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 ある朝、会社に行くと、二葉ちゃんのスマホのホーム画面が変わっていた。端的に言うと、全体的に黒っぽくなっていた。二葉ちゃんは私の視線を感じたのかニヤッと微笑むと、私の机の上にスマホを差し出した。

「これ、かっこよくない?」

 覗き込むと、壁紙とアイコンが変わっていた。私と同じ最新型のiPhoneではあるのだけど、背景画像がまず違う。よく見るとアイコンまでデフォルトのものから変わっていた。新しい背景画像は、暇つぶしにカメラを向けたらパープル色のものがたまたまピンぼけして映りました、という感じのもの。人口の空とも言える背景の手前で、とろみカラーのネオンサインのようなアイコンが、本家のAppleの規律を保つがごとく整列して浮かんでいた。

デフォルトの壁紙ではないが、デフォルトと言われてもおかしくない程のクオリティの高さだった。むしろAppleが最初に提示し得なかった気だるさの美をフォロワーながらピンポイントでカバーしたと言う点において、その審美眼の鋭さでは本家に肩を並べていた。

私が発した第一声はこれだった。

「それ、自分で探したの?」

ううん、と二葉ちゃんは笑って首を振った。

「教えてもらった。てか半ば脅して聞いた」

 二葉ちゃんが顎でしゃくった先には、経費精算に来たのだろうか、梨々花がいた。

「え? 梨々花さんに聞いたの?」

「違うよ。あの人」

 二葉ちゃんがもう一度顎でしゃくった先には、新入社員のあの人がいた。

 正確にはもう三ヵ月位は経ったから、新入社員という呼び名はおかしいだろう。うちの会社は自社のIT技術を駆使して企業の間接部門の仕事を代行する事業を行っている。今最も勢いがあるのは会計アウトソーシング。あの人が属している部署だった。アウトソーシングの部署はどこも人手が足りないから、二週間ごとに補充するみたいに新人が入ってくる。

 どうせ試用期間で首になるという、周囲の冷笑の混じった期待を裏切る形で、あの人は会社に居座り続けていた。相変わらず仕事は出来ないし上司に逆ギレもしているらしいが、首にはならない。総務経理部でも依頼する時の態度がデカいからムカつくと陰で笑われていた。皆に嫌われてるくせに、コネ入社でもないくせに、分を弁えなさいよ。元々総務経理部のお局さん発信で始まった陰口は瞬く間に部内の若手社員の間に広まり、そしてルーチン仕事の合間の雑談を通して全社員に広まった。うちの娘と歳もそんなに変わらないだろうに、非常識な。休憩室で息巻く総務のお局さん達は、臨機応変な判断で、共通の話題で侍らすことが出来た若手社員達の年齢や、自分の子供の年齢を武器として有効活用した。更には自分が若い頃に苦労した思い出までも飛び道具のように使い、場を盛り上げた。

 はすみさんは一連の騒動を静観していた。が、あの人が同じ空間にいる時は、いつも憐れむような視線を向けていた。頑張る方向を明らかに間違えている。あの人も、空気が読めない「特性」を持っているが、それに自分では気づいていないかわいそうな人だと思っているらしかった。二葉ちゃんは、騒動自体の関心が薄いようで、おばさん達からバカにしてるわよね、と話を振られたら、笑顔で「ごめんなさーい、急いでるので」と言って、相変わらず明日出来ることは今日やらないスタンスを貫きながら、毎日定時で帰っていた。

 悪口はいつの間にか二葉ちゃんにも飛び火した。仕事が出来ないくせに生意気。二葉ちゃんへの陰口は、時折はすみさんの管理能力の乏しさに必然的に繋げられた。私は誰に何を言われても、「そうなんですね」で乗り切っていた。だって私の感想は本当にそれだからだ。

 あの時も、総務経理部の入り口であの人は止まっていた。入り口にある掲示板に目をやった後で、何かを確認するように、手元の紙を見た。近くに行こうと席を立って近づいたら、傍らから花梨が仲間を引き連れて梨々花に合流した。花梨が面白そうに片頬を上げて、あの人を上から下まで嘗め回すように見た後で、唇を短く動かした。花梨の取り巻きの広報課の女課長や、個人的な友人でもあるという顧問社労士のおばさんが、彼女が言った何らかの冗談に、瞬時に反応した。

 梨々花はいつもの、あのアルカイックスマイルで微笑んでいるようだった。花梨の上司の広報部長曰く「接待に連れて行ったら向こうの男、みーんな好きになっちゃうわよぉ~」と評されるその笑顔が、誰のためのものなのかは分からない。

 あの人は花梨達の笑い声に怯えているのか、心なしか青い顔で、その場に立っていた。もはや張り紙を読む振りすら出来ないようだ。今、本当に邪魔になってる、と思いながら近づいていく。内心、ため息をつきたかった。何かに引っかかりそうになって足元を見ると、誰かのゴミ箱が通路脇に出ていたので、手で戻した。顔を上げると梨々花達はもういなくて、なぜか二葉ちゃんがあの人の隣にいた。

「あー、これたぶん前の部署に行ってますよ。一応メールで送り方補足してたんですけど、分かりにくかったですよねえあれ」

 二葉ちゃんが他人事のようにうそぶく。

「‥‥‥ああそうですか」

 あの人はそう言い捨てると、いつもの強気を取り戻したようで、憮然とした顔でその場を去った。先に近づいていた私には全く気づいてないようだった。二葉ちゃんに事情を聞いてみると、こういうことだった。総務のお局さんが引越しの時に経理総務部の共通アドレスから荷物の梱包・送付案内のメールを送った。しかし、そのメールには誤りがあった。直前にあった部署変更の内容が反映されていなかった。数時間後に訂正メールを送ったものの、あの人は自分のPCを古い案内を基に梱包済みだったからメール自体見れず、更に早帰りだったこともありそのまま帰っていた

 私も謝る時は敬語使うよ。二葉ちゃんは、伸びをしながら言った。自分がやったんじゃなくてもね、という含みが込められたパフォーマンスだった。PCがないということは、アウトソーシングの仕事が何も出来ないということだ。運が悪すぎる。が、あんなに青い顔をして、身近に助けてくれる人が一人もいないのも、普通じゃない。

「他にも似たような人がいるかも知れないよ。アウトソーシングはシフト制で動いてるから」

「行方不明になった荷物は向こうで勝手に探してたのかもしれないね」

 二葉ちゃんは呆れたように笑って、こう吐き捨てた。

「てかこの会社どんだけ部署変更するんだろうね。働いてる社員いい迷惑じゃん」

 まあ、確かにそうかもしれなかった。総務としてもそこは無駄に感じる。部署変更する度に名刺も作り直して席替えもする。特にアウトソーシングはお客さん相手の商売だから、普段の仕事の合間にそれらの雑務に対応しなければならない。席替えについては、私が入社する前は総務部主導の下で行われていたようだが、いつの間にか現場で勝手に席替えをされて、それが事後報告的に総務部にⅭⅭで知らされるのが通例になった。どんな方法でも知らせてくれるならまだ良かった。多くの場合は忘れられる。要は知りたいのなら顧客対応がない暇なお前らが早朝にでも来て勝手に調査しろよ、ということだ。アウトソーシングの部屋に行って、コピー機のトナー補充や添え付け棚への備品補充をする時に、蔑みの中に羨ましさの混じった視線を感じることがある。営業部の辰巳や原口は、飲み会で酔っぱらってこう吹聴していたらしい。どうせ管理部門の管理不足かなんかなんだから、ああいう雑用は、定時帰りの暇な女どもにやらせればいいよ。総務のお局さん達が管理部門の女子しかいない休憩室で、「私達のことをこう言っていたらしいわ」と騒いでいた。心の底では自分でもババアだと認めているから、世話ない。逆に若い子を味方にしてけしかけられたらラッキー位のものだ。

 フェミニストと呼ぶには言葉の選び方に戦略が感じられないし、見た目も所帯じみすぎている。雑用を下に押し付けて巧みに逃げるこの人達もまた当事者ではないから、どれだけ声高に女の立場で文句を言おうとも、究極的には全く無関係のことに巧みに絡んで、声高に騒ぎ立てるワイドショーのレポーターの猿真似にしか感じられない。

私が生まれる前に社会現象になったという大学闘争のアジ演説もこんなんだったんだろうか、とふと思った。あの時も、アウトソーシング付きの派遣社員やアルバイトの子達は、火の粉が降り掛かるのが嫌らしく目を伏せてそそくさと退散していた。はすみさん曰く、その統括?されるべき飲み会の現場には、うちの存在感が薄い置物みたいな課長もいたそうだ。今度の面談で部長に集団直訴でもやらかすつもりなのか。それは効果があるのか。

もし駄目だったら、いずれは課長も裏切り者として粛清(総括?)されるんだろうか。

 二葉ちゃんは見下されるのは別にいいし、やるべき仕事はやる。けど屈辱的な環境でやりたいとは思わないと言う。だから自分が惨めにならない枠内で最低限の仕事だけして、定時でさよならするんだと。確かにその考えはある意味賢い。私だって総務だから今の給与で妥協しようと思う訳で、最新の会計やシステムの知識を体得出来るという人参をちらつかされても、顧客に深夜まで振り回されるあの部署で、AIに仕事を奪われる未来に密かに怯えながら、あの低待遇で働きたいとは思わない。

 二葉ちゃんは、自分がこれまでにされたりしたりしたことを説明する必要などないのだから、おかしい人間だと思いたいのなら思えばいいと言う。その結果が最低限の給料でも、別に構わないらしい。

 一理ある、一理あるけど、その先が本当に見えてないのなら、やっぱりこの子危ない、と思う。コンビニ行くの? なら私も郵便局行くから途中まで。周りに誰もいなくなったのを見計らって、こう切り出した。

「でもここで耐えて出世したら、給料上がるよ。立場が上がれば、働きやすくなる(かも)よ」

「‥‥‥冗談でしょう?」

 二葉ちゃんは鼻で笑って言った。

「じゃあ逆に聞くけど、ここで出世してる人達でこんな風になりたいって思う人いる? 私は梨々花以外いないんだけど」

「はすみさんとか」

 二葉ちゃんは何かを見透かすように笑った。優しいよねえ、と呟いた。

「二葉ちゃんもそうだと思うよ」と返したら、その笑顔を保ったまま、黙った。

 しばらく天気の話をして繋いだ。

「ま、梨々花には憧れるけどね、花梨と花梨の劣化版の奴らはクズだと思うけど」

 エレベーターの前で私達は別れる。ビル内の郵便局は上にあって、コンビニは下のエントランスにある。

 二葉ちゃんは話し足りないらしい。

「でも梨々花にも、ただ憧れるだけだよ」

「‥‥‥」

「きれいな花にはきれいだって言う。嘘ついても仕方ないから。でも、ただそれだけだよ」



 郵便局の手前にあるトイレで、メイク直しをしていた。エントランスを普通に歩いていたら、目に虫が入った。咄嗟に擦ったら、マスカラが目元に付いてしまったのだ。

 ポケットのティッシュだけで上手いこと取れて良かった、とホッとしながら鏡を覗き込むと、トイレに入ってきた梨々花と鏡越しに目が会った。二葉ちゃんが好きな梨々花だ、と咄嗟に思っただけでもう十分だと思った。目の前の自分の顔の応急処置以外は意識的に考えないようにした。

 一人で郵便局に用があったのだろうか、それとも向かいのみずほか。いずれにしても化粧直しのためだけにトイレに寄ったらしく、こちらに直進してきた。一つ空けた洗面台に陣取ると、鏡を覗き込んだ。

 梨々花とこんな風にトイレで二人きりになったことは何度もあった。けど、直接話したことは無かった。気づいた時に目礼を交わすだけ。けど、あれを目礼だと思っているのは私の方だけかもしれない。だって梨々花はいつも私の奥の空間を見ているような目をして、機械的に目を伏せる。気を遣うべき相手だと認知されていないのか。でもだから何だと言うのだろう。どうせ仕事でも直接関わることのない相手だ。

 今日は手鏡を忘れてきたから、黒い繊維がもう肌に残っていないか、目を添え付けの鏡に、客観的におかしいと思われるであろう限界まで近づけて最終点検をしていた。また視力が落ちたかな、と思った時に、何か軽いものが床に落ちる音がした。

 目を落とすと、黒いアイライナーが私の足元に転がっていた。

 高価なブランド物と思われるアイライナーが落ちても、梨々花は一言も発しない。ただ優雅な軽い気づきの型を全身で作るだけだ。そこには当たり前だが、何の怯えも、甘えも無かった。  

 事実梨々花は私に近づくと、視線をアイライナーに定めた。その直後の足元ごめんなさい、と私に詫びるかのような視線だけが、生気に満ちていた。

私は梨々花より先にかがんでアイライナーを拾った。咄嗟に自分だったら、これは不潔だからもう触りたくもないと思った。梨々花は私が差し出すまで手のひらを出さなかった。

「もう使いたくないようでしたら、このまま捨てます。どうされますか」

 棒読みだが、自分でもびっくりするような滑らかな敬語が口をついて出た。「どうされますか」。そう言った後で自分の脇にたまたまゴミ箱があったことに気づいた。心の中では偉そうなことを言っていたはずなのに、実物と対峙したら自分からへりくだった態度を取ってしまう。こんな自分が情けなかった。信念とは何だろうか。私は私である前に雇われという属性が染み付いてしまっているのか。あれほど会社が嫌いなのに、私もまた会社の暗黙知に囚われているみたい。結局は、体制側の梨々花に気に入られたいのか。裸の心を羽毛でいたぶるように撫でられたようで、逃げようのないむずかゆい羞恥心が急激に芽生えた。

 意外なことに、梨々花は私の聞き方に満足したのか、目を笑わせてこう答えた。

「お気遣いありがとうございます。こちらで捨てます」

 華やかな容姿に相応しい気取った声を想像していたが、梨々花の声は鼻声だった。鼻声と言っても風邪を連想させる不快な声ではなく、田舎の擦れていない美少女を彷彿とさせるような、発展途上の将来が楽しみな「女の子」の声だった。今の整形では絶対に作れない個性。この声が無ければ梨々花はきれいで無個性な人形により近づく。ともすれば超えてきたはずの不気味の谷を感じさせるほどに。このどこか隙のある声が彼女が自分達と同じ時を生きる人間だと、周りに認知させているのかもしれなかった。皆が言う梨々花の魅力とは、本当は、これのことだったのだろうか。

 だが、眼前の梨々花は子供の声を持っていても、紛れもない大人の女で、かつ社長付きの秘書なのだった。現に目に命が宿っている彼女は、一瞬で私の即席の気遣いと、その葛藤に気づいたようだった。私は目を逸らした。これ以上彼女を直視したくなかった。

 見た目の美しさと実用性を兼ね備えた秘書という特別な存在なのだということが、一瞬の絡みで明らかになった。自分のいい意味でノスタルジックな声にうっとりしているように見える梨々花の目は、天使の輪の艶めきに呼応して、濡れたように輝いていた。魂を持つ人形のような身体がこんなにも美しく動くことを私は知った。アイライナーを受け取ってポーチにしまう間の流れるような曲線の美は、視線を逸らして瞬きをしたらもう消えていた。再び目を合わせた時には、時間が巻き戻されていた。

 私達の間には、何も起こっていなかった。今足を踏みしめている、一見きれいに磨かれているが不潔な床の上で起こるに相応しい気遣いも葛藤も引け目も情けなさも、彼女の力で初めから無かったことにされた。

「さよなら」

 梨々花はそう言って消えた。最後まで生気を保っていた。あの子供みたいな声と笑顔で、さようならじゃなく、さよなら。そんなこと言うはずないのに、本当にそう聞こえたのだ。なぜそう聞こえたのかは分からない。私がそう思いたかっただけなのか。

 さよならについて深く考えようとすると、私の冷めきった理性が、ストップを掛けた。何でそんなことを考える? どうせただの聞き間違いだろうに、何でそんなことを考えるの? 意地悪でしつこい友達みたいに、私の堂々巡りの心に呼びかけた。こんなことをしても無駄、無意味なんだよ、と私の鈍い回転を始めつつあった情動を嘲って止めた。何を期待してるのよ? 何浮ついてるのよ? 堂々巡りになることは自覚していたから無性に悔しくなった。このまま透明になって消えてしまいたい。嫌なことは何もされていない。ただ優しく声を掛けられただけなのに、一体なぜなのか、自分が更に脆くなったという感覚が、心に押された烙印のように強く残っていた。


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