「宵街ぶるぅす」 ②

「あずちゃん、会いたかったわぁ。あんのクソばばの所為でわし、店行かれへんようになってしもて、めっちゃ寂しかってん。ちゅうか、なんやここ。あずちゃん、こないなアパートに住んどったんかいな。似合わへんわ、わしに云うたらもっとええマンションに住まわしたるのに……!」

「けんちゃん……!? ちょ、ちょっともう、離して。びっくりした――」

 頭のおかしな変質者じゃなく、常連客だったけんちゃんとわかって私は少しほっとした。でも、けんちゃんは私を背中から捕まえているその両手で、胸を触ったりし始めた。

「けんちゃん、なにしてるの。もう離して、そういうの困るから――」

「なんで困んねんな。あずちゃん、わし知ってんねんで? あの新参もんの客とはえろう仲良うしとるやない。一緒にコンビニおったりしたやろ、なんやねんあいつ。あずちゃんのことはわしのほうがもっと早うから目ぇつけてんのに、あんなんに横からかっ攫われとうないわ!」

「あの人は――ね、ねえ、けんちゃん。とりあえず、もう離して? 話ならちゃんと聞くから――」

「話? なんや、部屋入れてくれるんか? せやったらわし、もう帰らへんで? 朝まであずちゃんのこと離さへんさかいな」

「そういうのは困るって云ってるでしょ? ねえ、とにかく離して」

「部屋入れてくれへんねやったら、もうここでやったかてええねんで」

 そんなことを云いながら、けんちゃんは強い力で私の胸を鷲掴みにした。お店に来ていた頃から困った客だとは思っていたが、出入り禁止になってこんな直接的な手段にでるとは、想像もしていなかった。

 ママももう来るな、客じゃないと云っていたし、私が気を遣う必要はないか。私は準備していた缶飲料の入ったエコバッグをしっかりと握りしめ、振りあげようとした。

 そのときだった。

「あいたたたたたたた! な、なんじゃわれぇ、なにさらすんじゃボケぇ!」

「ボケはそっちだ。これ以上バカな真似するとあいたたじゃ済まんぞ」

 手が緩み、私は一歩離れて振り向いた。声でわかっていた――田子森さんが、けんちゃんの腕を捻りあげていた。

「済まんてなんや、わしになにさらす気じゃ、えぇ!? おんどりゃあ、わしを誰やと思てけつかんねん、痛い目ぇ見したろかぁ!」

 そう凄んだけんちゃんは「あいたたたたたたたたた、痛い痛い痛い!」と情けない声をだし、ギブアップをするように掴まれていないほうの手で田子森さんの腕を叩いた。田子森さんが手を離すと、けんちゃんはぴょんぴょんと跳ねるように離れ、脱げてしまった雪駄に足を入れながら顔をあげた。

「……あ、あずちゃん怖がらせたらあかんさかい、きょ、今日のところは勘弁しといたるわ!」

 そんな捨て台詞を残してけんちゃんは逃げるように去っていき――私と田子森さんは顔を見合わせ、声をあげて笑った。

「新喜劇のギャグみたい」

「そんなことより」

 田子森さんは真面目な顔で私を見つめた。「大丈夫か」

「平気よ。でも、ありがとう」

「まさか、こういうときのための缶ビールだったとはな」

 田子森さんは私がぶら下げているエコバッグを指し、苦笑した。「原始的だな。スタンガンでも持ち歩けばいいんじゃないのか」

「あれはだめ。腕を捻られて自分に使われたら、目が覚めたときにはもう突っこまれてるもの」

 そう答えると、田子森さんは眉をひそめ、探るように私を見た。

「……実際にあったような口ぶりだな」

 私は否定も肯定もせず、代わりにこう云った。

「お茶でもどう?」

 田子森さんは少し驚いた顔をした。

「……俺も男だぞ。それに、なんで俺がここに居合わせたか、訊かないのか」

 それを聞いて、そういえばと思ったが――同時に、なんとなくわかっている気がした。

「……これでも男を見る目はあるつもり。あなたが嫌じゃなければ、寄っていって」

 そう云うと田子森さんは頷き、固く握りしめていた私の手をそっと解いて、バッグを持った。



「――ところで、名字はひょっとして『長谷はせ』とか?」

「なぁにそれ。どうしてそう思ったの?」

 違ったか、と呟き、彼はからからと氷の音をたてて麦茶を飲んだ。見た目は濃いめの水割りのようで、まるでいつもと同じだなとくすりと笑う。違っているのはここがお店ではなく、畳の上に薄いラグとこたつテーブル、横置きした三段カラーボックスくらいしかない、私の部屋ということだけだ。

 布団が置いてある奥の部屋でスポットクーラーをつけ、こちらに向けて扇風機を回しているが、他にこれといった家具や家電はない。若い女性らしい飾り物のひとつもない殺風景な部屋を、しかし彼は気に入ったようだった。

「フランス語で雌の野うさぎのことをアズって云うんだが、スペルがhaseエイチ エー エス イーなんだ。だから、それから源氏名を取ったのかと」

 お茶と一緒にと思い、箱を開けた戴き物のレモンケーキを手に取りながら、私はちら、と視線をあげた。

「……半分当たりか」

「……名前なんて、どうでもいいじゃない」

 座布団の上で胡座をかき、彼は部屋の中を見まわした。うん、なんか不思議と落ち着くなあこの部屋、と呟く田子森さんを、私はじっと見つめていた。

「なんか最近は、若い子の独り暮らしでもベッドやソファがあって当たり前みたいなイメージがあるけど、要らないなあって思うよ。こういうのでいいんだよな、ちょっと昭和っぽいけどさ。……あ、古臭いって云ってるんじゃないぞ。怒るなよ?」

 その言葉に、私はぷっと吹きだした。

「なにかおかしい?」

「ううん、おかしくない。……嬉しい。ここは、やっと手に入れた私の城だから」

「城、か。……結婚は?」

「したことない。どうして?」

「じゃあ、実家の居心地が悪かったのか」

 いきなりそんなことを云われ、私は「意外とずばずば云うのね!」と、ついきつい口調で返したが。

「俺もそうだったからさ。……マイナススタートで皆が当たり前に持ってるもんを手に入れるのは、一苦労だよな」

 その言葉に、自然に本音がぽろぽろと溢れた。

「……ずっと、安心して眠れる場所が欲しかった……。誰に気兼ねすることもなく、警戒することもなく……。自分の稼いだお金を、ちゃんと自分が生きていくために使えるって、こんなに幸せなことなんだって……。ここが初めてなの。私、ここでの暮らしが、だから本当に気に入ってるの。あのお店も、ママも」

 そう話すと、彼は優しく微笑んで手を伸ばし、私の手に重ねた。

「……此処いらにいる人間は、みんな似たり寄ったりなんだろうな」

「そうね。こんな話を誰かにしたのは初めて。でも、過去になにがあったなんてことまでは、絶対に云わない。……あなたもきっと訳ありなんでしょうけど、だから訊かない」

 彼は私の顔をじっと見つめながら頷き、すっと手を離した。

「……あず、か。うさぎは寂しいと死ぬって、なにかで聞いたな。住処として気に入ってるのはわかったけど、この暮らしは寂しくない? 寂しいって思う夜はない?」

 癖でグラスの水滴をハンカチで拭うと、私は答えた。

「今夜は寂しい思いをしなくて済むと思ったんだけど、私の勘違いだった?」

「缶で殴られたくないからな。いちおう訊いたのさ」

 その夜。私は田子森さんと、朝まで一緒に過ごした。

 なにかの代償じゃなく、望んで誰かに抱かれるなんて、何年かぶりのことだった。



 目が覚めたのは十時を少し過ぎた頃だった。まだ眠っている田子森さんを起こさないよう、私はそっと布団からでて、手早くシャワーを浴びた。

 ラウンジパンツにTシャツという楽な恰好で、キッチンに立つ。電気ケトルに水を入れてスイッチをオンにすると、私は少し迷って抹茶入り緑茶のティーパックを取りだした。コーヒーなら喫茶店に行けば、インスタントよりずっと美味しいものが飲める。でも熱い日本茶は、独り者の男性はあまり飲む機会がないのではないかと思ったのだ。

 朝ごはんを用意してあげるのは無理だけれど、お茶くらいはね、と思いながら、私はずっと使っていなかった湯呑を洗い直していた。なんだか浮かれ気味な自分に気づいて、おかしくもなった。誰かのためにお茶を淹れるのって、こんなに楽しいことだったかしらと笑いだしそうになる。

「おはよう。早いね」

 その声に振り向くと、珠暖簾をかき分け、田子森さんが立ってこっちを見ていた。上半身は裸のまま、厚い胸板と引き締まった腹筋を見せている。下はズボンまで穿いているけれど、その恰好はずるいと思った。

「早くないわ。もう十時半よ」

「夜の仕事をしてる子って、昼過ぎまで寝てるイメージがあるんだけどな」

「お陽さまはこっちに時間合わせてくれないし。これでもいつもより遅いのよ、普段はもう洗濯機まわしてるもの」

 そう云うと、彼はなにがおかしいのかくっくっと喉を鳴らして笑った。

「この部屋、なんだか落ち着くなあと思ってたんだが……違った。落ち着けるのは、君だ」

 電気ケトルが蒸気を噴きあげ、かち、と音をたてた。今お茶を淹れるわね、とティーパックを出していると、彼は洗面所とタオルを貸してくれと云った。もちろんどうぞ、と答え、お茶を淹れようとしていた手を止める。

 ありがとうと云って洗面所に向かいながら、彼は云った。

「源氏名じゃない名前を呼びたいな」

 私も、そうしてほしいと思った。だから、素直に教えた。

咲良さくらよ」

「さくら。いいね、ぴったりだ」

 この名前で呼ばれるのは、とても久しぶりだった。



 昨夜買った幕の内弁当は、袋の中で傾いたのかごはんとおかずが重なって、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。食べられないわけではなかったが、どうせ買ったのは自分の分だけ、田子森さんの食べるものがないので、食事はどこか喫茶店にでも行ってしようということになった。

 しかし季節は夏。田子森さんは一度戻って着替えてくると云い、私は待ってるあいだに支度しておくわ、と云っていったん彼を送りだした。

 なにを着ようかな、夜っぽくなくて、でもそこそこお洒落な服って持ってないなあ……と、私は衣装ケースをひっくり返して服を選んでいた。こんなふうに着るものに悩むなんて、十代の頃でもなかったかもしれない。

 そしてなんとかスキニージーンズにサマーニットのアンサンブルを選び、片っ端から引っ張りだした服を片付けていると。

「えっ、鍵?」

 三つ折りにした布団の傍、積み重ねた服の陰から黒革のキーケースがでてきた。昨夜脱いだときにポケットから落ちて、朝も気づかないままだったらしい。

 私はキーケースを拾いあげ、テーブルの上に置いた。家に着いたら嫌でも気づくし、戻ってくるのを待つしかないだろう。

 私は床に広げた残りの服を仕舞わないと、と向きを変えてまた服を畳み始めたが――そのとき、玄関のブザーが鳴った。きっと途中で気づいたのだろう。思ったより早くてよかったと、私は鍵を手にし、玄関を開けた。

「鍵でしょ。布団の傍に――」

 だが、そこに立っていたのは田子森さんではなかった。

「あずちゃん……許さへんで。わしを差し置いてあんな余所もんと寝るやなんて……」

「けんちゃん――」

 徹夜して見張っていたのだろうか。けんちゃんの目は真っ赤に充血していて、いつもの調子のいい感じと違って声も低く、怒りに震えているのがわかった。私は恐怖を感じた。ぎゅっとキーケースを握りしめたまま後退る。けんちゃんはかしゃん、と独特な足音をたて、履物も脱がずに部屋に入ってきた。

「もう最低や。あんのクソばばの所為でアッタマ痛いし、なんやようわからん余所もんにあずちゃん寝盗られるし……! なあ、わし、ほんまにあずちゃんのこと好きやってんで? ……あんな奴に盗られるくらいやったら、もっと早よこうしとったらよかった!」

 そう云って、けんちゃんは私に襲いかかってきた。なんとか飛び退いて躱し、私は部屋の奥へ逃げようとした。が、床に膝をついたけんちゃんに足首を掴まれ、つんのめるように転んでしまった。両手をついて身を反らし、躰を捻るようにしてけんちゃんを振り返る。

「けんちゃん、やめて……! お店にはまた来れるように、私からママに云っておくから……! こんなのだめ、お願いだからもうやめて、帰って……!」

「なんでや、なんでわしはあかんのや! わしのほうがずっと前からあずちゃんのことめっちゃ好きで、店にもしょっちゅう通ぅとったのに……! なんであの余所もんは泊めて、わしは追い返されなあかんねん!」

 許さへん、あずちゃんはわしのもんや――そんなことを云いながらけんちゃんは私に伸し掛かり、穿いているものを脱がそうとしてきた。もうなにを云ってもだめだとわかった。まともに話が通じるとしたら、私を犯し終わったあとだろう。

 こんな状況は、これまでに何度も経験してきた。抵抗して殴られたり、縛られてもっと酷いことをされるよりは、このまま好きにさせるほうがましだと私は知っている。けれど――私はこのとき、けんちゃんの手が下半身を這いまわるのを、吐き気がするほど嫌だと感じた。

 床に伏せていた顔をあげ、私は冷蔵庫の横に立ててある林檎ジュースの空き瓶に手を伸ばした。逆手に握り、勢いよく起きあがると振り向きざまにけんちゃんの頭目掛けてスイングする。ごっ、と鈍い音がして、けんちゃんはぐらりと坐った状態のままよろめき「……痛ったいなぁわれぇ! なにすんねや!!」と右手を振りあげた。私はもう一度、その頭に瓶を思いきり振りおろした。今度は瓶が折れるように砕け、けんちゃんは右手をあげたまま横に倒れた。

 そのまま時間ときが止まったように、私は倒れたけんちゃんをじっと見ていた。けんちゃんはまったく動く様子がなかった。

 割れた瓶の半分を手から離し、私は「……けんちゃん?」と呼びかけた。

 返事はない。恐る恐る、俯せで倒れているけんちゃんの肩を揺さぶり、私はその顔を覗きこんだ。

「けんちゃん……」

 ――けんちゃんはぎょろりと目を見開いたまま、口から泡を吹いていた。

「……え……、嘘でしょ? そんな――」

 私はようやく死んでいるのだと理解した。私が殺してしまったのだ。

 どうしよう。いや、どうしようじゃない。警察に連絡しないと……それとも先ず救急車だろうか。119にかければこういう場合、放っておいても警察も来るのだっけ……などと考えつつも、私は凍りついたようにその場から動けずにいた。

 そうしてどのくらいが経ったのだろう。茫然としていた視線の先にソックスを履いた爪先が見え、私は顔をあげた。

「田子森さん……」

 田子森さんはさっと周囲を見まわしたあと、しゃがみ込んで私を抱き寄せた。

「云わなくていい。なにがあったかなんて、一目見りゃわかる。……とりあえず奥へ行こう。立てるか?」

 私はこくりと頷き、田子森さんに云われるまま部屋のほうへと歩いた。私を座布団に坐らせ、彼は冷蔵庫からノンアルコールのレモンサワーを出し、缶を開けてテーブルに置いてくれた。私はレモンサワーを一口飲んでほぅと息をつくと、テーブルの上に置いてあったスマホに手を伸ばした。

「鍵を忘れたみたいでな。戻ってきてよかった……いや、もっと早ければよかったが」

「鍵は……ごめんなさい、たぶんキッチンに落ちてると思う。鍵をみつけたら帰って。私、今から警察に連絡しなきゃ」

「咲良、待て」

 名前を呼ばれ、私は田子森さんの顔を見た。

「此処が、今の生活が気に入ってるんじゃないのか。やっと手に入れた城なんだろ。警察に連絡すれば、ぜんぶ失うことになるぞ」

 そんなことを云われ、私は困惑した。

「だって……正当防衛だとしても、殺してしまったもの。他にどうしようも――」

「どうしようもないなんてことはない。助けてやれる」

 田子森さんは真剣な顔で云った。「死体を始末する。死体がみつからなきゃ、事件にはならない。失踪だなんだってちょっと騒がれて終わりだ。しかもこんな掃き溜めの街だ、人ひとり消えるくらいめずらしいことじゃない」

 死体を始末する。そんな言葉をさらりと口にする田子森さんに、私は途惑った。

「始末……って……、そんな、まさかそんなこと――」

 けれど田子森さんはなんでもないというふうに笑みを浮かべ、ゆっくりと首を振った。

「俺は、どうせ此処にも長くはいられないだろうなと思ってた。ちょっと予想よりは早すぎたけどな。……死体を海にでも投げ棄てたら、俺はまたどこか他の土地に行く。だから、君は気にするな」

「気にするなって――待って。なにを云ってるの? これは映画じゃないのよ、そこにあるのは本物の死体で、殺したのは私なの。なのに――」

「わかってるさ。初めてじゃない。……だから、いいんだ」

 言葉の意味を察し、私は信じられない思いで彼を見つめた。

「……どうせ逃げてるから……罪が増えたっていいって、そう云うの……?」

「ああ。それとも死体はこのまま放置して、一緒に来るか? 似た者同士、逃亡生活だ。ただし、俺だけじゃなく君も追われることになる。腰を落ち着けられる場所をみつけたって、ずっと神経を張ったまま生きていくことになる。それに耐えられるか?」

 似た者同士。その言葉で、彼も誰かを――故意にか過失かはわからないけれど――殺めたのだとはっきりとわかった。人殺し同士、一緒にどこか遠くへ逃げる――それは、とても魅力的な選択のように感じられた。そう、彼がお店で話してくれた、映画のなかの恋人たちのように。

「それとも今までどおり、料理の上手なママとあの店で働いて、この居心地のいい部屋で生きていくか。君の人生だ、どっちか選べ」

 どっちか――ひとつ。


 やっと手に入れた、ささやかだけど落ち着ける、私の居場所。

 自分から望んで身を任せた、誰かを愛することを思いださせてくれた人。


 私は田子森さんの顔を、じっと見つめた。見つめたまま、自分のだした答えに本当にそれでいいのかと何度も問いかけた。しかし、考え直そうとか答えを変えようという気にはなれず、私はそのままを口にした。

「……わかった」

 彼は私の答えに頷き、深い口吻けをくれた。




       * * *




「ありがとうございましたー」

「おぅ、あずちゃんまた来るわー」

「おやすみぃー」

 午前一時。いつものように最後のお客さんを送りだし、看板のライトを消してドアを施錠すると、私はカウンターの上を片付け始めた。ママは厨房に入っていき、「あずちゃーん、かぼちゃの炊いたん、まだちょっと残ってるわ。持って帰るかぁ?」と訊いてくれた。かぼちゃは大好物だ。私は「もらうー」と返事をし、ボトルを棚に戻し、グラスや灰皿を下げた。カウンターの中に入ってさっと洗い物を済ませ、伏せて置いたグラスにクロスを掛けておく。

「今日も田子森さん、来ぃひんかったなあ」

「……そうね。どこか他のお店にお気に入りでもみつけたのかも」

 ええお客さんやったのに、とごちるママに、私は云った。

「でも、まだボトルは残ってるし、忘れた頃にひょこっと顔をだすんじゃないかしら」

「せやったらええけどな。うち、ボトルに期限とかあらへんし」



 ――あの日。私が此処での生活を守りたいと答えると、田子森さんは本当に死体の始末をしてくれた。

 絶対にドアを開けるなと云い、彼は死体にこたつテーブルの下に敷いてあったラグを掛け、いったんアパートを出ていった。そして車に乗って戻ってくると、コンビニの袋に入ったおにぎりや惣菜を、食えそうだったら食えと私に勧め、襖を閉めた。気になってそっと覗いたとき、既にけんちゃんの死体はラグに包まれ、梱包用のPP紐でしっかりと縛られていた。

 そして彼は私に、今日もいつもどおりに店に出ろ、できるな? と訊いてきた。私が頷くと彼は、部屋の鍵を貸してくれ、自分が出たらゴミ箱の下に隠しておくと云った。

 そして云われたとおり、夜になると私はいつもと同じに化粧をし、店に出た。

 深夜一時半過ぎ、仕事を終えて戻ったときにはもう、彼の車はなかった。ゴミ箱を傾けて鍵を取り、入った部屋の中は綺麗に片付いていて、死体はおろか割れた瓶の欠片さえ残ってはいなかった。

 眠ろうという気にもなれず、私は明け方まで起きていた。だが、彼は戻ってはこなかった――別れの言葉も、なにもないまま。



 落ち着いてから私は「田子森」という名前をネットで検索してみたりしたが、その名前のあるニュース記事などはみつけることができなかった。きっと偽名だったのだろう。もしも私が下の名前は? とでも尋ねていれば、教えてくれたのかもしれないけれど。

 たぶん、私は今でも彼のことが好きだ。けれど、それでも二度と宿無しにはなりたくなかったし、いくら彼と一緒だとしても逃亡生活などしたくはなかった。此処でのこの暮らしを、どうしても手放す気にはなれなかったのだ。

 最後に流れ着いたこの土地でやっと手に入れた、ささやかだけど居心地のいい、自分の生きていく場所。

 それがどのくらい価値があるものか、きっと彼にもわかっていたのだろう。

「……ねえママ」

「んー?」

 洗い物を済ませ、流し台やカウンターを拭きながら、私は云った。

「私、このお店にずーっといたい。もしもママが嫌じゃなければ、ママが引退したあとも、私にこのお店やらせてくれない?」

 ママは少し驚いた顔をして――すぐに、ぷぅっと頬を膨らませた。

「なに云うてんの! うちはまだまだ引退なんかせえへんで!? せやけどまあ、あずちゃんがそない云うてくれるんは嬉しいわ。こないな小さな店やけど、仲良うずっと一緒にやってこな!」

 ママらしい言い方に、私は微笑んだ。やっぱりママのことは大好きだ。


 この街も。日本のスラムだなんて云われるし、訳ありの流れ者や、癖の強い人も多いけれど。帰りにこうしてコンビニで缶飲料を二本、買う習慣がやめられなくても、私は此処が好きだ。田子森さんとの逃亡じゃなく、此処での生活を選んだことを後悔はしていない。

 でも、ひょっとしたらという思いを拭いきれず、私はいつまでも待っている――いつかまたふらりとこの街に立ち寄った彼が、お店に顔をだしてくれる、そのときを。







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♪ "Dedicated to the One I Love" The Mamas & the Papas, 1967

 (Originally recorded by The "5" Royales, 1957)

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