もいない。途惑いつつもほっとし、閉じこめられていた部屋から出る。タイラーは不思議そうに辺りを見まわしたが、ザックの姿はやはりどこにも見えなかった。

 タイラーはママが本当に死んでしまったのかどうか確かめないと、と思い、玄関に向かった。

 が、廊下を折れるとその先、外へ出るのを阻むかのようにザックが立っていた。

「ザック……! ザック、どうしよう……、ママが、ママが……上から落ちてきて、パパみたいに動かないんだよ。死んじゃったのかも……」

 ザックの顔を見て気が緩み、半泣きになりながらタイラーは云った。しかしザックはそれを聞いても無表情なままで、なにも云わず一歩一歩タイラーに近づいてきた。

 タイラーはようやく、ザックの様子がおかしいことに気づいた。

「ザック……だよね……?」

 もちろん姿形はいつものザック、そのままだ。だがタイラーは足許から這い上がってくるような奇妙な違和感に襲われ、そう尋ねた。ザックはその問いに答えず、タイラーを追い詰めるようにまた一歩近づいた。

 ――変だ。やっぱり、なにかがおかしい。タイラーはなんだか怖くなり、ザックに背を向けてその場から逃げだした。

 廊下の奥、キッチンへ入ってアイランド型のカウンターをぐるりと廻り、隠れたつもりでしゃがみ込む。しかしすぐに足音が近づいてきて、タイラーはそっとワークトップから頭を出して様子を窺った。――入口に立っていたザックと目が合った。ザックはバネ仕掛けの人形のように、一瞬でタイラーに近づいた。その顔は鏡に映っていたようにぐにゃりと歪み、にたりと悍ましい笑みを浮かべている。

 タイラーはあまりの怖ろしさに声もだせず、駆けだしてキッチンから出た。リビングを通り、そのまままた廊下へ出てどうしようと一瞬迷う。

 そして、タイラーは階段を急いで駆けあがった。途中で一度振り返る――ザックは笑った表情のまま、リビングから出たところでこっちを見あげていた。タイラーは階段を上がりきると母の部屋のほうへと折れ、梯子を目指した。

 屋根裏部屋に入って、梯子をあげてしまえばザックは追ってこられない。タイラーはそう考えた。しかしいざ屋根裏部屋に辿り着いて振り向くと、どうやって梯子を引きあげればいいのかわからなかった。

 焦りながらも梯子をよく見てみて、タイラーはやっと紐を持ってなきゃいけなかったのだと気づいた。しかし上からでは紐に手が届かない。タイラーは梯子に腰掛けるようにして一段降りてみたが――そのとき、ザックが梯子の下に現れた。

 ザックが梯子を上ってくる。タイラーは梯子を引きあげることができないまま、屋根裏部屋へと取って返した。

 もう逃げ場がない。窓は開いていたが、タイラーは、きっとママはあそこから屋根の上に出て落ちたのだと思った。屋根からノックスを探そうとザックは云っていた――きっと屋根の上に出ていたザックを連れ戻そうとして、それで――。

 ザックの足音が迫る。タイラーは振り返り、どうしようと焦りながら周りを見た。ふと、窓の左手にある鏡が目についた。映すものが歪んで見える、古い鏡。

 ――ひょっとして、ザックがおかしくなったのはこの鏡の所為かもしれない。

 この鏡をみつけたとき、ザックは少し変だった。触って、なんだかびっくりした様子で後退っていた。見てはいけない鏡だったのかもしれない。そうだ、そういえば分厚い布を掛けて、しっかり紐で縛ってあった――まるで鏡の中から、なにかが出てくるのを防ぐみたいに。

 ぎし、と床が鳴った。はっとしてくるりと後ろを向くと、ザックがそこに立っていた。タイラーは怯えながら後退り――こん、となにかがかかとに当たった感触に視線を落とした。そこに落ちているのはLEDライトだった。

 飛びつくようにしてタイラーはそれを拾いあげ、力いっぱい投げつけた。――ザックにではなく、鏡に向かって。

 かんっ、と思ったよりも軽い音しかせず、タイラーは半泣きになりながらさらに後退ったが――そのとき、ぴしっ、ぱきっと音をたて、鏡に罅が入り始めた。亀裂が中心から外側に向かって走り、分かれ、細かな破片がぱらぱらと落ちる。

 その瞬間、タイラーは見た。ザックから、なにか黒い霧のような影がすぅっと抜けて、離れていくのを。

「ザック……?」

 糸が切れたマリオネットのように、ザックが膝から崩れ床に倒れこむ。タイラーは恐る恐るザックに近づき、そっとその肩に触れた。

「ザック、ザック……。大丈夫? ねえ、起きてよザック、しっかりしてよぉ……パパが死んじゃって、ママまで同じになっちゃって、ザックまで……いやだよ、ぼくだけ置いていかないで――」

 何度も揺り起こそうとしてみたが、ザックは目を覚まさない。いやだ、いやだよ、ひとりにしないで――そう思ったとき。タイラーの頭にノックスの姿が過ぎった。

「ノックス……」

 そうだ、ノックスを探しに行こう。タイラーは涙に濡れた目許を手で拭うと、梯子を下りていった。廊下を回り、階段を駆けおり、そのまま真っ直ぐに玄関から外へと飛び出す。

 外は雨が降りそうに薄暗く、空は厚い灰色の雲で覆われていた。一瞬、母をあのままにしておいていいのかと気になり、タイラーは振り返った。だが、なにをどうすればいいのかもわからなかったし、母の姿を間近で見るのも怖かった。

 そして再び前を向いたとき――

「ノックス!!」

 そこに、ノックスがいた。ちょんと前肢を揃えて坐り、じっとこっちを見あげている。

「ノックスぅ……! もう、どこにいたの。でもよかったぁ……」

 タイラーは堪らずぽろぽろと泣きだし、両手を広げてノックスを抱きあげようと近づいて――

 雷鳴が轟いたその瞬間、その眼が赤く光るのを見た。




       * * *




「――そんな怖いことがあったの?」

 十七歳になったタイラーは、恋人のアシュリーにそんな昔話を聞かせた。

「うん。それがこの屋根裏なんだ。ちっとも変わってない」

階下したの部屋はさすがにかなり手を入れたけどな。ここはそんな、綺麗にする必要もないから」

 ザックはすっかり逞しくなった腕に黒猫を抱き、ふたりに向かって微笑みかけた。タイラーは頷き、ザックを見た。

「ほんと、ザックのおかげだよ。先に施設を出たザックが働いてこの家に住めるようにしてくれたから、僕もこうして帰ってくることができたんだ」

「俺らの家だからな」

「そうだね。僕らの家だ」

 アシュリーは興味深げに屋根裏部屋を見まわし――、布が掛けられている楕円形の鏡らしきものに目を止めた。

「ねえ……あれが、その鏡?」

 タイラーはザックの傍に立ち、黒猫のふわふわとした毛を撫でている。その手を止め、振り返るとタイラーは「うん」と微笑んだ。

「そうだよ。見てみる?」

 そんなことを云われ、アシュリーは「ううん、いい」と首を横に振った。

 そして、ふと思った。――懐かしい子供時代の話といえばそうなのかもしれないが、その内容はといえば母親が事故で亡くなってしまったとか、ザックの様子がおかしくなったとか、まったく楽しいものではなかった。

 話してくれたタイラー自身も当時は本当に怖ろしい思いをしたのだと伝わってきて、アシュリーも怖いと感じたほどだ。

 なのに何故、彼らはこの家に戻ってきたのだろう?

 ザックはずっと黒猫を抱いている。愛おしそうに頭を撫で、猫のほうもその手に顔を擦り寄せて、とても懐いていることがわかる。アシュリーはふと過ぎったその考えを、まさかねと否定しながら考えてみた。確か、ノックスという猫はタイラーが生まれる前から家にいた、と云っていた。もしもあの猫がノックスなのだとしたら、十七年以上は生きているということになるが――。

 猫の寿命ってどのくらいだっけ、と思いながら、アシュリーは尋ねてみた。

「その猫ってひょっとして、ノックスなの?」

「そう」

「そうだよ」

 兄弟たちはあっさりとそう答えた。

「……ずいぶん長生きなのね。でも、施設にいるあいだって、ノックスはどうしてたの?」

「ここにいたよ」

「うん。ここで、僕らが帰ってくるのを待ってたんだ」

 ――ここに?

 アシュリーは眉をひそめた。この家は十年以上ものあいだずっと空き家だったそうだし、周囲にはとうもろこし畑しかないというのに、飼い猫が放ったらかし状態で生きていられるものだろうか?

 ザックとタイラーは笑みを浮かべ、こっちを見ている。アシュリーは急に、奇妙な居心地の悪さを覚えた。なんだろう、なにかが変だ。気味が悪い――いつものタイラーじゃない。

 不意にさっきの話の中で、タイラーがザックに感じたという違和感のくだりを思いだした。そう、タイラーは云っていた。あの鏡の所為でおかしくなったのかもしれないって――

「……その鏡、どうして処分しなかったの? なんだか変だって思ってたんじゃなかったの? それに……あなたたちの家っていうけど、引っ越してからそんなに長く住んでたわけじゃないんじゃ? お母さんもここで大変なことになったのに、どうしてそんなにここに執着しなきゃいけないの――」

 それに、どうして私をここに連れてきて、この屋根裏部屋に案内したの?

 アシュリーの疑問に、ザックもタイラーも答えようとはしなかった。彼らはただ薄く笑みを浮かべたまま、じっとアシュリーを見つめている。

 その目が逸らされたと思ったら、ザックがいきなり鏡に掛けられていた布を取り去った。

 鏡は話に聞いたとおり、中心から綺麗に罅が広がっていた。いくつもの亀裂で分かれた鏡には、ザックとノックスの姿がその破片の数だけ映りこんでいる。ザックの顔は歪み、不気味な笑みを湛えて映っていた。

 そして、ふと思った。ザックから見たら、鏡には私が映っているはず。私もあんなふうに歪んで、たくさん映っているのだろうか。

 ――見たくない。見てはいけない。そんな気がして、アシュリーは鏡面の向いていないほうへと動いたが。

「……タイラーの所為なんだ」

 独り言のように、ザックが云った。

「鏡を割ったから、増えたんだ」

「うん。増えちゃったんだよね」

 そう云ってこっちを向いたザックとタイラー、そしてノックスの眼が、赤く光ったように見えた。

 アシュリーはぞわりと肌が粟立つのを感じた。

 本能的にここにいてはいけないとふたりから後退り、背を向け、梯子を下りる。――おかしいおかしいおかしい! もし自分が彼らの立場なら、聞いた話のような経験をしていたら、あんな鏡は絶対に処分しているし、こんな家、戻って住みたいなんて思うわけがない!

 アシュリーは無我夢中で梯子を、そして階段を駆けおりた。聞かされた話のなかの幼いタイラーと同じだ、とふと気づいたが、なら尚更こんなところから早く離れなければと思った。

 玄関のドアを勢いよく開け、アシュリーは外に出た。夏だというのに草は枯れ、庭の木々も話のとおりすべて葉を落としている。外の空気に触れて、なんだか水面に顔をだしたときのような心地を感じた。しばらく居るうちに慣れてしまったようだが、家の中は黴臭い、饐えたような臭いがして空気が淀んでいた。

 アシュリーは振り返り、開けたままのドアから家の中を見た。――きっと、おかしいのはこの家だ。こんな家にいちゃいけない。なんとかしてタイラーとザックを外に連れ出さないと――。

 そう考え、アシュリーは勇気を振り絞って中へ戻った。だが階段を下りてきたタイラーとノックスを抱いたザックの目はまだ赤く光っていて、しかもその顔は鏡に映りこんでいたときのように不気味に歪んでいた。ひっと息を呑み、アシュリーは踵を返し、再び外へ飛びだした。

 しかし。

「――きゃあああぁぁぁぁああっ!!」

「どこへ行くのアシュリー。一緒にいようよ。僕ら、が欲しいんだよ」

 ずらりとポーチを取り囲んでいるザックとタイラーがそう声を揃えると、アシュリーは気を失い、その場に倒れた。







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♪ "No More Tears" Ozzy Osbourne, 1991

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