「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの終幕」 ④

 ジョニーはシャワーを浴びたあと、髪は乾かさずそのまま整髪料で整えた。バスルームを出ると着替えが既に用意してあり、ロザリーの女性らしい細やかさにふっと微笑む。

 彼女はもうすっかり支度を済ませたのか、二階には気配がなかった。ジョニーはスーツのズボンとシャツだけを身に着け、タイを結んでもらおうと頸に掛けたまま階段を下りていった。

「ロザリー? こ、これ、頼むよ」と声をかけながらリビングに入っていく。そして「なぁに? タイ?」という返事とともに、キッチンからロザリーが顔を覗かせると――ジョニーは青い目を大きく見開き、足を止めた。

「ろ、ロザリー……、そ、その、ど、どど、ドレス――」

 はっと思いだしたように、ロザリーは申し訳無さそうな顔をした。

「ごめんなさいジョニー、せっかく買ってもらったあのドレス、汚しちゃって……」

 ジョニーはその赤いワンピースドレスから逃げるように、じりじりと後退った。ロザリーが不安そうに、泣きそうな表情になる。

「本当にごめんなさい。今日は着られないけど、帰ってきたらちゃんと染み抜きをするから……ゆるして。今日は、あなたは好きじゃないみたいだけど、仕方がないからこれを着て――ジョニー?」

 ジョニーはロザリーの言葉を最後まで聞かずに、キッチンを飛びだした。

 階段を駆けあがり、早鐘のように打つ己の心臓をぐっと押さえる。前にもあった、この感覚。フラッシュバックのように女たちを刺したときの感触が、この手に甦る。口は乾き、手は震え、肚の中で眠っていた怪物が目覚めたかのように、ある衝動が込みあげてくる。

 部屋に戻ると、ジョニーはワードローブの下の抽斗を開け、奥から折り畳まれたナイフを取りだした。そして、まるで自分を守ってくれるアミュレットのようにそれを両手に握りしめ、額に当てた。目を閉じる。見えるのはあかく濡れた三十五人の女たち。忘れてはいない。忘れられない。他では得難い、あの眩暈めくるめく、全身が疼くような快感。

 自分には、あの方法でしか――

「ジョニー? ……どうしたの、怒ったの? ごめんなさい、私もあのドレスが着られなくて残念なの。ねえ、謝るから、こっちを向いて――」

 その声に、ジョニーは手にしたフォールディングナイフを開きながら、ゆらりと振り返った。

「ジョニー、ゆるし……」

 ゆるして、と云いながら両手を広げて近づこうとし、ロザリーはその手に握られたものに気がつくと、途惑った表情でジョニーの顔を見た。

「ジョニー? なんなの? どうしてそんなものを持ってるの?」

「赤を……」

 ジョニーはその目にドレスの赤を映しながら、独り言のように云った。「赤を、着るなって云ったろう」

「え――だって……、謝ってるじゃない。どうしたのジョニー、なんだか変だわ」

 ゆっくりとジョニーは顔をあげ、ロザリーを見つめ微笑んだ。

「愛してるよロザリー。……本当に、心から」

 それは嘘偽りないジョニーの本心だった。だから。

「ジョ――」

 ジョニーはロザリーの喉を掻っ切り、床に倒れたその躰にナイフを突き立てた。

 その瞬間。足先から脳天まで、全身の細胞がびりびりと目覚めていくような感覚が走り抜けた。愛しいヘイゼルの瞳はもうまばたきをしない。ジョニーはこれまでと同じように、何度も何度も繰り返し刺した。不規則に散らばった白いドット模様が、雲間に隠れる星のように少しずつ消えていく。

 何度めかに刺した瞬間、ジョニーはオーガズムに達し、ようやくナイフを振り下ろす手を止めた。血に塗れた手を伸ばし、もう自分の名を呼ぶことのないその唇にそっと指で触れる。淡いローズピンクだった唇が、真っ赤なルージュを引いたように華やかに変わる。その唇に、ジョニーは愛おしげにキスをした。

「……あぁロザリー……、ずっとこうしたかった。これでやっと、俺たちひとつになれたんだよ……」

 馬乗りになっていた躰を傾け、ロザリーの上から退く。そして脚を投げだすと、ジョニーはナイフを握ったまま、余韻に浸るようにその場で天井を見あげていた。――そのときだった。

「――動くな!! FBIだ!」




       * * *




「――動くな!! FBIだ!」

「うっわ、なんてこった――ジョナサン・ソガード、殺人の現行犯と、三十五件の連続殺人の容疑で逮捕する!!」

 今までうんざりするほど殺人の現場を見てきたが、これほど驚き目を背けたくなるようなことはなかった。なにしろ張り込んでいるあいだ、この夫婦が仲睦まじく、幸せそうに過ごしているのを目の当たりにしていたのだ。

 三十六人めの被害者が出ることを、サムはなによりも恐れていた。しかし、まさかよりにもよって、愛妻を手にかけるとは。

 ネッドとサムが銃を突きつけると、ソガードは両手を上げながらゆっくりと立ちあがり、こっちを向いた。白いシャツは返り血に塗れ、両手は袖まで真っ赤に染まっている。映画スターのようと評されていた端整な顔は、口紅をつけたように唇が赤く、現実感のない美しさを感じてぞっとする。

 サムは一歩部屋の中に入り、ロザリー・ブラニガンの死体を廻りこみながらソガードに近づいた。

「いったいなんだって女房まで殺した……。おまえが三十五人も殺した連続殺人犯だってことはもうわかってるが、女房だけは大事にしてたんじゃなかったのか」

「サム、そんな話はあとで訊きましょう……。ソガード、とりあえずそのナイフを棄てろ。投げるなよ、ゆっくりと床に落とすんだ」

 ネッドに云われたとおり、ソガードはナイフをそっと床に放った。ネッドがさっと前に出て、そのナイフを足で壁際に蹴る。

「よし、じゃあ後ろを向いて、壁に手を付け。……そうだ、よし、次は右手からゆっくり下ろせ、手錠を掛けるからな」

 ネッドがそう云って腰につけたケースから手錠を取りだす。すると――

「うわっ!」

 ソガードがカーテンを引き千切り、ネッドの頭に被せた。網で捕獲された野良猫のようにカーテンの下でネッドがもがく。その隙にソガードは窓から外へ飛びだし、サムは慌てて「待て!!」と鋭く怒鳴り、窓の下を覗いた。

 ソガードは既に地面に着地し、家の横手から表通りに出るところだった。足が速い。

「くそっ!! 表だ!」

「俺が追います、サムは応援を!」

「わかった!」

 カーテンを払い除けたネッドに続き、サムも階段を駆け下りた。家から飛びだし、くるりと一回りしながら辺りを見る。1ブロック先まで走っていたネッドが足を止め、きょろきょろと周囲を見まわしたあと、こっちに向き途方に暮れたように首を振った。どうやらソガードを見失ったらしい。

 確かにこっちのほうへ逃げていったのに――と思いかけて、サムは舌打ちした。表通りに出たと見せかけて、どこかから裏に抜けたに違いない。

「……ちくしょう! Damn it! 

 あと少しのところでの失態に、サムは地団駄を踏んだ。



 サムは車から本部に応援を頼み、ソガードの背恰好と特徴を事細かに知らせた。シンシナティ警察も協力して包囲網を張り、その日のシンシナティは街中が物々しい雰囲気に包まれた。

 やがて日が暮れ始めた頃。ソガードらしき金髪の男を発見、現在包囲中と無線で連絡が入った。急いでその場所に赴き、サムは適当な警官を捕まえ、尋ねた。

「ソガードは」

「あそこです」

 警官の指さした先――ソガードは何処からどうやって来たのか、オハイオ州とケンタッキー州を結ぶ吊り橋の上にいた。

 まるで映画スターにライトをあてているかのように、何台もの警察車両が弧を描いてソガードを取り囲んでいる。ソガードは吊り橋の歩行者側の柵ぎりぎりのところにいて、警官が近づこうとすると飛び降りる素振りを見せていた。下にはオハイオ川が流れている。川に飛びこみ、泳いで逃げるつもりなのだろうか。しかし水上に顔を出せば、確実に撃たれるとわかっているだろうに―― 

 サムは警察車両の後ろまで駆けていき、バッジを見せ「俺の事件だ」と一言云った。そして両手を広げ、丸腰であるというジェスチャーをしながら、ソガードのほうへゆっくりと歩を進める。

「まったく、おまえの逃げ足の速さには驚いたぞ。……もう逃げられないぞ、ソガード。わかってるだろう……どうする気だ、そこから飛び降りる気か? 蜂の巣になりたいのか? もしもそうしたいのなら、その前にいろいろ話しちゃくれないか。……おまえは俺のことなんざ知らないだろうが、俺はもう一年半もおまえのことを追ってきたんだ。おまえがいったいなんで三十五人も……いや、女房も合わせて三十六人か。あんなに女を殺し続けたのは何故なのか、理由わけを知りたい」

 ソガードは無表情に、じっとサムを見返していた。背後の警官とFBIの助っ人たちは一瞬の隙も与えまいとソガードに狙いをつけ、銃を構えている。その殺気と緊張感を振り解くように、サムは立ち止まってふぅ、と息を吐いた。

「……なあ、あんなに幸せそうだったじゃないか。なんでロザリーまで殺したんだ……。いったいなにがあった? おまえの人生の、いったいなにがおまえにあんなことをさせたんだ。……話す気があるなら、俺はいつまででも待つ。だから頼む。教えてくれ」

 そのとき――サムは見た。ソガードがその表情を緩め、ふわりと哀しげに微笑むのを。

「ジョニー――」

 ソガードが素早く背を向け、柵に脚を掛けた。同時に何発かの銃声が響く。「やめろ! 撃つな!!」とサムは両手を振って怒鳴ったが、そのときにはもうソガードの姿はそこにはなかった。

 銃声が止み、サムは駆け寄って橋の下を見た。そこにはオハイオ川がいつものようにただ揺蕩っているだけで、ソガードの姿はどこにもみつけられなかった。かわりに柵に真新しい血痕が発見され、ソガードを狙った銃弾のうち、何発かは命中していたらしいことだけがわかった。

 二十分後には川と付近一帯の捜索が始まった。しかし、すっかり陽が落ちるまで捜し続けても、ソガードを発見することはできなかった。

 支局に戻り、サムは報告書に『生存の可能性はほぼ無し』と書き、サインをした。ソガードが手にしていたナイフの刃の形状も、被害者の遺体の記録とぴたりと一致した。ソガードが一連の事件の犯人であることは疑う余地がなかった。あとは捜査ファイルに『CASE CLOSED解決済』のスタンプが押されるだけだ。


 こうして〝魅惑の殺人鬼The Fascinating Killer〟による事件は幕を閉じ、人々の興味はワシントン州とオレゴン州で起こった凶悪な事件の陰にちらつく、新たな連続殺人犯へと移っていった。





 連邦捜査局FBIシンシナティ支局内の捜査本部を片付けながら、サムは深々と溜息をついた。ネッドがそれを見て、やれやれと肩を竦める。

「また溜息ついちゃって……。やめてくださいよ、まるで定年を迎えてやることがなくなった刑事ディテクティヴみたいだ」

「知らなかったのか? 俺はあと二年で定年でな。その後は探偵事務所ディテクティヴ エイジェンシーを開くのが夢なんだ」

 ソガードについて集めた資料をじっと見ながら、サムは呟いた。

「……いったい、なんだったんだろうなあ、こいつは」

 資料にはソガードの吃音についてや、成績優秀だった学生時代は苛められてばかりいたという話を聞いたメモ、数少ない友人が乗っていた航空機が墜落炎上したときの新聞記事などがファイリングされていた。他に、職場の同僚や教会のシスターなど、何処へ行って誰に聞いても、ソガードのことを悪く云う人間など誰ひとりとしていなかったという聞き込み結果をまとめた報告書や、カセットテープも入っている。

 いろいろなものが雑多に放りこまれていたが、ジョナサン・ソガードが三十六人もの女性を惨殺した凶悪な殺人犯であるという事実を納得させてくれるようなものは、なにひとつとしてなかった。

 黙って項垂れているサムの肩に手を置き、ネッドが云った。

「そういや……なんでコートを掛けたのかも、訊けませんでしたね」

「ああ」

 そういえばそんな疑問もあったなと、サムはふっと笑みを溢した。

「当たり前に、そうしたんだろうな。奴は調べたとおり、やっぱり善い奴だったんだよ」

 そう云うと、ネッドは顔を顰め、首を横に振った。

「連続殺人犯ですよ? ワイフも含め、三十六人も滅多刺しにして殺した奴が、善い奴?」

「……善い奴が人を殺すこともあるし、犯罪者が人助けすることもあるさ。人ってのは、一面だけじゃないんだ」

 そう云ってサムはソガードの資料を箱に詰め、両手でゆっくりと蓋を閉じると――

「さ、帰るぞ

 そう呼んで、飼い主を失った薄茶色の仔犬を抱きあげた。







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♪ "Yes It Is" The Beatles, 1965

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