Track 06 - Yes It Is
「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの終幕」 ①
――一九七四年七月 オーロラ、インディアナ州――
「――ボー! ボーどこだ? 戻ってこーい」
日曜の朝。手にリードだけを持ち、トニーは愛犬ボーを探していた。
お決まりの散歩コースである川沿いの道を歩き、折り返し地点の広い空き地で首輪からリードを外すのはいつものことだった。そうしてボーをしばらく自由に走りまわらせ、十五分ほど経ったらまたリードを付けて、来た道を戻る。普段は母親が同じことをやっていて、ハイスクールが休みの日はこうしてトニーが散歩をさせる、それが家のルールだった。
アッペンツェル・マウンテンドッグのボーはとても利口で、家でも外でもトニーの傍を離れず、呼べばいつもすぐに駆け寄ってくる。しかしこの日は何故か空き地から川のほうへ行ってしまい、姿が見えなくなっていた。トニーはまったく、と困った顔をしながら、深緑に濁る小川を覆い隠そうとしているような木々の傍まで行ってみた。
親たちには、エレメンタリースクールの頃からうんざりするほど川には近づくなと云われていた。だがトニーは、自分はもう十五だし、少しくらい平気だとなだらかな土手を降りていった。
滑ってぬかるみに足を取られないよう、木の幹に掴まって左右を見まわす。気温を上げ始めた夏の空気は、青々と茂る草の匂いがした。「ボー? どこだー」と何度か声をかけ続けていると、ようやく草木のあいだから黒に白と薄茶を配した見慣れたシルエットが現れ、近づいてきた。
「ボー、だめだろ、こんなところまで来ちゃ! あーあ、
トニーはほっとし、土手から通りに戻ってボーにリードを付け――その口に、なにかが咥えられていることに気づいた。
「ん? ボー……、なにを拾ってきたんだ? 枝?」
ボーは得意気に、咥えていたそれをトニーの手の上で離した。よしよし、と頭を撫でてやるとボーは嬉しそうに、千切れそうなほど尻尾を振った。
ボーに向けて細めていた目を、自分の手にしているものに移し――それがなんなのかわかった瞬間、トニーは短い悲鳴をあげ、感電したかのような動きで振り落とした。
* * *
「――まさか、死体がでてなかったとはな」
「道理でみつからないわけだ。俺たちがあちこち探しまわってたのは、まさに無駄骨だったってことっすね」
シンシナティから西へ約三十五マイル、オーロラという小さな町。オハイオ
一九七二年十二月から起こっている〝
検屍官によると遺体は身長5フィート4インチくらいの二十代から三十代の女性、死後おそらく一年から二年。そして、重要な点がふたつあった。ひとつは大腿骨骨幹部に骨折後の仮骨形成がみられること。そしてもうひとつ、肋骨に刃物で刺された場合に残る傷が認められるということであった。それも、十五ヶ所。
若い女性、刃物で滅多刺しにされた死体――やっとみつけた、とサムはその報告を聞き、すぐに確信した。これこそが奴にとってのきっかけ、最初の犯行に違いない。
〝魅惑の殺人鬼〟は、その犯行現場の広がり方から、シンシナティの住人である可能性が非常に高いとサムたちは睨んでいる。それを前提に考えれば、一連の事件が起こるより前に犯人がシンシナティ、もしくはその近辺の町でこの女性を殺し、しかしその後の犯行のようにそのまま路上には放置せず、オハイオ川に運んで遺棄した。それがオーロラまで流され、ホーガン川の浅瀬に引っ掛かり、一年以上の時を経て発見されたわけだ。
「現場ではまだ周囲を捜索してますけど、もう骨もなんもみつかりそうにないみたいっすね」
「うむ。まあ、靴や所持品が残骸すらないのは残念だが、骨があれだけ揃ってたんだから上等だ。文句は云えんな」
「ですね。オハイオ川で沈んでたらとっくにばらばらになってます。肉が腐る前に小さい川に引っ掛かっててくれてよかった」
推定年齢と身長を頼りに、一年から二年ほど前、シンシナティ辺りで忽然と失踪した女性を捜しだす。そうして遺体の身元が判明すれば、ひょっとしたら今度こそ犯人の正体がわかるかもしれない。一連の犯行はたんに若い女性を狙っただけかもしれないが、きっかけとなった最初の一件だけは知人である可能性があるからだ。顔見知り程度でも、充分手掛かりになる。
「よし、行こう。まずは該当する時期に届けられてる捜索願を片っ端から当たるぞ」
「うへぇ、了解。今度は骨折り損じゃないことを祈りますよ」
サムとネッドはようやく掴んだ手掛かりに発奮しつつ、支局を出た。
* * *
ジョニーはすっかり身支度を済ませ、キッチンに立っていた。
キャビネットの上に置いたラジオからは、トッド・ラングレンの最近のヒット曲〝
フライパンで厚めに切ったハムと、卵に適当に火を通す。さっと塩胡椒して盛りつけ、ジョニーはその二枚の皿を窓際のテーブルに並べた。次に戸棚からスライスされたパンの袋を取りだし、四枚出して皿に乗せる。袋を戻し、冷蔵庫を開けてバターを取りだしたが、そのときふと、いつものジャムの瓶が見当たらないことに気づいた。
そういえば昨日なくなったのだったっけ、とジョニーはピーナツバターも残り少ないなと思いながら、帰りに買い物をしてこないといけないかな、と冷蔵庫の中をチェックした。
「ジョニー、おはよう。起こしてくれればいいのに」
Tシャツにショートパンツという寝間着代わりの恰好のまま、ロザリーが声をかけてきた。冷蔵庫を閉め、ジョニーは「い、いいんだ。き、君は今日は休みだろう?」と微笑んだ。ロザリーは美味しそう、ありがとうと云いながらレッドオレンジのシェルチェアに腰掛けた。
ジョニーは幼い頃からの吃音と、おそらくそれが原因の多くを占めているのであろう心因性
不思議な縁に導かれるように出逢ったふたりが一緒に暮らし始めてから、まだ三ヶ月ほどだった。ベッドを共にしていても性交渉はなかったが、それでも支障のない相手と夫婦同然に過ごせることは、ふたりにとって欠けている部分に嵌まるたったひとつのピースをみつけたような奇跡だった。
「……そういえばもうジャムがなかったんだっけ」
「うん。か、帰りに買ってくるよ。ほ、他になにか欲しいものはある?」
「アイスクリームかしら。あ、夜はなにが食べたい? 私もお買い物に出なきゃ」
「じゃ、じゃあお、俺の仕事が終わったら一緒にく、くく、
「ふふっ、彼処に行くといつも買い過ぎちゃう」
食事を済ませ、ジョニーはロザリーの頬にキスをすると、仕事に出かけた。
ジョニーが勤めているのは、街外れにある金属加工業の製作所である。一度、大きな企業に買収されて工場長が変わってしまい、ジョニーも解雇されそうになったが、なんとか今も勤め続けている。転職することになれば、まず間違いなく吃音についてよく知らない人間ばかりに囲まれ、また一から理解して貰わなければならない。ジョニー自身も容易に教えを請うことができないので、職場を変わるのはできるだけ避ける必要があるのだ。
今、ジョニーの持ち場であるラインは工場買収時に移動させられたところだが、工夫と努力の甲斐あって同僚たちはジョニーを認めてくれている。
もっとも、毎晩のように仕事帰りに飲みに行こうと誘われるのは、やや食傷気味だったが。
「よぉジョニー。今日も俺らと飲みには行かねえって?」
一日の作業を終え、皆で機械の点検や片付けなどをしているとき。もはやおつかれさまの挨拶を兼ねているようなお決まりの台詞をボブが云った。
「す、すみません。きょ、今日は、か、かか買い物に……」
ジョニーはベルトからぶら下げているカードの束のなかから『妻と』『約束』『帰りに買い物』と書かれたものを示した。
「へいへーい。仲睦まじいこって」
「おまえもちったぁ見習って、そろそろ身を落ち着けろよ。毎晩毎晩飲みに行って、三日に一度は女買って。なんのために働いてんだ」
「なんのためって、いい女とやるために働いてるに決まってる」
「可哀想に。ボブは一生独身だなこりゃ」
「ほっときやがれフレッド。おまえも独り者だろうが」
「相手にしなくていいぞ、ジョニー。女房待たせんじゃねえよ、早く行って旨いもんでも買ってやんな」
もうじき六十歳になるベテランのアルヴィンにそう促され、ジョニーは微笑んで頷くと、一足先にロッカールームへ向かった。歩きながら後ろでひとつにまとめていた髪を解くと、薄暗いなかでも一際目立つバターブロンドがふわりと揺れた。
* * *
サムたちはまたかという顔をされながら近隣の警察署に赴き、捜索願が出された、またはそう申し出られたが既に成人していたために受理しなかった失踪者の情報を、しらみ潰しに当たった。若い女性の失踪者はそれなりに数があったものの、身長と失踪時期が合うものを篩いにかけると一割ほどに絞られた。
そこからさらに大腿骨を骨折したことがあるかどうか、一軒一軒連絡先に電話をかけて確認したが――きっとこのなかに、という期待は外れ、白骨死体の身元は判明せずという結果に終わった。
毎回こうだ。やっと糸口が掴め、今度こそと思っても、こんなふうに手繰った糸がぷつりと切れてしまう。サムは落胆とともに襲ってきた疲労感に、ぐったりと椅子に背をあずけた。
デスクの上に散らばっているファイルを端に寄せ、ネッドがコーヒーのペイパーカップを置く。
「答えがないのもまた答え、って感じですか。こうなると、考えられる答えはひとつしかないっすよね」
したり顔でコーヒーを啜っているネッドを見ながら、サムはカップを手に「ひとつ、というと?」と眉根を寄せた。
「死体を探してたときと同じってことっすよ。届けられていないんだ。つまり、独り暮らしで家族も友人もいない、無断欠勤だって騒ぐ職場もない、そんな女だってことです」
ネッドのその答えを聞き、サムはカフェインが必要だと云わんばかりにコーヒーを一口、さらにもう一口飲んだ。
「……いなくなったことを気にかける仲間がいたとしても、警察に届けようとは思わない界隈、でもあるかもな」
ある日突然、いつも見かける存在が消えてしまっても、誰もいちいち気にかけはしない。ましてや警察に届けたりもしない、そんな界隈――娼婦だ。
今度こそ、今度こそ間違いないと、サムは背骨の下のほうからびりびりと奮えがくるのを感じた。
「よし、オハイオ川に近いところから順に、街娼がいる場所で突然消えた女がいないか聞き込みだ。背広で行くと警戒される。ネッド、一度うちに帰って、ゆっくりメシを食って仮眠して、着替えてから来い。ここの駐車場に九時だ」
「わかりました。今夜は徹夜っすね」
「今日から徹夜、だろうな」
そりゃあ今夜だけで済めばいいがな、と呟きながら、サムは上着を手に椅子から立った。そして、まだコーヒーが残っていることに気づき、一息に飲み干す。
空にしたカップを置き、サムはふとなにかに気がついたように、ネッドの顔をまじまじと見た。
「ネッド。おまえ……」
「はい?」
いつもの飄々とした顔に、ちょっとばかり癪だと思いつつサムは云った。
「おまえ、やる気があるようには見えないし、いつもへらへらしてなんだかむかつく若造だと思ってたんだが――」
「うへぇ、ひどい」
「実は優秀なのかもな」
そう云ってやると、ネッドは目をぱちぱちと瞬いた。
「でも俺、銃が苦手なんですよ。てんで下手っぴぃで。キャラハンなんて
すぐにはぴんとこなかったが、サムは少し考えて「ああ」と人差し指を立てた。
「いいじゃないか。ダーティハリーは相棒にしたいタイプじゃないし、下手なら犯人を射殺はせんだろ」
「狙って撃っても威嚇で終わるって云ってます?」
〝魅惑の殺人鬼〟には、なんだって三十五人も殺したのか、動機を訊かなきゃならんからな。そう云ってサムはペイパーカップを握り潰し、
[Track 06 - Yes It Is 「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの終幕」 ② へ続く]
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