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 翌日、やっぱ都庁の食堂が気になるから行くね、と言った二葉ちゃんを見送った。二葉ちゃんはこっちの返答を待たずに背中を向けて、エレベーターにすたすたと歩いていった。

 はすみさんは今日は休みだった。体調不良。はすみさんの体調不良の原因を邪推しながら、スーザンベルのエコバッグに必要な荷物を詰めて、非常階段の重い鉄の扉を開けた。グレーの扉の端は等しくさびて黒い地が見えているが、丁寧に掃除されているからかぎりぎりの線で不潔な感じはしない。手のひらに鉄さびや汚れなんかももちろん付いたりしなかった。ドアを抜けるともう一つドアがある。今度はガラス窓付きのドアだ。そこを抜けると足音が響かないクッションフロアの階段がある。階段を二フロア上がると、テナントが入っていないフロアの踊り場に出る。踊り場には大きな窓が開いているからそこそこ眺望もいいし、周りのビルとは距離も離れているから、窓際に立ってもお互いの顔はよく見えない。

 ガラス窓から中を覗くと、細長い、立ち入り禁止の黄色の立て看板が変わらず見えたからほっとした。前からこういう時のための避難場所として目を付けていた場所だったのだ。今日は黒いスカートで良かったと思いながら踊り場に面した階段に腰を下ろした。二葉ちゃんと別れてから、ここで昼休みが終わるまで時間を潰そうと決めていた。

 エコバッグからカロリーメイトとミネラルウォーターを取り出した。

一人で食堂に行って「給食」を食べるなんて侘しすぎる。そんな思いをして食べたいものなどあそこにはない。行きつけの店はこの時間は混んでいるから食べたらさっさと出ないといけない。昼休みは一時間だから、一人で新しい店を開拓するのも違う。第一こんな日にわざわざ行って、料理の味の評価なんて正確に出来る訳がない。

 カロリーメイトが侘しい食事の訳がない。これと携帯しているオーダーメイドサプリと軟水のミネラルウォーターの組み合わせは、今の私が手の届く範囲の、究極に合理的な食事に違いない。これよりもまずくて、栄養のない食べ物なんてこの世に腐る程ある。

 冷めた目で眺望を斜め下に見下しながら、食べる。インスタはほとんどやらないが、このビル界隈の景色は有名になりすぎて、逆に映えないことを私は知っている。要するに皆もう飽きてしまったのだ。でもここにオフィスのある人は仕事だからここに通い詰めて味覚障害になりそうな「給食」を掻き込まなければならない。こういうのを本当のディストピア飯と言うんだろうか。だけどディストピアの定義はなんなのか。当事者がそう思うか否かか。

 カロリーメイトを一袋食べた所で、水を飲んでスマホを開いた。スマホを開いてディストピアでググるとウィキペディアの抜粋が検索トップに表れた。ディストピアはもう一つのユートピア。興味の赴くままにリンクをクリックしてみる。これが定義なら、私の世界はディストピアじゃなくてポスト・アポカリプスと呼びたい。ポスト・アポカリプスの‥‥‥セカイ系。ヒーローとヒロインの立ち位置が逆転していて、戦闘も地味だけど、皆誰かを人質に取って戦っている。そういう要素は確実にある。守りたい人が本当に守りたい人なのかと聞くのは悪いことなのか。これをツイッターで呟いたら、どっかの捨て垢から病みツイの極みだとクソリプが来るから絶対に呟いちゃだめなのだ。

 眺望を瞳に映しながらカロリーメイトを開けてまたかじった。もう食欲がないけど食べなかったらお腹が鳴るから、お腹を鳴らせないために食べないといけない。

 義務的な咀嚼をようやく終えた。袋を入れ子にしてカロリーメイトの空箱の中にしまい、その箱もエコバッグにしまった。ロシアのマトリョーシカはこうやって異民族の若者世代に継承されていくんだと思った。もう飲み物だけになったから気が楽になったのだ。時々植物になりたいと思うことがある。人間に擬態して歩くのが趣味の植物になりたい。

ツイッターのタイムラインを眺めても、面白いツイートは無かった。無意識のうちにさっきの自分の呟かれざるツイートを贔屓して、比べてしまっているのかもしれない。声なき叫びは無いのと同じなんだよ、と思いながら、画面をスワイプで弾き飛ばした。

 今は心がささくれ立っている。相互フォローの絵師の人のイラストを見るのすら嫌。一番見たくないのは、インフルエンサーに絡む身の程知らずの挙動。引リツで他人の百四十字にまとめた意見に被せるように、自分の意見をツリーにして連投して、暗に自分の意見の方が優れていることを示して悦に浸る。現実では絶対に出来ないことが、ツイッターだから、という一言で出来てしまう。そんな風に自分を雑に取り繕って、賞賛のいいね待ちの姿勢を取る人間のしんどさにあてられたくない。確かに気持ちいいのは、私もやったことあるから分かる。けど、それをいつまでも一人でやるのは、明らかにおかしい。

 結局ああいうのは暇で余裕のある時に怖いもの見たさで見る位がいいのだ。大昔、今の仕事の内定を貰ったばかりで暇で、今よりももっとささくれ立っていた頃、クソリプを含めたそういう反応をしているアカウントのホーム画面に飛んで、プロフにどんなことを書いているのか、他にどういうツイートをしているのか、いちいち確認したことがあった。暗かったと思う。でもそれ位追い詰められていたのだとも思う。フォローに対してフォロワーが極端に少ないか、フォロワーを買っているんじゃないかと思うほど、ツイートのクオリティに対してのバランスがおかしいそれらのアカウントは、大抵は毒舌に承認欲求を見出したbotのようなアカウントだったけど、たまに自分がクソリプを送っていることを本気で自覚していない人もいた。人の良いインフルエンサーの、言葉を選んだけん制を、自分の洞察力の鋭さがもたらした隙と誤読したり。究極の拒絶表現である「○○さんはあなたをブロックしました」画面のキャプチャを戦利品のように自分のリプにぶら下げたりして。

 教育系インフルエンサーを専属のカウンセラーだと誤認して粘着する自称勇者。万バズした子供の閃きをはらんだ発言や作品に指摘リプで張り合う大きなお友達。普段は大人の振りをして煽りを楽しんでるのに、都合の良い時だけ子供になるクソガキ。一つでも自分の中に満足出来るものを持っている人間が、あんなことをするはずがない。ああいう人間は、例えば昼休みなんかに暇を持て余して拗らせて、無意識的に病んだ末にああいう行動に及ぶんだろうか、と考えたら、背中に得体の知れない怖気が走った。

 今はもう、そういうものをわざわざ見に行くこと自体が時間の無駄に思える。植物の視点で、人間の感情を考えてみる。人間のままで人間の感情を考えるのは、時々しんどいし、えぐい。例えば昨日の樹は‥‥‥。樹は昨日も帰りが遅かった。大企業の決算スケジュールに合わせて動く樹は、三、六、九、十二月が特に忙しい。四半期末にはシュレッダーする書類が多く出すぎて、忙しさにかまけて溜め込んでいるうちに融解じゃないと間に合わなくなるから駆け込み需要が多いのだ。この時期は新規営業しなくても向こうからホームページを見て連絡してくるからすごい楽、と樹は言う。一昔前のミニマリストブームとリモートワーク様様だと。怖いんじゃねえの? 放っとくと紙に埋もれるからね。地震が来ても危ないし。会社で大量の紙に埋もれて死ぬの、絶対嫌っしょ? 窓際の机上に置いたSwitchの小さな画面を見ながら彼は他人事のように笑う。樹は相変わらずゲームに夢中だった。廃墟の東京を散策するのはもう飽きた。今は青空の下で戦闘機に乗り、アリのように見える人を上空から撃ちまくっている。ラピュタのムスカの気持ちがめっちゃ分かる、と笑いつつも、目はどこか悲し気、のように見える。かわいい。私がそう思いたいのか。仕事でどうしようもなく嫌なことがあった時は、放置した過去ゲーの周回プレイのレベル上げをして禅を感じている。繁忙期になると、樹のゲーム時間は増えて、相対的に寝るのが遅くなる。元々ショートスリーパーの気があるから、それでも問題ないのだった。

 樹はいつものように酒を飲みながらSwitchの白いコントローラーを銃みたいにくるくると回した。ロードを待っているらしい。後ろから抱き付いても怒られないだろうが、やりたくなかった。また配信で新しいゲームを買ったのか。あの戦闘機のデザインはどこかで見た気がするが思い出せない。

 ウクライナがロシアに侵略された時も、FPSをプレイすることを止めなかった樹。民間人犠牲者多数のニュースの直後に、旬の食材クッキングが流れる国で生きている。その宿命を理解しているから出来る、逆にそこだけ下手に忖度する方が欺瞞だと樹は言い、身に覚えがないとは言わせねえよ、と嘯いた。

 それが本当にあなたが考えた意見なら良かったのに、と思う。他人の意見でも良かった。水を向けた時にそれを誤魔化さないでさえいてくれてれば。

 思えばあの机で樹が勉強をしているのを見たことがなかった。本を読んでいる所も。私は樹に勧められたゲームは、調べて手に入るものは中古で買って試した。感想を言ったら、樹は案の定すごく嬉しそうな顔をした。私は自分の興味を偽ったことがない。二葉ちゃんも、はすみさんもそうだから忘れそうになるけど、私達のこの興味に対する一途な態度は、世間的にはとても珍しいと思う。昔豊洲で泊った頃、私も樹と同じ位本を進めていた。本だけじゃない、インテリアも、アートも、洋服も、何でも。自分の血肉になったと思うもので、ゲーム感覚で簡単に読んだり見たり買ったり出来るものは全て勧めた。樹と一緒に新しい世界に行きたいと思ったし、その世界の一つが故郷であるように思えた彼となら行けると思った。勧めた本を面白そうだから読むよ、と言っていたのは、あれはただのリップサービスだったのか。そうではないのかもしれない。これは嘘ではないのかもしれない。ただ私が知らない所で読んで、忘れてしまっただけなのかも。

 そもそも、嘘を吐いているか、という点については、私の方が圧倒的に分が悪い。だって私は聞かれないのをいいことに、セフレがいて、その関係をずるずると続けているんだから。

 いつか、深夜のベランダで季節外れの月見だと言って手すりにもたれて二人でビールを飲んだ時、俺は現状維持がいいの、と樹は呟いた。現状維持とは何かと聞いたら、例えば今日のような日が永遠に続くことだと言った。樹は背中が痛かったのか、よいしょ、と言って身をよじると、遠い目をしてまた彼方にある月を見上げた。

手を伸ばせば届きそうな月。だが、見つめているとその月の周囲を煙のように絶えずたなびき続ける薄い雲の存在にふと気づき、あたかも輪廻を象徴するかのように巡り続ける、あの非現実な残像の果てしなさに気が遠くなりそうだった。一見現実のようで、目を凝らせばやはり夢幻。けして手の届かない雲に絶えず覆われた月という虚構。私達がどれだけ親しみを持ってあれを眺めても、あれはけして私達を見ることはない。あれは永遠に私達を認識することはない。私達は永遠にあれが司る世界には行けないのだ。

 私が月に行ってみたい、と思わず呟くと、樹は「俺は見てるだけでいいや」と言った。俺はずっと地球がいい、あんな所には行きたくないよ」と言った。だって月って、近づくと穴ぼこの岩だらけで死の世界なんだろ。大昔に理科で習ったし。なんか女の化粧みたいだよな。

 彼らしい合理的な感想だった。現に樹は仕事が出来る。フットワークが軽くて要領がいいから自由人のように振舞えるけど、彼もまた、一皮むけば常識人なのだ。彼にとって月は、誰かとの月見というイベントを盛り上げる背景以外の何者でもない。彼は大都会のマンションのベランダで月見をしたという事実だけが欲しい。それが、そういう風流を解することの出来る稀有な感性を持った若者だと、周りに自然に思わせるための手段であり、そのフラグを立てる行為そのものが彼の人間性を形作る。そして、恐らくそれにより、彼は生きやすくなる。

 エモいという言葉が大嫌いなのに、その言葉を崇拝する量産型と同じことをしている。理性的なのに自己矛盾に気づかないタイプは、必要な知識を会社で、実践で効率よく学ぶだろう。樹は他人に頭を下げるのが嫌いだから、教えを乞うのではなく、他人の動きを見て盗む。仕事を、金を稼ぐためだけの手段だと割り切っていて、金と時間のバランスが比較的取れている今の環境がずっと続けばよいと思っている彼は、業務の勉強は金が貰える就業時間中に最低限のラインでするはずだ。そのラインが上がったらバレないようにちょっとずつ知識をかさ増ししていくだけ。たぶん私がやるよりももっとコスパのいい方法で。

 それが許されない会社なら時間の無駄だからさっさと辞める。プライベートでも同じ。樹のいいね、は信用出来ない。彼の趣味と雑学も結局は、同類を釣るための手段だったのだ。

 これは樹に確認したことではない。樹が目を輝かせて語っていたあの素朴な興味や趣味が全て精巧なイミテーションであったことなんて、信じたくない。イミテーションにも強固なコンセプトがあればオリジナルの本物になり得るのだろうか。それを判断する権利は私にはないだろう。だってこれは、全て私の妄想かもしれないのだから。

 貴重な一人の昼休みの時間が過ぎていく。

 ツイッターの後は、ラインのアイコンをタップした。昨日颯真とも話した。ラインの無料通話で話した。樹と直接話した後で颯真と声だけで話すと、時間差で乱交を経験している感覚になって、声を聞いているだけで卑猥な気分になる。一瞬、今が会社の昼休みだということを忘れ、忘れた傍から思い出す。意識のジェットコースターのような、背徳的な優越感が心地良い。乱交という言葉の毒に侵される世界になどいないという、凡人の誇りのようなものもそのスリルを後押しする。

 颯真は‥‥‥颯真は最近いつも戸惑ったような顔をしている。会う時はいつもそう。よく言えば正直、悪く言えば目が泳いでいる。この関係いいの? 僕達こんなことしていいの? いいの。嘘を吐かれるよりはずっといい。でも目でそう言っても颯真は信じないから、言葉と態度で示す。言葉はあまり効果がない。効果があるのは態度。颯真は気弱に見えるけど、本当はそうじゃない。今は彼が忘れているだけで。

 前に、将来の診療科は何にするのと聞いたら、まだ気が早いよ、と笑った。それはこれから勉強しながら決めるんだ。決まるのは、早くても五年後。

 私は精神科という言葉が、颯真の口から出るのを恐れていた。恐れていたがゆえに聞きたかった。五年という歳月は私には永遠のように感じる。それは私の時の流れが遅すぎるからなのか。

 子供の頃から、相手の目を見れば大体分かると思っていた。その人が私の話を聞いてくれそうか、そうでないか。子供の頃はこう考えるのが根拠のない傲慢だと思っていたけど、社会に揉まれて分かった。私の直感はけっこう当たる。超能力者になりたいわけじゃないのに、心の中で当たって欲しくないと思っていたのに、当たる。でもこれは虫の知らせと呼ぶにはあまりにも主観的だから、私はそれを信じるけど寄りかからないようにしている。私の話をちゃんと聞いてくれる人は信頼するし、プライベートでも親しくなりたいから本音も多少は話す。でも、相手が重いと思わない範囲でだ。颯真はその距離感を分かってくれているようだった。少なくとも最初の頃は、確実に分かってくれていた。どんな人でも則を超えて距離を詰めてくる相手は本能的に怖いはず。それに私の全てを受け止める義務も相手にはないはず。だから、これが思いやりというものだろう。

 これは歳を取れば自然に出来るというものでもない。気づくか気づかないか。一種の気配りだと思う。私だけしか着眼点を知り得ない気配り。現にうちの母親はこれが出来てない。だから母に見えないのをいいことに私はこの気配りをバリアのようにしていた。私は母を軽蔑しているか。とんでもない。お母さんは、時々距離を詰めてきてウザいけど、悪気がなくてかつ家族だから仕方ないと思う。それに、こういうのは相手がどこまで考えてるかを予想した上で、適当にあしらうもの。仕事と同じ。むしろ社会に出る前にこういうことを経験出来て良かった。その意味でうちのお母さんは、親の役割を本能に準ずる形で、体当たりで全うしてくれたのだから、感謝している。というか、絵に描いたような良好な関係の母と子なんて、本当は絵の中にしかいなくて、世間の子の親に対する感謝のほとんどが、こういうものなんじゃないのか。

 私はお袋の味の価値が分からない。お母さんが作る肉じゃがの味は舌で知っているけど、あれをわざわざ食べたいとは思わない。だってもっとおいしい肉じゃがを食べたことがあるから。現に樹はそれが食べられる店をたくさん知っている。

 颯真は店は知らないけど、私の、この一般的には冷酷で人でなしと批判されるであろう合理的な考えを個性だと言って理解してくれる。だから二人と付き合った。これだけ長く付き合えたのだ。

 時計を見ると、休み時間は後十五分ほどだった。昼休みが始まる時は、本当に十二時五十分が来るのかと思っていたけど、始まってみれば何でもない。普通に来るのだった。このテンションで本当に十二時五十分が来た時に、私はどうなってしまうのか。またへそを曲げた二葉ちゃんの隣で、死ぬほどつまらない仕事を下手すれば残業までしてやらなければならないという絶望に苛まれてしまうのか。そう考えたら、後五分で何かその絶望が来てももう悔いはないと思えることをしなければならないと思った。たぶん、その意志が私を救うのだ。その意志だけが、今の私を救う‥‥‥。

 突然、右横の鉄扉が軋みながら開いた。掃除の人かと思ったが、違った。電話を掛けるための場所を探している帰属不明のモブでも無く、私と同類の昼休みの居場所を求めてさ迷う、亡霊的な社員身内でも無かった。

 梨々花だった。

 

 梨々花は私の姿を認めても引き返さず、ドアをすり抜けて、廊下に出てきた。右手に茶色のエルメスの手帳型のカバーの付いたスマホだけを持っていた。本格的な休憩ではないらしい。真っすぐ私を見つめたのを見ると電話の場所を探している訳ではないのだな、と思ったが、そもそも秘書である梨々花がこんな上下に音の響く場所で電話を掛けようとするはずもないだろう。梨々花が細い体をくねらせて通り抜けると、地獄の門が閉まるようなけたたましい音を立ててドアが閉まった。ものすごく美しいものが自分の口の中を珍しく通ったのに、挟み殺せなかったのが悔しい、と歯噛みするかのような音だった。

 私は梨々花から目を逸らした。彼女もまた、礼儀として目を逸らして私の脇を上か下かにすり抜けていくと思ったから。

だが、彼女は私の横に黙って腰を下ろした。そして、小首を傾げてこう聞いたのだ。「鈴野さん、昼休みはここにいることにしたの?」

 ‥‥‥咄嗟に話しかけられたから、黙るしかなかった。無視したと誤解されないために、何か言葉を、早く自然に発しなければならなかったのに、脳と喉が、両方とも金縛りに遭ったみたいになって、動かなくなった。焦りのさなかでようやく絞り出せたのは、「はい」と「ええ」の中間のような曖昧な返事だった。顔だけは何とか澄まし顔が出来たから、「お疲れ様です」と続けたら、何とか様になった。

 梨々花はなぜか私に愛想笑いをした。上司や仲間にするのと同じ笑い方に思えたから、率直な所不気味で、何か不吉な前触れのように思った。日常に溶け込んだ舞踏の型を思わせる動きに纏わりつくように、フローラル系の香水の香りがした。微かに石鹸の香りもする。この前会った時はこんな香りはしなかったから、妙に生々しかった。

 まさかここが梨々花のさぼりの指定席なのか。だとしたら、もうここには長居無用だ。私は部長用の盾の笑顔を作ると、もう一度「お疲れ様です」と言って、スカートの裾をはたいて立ち上がろうとした。

「待って。私あなたと話したいのよ」

「‥‥‥何か御用ですか」

 梨々花は皇族のように口に手を当てて、うふふ、と笑った。

「御用とかじゃなくて、ただ話したいの。あなたセンスいいから、一回話せたら楽しいだろうなって。でも話す機会無くて」

「‥‥‥」

「そのバッグスーザンベルでしょう? ブラウン一色のって初めて見た」

「‥‥‥‥海外限定色です」

「ふうん、ちょっと光沢があるのね」

 断定と推測を適切に使いこなす。梨々花は初対面の人間の褒め方をよく知っていた。この点はさすが秘書だ。

 こう思っている間も、梨々花は愛おしそうに私のバッグを見つめていた。本心からそう思っているのか、疑わしい。でも嘘だとしても、なぜ私に媚びる必要があるのか。

 その理由は分からなくても、褒められたまま黙っているのは居心地が悪かった。

「ビニール袋が有料になってから、常にエコバッグを持たなきゃいけなくなったじゃない? スーツに会うエコバッグでどこにも持っていけるのってありそうでなくて、何かいいの、知らない?」

「‥‥‥ボッテガのナイロントートとかどうですか。いろんな色がありますよ。ブランドで別の人と被っちゃうかもですけど」

「ああ、あれね」

 妙に喉が渇くと思いながら、話していた。期待されている範囲で、最低限の話はしようと思った。それで失望されるなら、逆に逃げる隙が出来て、ありがたい。

ここで高級ブランドの話をするのは釈迦に説法だが、本革は入れるものが限られるし、夏場は暑苦しくて使えない。だからスーツの梨々花に似合うエコバッグなど、あれ位ではないかと思った。ボッテガの担当は今は、企画部長付の秘書の時歩だが、梨々花自ら持ちたいと言ったら、譲らない方がおかしいだろう。

「後はイッセイミヤケのプリーツプリーズの手ごろな大きさのバッグとか、MM⑥のトライアングルトートとかになってくると思います」 

「‥‥‥ねえそれってどんなのだっけ?」

私はスマホを取り出すと、イッセイミヤケのプリーツプリーズのバッグを検索した。梨々花の反応を見ながら、MM⑥のバッグの方も別ウィンドウで立ち上げて見せる。どちらも梨々花にはプチプラバッグのはずだ。プリーツプリーズのバッグは発色が良い原色だが、プリーツが上品だからスーツの差し色にもなるだろう。後は、畳む手間をどう考えるか。MM⑥は、スーツと言うよりもモード寄りのデザインだが、三角形のフォルムは独特で面白い。

 梨々花は私のスマホを覗き込んで、二つのバッグを面白そうに見ていた。まさか本当に興味があったのだろうか。

「鈴野さんだったらどっちにする?」

「私は一通り悩んだ末に、スーザンベルにしました」

「‥‥‥ふうん」

「見た目はすごいシンプルですけど使い心地は最高ですよ。Lサイズは肩掛けできます」

 流れでスーザンベルの回し者のようになったが、嘘は吐いていない。梨々花は私のバッグを見やった。同じものが欲しいと言われたら私が購入したのと同じルートで手に入れる手段はある。あくまでもだが。

「鈴野さんって、持ち物に妥協しないのね」

「その位しかこだわれるものがないので」

梨々花は私の事務的な謙遜は意に介していないようで、大きく伸びをすると、「そうなんだぁ」と言った。梨々花の髪は遠目では黒髪ロングに見えたが、実際にはカラーリングをしているようで、至近距離では光が当たる度に、ダークアッシュの粒子がきらめいていた。至近距離で見るとおしゃれだが、社長秘書の髪色としては正直、亜流に思えた。だが梨々花が役員達に服装で小言を受けるという状況は想像出来ない。二葉ちゃんじゃあるまいし、そんなドジを踏む所など想像出来ない。加齢で見えなくなる色があって、私が知っているのはブルーブラックだけど、この色もそうなのか。サイドから毛先にかけては、ゆるくパーマを掛けていたが、間近で見ても毛先は大人しくまとまっており、枝毛は一本もなかった。 

 肌も、土台が良いから塗りたくる必要がそもそもないのだろうか。梨々花の化粧は薄かった。横から見るとやや下がり気味に見える眉の下にはアーモンド形の黒く澄んだ瞳があった。その瞳を囲むように天然の睫毛があり、彼女が俯く度に鼻筋の通った横顔の向こうに長い影が出来ていた。白みがかった透明感のある陶器のような肌には、毛穴がほとんどない。髪も、肌も、上質の土台を更に磨き上げるためのお金が掛かっていることが素人目にも分かった。

 並ぶと余計に惨めになった。こんな相手に、調子に乗って釈迦に説法をしている自分自身のみすぼらしさが嫌になった。だけど適当なことを言ってここを逃げるように去るのは私のプライドが許さなかった。梨々花は私をからかっているのだろうか。この前の態度が生意気だったからとか何とか思って。だったらこんな風にいたぶらずに直接そう言って欲しい。もしこれが花梨だったら――。私はこの時、初めて花梨に自分から会いたいと思った。

「‥‥‥いつも一緒にいる衣川さんともそういう話をしてるの?」

「‥‥‥時々、友達ですから」

「一ノ瀬さんとも?」

「はすみさんとはしないです。こういう話はあまりお好きではない方なので」

 これ以上プライベートを詮索されたくないから、口調だけ丁寧に、でも意識的に目を合わせずに喋る。敬語を使ったのは、はすみさんではなく、目の前の梨々花と距離を取るためだと自分では思っていた。

だが梨々花は、あえて空気を読まないのか。相変わらず間合いを図るようなフランクな口調で、だがどこまでも動じなかった。こちらの誘導通り動かない梨々花に歯噛みしながらも、私は心の底では嫌ではなかった。梨々花に話しかけられるのが本当はうれしい。そんな自分を自覚していた。そして恥じていた。梨々花はそれを知ってか知らずか、全知全能の天使が人間にいたずらするような態度で、俯いた私の顔を覗き込むと、眉根を下げて言った。

「実はこの前ね、衣川さんとパーティで一緒になったことがあったの‥‥‥挨拶とかしたわけじゃなくて遠くから見ただけで、向こうは気づいて無かったんだけどね。鈴野さんも一緒に来たのかなって思ったんだけど、彼女、一人だった」

 告げ口ではなく、ただの世間話のテンションだったと思う。が、こちらもそれ以上聞きたい話でも無かったから、プライベートでは別行動をすることが多いのだと表情を変えずに言った。お互い守備範囲が違うから、その方がコスパやタイパがいいと補足した。「タイパ?」と梨々花がきょとんとした顔で聞き返した。タイムパフォーマンス、掛けた時間に対して効率がいいということです。お金よりも時間が大切だという考えに基づく思考です。そこまで言うと梨々花は目を丸くして、納得したように両手を組み合わせた。そうなんだぁ、面白い。同世代なのに実感はなさそうだ。やっぱり特別なんだと思った。生き急ぐ必要の無い特権階級。今日の梨々花は、これが素なのか、動作がくだけて社員寄りになってきている。それでも花梨みたいに己の承認欲求が透けて見えないのは、やはり生まれと育ちの良さのせいか。

「ああいうパーティって、時々壁の花になることあるわよね。私も初めての時はそうだった」

 あなたの場合は高嶺の花として文字通り崇められて飾られてるんですよ。

それに、二葉ちゃんの場合は、いつもだと思いますよ、と心の中で思いながら、私はこの時初めて愛想笑いをした。ここまで無表情だと意固地に思われて、逆に自分の余裕の無さを見抜かれるから。

「パーティ、けっこう行かれるんですか?」

「会社の付き合いでね。退屈よ。知らない人ばっかり」

「でも友達との内輪のパーティは楽しくないですか? 花梨さん達とするパーティとか」

「まあ最初はそれなりに楽しいけど‥‥‥」

 梨々花の顔が、微かに曇った。ようやく、こちらに追い風が吹いてきた。私がしたい話は、これだった、らしい。図らずも向こうがわざわざ教えてくれた。

「‥‥‥女同士だと、いろいろありますよね」

 これで梨々花が口ごもれば、この会話は終わる。場繋ぎ的に合意した。何に対するのか分からない、いつもの肯定だった。だが梨々花は意に介さなかったのか、口角を若干上げるだけで、それには答えなかった。

一瞬でも相手のレールに乗せられたことに対してお返しをするように梨々花は「ねえ鈴野さんライン交換しない?」と澄まし顔で言った。

 緻密に装飾された大きな目で見つめられて、ラインやってないんです、とは言えなかった。嘘は吐けなかった。梨々花は私のホーム画面のラインのアイコンを、世にも珍しい証拠品を見るように、微笑みながら凝視していた。



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