18

 梨々花からは時々ラインで連絡が来るようになった。最初は警戒気味に相手をしていたけど、来る内容は、ちょっとした相談の皮を被った依頼ばかりだった。お愛想で交換しただけで本気で交流する気などないと思っていたから、拍子抜けした。依頼の内容は、先のエコバッグの延長みたいな品物やお店の情報とか、プライベートのパーティの準備のアイデア出しとか。普通の人間でも調べれば分かるものだけど勘所を知らないと、時間やお金を無駄にしたり、恥をかいたりする類のものだ。梨々花は多忙だそうだから、勘所を調べる時間も惜しいのだろう。それを踏まえた上で、何も知らない振りをしてなぜ私に頼むんですか、と天然ぶって聞いても良かったが、施しの匂いを感じ取ってもいた私のプライドがそれを拒否した。

 大抵メモ代わりに使ってるEvernoteのデータの中から、いつか使うかもしれない気に入ったものの情報のストックのうち、三候補位をピックアップして教えた。短文のやり取りを繰り返し、問題が解決したら、一言のお礼にスタンプで返信してすんなり会話終了。早いものだと三ターンほどですっぱりと終わるタスクみたいな依頼をこなすのは、ゲームのようで悪い気はしなかった。実際これは自己実現の欲求が絡むゲームだった。ゲームはストレス発散になる。はすみさんが貴重な休日になぜわざわざ手編みのハンドメイドグッズを売る副業をしているのか、その気持ちがようやく分かった。

 梨々花とはつかず離れず、同世代だけど向こうがお客さんだという姿勢は崩さないように心掛けていた。事実梨々花は金払いがいいお客さんだったし、実際の副業でもその距離感が上手く仕事をするコツではないかと思った。現にその姿勢で、私は梨々花から下りてくる仕事を、そつなくこなすことが出来ていた。お金のやり取りはあの非常階段でしていた。梨々花から手間賃を含めたお金を受け取る時は、ついでだからという姿勢を崩さなかった。これは業務外の仕事で、私は好意で梨々花と会話をしている。そう考えていた。だから特別扱いもいらない。彼女にいいように使われている感覚は無かった。梨々花もそれならそれで良いと思ったらしく、相変わらずそつの無い笑みを浮かべて、ありがとう、とだけ言った。

 梨々花と密かに会うようになってから、二葉ちゃんとは昼休みに一緒に行動しなくなった。仕事では普通に話す。でも昼休憩やプライベートでは、あの食堂の件が、喉の奥に刺さった骨のようにいつまでも残っていた。それがしつこく思えて、また不気味でもあったからあえて一緒に過ごす必要もないと思った。向こうもそう思っていたようで、歩み寄っては来ない。まあ二葉ちゃんはいつも歩み寄ってこないのだが。

 代わりに私に謎の皮肉を言うようになった。

「あー芙由、また膝擦りむいたの? ねえ今日は顔もちょっと擦りむいてない? もう止めなよスケボーなんて、私達もういい歳だし、一応女じゃん? 芙由の自由だからあんまりとやかく言いたくないけど楽しいっていってもさあ、ヨガとか怪我しない運動やった方が絶対いいよ」

 何があんまりとやかく言いたくないけど、だ。思いっきりとやかく言ってんじゃん。余計なお世話だった。そんなことより二葉ちゃんは自分のことをもっと気にした方がいいんじゃないと思うけど、今責められているのは私なんだから言わない。真摯に聞いている振りをするのが礼儀というものだろう。空気を読めと思う方が空気を読んでなかったらお笑い草だ。

 はすみさんは何も言わない。梨々花も何も言わない。はすみさんは、消去法の事なかれ主義。梨々花は、興味がないのだろう。

 私が何も言わないと、調子に乗ってこんな風に畳み掛けてきた。

「例のあの人さあ、周りにこんなこと言い出したらしいよ。『楽しんで頂けてますか?』だって。

「‥‥‥ふーん」

 それを聞いた私に何を言わせたいのか。専門職の洗礼の名目で、他社の色が付いていないプライドの高い新人に仕事を押し付ける。毒飴の要領で、周りを見下しながらモチベーションを保つことを暗に肯定して、過酷な環境に適応させていく。それがここでの最も効率的な新人育成の方法と考えているアウトソーシングの管理職は、いいサンドバッグが出来たから、辞めさせる理由もないというだけ。

 あの人も社内に味方を作る気もないから、ああいう行動に出ているのだろう。両方ともプライドが高すぎるからもはやどっちもどっちに思える。ここまでこじれると、社会人に向いてないことを自覚すればいいとしか外野は言えない。人事はどこの会社でも落とされて来ただろうから、うちが慈善事業で拾ってやったと思うことにしてる、と豪語しているらしい。

「この前また話しかけてみたんだよね。なんか見てらんなくて」

 あの人は仕事も出来ないのに、着飾ってるブスという扱いになっているらしく、ますます敵を増やし続けている。

「聞いてみたの。前みたいなノリで、『前の会社で何かあったの?』って。そしたら睨まれて無言でエレベーターのボタン連打して閉められちゃった。ただ聞いただけなのに。まあどうでもいいけどね」

「何でそんなに気になるの?」と真顔で聞いたら、二葉ちゃんは、「別にぃ」といたずらっぽい目でにやけた。二葉ちゃんの質問をはぐらかすそういう所が、私は嫌いだった。

「無視されてるならもう絡まないであげたらいいんじゃん?」

「そりゃそうだけど。でもなんか気になるじゃん」

「‥‥‥二葉ちゃんさ、あの人のこと好きなの?」

 ここまで言ったら二葉ちゃんはようやく沈黙した。これで黙らなかったら、もっとひどい言葉を吐いていたかもしれなかった。私は頭に血が上っていた。なぜか。自分が一番よく分かっていた。

 この苛立ちを癒してくれるのは、元同類だった颯真では無かった。だったら、言葉で表向き正常に繋がっている樹か。樹に違いないと私は思った。


 二葉ちゃんと微妙な仲になってからは、はすみさんの誘いも断って、樹の待つ家にまっすぐ帰ることにしていた。繁忙期の樹は帰るのが遅かったから、帰ってくるまでに料理を作って待っていることにした。自分と同じ自炊よりも外食派の私が料理をするなんて、どんな気まぐれかと樹は笑ったけれど、「別に深い意味は無くて、一人でいる時の暇つぶしだ」と言ったら、納得してくれた。樹は出来上がった料理を、おもしろそうに見た後で、「おいしい」と言って食べた。信じられなかった。舌が肥えている合理主義の樹を、手料理で満足させるのは、無理ゲーに近い。私だって味見位して、やれることはやったからしょうがないと諦めて出したのに。「噓でしょう?」と言うと、樹は悪びれずに「うん、でも食えるよ普通に」と絶妙に失礼なことを言っていつもの、あの勝ち気な顔で笑った。

 手作りの料理を恋人同士で向かい合って食べるという行為は性欲を増進させるのか。樹とのセックスの頻度も今まで以上に高まった。お互いに労わり合うセックスと言うのか。そういうのは互いを激しく求め合った末の小休止として自然にやって来るものだと思っていた。 

 私は性に合わないし、樹も嫌いだと思っていたのだけど、樹は繁忙期だったからかそういうのを積極的に求めた。身体の欲求は疲れたからすぐ寝るというのではないらしい。樹は眠る前にぬくもりが欲しいのだと言う。そのぬくもりはお風呂のお湯が冷めた時のぬるさと何が違うのか、分からなかったけど、らしくないね、と言って抱きしめると樹は満足そうに私の胸の中で果てた後に目を閉じた。子供を生んでないのに樹の母親になったよう感覚が芽生えて、居心地が悪くなった。私の腕の中で意識が無くなった樹を頭ごとどかせた後で、私も意識を飛ばした。

 夢の中に、樹が出てきた。同じベッドの上で、私達は現実のように裸で眠っていた。現実と違うのは、樹は昔写真で見た子供の頃の樹になっていた。あのハリネズミみたいなスポーツ刈りの頭で、気の強そうな眉の下の目を閉じて、ここでも私の腕の中ですやすやと眠っていた。

 傍らには颯真がいた。つまり私達は親子三人みたいに、一つのベッドの上で川の字になって寝ていたのだった。関係性だけを見ると醜悪な川の字。だがそこには、奇妙な安らぎがあった。 

 子供の樹の寝息はしない。子供特有の肌の脂肪質の臭気もなく、文字通り死んだように眠っている。子供の樹は私と颯真の、血の繋がっていない子供のようだった。

 颯真は今の颯真のままで、私を愛しむように見ていた。この人なら私を正しい方法で愛してくれる。いつもしているあの馴染み深い正しい方法で。私は颯真に、殴ってくれるようにねだった。颯真はいつものように柔らかく笑いながら、私のお腹を一発殴った。痛みが、手に取るように想像出来た。何よりその好意がうれしかった。愛を感じた。母になってもなお、殴ってくれた。

 みぞおちの辺りが焼けるように痛くなる。ただれた痛みを伴う波動が全身を駆け抜け、脳を揺らす。子供の樹は起きない。脇で母親が殴られているのに、起きない。脳が直接殴られたみたいに興奮した。想像の衝撃の快感でとろけた。全身が脱力して、呆けたようになっていく。肉が溶けるような感覚を覚えた後で、骨ごと溶けたように脱力した。アメーバかスライムのように全身を床に擦り付けるようにして、倒れ込んだ。

 恍惚とした意識の中で、二発目の救いを待っていた。颯真は二発目で、いつもは殴らない脇腹も殴ってくれた。脇腹には神経が集まっているのだろうか。正面を殴られるよりも数倍の快感があった。颯真が決して殴りたがらなかったあの場所を夢の中で今殴られている。ベッドから崩れ落ちた拍子に子供の樹が視界から消えた。が、殴ったのはただ一回だった。颯真はこれ以上はダメだと言う。一回だけなら最悪、まだ何とかなるけど、これ以上殴ったら本当にいけないと。  

 何がいけないの。一体何がいけないの。私はそれが物足りなくなって、逆に颯真の頬っぺたやお腹をいたずらにつねった。ここまでやっておいて、一体何がいけないのよ。私が怒号を上げて颯真をつねると、颯真は止めてと、逆に悲鳴を上げた。本気で痛がっていた。

止めて、が止めろに変わって、やがていいかげんにしろか、それをすっとばして無言になって、颯真は私を殴る。文字通り私をボコボコにする。私の思い通りに。そんなシナリオを思い描いていた。でもそれも叶わない、夢の中でも、としたら。


 もう芙由を殴りたくないんだ。殴れないよ。

 何で。

 俺も分かんない。

 彼女だったら殴れるの?

 殴れるわけないじゃん。

 でもそれでもあなたに殴られたいと言ったら、どうする?

 止める。

 なんで、止める権利もないくせに。どの立場で止めるのよ。

 分かんないけど、人として止めるよ。それは、医者の卵としてでも。

 あなたは医者を目指すストレスが原因でこういう風になったんだよね。それって矛 

 盾してない?

 してないよ別に。だって人の考えって変わるものだから。むしろ変わらない芙由の

 方が心配だよ。

 

 私の心の壁を押し開いて、脳のバリケードを乗り越えて、颯真の言葉が入ってきた。これはラインで実際にした会話だったか。不意に夢の中の子供の樹が目を覚ました。目の前の光光景を血走った目を見開いて摂取した後で、私の手を手探りで探り当てて握ってくる。目が合った。子供の樹の顔は、いつの間に泣いていたのか、涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、そこだけ体温を感じる手が、私の悩みや疑念を有無を言わさずに諭すみたいに温かかった。私にはその温かさが健全なものではなく、得体の知れない生き物の生温かさに思えた。根拠不明の感情の拳で、殴って一件落着させる予定調和の暴力。本能の慣性で動く真に野蛮なもの。それは私には体内のはるか遠くにあるべき臓物のぬめりであり、両生類の皮膚のぬるつきと何ら変わらないものだった。現に同じものを手のひらの中に感じたから、私は繋がされていた手を静かに外した。無意味でも、最低限の配慮はした。が、天を突くような慟哭は防ぎようがなかった。


 私があなたの言う事を聞かなかったから、泣いてるの?

 大人達は皆あなたにひれ伏す。それが本当になぜなのか、分かっているの?

 仮に分かっていたとしても、この世の全ての人間が、あなた自身の価値にひれ伏す

 に違いないと信じられるその自信の根拠が、私には分からない。分からないままそ

 の甘さの沼に引きずり込まれるのが、私は怖いの。

 ねえ、なぜそう思うの? なぜそう思えるの? 


 目を開けてもすぐには現実に戻れなかった。密室で何時間も見知らぬ子供の泣き声に耐えたようなあのやり場のない虚無感と脱力感が全身にあった。沼の底にずぶずぶと沈み続けるようなぬるい感覚が消えない。あの耳を鼓膜ごと貫くような叫びは、脳内では、生々しい耳鳴りとして記憶されていた。視線を落とすとここにも私を捕らえる太い腕があった。樹の鍛えた太い腕。逃げたはずなのに、また捕らえられていた。



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