Track 05 - Mandocello

「虹のふもとを探して」

 朝の音が聞こえる。

 嗅ぎ慣れた匂いのするクッションで目覚め、ぼくはゆっくりと眼を開けた。

 ぱたぱたという足音、かちゃかちゃとなにか硬いものにじゃれてる音。そして、さぁー、と小雨が降っているような水音がして、次にぱきゅっと缶を開ける音が聞こえると、ぼくはうーんと伸びをしてクッションに爪を立て、バリバリして、すたっとソファから下りた。

 もう一度伸びをする。そして『ココ』が待っている、いつもいい匂いがする部屋に向かう。そこはお台所という部屋で、ココというのはぼくにごはんをくれたりお水をくれたり、美味しいやつをくれたりする、二本あしで立つ器用で大きな猫のことだ。

 偶にその器用な前肢まえあしでぼくの大事な爪を切ったり、泡だらけにしてから温かい雨をかけたりと嫌がらせのようなこともしてくるけど、ぼくはココが大好きだ。

「おはようオーブ。はい、ごはんよ」

 にゃん、と一声返事をし、肢を一周してココに匂いを擦りつけてから、ぼくはごはんを食べ始めた。でも、ちょっと多い。いや、違った。以前はこのくらいでちょうどよかったんだけれど、最近はもうこんなに食べられなくなったんだ。レバーを下げるとカリカリがでてくる面倒な容れ物もあるけれど、ここのところあれもちっとも食べてない。きっと、袋から出したばかりみたいな匂いもしなくなって、もう美味しくないに違いない。まあ、どうせ固くて食べにくくなったからいいんだけど。

 ちょうどいい高さの器に入ったごはんを半分ほど食べると、ぼくはふいとその場から離れて、顔を洗い始めた。庭が見える透明な壁の傍は、ぼくのお気に入りの場所だ。

 ああ、今日も外は天気がよさそうだと、ぼくは透明な壁越しに空を見上げた。

「……また残してる。最近、あんまり食べないなあ」

 ココがなにか云っている。ところで、『ココ』はどうしてココなのかと云うと、ぼくに向かってここよ、とか、ここにいなさい、とか、ここで待ってて、と、いっぱい聞く言葉だからだ。ぼくの名前はたぶん、オーブだ。いつもそう呼ばれるので、それはわかる。その次にいっぱい聞くのは『ここ』だから、彼女はココだ。


 ココと一緒に暮らすようになってから、いったいどのくらい経つんだろう。憶えてないけれど、気がついたときにはもう、ぼくはココと一緒にこの家にいた。その頃のココは、今よりもっと小さかった。他にもココより年寄りな大きい猫がふたりいたけれど、気づいたらひとりになってて、それからそのひとりは家にいないことが多くなった。偶に帰ってきても、ココと喧嘩ばかりしている。知らない匂いがついていたことがあったから、他に仲間ができたのかもしれない。

 だから、今この広い家にいるのはぼくとココ、ふたりだけだ。


 最初の頃はやたらとちょっかいをかけてきたココも、今は見上げるほど大きくなって、性格もすっかり落ち着いておとなしくなった。大きい猫の歳はわかりにくいけれど、きっとおとなになったんだろう。

 ぼくはというと、昔のようになんにでもじゃれつこうと思わなくなったし、ゆらゆらしているものを見ても飛びつく元気はなくなった。なんだか走るのもしんどいんだ。

 ぼくはココの膝の上で寛ぐのが好きだ。膝の上で撫でてもらうのは、最高に幸せなひとときだと思う。息苦しいほどに喉をゴロゴロ鳴らして、眼を閉じて。このままもう目覚めなければいいと思うくらい、幸せだ。

 でも、そんなとき。ぼくははっとして眼を開け、膝から降りる。ここで眠ったらだめだ。何故かわからないけれど、そんな気がした。

 そして、庭に出して、と家と庭を隔てている網を張った戸に爪を立てる。この戸は外も見えるし風も通るけれど、ぼくのことは通してくれない。昔はこうして、外に出して、と云えば誰かが開けて出してくれたけれど、いつからかぼくはどこにも出してもらえなくなった。きっと外にはわんわんとうるさい犬や、臭い煙を出しながら走るびっくりするほど巨大な鉄の塊が、いっぱいいるからだろう。

 網をバリバリしながらにゃーと呼ぶと、ココはだめでしょ、とぼくを抱きあげた。

 ぼくはココの顔を見上げた。でもねココ、ぼく、行かなくちゃいけないんだ。何処へかはわからないけれど、もうそろそろ行かなくちゃいけないんだよ。

 ココはぼくの頭から背中を撫でて、床におろした。しょうがないなと、ぼくはひと伸びしてバリバリして、いつものクッションに戻った。

 まあいいや。ぼくは知ってる。昼と夜が三回くらい入れ替わったら、朝早くに大きな袋を持ってココがドアを開け、どこかへ行くのを。あのときを狙えば、ココには気づかれずに外に出ることができる。

 そう決めると、ぼくはクッションの上で丸まり、眠ることにした。





 作戦は大成功。

 ぼくは久しぶりに家から外に出て、昔よく歩いた道を進んだ。道の端っこ、塀の上、どこかの家の庭、建物と建物の間。

 そうしてしばらく歩くと、ココが持っていたのと同じような大きな袋がいっぱい積んである場所があった。そこに、真っ黒い鳥が集まっている。あいつらはぼくらの天敵だ。面倒なことにならないうちにとそこから離れ、ぼくは広い道に出た。でも広い道にはあの、大きな鉄の塊が走っている。あいつにぶつかったりしないように、ぼくは道の端っこぎりぎりを歩き、日陰になっている細い道に折れた。

 ゆっくりと歩いていると、緑色の蛇みたいな長いものの先から雨を降らせている奴がいた。小さいけれど力強い雨は朝の眩しさのなかで、きらきらと輝いている。水に触るのは大嫌いだけど、見ているぶんには綺麗なのだなと初めて思った。

 そのとき、不思議なものに気がついた。

 小さな雨の向こうに、色の付いた光が見えたのだ。赤や黄色、緑に青――そんなふうにいくつもの色をまとった、光の道みたいなものがそこにある。

 それがなにかはわからなかった。でもぼくは、ああ、あれを探しに行かなくちゃいけないんだ、と、そう感じた。

 そこにあるやつでは小さすぎる。あれはきっと、ねずみやすずめたちのためのものだ。ぼくにはもう少し、大きなやつがあるはずだ。

 目指すべきものを知り、ぼくはさっきまでよりもしっかりした足取りで、歩き始めた。


 ぼくはときどき立ち止まったり、物陰で休憩したりしながらいっぱい歩いた。途中、綺麗な花がいっぱい飾ってあるところに水を溜めてあるのをみつけ、喉を潤した。すると茶色いぶちの猫が出てきて、ここは自分の水場だ、勝手に飲むなと文句を云われた。ぼくは仕方なく、逃げるようにそこから離れた。

 ちょっと走ったから疲れてしまった。ああ、昔はもっといっぱい走りまわれたのに。なんだかぜぇぜぇと胸が苦しいし、高くジャンプもできない。

 気がつくともう陽が高くなっていた。歩くと肉球も熱いし、ぼくは陽が落ちるまで植え込みの陰で眠ることにした。少し暗くなったほうが動きやすいし、あの光の道もきっとみつけやすいだろう。

 ぼくはちょうどいい場所をみつけて、そこで蹲った。

 眼を閉じる。自然にココのことが頭に浮かんだ。――ココは今頃、どうしているだろう。ぼくがいないことに気づいて、探しているだろうか。それともいつもの不思議な窓に向かって、かたかた云うやつを叩くのに夢中で気づいてないだろうか。


 ぼくが今こうしてココのことを考えているみたいに、ココもぼくのことを考えてくれているといいな、と、ぼくは思った。大好きなココ。なによりも大好きな、ぼくを撫でてくれるあの優しい前肢。ぼくのみたいにぷにぷにしてはいないけれど、痒いところを気持ちよくしてくれる、とっても器用な前肢。

 ぼくは暗くなったらまた歩きだして、あの光の道をみつけに行く。だから、もうココには会えないと思う。でも、ココのことはずっと忘れない。だからココも、ずっとぼくのことを忘れないでいて。

 そうしてくれれば、ぼくはきっとそのうち、またココのところに戻ってくるよ。


 そんなことを思いながらうとうとしていて、どのくらい経ったのか――ちらちらと眼に強い光を感じて、ぼくは眼を開けた。

 辺りはもう暗かった。その暗いなか、白い光の筋があちらこちらと彷徨っている。

 ぼくの探してる光とは違うなあ、と思っていると――「オーブー? オーブ、どこにいるのー」と、聞き慣れた声がぼくの名前を読んだ。ココだ。

 ココが、ぼくを探しているんだ。それがわかり、ぼくは光の道のことなんかつい忘れて、にゃあん、と植え込みの陰から飛びだしてしまった。

「オーブ……! もう、だめじゃない。心配したんだから……!」

 ココが泣きそうな声でぼくの名前をまた呼んだ。ぼくは、ココってば相変わらず泣き虫だなあと、しゃがみ込んだココの肢にすりすりしてあげた。大丈夫、泣かなくていいんだよ。大丈夫。

 ココはぼくを抱きあげ、そのままぎゅっと抱っこして家に帰った。ずいぶん遠くまで歩いたつもりだったけれど、ココの歩く速さだと家まではあっという間だった。どうやらぼくは家の周りをぐるぐる廻っていただけらしい。

 家に着いて、肢を拭いたりブラシで念入りにくーしくーしされたりして、ぼくはもうなんなのと少し文句を云った。するとココはぼくをまたぎゅーと抱きしめて、そのあと台所で美味しいやつをくれた。

 ぼくはそれを夢中で舐めて、そのあと満足していつものように顔を洗った。ブラシをかけられたところも綺麗に毛づくろいし直した。

 そんなふうにあれこれしているうちに、ぼくはすっかり忘れていたことに気づいた。せっかく外に出たのに、光の道、みつけられなかったな、と。

 でもなんだか、また今度でいいや、という気分だった。ぼくは毛づくろいを終えると、いつものクッションへ行き、しっくりくるまで踏み整えてから丸くなり、眠った。





 そうして、また昼と夜が何回か入れ替わった頃のこと。

 雨が降った、その次の日のことだった。朝ごはんを食べたあと、ぼくはまた外に出る隙を窺っていた。けれど前回外に出てからはなんだかまったくチャンスがなくて、ぼくは困ったなあと透明な壁越しに空を眺めていた。

 庭の木の葉はまだ雨の雫を転がしていて、透明な壁も水滴をいっぱいつけて、きらきらと陽の光を弾いている。眩しい外の世界。自由に屋根を駆けていた頃が懐かしい。

 眼を細めていると、足音と一緒に大好きな匂いが近づいてきた。

 ココは隣に座り、ぼくの頭に優しく触れて、ゆっくりと撫で始めた。

「今日は晴れるみたいね。また暑くなるかなあ」

 ぼくはその前肢にすりすりして、ココの膝に乗った。ココのお腹に頭を擦りつけ、好き好き、大好きだよと伝えながら喉を鳴らす。

 そしてココの顔を見上げたとき――ぼくは見たんだ。あの赤や黄色や緑や青の、あの光を。

 ――ああ、ぼくの目指す場所はここにあったんだ。

 いいんだね。ぼく、ここで眠っても。

 ぼくはココの膝の上で丸くなり、ココに優しく撫でられて、とっても幸せな気持ちで眼を閉じた。







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♪ "Mandocello" Cheap Trick, 1977

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