Track 09 - Nights in White Satin

「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの誕生」 ①

『――ギルバート・オサリバンで〝アローン・アゲイン〟でした。まだまだ夜は長いよ、どんどんいこう。次の曲は、一九六七年にイギリスでリリースされた曲です。今年、つまり五年ぶりにこの国アメリカ、西海岸のあるラジオ局から火がついてリバイバルヒットしてるんですね。やっぱりね、いいものはちゃんと誰かがみつけてくれるんだよね。もうすっごく素晴らしい曲なんだ。というわけで、ラジオの向こうのみんな、しんみり聴き入っちゃってちょうだい。ムーディブルースで〝ナイツ・イン・ホワイト・サテン〟』



 ラジオからその曲が流れると、ジョニーは僅かに顔を顰めた。

 掛けていたベッドから腰を上げ、デスクの上で斜めにアンテナを伸ばしているラジオカセットプレイヤーBoomboxのスイッチをオフにする。

 〝Nights inナイツ イン White Satinホワイト サテン〟はジョニーが十七歳の頃――DJがリリースされた年と云った一九六七年のことだ――これで自分もおとなの仲間入りをし、抱えている問題もちょっとはましになるのかもと期待し、しかしその二十分後には絶望に襲われた、まさにそのとき部屋で流れていた曲だった。

 ひとり、静まりかえった部屋でジョニーは溜息をつき、ベッドに寝転がった。無意識に左手首のあたりを掻き、痛みにはっとして袖を下ろす。そこには古いものと真新しいものが重なり合い、交差するように無数の切り傷があった。

 考えたくはないのに、昔のことが頭に浮かぶ――もう眠ってしまおうとジョニーは目を閉じたが、かえって回想が瞼の裏に鮮明に甦った。人見知りで引っ込み思案なうえ、酷い吃音症きつおんしょうのため人とまともに話すこともできなかった、学生時代の回想だ。



 宝石のような青い瞳とバターブロンド、そして整った優しげな面差しのジョナサン・ソガードは、子供の頃から母親や親戚たちにその容姿を褒め称され、しかしうまく言葉を発せないことに落胆され続けて育ってきた。幼い頃から利発で学校の成績も悪くなく、どもるのも歌などクラス全員での合唱や、鏡に向かって独り言を云うときは問題ないのだ。否、犬や猫に話しかけるときもふつうだった。面と向かって人と話すのだけが、だめだった。

 子供は単純明快に残酷だ。ジョニーがまともに喋ることができないとわかると、クラスメイトたちはすっぱりと二派に分かれた――ジョニーと話すことを諦めてまったく近寄らなくなった子たちと、ジョニーを滑稽な奴と苛めて愉しむ対象にしたグループだ。

 ジョニーは学校ではなるべく教師の目の届くところで勉強し、授業が終わるとみつからないように隠れながら学校を出、逃げるように帰るという日々を繰り返した。それでも苛めっ子たちは執拗に追いかけてきたが、おかげでジョニーは逃げることが頗る得意になった。もともと走るのが速いうえ、一目散に逃げたと思わせては目に付き難いところに身を隠し、追手をやり過ごして反対方向へ行くなどの術を身に着けたのだ。――偶に逃げることに失敗すると、そのぶん酷い目に遭ったが。

 十四歳になり、ハイスクールに通い始めてからしばらくは、ジョニーのことを知らない同級生や年上の女子たちによく話しかけられた。しかしそんなとき、ジョニーは決まって顔を真っ赤にして俯いてしまい、返事どころか朝の挨拶も、相槌すらもできない始末だった。なんとか言葉を押しだそうとしても「お、おおおおお、おは……」「うぅ……、違、あ、あああぅ……」と、挙動不審になってしまうのだ。

 女の子たちはそんなジョニーに呆れ果て、『残念なハンサム』と嘲笑だけを残して去っていった。そして、さらにその様子を見ていた男子たちが、なにをしても告げ口すらできないボンクラだと日頃のストレスを解消する対象に、ジョニーを選んだ。

 人と違う自分は何処へ行ってもこういう目に遭うのだと、ジョニーの心は冷えた。

 傷つき、人生を諦め始めたジョニーは誰とも目を合わさないよう常に下を向き、ぐんと伸びた背も目立ちたくないというふうに小さく丸め、すっかり人を避けるようになってしまった。

 それでもジョニーはたったひとり孤立したわけではなかった。ジョニーよりずっと軽度だが人付き合いが苦手なピート、そしてジョニーと同じくしょっちゅう嫌がらせをされているレックスとだけは仲が良かった。レックスが酷い仕打ちを受けるのは、彼がゲイだからだった。本人はオープンにはしていないのに、その事実はすっかり周囲に知れ渡ってしまっていたのだ。

 三人でいれば、からかいの言葉をかけられる程度で済む。ふたりの存在は、ジョニーにとって救いだった。



 ジョニーはベッドに横になったまま、壁のコルクボードにピンで留めてある写真をぼんやりと眺めた。

 ピートとレックスと自分、三人揃って笑顔で撮った写真が貼ってある。ふたりとも自分にとても優しかった――ピートなど、ジョニーが誤解から警察に連行されてしまったとき、こいつは違う、ただ巧く喋れないだけなんだと必死に食い下がってくれたほどだ。


 あれはジョニーが十五歳になったばかりの頃のことだ。いつものようにピートの家へと向かう途中、ジョニーは似たような外観の家ばかりが立ち並ぶ一角で、泣いている子供を見かけた。

 思わず「迷子?」と声がでたが、それは独り言だった。その場からじっと動かず、両手で目を覆って泣き続ける五、六歳くらいの女の子に、ジョニーは放っておけない、なんとかしなきゃと勇気を振り絞った。

 どうしたの? ママとはぐれたのかな、それともおうちからひとりで出てきちゃった? この道、どっちから来たかわかる?

 自分ではそう尋ねたつもりだった。しかし実際は、「ど、どどど、どう……」「ま、まままい……ごっ、ごご……ま、まい」「お、おおおうち、ど、どっち……えっと、みち……」と、おどおどしながら呟いているだけだった。女の子は泣きやんで顔をあげると怯えた表情でじっとジョニーを見つめ、じりじりと後退った。そのまま、今にも逃げだしそうな様子だった。

 ジョニーは、機会があったにも拘らず自分が保護できなかった所為で女の子が家に帰れなかったらどうしよう、事故にでも遭ったら大変だと不安になり、その小さな手を掴んだ。女の子は腹の底から搾りだすような、ものすごい悲鳴をあげた。

 そして間の悪いことに、そこへ「オリヴィア!」と名前を呼びながら母親らしき女性が駆け寄ってきた。「な、なんですかあなた! この子にいったいなにをするつもりなの!?」と母親はすっかり誤解し、幼い娘を抱きしめながら「誘拐犯!! 変質者よ、誰か! 誰か警察を呼んで!」と、金切り声で叫んだ。

 周囲の家の住人たちは、その前、女の子の悲鳴を聞いたときから何事かと見ていたのだろう。二階の窓から顔をだしている者、ドアを少しだけ開けて覗き見る者、果てはライフル銃を構えて外に出てきたガウン姿の老人。他にも数人の老人や男たちがどこからか集まってきて、ジョニーを囲んだ。小児性愛者ペドフィリアの誘拐犯だとすっかり誤解されたジョニーは、銃を突きつけられて警察が来るまで地面に伏せさせられた。

 もしもあのとき、遅いから心配になったとジョニーを探していたピートが事態を知り、警察署まで来てくれていなかったら、ジョニーは幼児誘拐犯として塀のなかで過ごすことになっていたかもしれない。


 レックスも、ピートとはタイプが違うが、よく気のつくとても優しい奴だった。

 あれは迷子保護未遂事件――としか呼びようがない――のあと、三ヶ月ほどが経った頃のことだ。レックスは、自分やピートとはすっかり慣れてかなりふつうに話せるのだから、ジョニーのそれはただのちょっと酷い人見知りだといつも励ましてくれていた。そしてレックスは、女の子に対してなお話せなくなるのは、ただ勝手が違って不慣れなのもあるだろうけれど、ひょっとしたら女性そのものが苦手なのかもしれないよ? とも云った。

 それはおそらく、彼自身のことだった。レックスはもしかすると、ジョニーに自分と同じ性的指向であってほしかったのかもしれなかった。


 十六歳の夏のこと。ピートとレックスと一緒に過ごしているとき、ジョニーがほとんど吃ることもなく話しているのを見て、ある同級生がジョニーに興味をもってくれたことがあった。肩辺りまでのブルネットを、いつも服に合わせたヘッドバンドで飾っているおしゃれな、リンダだ。

 初めはリンダに対してもまともに話せなかったジョニーだが、ピートとレックスとはどうして喋れるの? と訊かれ、ふたりが説明してくれた――ジョニーは本当は、誰とだってふつうに話せる。ただ、みんな待ってあげないだけなんだ。僕らはジョニーが返事しやすいようになるべくイエスかノーで答えられるような話しか振らなかったり、ジョニーがなにか云いたそうにしているときに、黙ってただ待っていただけだ。そうしているうちに、ジョニーは僕らに対しては意識しないで話したいことに集中できて、だんだん言葉も出やすくなってきたんだよ、と。

 それを聞いて、リンダも彼らに倣い、一緒に休み時間を過ごすようになった。ジョニーは十六歳で初めて話せるようになった女の子に、当然のように惹かれた。そしてリンダも、コミュニケーションをとれるようになった学校一のハンサムに好意を寄せた。

 リンダはジョニーの初めての恋人になった。十六歳という、青春を思う存分謳歌すべき瞬間ときに、ふたりはデートをし、キスを交わし、互いの部屋で勉強し、親が出かけた隙に抱きしめあい、ベッドの上でぎごちなく触れ合った。

 しかし、初めての体験への期待と緊張と焦りが、ジョニーをふつうではない状態に戻してしまった。気分が高まっているにも拘らず肝心なものは役に立たず、苛められていた頃の自分のように縮こまっていた。リンダはがっかりした顔を見せながらも、初めてなんだもの、こんなこともあるわよねと、その日はジョニーに優しい言葉をかけてくれた。

 しかし、その次に機会があったときも、そのまた次にジョニーの部屋で会ったときも、結果は同じだった。

 そのたびに落胆し、呆れ、終いには苛立つリンダに対し、ジョニーは謝ることもできなかった。いつも話しているリンダだ、落ち着かなきゃ、と深呼吸して話そうとするのだが、「ご、ごごごごめ……」「リ、リリ……ダ、あ、ああああい、あい……てっ、てて」と、名前も呼べず、愛してるの言葉さえ云えなかったのだ。

 リンダは服を着ながら深く溜息をつき、「残念なハンサムって聞いたけど本当ね。言葉だけじゃなくてそっちも不自由だなんて、ほんっと見た目だけの人」と吐き棄てるように云い、ジョニーから去っていった。

 その夜。ジョニーはなにもかもに絶望し、この世から去るつもりで手首を切った。

 しかし、傷が浅かったのか死にきれず――その代わりに、落ちこんだ気分をリセットするように、ときどき手首を切ることが習慣になった。



 そうしてジョニーが生きづらさをごまかしつつ毎日を過ごしていた、ある日のこと。ちょっとしたがあるんだけれど、一緒に行かないか? とレックスが誘ってきた。

 夜が更けてからこっそり待ち合わせて向かったそこは、男の客ばかりが酒を飲みながら駄弁っているバーだった。レックスはカウンターの隅で集まっている若者たちに近づいていくと、彼が友人のジョニーだと紹介をした。

 噂には聞いてるよ、本当にハンサムだね。三人の若者たちに値踏みするような目で見られ、ジョニーは察した。ここはゲイたちの集まるバーで、レックスの知り合いらしいこの男たちはつまり、そういう人たちなのだろう。

 一頻り挨拶を交わすと、レックスは店を出ようと云った。来たばかりなのに? と顔を見ると、僕たち、ここでは酒が飲めないからね、とレックスは云った。三人のうちひとりは残ると手を振って別れ、四人は店の裏に駐めてあった誰かの車に乗りこんだ。

 そして、辿り着いた誰かの家に招かれた。

 そのときにはもうなんとなくわかっていた。薄暗いランプと音を消したTVに照らされたリビングで、四人はソファで寛ぎビールを飲んだ。ジョニーもスナック菓子を摘んだりしながら、レックスたちが駄弁っているのを聞いていた。

 ブライアンという男がときどき話しかけてきたが、レックスからいろいろ聞いているのだろう、首を振るだけで返事ができるような質問だった。レックスは黒髪のダグという男とずっと親密に話しこんでいて、しばらくするとふたり肩を組み合い、二階へと上がっていった。

 ふたりっきりになると、ブライアンはジョニーに女の子じゃないとだめかどうか、試してみないか? というようなことを云ってきた。そういう方向になるんだろうな、ということは察していたし、ジョニー自身もひょっとしたら、という希望混じりの疑いは持っていたので、ブライアンが頬に触れてきたときもされるがままにしていた。唇を押しつけるだけのキスをされ、どう? 嫌な気持ち? と尋ねられた。が、ジョニーにはよくわからなかった。

 ブライアンは少しずつ、行為をエスカレートさせてきた。嫌な感じはしなかった――というよりも、嫌な気持ちになる余裕がなかった。ジョニーはまたもだんだんと緊張に躰を強張らせ、「まま、ままま待って……ぶ、ぶぶブ――」と、言葉を発せず、そのことにさらに焦るという状態になってしまった。

 それでもブライアンは行為を止めず、まだ萎えたままのものを口に含んだが、ジョニーのそれはまったく反応を示さないままだった。顔を上げ、自分を見つめて困った顔で溜息をついたブライアンに、ジョニーは居た堪れなくなった。かっと顔を真っ赤にしてブライアンを突きとばし、ジョニーは慌ててズボンを引き上げた。逃げだすようにその家から去ろうとすると、ブライアンが腕を掴んで引き留めてきた。ジョニーは動転して「かか、かかか帰――」と喚きながら腕を振りまわしたが、その拳が運悪くブライアンの眼に当たった。

 セックスに至らなかった苛立ちもあったのだろう。ブライアンはお返しとばかりに、ジョニーを三度も殴った。吹っ飛んで床に倒れた音が二階に届かなかったとは思えないが、レックスが慌てて下りてくることはなかった。それどころではなかったのだろうとわかってはいたが、ジョニーのなかにはもやもやとした気持ちだけが残った。

 そして、そんなことがあってからレックスとは、顔を合わせてもほとんど口を利かなくなってしまった。





 ところで、ジョニーには叔父がいた。母の弟であるデイヴは、シングルマザーであった母を助けるつもりなのか、ジョニーが幼い頃からしょっちゅう家にやってきていた。

 母が早くからジョニーに期待をかけるのをやめ、いろいろ諦めたかのように接していたからなのか、デイヴは不憫なジョニーをとても気にかけてくれていた。が、もともとが粗野で大雑把、しかも考え方の古い頑固なところがある人だったので、ジョニーはありがたい気持ち半分、放っておいてほしい気持ち半分な感じで付き合っていた。


 あれは十七歳の冬のことだった。いつも暗い顔をしているジョニーに、デイヴはまだ喋れないのか、人見知りなんて要は慣れだぞと何度と無く聞いた励ましを云った。

 しかしこのときは、それまでと違ってもう一言あった。

 デイヴは母がキッチンに立ち、背を向けているのを確認し、ジョニーに耳打ちした――いいかジョニー。人見知りなんてな、要は慣れと自信だ。になっちまえば男として自信もついて、その吃りもすっかり治っちまうさ。俺に任せとけ。

 その夜、ジョニーはデイヴに、隣町の娼館に連れていかれた。

 ――結果から云うと、プロの手によってでもジョニーのものはその機能を果たさなかった。自称二十四歳、しかしどう見ても三十は過ぎていた赤毛のその娼婦は、これまでに何人もの筆下ろしをしてやったことが自慢だったらしい。思いつく限りの過激なサービスをしてもまったく勃たないことにプライドが傷ついたのか、リタと名乗ったその娼婦は、回想するに堪えないほどの酷い言葉でジョニーを罵った。

 プロが相手なら今度こそ……! と、心の片隅で期待していたジョニーは徹底的に打ちのめされ、絶望し、ふらふらと部屋を出た。

 真っ白になった頭のなかで、部屋でかかっていた〝Nights in White Satin〟がいつまでも鳴り響いていた。









[Track 09 - Nights in White Satin 「シリアルキラー、ジョニー・ソガードの誕生」 ② へ続く]

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