Track 07 - Dedicated to the One I Love

「宵街ぶるぅす」 ①

「あずちゃーん、ええやんか。おいでぇな、別になんもせんさかい。ほれ、早よでてきてここ坐りぃ」

 昭和の頃の面影を残す商店街の一角にある、六坪ほどの小さなスナック。演歌が小さなボリュームで流れているその店の、カウンター席の真ん中で『あず』に絡みだしたのは、近所に住んでいるらしい常連客だった。

 不健康にせり出した腹の下でステテコのような薄手のズボンを穿いた脚を広げ、ほれここ、と腿を叩いた常連客けんちゃんに、私は「えーっ、どうしようかなー」と惚けながらグラスを空けた。コースターの上に戻す前にカウンターに置いたハンカチを手に取り、もう癖のようになっている手付きでグラスについた水滴を拭う。スナックに勤めるのはこの店が初めてだったが、水商売はもうすっかり慣れたものだ。

 白いマーカーで思い思いにサインされたウイスキーのボトルが並ぶ棚、L字型のカウンターテーブル。ボックス席のない小さな店は馴染みの常連客が支えてくれている、地域の夜の憩いの場だ。滅多に満席になることはないが、常連さんは大抵みな決まった曜日、決まった時間帯に来て、決まった席に坐る。

 今は、ママが『けんちゃんタイム』と呼んでいる時間帯で、他に客の姿はなかった。狭いカウンターの中で「おかわりいただきまーす」と水割りを作っていると、けんちゃんがしつこく「そんなんママに作ってもろたらええがな、早よおいで。せや、肩揉んだろか。乳ちゃうさかい安心しぃ」などと云ってくる。

「けんちゃん、あんたまたそんなこと云うて絡む! うちはスナックやで? そういう店とちゃう云うてるやろ」

 自称年齢不詳、おそらく五十代後半くらいであろうママが、もう我慢ならないという様子でそう云った。

 この店はママの城だ。ママは旦那さんの遺したお金で二階部分が住居になっているこのお店を買い、以来独りで充実した毎日を過ごしているのだそうだ。なんとなく羨ましい。

「硬いこと云いないな。わし、あずちゃん好っきやねん、もう可愛いてかなんねん。ちょっと膝に坐るくらいええがな。なあ」

 私はにこにこと笑顔をつくったままマドラーを持ち、からからと氷の音をたてていた。客がスケベ心を起こして云うことなど、いちいち相手にしていられない。が、ママのほうはそうではないようで――

「あんた、もう今日は飲み過ぎや。しょうもないこと云うてんと、もうええかげん帰りよし」

 しかしけんちゃんは「おばはんはお呼びとちゃうねん」と失礼なことを宣う始末だ。ママはその台詞にかちんときたらしく、「もうアッタマきたわ。あずちゃん、ちょっとそこ退いてんか」と、空のビール瓶を逆手に握った。

 あーあ、と思いながら私はシンクの上に身を乗りだすようにして、ママを通した。ママはすたすたとカウンターを出ていくと、脚を広げて坐っているけんちゃんの頭にビール瓶を振り下ろした。

 ごんっと鈍い音が、店内に響く。

「痛ったいな! なにすんじゃわれぼけぇ、死んだらどないすんねん!」

「こんなんで死ぬかいな! 店で死なれたら迷惑やわ、もっぺんどつかれとうなかったら出ていきぃ!」

「うわ、こらやめんかい! 客どつく店て聞いたことないわ!」

「やかましわ! 勘定もらわんかったら客とちゃう! 払ていらんさかい、そんかわり二度と来んといてんか! わかったか!? わかったら出てけー!」

 ママの剣幕に、けんちゃんは「めちゃくちゃや! 頭おかしいんちゃうかこのクソばば! 覚えとけよ、頼まれんかてこんな店、二度と来たらへんわ!」と悪態をつき、煙草をカウンターに置いたまま店を出ていった。

 ママは、二度と来やへんのやったら覚えとくことないっちゅうねん、あほちゃうか、などとぶつぶつ云っている。その様子を見て、私はまったく、と溜息をついた。

「……もう、ママったら。あんなの適当にはいはいって云っとくのに、お勘定も取らないで追いだしちゃって。常連さん、ひとり減っちゃったじゃない」

「かまへん、あんなんがあずちゃんに絡んどったら他の客もええ気せえへんやろ。来ていらん来ていらん」

 そう云ってママはあずちゃん、塩取ってんか、と、私に向かって手を伸ばした。食塩の小瓶を渡すとママは蓋を開け、中身をぜんぶ外に向かって撒いた。

 そして、中に戻ってくると「まあ、それはええねんけど」と私を困った顔で睨んだ。

「ちょっと脅かしたるだけのつもりやったのに……あんたが止めんと退いてくれるさかい、ほんまにどつかなあかんようになってしもたやん」

 カウンターの上のアイスペールや突き出しの小鉢を下げながら、私は目を丸くしてママを見た。

「ええ? 私のせいなの?」

「せやがな! ふつう瓶持って退け云うたら止めるやろ」

「私、ママのやること止めたことないじゃない! ……でも、瓶が割れなくてよかった」

 割れたらお掃除大変だから、と以前一度あったことを思いだし、顔を顰める。すると、ママも同じことを思いだしたのか、罰が悪そうに笑った。

「せやねん。うちも咄嗟に割ってしもたらまた後がかなんわと思て、加減してん」

「そこまで冷静なのに、殴るのは止めなかったのね」

「ええ音したやろ」

 そう云うと、ママは再び声をあげて笑った。私も笑った。





「――あの、いいですか。やってます?」

「はーい、いらっしゃいませー」

 木曜日、開店してすぐの早い時間。ひょこっとドアを開けて覗いたのは初めて見る顔だった。

「おひとりさま? どうぞー、お好きな席に」

 ママは奥の厨房へ突き出しを取りに引っ込み、私はおしぼりを手にどうぞ、と客の前に立った。アップバングがお洒落な短い髪、服の上からでもわかる厚い胸板と筋肉質な腕。地味めなポロシャツとチノーズは、シンプルだけどその辺のファストファッションではない品の良さを感じる。落ち着いて見えるけれど四十代まではいってなさそうな――なんとなく職業不詳な印象の男だ。

 なにかめずらしいものでも見るように店内をぐるりと見まわしている客に、私は「なにになさいます? おビール? それとも水割り?」と尋ねた。

「ああ、えっと……ボトルキープができるなら、水割りにしようかな。ヘネシーはある?」

「ヘネシー……はごめんなさい、リクエストがあれば次には置いておきますけど、今日は。ブランデーならサントリーのXOエクスオーがありますけど」

「ああ、じゃあそれで」

「ありがとうございます」

 そこへママが小鉢とチャームを持って厨房から出てきた。木製の横長なトレーの上には洒落た小鉢が三つ、一直線に並んでいる。今日は焼きそら豆と、茄子と鰊の炊いたん、麩の辛子和えだ。チャームは昔から定番のさきいかやチー鱈、チョコレートとナッツなどが、竹籠にレースのようなサーヴィエットを敷いて盛ってある。

 私は棚からXOのボトルを下ろし、白いマーカーと一緒に客に差しだした。

「お名前でもなんでもいいんで、なにか目印をおねがいしますね」

 さらさらとなにか書き、マーカーがカウンターに置かれる。私は「水割りでしたね。私もいただいていいかしら」と微笑みかけながらボトルを開け、そこに書かれている文字を見た。

「……田子森たごもりさん?」

「ええ、田子森といいます。水割りでもなんでも、好きなものを飲んで。……そちら、ママかな? ママもどうぞ」

 あっらー、ありがとうございますと、ママは喜んですぐに瓶ビールを一本だしてきた。私は、じゃあウーロン割りにさせてもらっていいかしら、と烏龍茶の小瓶をカウンター下の冷蔵庫から取りだす。ビールはもちろんだが、烏龍茶も売上になるうえ、このほうが水割りよりも酔いにくいのだ。

 皆にグラスが行き渡ったところで乾杯をし、どっから来はったん? とママが話の取っ掛かりを探り始める。それを聞いて私はそういえば、と気がついた。田子森と名乗った客の言葉には訛りがなかった。関西弁ではない自分が違和感なく話せるということは、関東のほうから来たのだろうか。

 その答えはわからなかったが、最近この辺りに越してきたのだということは、話しているうちに明らかになった。田子森さんはまだ独身で、それをいいことに繰り返し転勤を命じられ、日本中を転々としているのだと云った。

「――おまえは独りもんだからいいって云うけど、これじゃあ身を落ち着けようにも相手ができないよね。参りますよ」

「ほんまやねえ、そんなんやったらせっかく彼女さんできたかて、よっぽどよぉできた人やなかったら結婚してついていこ思わへんわなあ」

「そうなんですよ」

 ママが身の上相談よろしく話をしてくれていたので、私はグラスを取り水割りのおかわりを作った。突き出しの小鉢ものは口に合ったのか、既に完食されていた。私は水滴を拭いたグラスを差しだしながら「なにかおつまみは要りません? ママのだし巻き卵とか、鶏の八幡巻とか美味しいんですよ」と勧めてみた。

 来ていきなりヘネシーをボトルキープしようとしたり、ママが何本ビールを飲んでも私がウーロン割りしても嫌な顔ひとつしない。太客である。ふつう、こういったお店で食べるものを頼むととんでもない値段がしたりするが、ここのお店はママがお人好しだから、けっこう常識的な値段だ。私はもっと値上げすればいいのにといつも云っているのだが、ママは食べてもろてなんぼやからと頑なだった。料理が好きな人なのだ。

 だから売上にしようと思ったら二、三種類くらい頼ませて、半分ほどは私が食べなければいけない。ママにはお世話になっている。出勤したら最低でも自分の給料分、取れる客からはしっかり搾り取れるようにしなければいけないのだ。

 すると、田子森さんはそんなことなどなにもかもお見通しだという顔をして、薄く笑った。

「……いいよ。あずちゃん、だっけ。君の食べたいものでもおすすめでも、なんでも適当にだして」

「……ありがとうございます」

 もともとは都心のほうにいたようだし、遊び慣れているのか。私はじゃあお言葉に甘えてと云い「ママ、だし巻き卵と八幡巻と、フルーツの盛り合わせおねがいします」と、とっておきの微笑みを浮かべてオーダーした。



「あず、って変わった名前だね。どんな字を書くの?」

 この店でいちばん高いフルーツの盛り合わせがどんとテーブルに置かれていることに、私はほんの少し罪悪感を感じていた。こんなの三人で食べきれるわけがない。しかもいつもの常連さんの二人組がやって来て、ママはそっちに行ってしまった。だから結局、だし巻き卵も八幡巻もほとんど私がひとりで食べたのだ。田子森さんはお腹が空いていなかったらしく、少し摘んで美味しいと云っただけ。

 伝票は既にかなりの額になっている。なのにこの田子森という客はそれをわかっているのかいないのか、涼しい顔をして静かにグラスを傾けている。

 せっかくボトルキープはしたものの、お会計をして帰ったらもう二度と来ないのではないだろうか。私は思った……なら、もっと今日のうちに搾り取ってやらなくちゃ。

「亜瑞……亜細亜アジアの亜に、瑞々みずみずしいっていう、瑞雲ずいうんとか瑞鳳ずいほうとかの瑞」

 転勤族で結婚ができないなどと云っていたが、こうして見るとなかなか整った顔で、清潔感もある。もてないはずがないのに、やっぱり転々としてる所為で相手と続かないのかな、などと思いながら私は田子森さんを見ていた。田子森さんはカウンターに、グラスの水滴を付けた指で文字を書いている。亜瑞。そう、その字で合ってるけど、字はどうだっていいし、どうせ源氏名だけどね、と心のなかで呟く。

「ふうん……。ところで、あずちゃん言葉が関西弁じゃないね。どこの人?」

「もうここの人。田子森さん、カラオケは歌わないの? 私、田子森さんの声、聴いてみたいな」

 田子森さんは煙草も吸わないらしく、お客用に持っているデュポンのライターは今日まだ一度も役に立っていない。私は手持ち無沙汰でつい弄んでいたライターをことりと端に置くと、通信カラオケの目次本を引き寄せ、開いてみせた。

「歌はいい。それより……当ててあげようか」

「当てるって、なに?」

「歌舞伎町みたいな匂いはしないけど、かといって銀座でもない。六本木あたりの……そうだな、ちゃんとママのいるクラブか、キャバクラでもわりときちんとしてるところで仕事を覚えた。そのライターはその頃の客からのプレゼントだ。……どうかな、当たってる?」

 私は少し驚いたけれど、なんとか笑みを浮かべたまま惚けることができた。

「わあ、なんだか田子森さん、名探偵みたい」

「うん、そういうところ。若いのに、しっかりしてるなあと思ったんだ。……キャバにいてそれだけ仕事もできて、けっこう稼げてただろうに、どうしてこんな日本のスラムみたいな地域の小さなスナックに? こっちのほうにだって、もっと大きなネオン街はあるのに」

 その質問は失礼じゃないかと思った。

 確かにこの辺りは流れ者が最後に辿り着くような、昔から治安が悪いことで有名な地域だ。だけど私にとって、此処は今まででいちばん暮らしやすいところなのだ。

 お店だって、一見華やかだけれど裏ではホステス同士の売上競争や、莫迦莫迦しい意地の張り合いばかりのクラブなどと違い、ここはとっても居心地が良い。小さかろうがお客が少なかろうが関係ない。どんなたちが悪いお客さんが来ても、自分は平気だと思っているようなことからでさえ、ママは私を護ってくれる。お給料が少なくても、気楽に楽しく働けて、余った突き出しなんかもタッパーに詰めて持たせてくれる。私にとってママはもう、おかあさんのような存在なのだ。

「……小さなスナックには小さなスナックなりの良さがあると思いません? ここはいいお店よ。ママも最高。お料理、美味しかったでしょ?」

「ああ。確かにここは落ち着けるいい店だし、つまみもぜんぶ旨かった」

「でしょ。……それに、日本のスラムなんて云うけど、それなら田子森さんもそんなところに飛ばされるなんて、いったいなんのお仕事なのかしら」

 田子森さんはその質問にふっと笑い、「嘘だよ」と私の顔を見つめた。

「嘘?」

「転勤ってのは嘘だ」

 嘘だと云ったその言葉は、本当なのだろう――そのとき、私は初めて返す言葉に詰まった。上っ面の会話ならいくらでもできるけれど、こんなときなんと云えばいいのかわからない。

 そのあと、私は気を取り直し、いつもと同じように当たり障りのない世間話で場を繋いだ。カラオケは歌わず、お会計のときもなにも驚くこともなく、田子森さんは現金で支払いを済ませて帰っていった。お釣りはいらないと云って、チップまで。

 そして、もう来ないかと思っていたのに、彼はそれから毎晩のように店にやってくるようになった。





 田子森さんがほぼ毎日お店に来るようになると、私はもう無茶なオーダーを通すのをやめた。

 常連さんには常連さん向けのサービスというものがある。ボトルを下ろした日以外、おひとりさまの飲み代は基本のセット料金プラス、ママと私が何杯かいただくぶんとおつまみ一皿込みで、だいたい六千円か七千円くらいあれば充分。細く長く、まめに通ってもらうほうが、お店にとっては確実な利益なのだ。

 常連のお客さんだと偶に、今日は三千円しかないからそこでストップかけて、と頼まれたりすることもある。昔はツケもきいたそうだけど、ママが自ら取立てに廻るのがしんどくなってやめたと聞いた。それは大正解で、ツケを溜めたお客さんはだんだんと足が遠のいて、終いには顔を見せなくなってしまったそうだが、三千円ぽっきりでちょっとサービスして飲ませてあげたお客さんは、余裕のある日は今日は飲むぞと豪遊してくれたりするらしい。

 偶にけんちゃんみたいな困った人もいるけれど――このお店は、とにかく飲ませて通わせて儲けることしか教わらなかったキャバクラと違い、仕事をしている側としてもとても気持ちよく、楽しい。



「――『俺たちに明日はない』を名作にしているのは、やっぱりあのラストシーンだと思うんだ。待ち伏せされて銃弾を浴びる前に、鳥が飛びたつだろ。そしてなにが起こるか察したボニーとクライドがはっと顔を見合わせる……あのシーンが一瞬、本当に時間ときが止まったみたいでね。目と目でぜんぶ伝えあってるのがわかるんだ。無音なのがすごい効果的だよね。――ところで、知ってる? ボニー・パーカーとクライド・バロウは一九三〇年代に実在した銀行強盗だけど、彼らをモデルにしたっぽい小説があって、それも映画化されてるんだ。しかも二度。ニコラス・レイ監督の『夜の人々』っていう映画が……一九四八年だったかな。あるんだけど、それもやっぱり最後には射殺されてしまうんだ。でも、こっちはもっとヒューマンドラマっていうか、ロマンス色が濃い感じでね。身籠ってた女は生き残るんだ。フィルム・ノワールの古典的な大傑作だね。で、二度めは『ボウイ&キーチ』って、七〇年代のロバート・アルトマン監督作品なんだけど、こっちはいまいちだったなあ」

 田子森さんは洋楽と映画が好きなのだそうだ。私も映画は好きだと云うと、田子森さんはいろいろな映画について、どういうところが凄いとかいまひとつだったとかを熱心に話してくれた。映画の話をしているときの田子森さんはまるで二十歳はたちそこそこの若者のようで、私は以前少しの間だけ、昼間のアルバイトで一緒だった子のことを思いだしたりした。そういえば彼も映画や、クイーンやビートルズなんかの洋楽が好きだった。

 週に五日ほどもお店に来て話をしているうちに、私と田子森さんはすっかり仲良くなった。あまりにも話が盛りあがって、田子森さんが閉店時間までいたある日。ママに後片付けはええさかい、もうあがりぃと云われ、私は田子森さんと一緒に店を出た。

 そして、なんとなく流れでアパートまで送ってもらうことになった。

 私は毎日、仕事帰りにコンビニに寄って買い物をするのが日課だ。だからいつものコンビニの前まで来ると、私は田子森さんにじゃあここで、と云った。が、彼は買い物にも付き合ってくれた。どうやら夜道を女ひとりで歩かせることに抵抗があるらしい。

 そんなの慣れてるから平気なのに、と私は少しおかしくなった。

 待たせても悪いなと、カゴを片手に要るものを適当に選んで取り、一周りする。田子森さんは興味深げにカゴの中を覗き、少し呆れたように云った。

「缶ビール? 仕事で飲んで、まだ家でも飲むの?」

「これ、ノンアルよ。今日はこれにしたけど、買うのは毎日違うの。チューハイの日もあるし、コーヒーも偶に。缶って昔と違ってジュース系がほとんどないのよね」

「缶じゃなきゃだめなのか? ペットボトルは?」

「飲みたいものはペットボトルでも買うわよ、もちろん。缶は、別なの」

 私はそう云って缶が二本入ったカゴにおにぎりと、鯵の南蛮漬けや切り干し大根の煮物など、お惣菜のパックを追加していった。それを見て、田子森さんがまた声をかけてくる。

「それ、ひょっとして明日のメシか?」

「そうよ」

「うちで料理はしないのか?」

「ひとりだとこのほうが安上がりなのよ。野菜やお肉買っても傷んじゃうもの。調味料だってばかにならないし」

「外食は?」

 背後から次々と質問をされ、私は足を止めてくるりと振り向いた。

「美味しいものならお店でいただいてるから、それで充分なの」

 すると田子森さんはふっと笑った。

「違いない」

 そしてコンビニを出ると、田子森さんは今度、店で鮨でもとるか、などと話しながら私をアパート近くまで送ってくれた。

 建物や部屋まで特定できない程度のところで立ち止まった私に信用できないのかと文句を云うわけでもなく、寄っていきたそうにするでもなく。彼はあっさりと手をあげ、じゃあまた明日と云って帰っていった。




       * * *




 田子森さんが常連になって、一ヶ月半ほどが経った頃。

 深夜一時に最後のお客さんを送り出し、ざっと後片付けを手伝ったあと。今日は田子森さん来なかったな、と思いながら、私はママにおやすみなさいと挨拶をし、店を出た。

 昭和の頃のドラマから抜け出てきたような煤けた商店街のなかを、かつかつとヒールの音を響かせてひとり歩く。閉じられているシャッターには落書きのひとつもない。それは、スプレーで落書きをするような若者さえ近づかない地域だということなのかもしれなかった。確かに変わった人はちょっと多いかもしれないけれど、でも馴染んでしまえばとても楽で居心地のいいところなのに、と私は思った。

 そんなことを考えていたとき――近づいてくる足音と気配に、私ははっと振り返った。だが人影はどこにも見えなかった。見えないからといって、即ち気の所為とは限らない。自分を見ている怪しい人物がそこにいるよりも、こそこそしているほうが質が悪い。

 やばいかも、と思い、私はいつものコンビニに急いだ。

 いつものとおり缶飲料二本と、今日は幕の内弁当を買い、エコバッグふたつに分けて入れる。そして外を警戒しつつコンビニを出ると、私は背後を気にしながらアパートへと歩いた。歩きながら、缶を入れたほうのエコバッグをきゅっと結ぶ。そして持ち手の部分にしっかり手を通して握りしめると、私は振り返らずに耳を澄ませてみた。微かにカシャン、カシャンという音が聞こえた。なんだろう? と思ったが、聞こえてくるペースは足音のそれだった。私はアパートへと急ぎ、歩く速度を早めた。

 そして、あと数歩でアパートの階段という、そのときだった。

「――っ!!」

 いきなり背中からがばっと抱きつかれ、私は声もだせずに身を強張らせた。









[Track 07 - Dedicated to the One I Love 「宵街ぶるぅす」 ② へ続く]

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