15

「‥‥‥今日‥‥‥なんか調子悪い?」

 俯いたまま、ぜいぜいと息を吐きながら絞り出すように声を出した。さっきまではお腹が痛すぎて声を出すことが出来なかったのに、もう痛みが引き始めている。

 脳裏に少し前から消化不良、という言葉が浮かんでいた。私の卑屈な理性は、それを認めたくなくて、足りない快感を記憶の反芻で埋めようとしていた。

 本当は二週間後に会う約束だったのに、ラインでダメ元で聞いて時間を作ってもらった。颯真は、たまたま休講になった講義があったから別にいい、と言ってくれたけど、これはセフレの則を超えたわがままで、立場上での借りを作ってしまったのは明らかだった。

 だから交換条件として、今日は全裸で殴ってくれていい、むしろ殴って、と頼んだ。颯真は笑いも怒りもせずに了承した。

 殴られる前に裸になるのは特別なことでは無いと思っていた。

 現に普通のセックスをしていた頃は、互いの裸を色々な角度から、さんざん見ていた。だけど、実際に裸になったら、脳と心がバグったみたいになった。室温は適温だったはずなのに、全身が寒くて、鳥肌が立つ。目の前の服を着ている颯真と、裸の自分が、同じ人間だとは思えない。同じ人としての尊厳を持つ人間だとは到底思えなかった。次にどんな動きをすればいいか、思考が飛んだ。今までは心よりも身体の方が先に動いていたのに。彼が眼前にいるという状況に怯んで、動けなくなってしまっていた。停止することは攻撃されることと同義なのに、それでも私は止まっていた。これはある意味彼に安心してるのか。裸の身体を晒したまま、私は出口を見失った人間のように立ち尽くしてしまった。体感では数秒、実際はもっと長かったと思う。

 早く彼のパンツのジッパーを開けて、奉仕しなければいけないのに、身体が動かない。このパンツは彼がよく履いているものだから、見慣れている。何も変わらないはずなのに、身体が上手く動かない。私は強張った顔のままで、固まってしまった。幸い彼には私の動揺が、ばれなかったみたいだった。怪訝な顔をされる前に、寄りかかる対象を合理的に探そうとする理性が身体に鞭を打って、無理やり動かしたのだ。

 跪いて、彼のものを口に含んで、舐めた。味わう余裕もからかう余裕も、ましてやいたぶる余裕も無かった。彼は、颯真は相変わらず表情を変えなかった。この攻め方は散々しているし、この状態で奉仕される側が簡単に表情を変えることが、どれだけ面白くないかを彼は実践でもう学んでいるのだった。

 彼は私を、コンタクトの奥の目でじっと観察しているようだった。何も悟られてはいけないと思いながら、舌を這わせた。気が遠くなるほど単調に思える奉仕を続けた。こんなつまらないセックスを受け身の状態で颯真としてしまったら、全てを見抜かれて終わってしまう。でもどんなに危険を感じても、それしか出来なかった。だからその危険を、初めて裸になったことのスリルだと思い込んだ。

 颯真は私の身体に何度もキスをした。まるでこれから壊そうとするものに、最後の別れを告げるみたいに。

 キスをされてから最初に殴られるまで、無限の時間が流れたように思えた。これからスクラップにされることを直観した電化製品みたいだった。体全体が縮んだバネになったみたいになって、これから起こることを立場上受け入れているはずなのに、鉄格子が皮膚に突き刺さるほど狭い檻に入れられたかのように窮屈だった。思えばあれは、体全体が殴られるための準備をしていたのだと思う。今日は子供を作ろう、とベッドの上で彼氏に宣言されてからするセックスみたいな息苦しさ。そんなものに、私は囚われていた。

 これは私が私の存在に対して感じる苦しさなのだと思った。私は自分の存在が息苦しい。だから自分のコピーの子供なんか絶対欲しくない。絶対に欲しくないから、絶対に手に入らないようになるために、こんなことをしてるんだよ。

 実際に殴られた後も、その閉塞感は消えなかった。さっきまでは肺から透明な手が出て、空気中の酸素をかき集めていくようだったのに、世界の終わりみたいに思えていたのに、もう痛みが過去のものになっている。ゆっくりと仰向けから四つん這いになる。殴られた拍子に乱れてしまった髪を機械的に直しながら、体全体で深呼吸を繰り返す。呼吸が整ってくるにつれて、体のリカバリーの動きが、全部私が知らない所で行われているみたいに思えて、気怠くなって来た。みぞおちを起点に広がっていた激痛は、ようやく収束に向かっていくようだ。身体の中を野蛮な祭が甘い蜜の余韻を残しながら通り過ぎていく。痛みが消えることは喜ばしいことなのにいざ薄れると寂しくなった。肺もバグったんじゃないか、このまま死ぬんじゃないかと思うほど息が上がっていたのに、もう普通の呼吸に戻りかけている。

 眼前には颯真と思われる男の足だけしか見えない。牢獄を牢獄のように意地でも見せようとしない無機質なミニマムインテリアの欺瞞に気づくと、余計に心が冷めた。本能を満たすための最低限の家具しかない、病室のような部屋で、空気中の酸素を取り込むために、口の隙間から漏れる白い息だけが憎らしいほど生々しかった。


「‥‥‥ねえ今日‥‥‥なんか調子悪い?」「‥‥‥え?」

 またワンテンポ遅れたこの返答で、颯真が、また殴った後にあさっての方向を向いていたのだと分かった。罪悪感を隠すためなのかなんなのか知らないが、これはいつもの颯真の癖だ。なぜなのかは聞かずに気付かない振りをしている。原因が幼少期のトラウマだったとしても、私はサンドバッグになる以外で颯真のトラウマを受け止められる度量はない。それに万が一サンドバッグプラスアルファになれてしまったら、ギブの方が多くなって私達の関係は対等ではなくなってしまう。そしたら全てが意味がない。私は颯真と今の関係を続けて行きたいのだ。続けていけるだけ。

 でも指摘しないのは気持ちが悪いから、時折あんなことを何度も言って、颯真の心の中に人差し指を差し込んでみる。

「‥‥‥やっぱ分かんのかなあ」と自虐するように笑って颯真はベッドに座り込んでしまった。床に四つん這いになっていた私の息が、ゆっくりと整っていく。

 颯真は何も堪えていない。もう動揺すら演技に変えられるようになったのね、と心強く思った。何をやらせても呑み込みが早いから、すぐに追い抜かれて孤独になる。これからの颯真と過ごすことは、祭りの後のような寂しさと虚しさを感じながら、時間を積み上げるということだった。それはこのままなあなあの関係になるの、嫌だという思いとセットでもあった。本当は今、切り出すつもりだった。でも一度こういう恋人みたいな空気が流れてしまったら、もう事実では押し切れない。少なくともこの空間では、この関係を終わりに出来ない。変化を付けることすらも出来ない。少なくとも颯真は私からお金を受け取らないだろう。

 例の彼女と別れたのだ、と颯真は言った。別れたいと言われて、了承した。向こうに好きな人が出来たわけではないらしい。はっきりした理由はない。ただ漠然とさみしかったんだと。

「颯真ならすぐ次の子、出来ると思うよ」

 内側から刃物で裂かれるような痛みは無くなったものの、まだ、颯真の指の跡が残っているかのようにじんじんと痛むみぞおちを押さえながら、ゆっくりと立ち上がる。壊れかけの心臓が二つあるみたいに痛い。ゆっくりと颯真が座るベッドの方に歩き始める。一歩踏み出す度に、みぞおちが熱を持って、そこから血が吹き出すみたいに痛みがぶり返す。中学の理科で習った、音叉の波形が頭に浮かんだ。あれの痛みバージョンが今の私の身体だ。

 あの時は実際に音叉を先生が鳴らしてくれたんだった。黒板に白いチョークで書かれた波形を背にして、先生が鳴らした音叉の音が仏壇のお鈴のようで、失笑が漏れた。先生も口に手を当てて、困惑したように笑っていた。産休の代理で来た、大学出たての若い先生。うちのクラスは授業がしやすいとはにかんで言った物静かな女の先生。一回り歳の離れた生徒からちゃん付けで呼ばれて、本人も軽く怯えながらそれを受容して、本格的にあだ名を付けられる前にいなくなった。先生は今も先生を続けているのだろうか。先生になったことを後悔してはいないか。

 肉の先にある心、心の先にある何かを強くぶつけたような痛みを抱えながら、颯真の足元に跪く。颯真は私の頭に手を乗せた。視線はあさっての方向を向いたまま。そのまま私を見ないで欲しい。望まざる現実への動揺を誰にも悟られずに鎮めるためには、心を冷たくすることが一番効果的なのだ。

「寂しいの? ‥‥‥元気出してよ」

 「え?」と笑う颯真。頭に置かれた手がぎこちなく動き始める。何で賢いのに、むしろ賢いからそんな風に振舞うのか。無意味な仮定をしてみる。颯真は嘘を付くのが下手だ。嘘を吐くのだけは下手だ。吐いた嘘を誤魔化すのはもっと下手だが、私はそこが好きだから離したくはない。

「どんな子が好きなの? 職場の子や知り合いの子紹介するよ」

「‥‥‥」

 出来もしないことを言った。何でこんな口から出まかせを? 颯真は私の頭を撫でるのを止めて、ベッドに仰向けに沈み込んでしまった。こんなこと、言わなきゃ良かった、と思った。普通に考えてもおかしいし、さすがにこれは変態だと思われる。例えば職場の子を彼女にした颯真と、今の関係を続けたいだなんて。

「ごめんね、ごめん謝る」

 殴られた痛みはもう、遥か彼方に行ってしまった。夢になって溶けてしまったのだろう。私はベッドに仰向けに寝転ぶと、シーツの上を泳ぐように脚を蹴って、体を枕元に上げた。颯真と視線を合わせると、彼はまだとろんとした目をしていた。彼だけまだ夢の中にいるようだ。

 彼の手がまた私の頭に伸びて来た。無言で彼の頭を撫でた。しばらく見つめ合った後に彼は目を閉じた。目を閉じると、二重の目をまつ毛が覆って童顔が尚更幼く見える。本当に樹と、いっくんと正反対の顔してる。改めてそう思った。私の頭の上にはまだ彼の手が乗って、動いていた。目を閉じながら頭を撫でるってどんな感じなんだろう。私も目を閉じて、無言で私の頭を撫で始めた。

 彼の短い猫っ毛が指に絡んでくすぐったい。

 これは何の儀式なんだろうか、と思うより先に浮かんだのは、疲れちゃった、という言葉だった。

「疲れちゃったね」

また口に出てしまった。

 いけない、と唇を噛み締めながら思う。

 彼は私の頭を撫で続ける。

 本当に、疲れちゃった。今日はもう、だめみたい。私失言多いし、頭回んない。だからもう、何もしないで寝ちゃおう。そうしようよ。ねえ。

 これは独り言なのか、独り言でないなら、誰から誰に掛けている言葉なのか。まとまりのない言葉達が頭の中でぐるぐると回っている。頭を撫でる手が止まった。颯真は明らかに戸惑っている。だって慣れてないんだもんね。暫くして、彼の寝息が微かに聞こえ始めた。

 透明な罪悪感が実体化する。白昼夢の中で、夢と現実の狭間で揉まれて、私は私でいられなくなる。理性が私に囁く。私が私でなくなっても、極論、誰も気にしない。本当はやる気なかったんでしょう? なら仕方ないじゃん。 

 打ちっぱなしの天井に喪という字が浮かぶ。新自由主義の現実を象徴する天井が、ぐらぐらと歪む。ふふ、ふ。昔を思い出したからなの? 記憶の歪みから現れたあのトラウマの笑顔が、質の悪い冗談みたいに私の顔に覆い被さる。現実に引導を渡してくれる人などいない。

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