16
「ブス」
男性社員がすれ違いざまに、小声で言った。集団ではなく一人で、それも小声でという所に、幼稚な脅威に事故的に接触した大人の男としてのプライドが見えた。その場にいたのは、二葉ちゃんと私と、人二人分の空間を開けて元新入社員のあの人の三人。もちろん誰も反応しなかった。と言うか、そもそもあんた誰という感じだから、反応のしようがない。
どっちの自己愛の方がより歪んでいるのか。私の目にはベクトルの方向が真逆なだけでどっちも大差ない様に思える。どんなに言葉を飾ったとしても、俺は私は敵と見なした異性にはこのように攻撃します、というデモンストレーションを勝手に見せられているのだ。
どっちも子供なのなら妙な洗脳をされていない方がまだ哀れに思えないから、扱いやすいだろうか。どっちもいらないと言ったら顰蹙だろうか。どっちかが数を呼べば勝つゲームならそうして欲しい。あそこに広報部長か花梨がいたら、たぶん瞬殺だと思うから。もう最初から連れて来ればいいのに。そしたら私もこんなことで悩まないのに。面白おかしく話を広げてもらえて、これを機に名前も憶えてもらえるだろうに。
モブが去った後、二葉ちゃんは心なしか得意げな声で、「最近なんかおもしろいことあった?」と私に顔を向けた。私の返答を待つ前に、そう言えばもう昼だね。昼何食べよっか、と言葉を繋ぐ。二葉ちゃんは何があったかもう忘れている。都庁の食堂とか行ってみない? ちょっと遠いけど、景色がきれいらしいよ。
もっと近場でいい所があるよ、と言って、私はスマホを取り出した。
この辺のランチスポットで昼休みの貴重な時間を使ってでも行く価値のある店は地図アプリに登録してある。別に二葉ちゃんに媚びている訳ではない。価値の無いものを時間とお金を使って食べるのが嫌なだけ。出向く時間も無いのなら、社食の「給食」で我慢する。
スマホから顔を上げると、あの人はもういなかった。歩くのが速いから消えたのだ。
スワイプして、二葉ちゃんに最近出来た定食屋のサイトを見せた。ここから徒歩五分。若いオーナーがやっている、ネオ定食屋。一般的な定食屋のメニューは揃っている。オーガニック食材だけを使っているから味も悪くないし、手ごろな値段の割に盛り付けの量もあざとくない。テーブルごとに麦茶のポットも置いてあって自由に水分補給も出来る。樹おすすめのちょっと不潔な普通の定食屋に連れて行っても、食べ物に関しては典型的なミーハーOL脳の二葉ちゃんは、最初ははしゃいでも途中からイメージと現実のギャップに微妙な顔になるから、最初からこういう所に連れて行くべきなのだ。
「でも、都庁の食堂も行ってみたいなあ」と二葉ちゃんが珍しく食い下がる。免許更新の時に行けばいいよ、と行ったら、「免許更新って終了時間読めないじゃん、食堂は昼以外やってないから、行けないよお」とこぼした。いつものふにゃっと笑った顔が、なぜだろう、今日は呆れ顔に見えた。無性にイラついて、今思いついた態で、「じゃあ、私が有休取った時にはすみさんと一緒に行けば?」と天然を装って言った。これは二葉ちゃんの真似でもあったのだけど、真似をしたら止めを刺した感触があった。二葉ちゃんはようやく黙った。出来るわけないから黙るしかないのだ。でも、たかが胃に数時間何を入れるかでこんなに張り合う私達って一体。
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