21

「今大学で解剖学実習してる」

「‥‥‥楽しい?」

「‥‥‥つまんないよ」

 ベッドの上で、颯真と二人で仰向けに並んで、休んでいた。彼の声は消え入りそうだった。

 今日は最初に全裸になって、殴られた。久しぶりに殴られたから、思わず最初のはじまりの感覚が蘇って、二回目に殴られた時に無意味に悲鳴を上げてしまった。颯真はそれに興奮したようで、その後すぐに服を脱いでセックスに移行した。何かの実験みたいに体位を何度も変えながら、激しいセックスになった。私達はお互いの姿を興味深い存在として観察し始めていた。時折痣のようにぶり返す痛みを何度も感じながら、私は颯真を攻めた。

 ほとんど会話が無かったから、荒い息だけがベッドの上に満ちた。媚薬のように充満したそれを生きるために吸い込んだことで、相手がイッた後も、止めずに攻め続けるという暗黙知が出来ていた。互いに違う何かから逃れるように、私達は互いの身体で、互いがしたい実験を続けた。

 いつもの快感の先を突き止めたいという欲望が、お互いの脳を支配していた。脳がとろけて無くなってしまうんじゃないかと思いながら、白いベッドの上で、動物みたいにセックスを続けた。二人で別々に四回イッた後も、颯真は私の腰を後ろから抱いて、足を絡ませ、私の中の数秒前の自分の影を何度もなぞるように腰を振り続けた。

 何度目かのゴムをゴミ箱に捨てた後の颯真は、しばらく仰向けになって放心状態だったが、今は落ち着きを取り戻していた。彼の髪を撫でて、「今日すごいやらしくなっちゃったね」といつもの距離感を取り戻すために言ったら、向こうも図星だったようで、顔を赤らめて笑ってくれた。今は両手を頭の上で組んで、物思いに耽っている。セックスの後の気だるくもの悲しい余韻だけではない。不意に思いつめたような、沈鬱な表情で私を見る。

「俺の身体から変な匂い、しなかった?」

「‥‥‥しなかったよ」

 前の彼女と別れてからすぐに、颯真にはまた新しい彼女が出来た。同じ医大生の彼女。解剖学実習のことは彼女にも話せないのか、話したけど物足りないのか、颯真は遺体のことをご遺体と呼びながら、遺体の解剖の様子を、私の反応を確認しながら取り留めも無く話す。解剖着という白衣に似ているものを着て、長靴を履いて手袋をして解剖すること。解剖学室は蒸し暑かったこと。ステンレス製の解剖台を見た瞬間に、台所の調理台を連想して気持ちが悪くなったこと。解剖台には白い布で包まれた遺体が無数にあったこと。布を外した瞬間に黄変した肉の塊が現れたこと。銀色に輝くメスを握る時の手の震え。もう後に引けないという思い。メスで肉を背骨に沿って長く切り裂く時の感触。自分が人間でなくなっていくような得体の知れない罪悪感と絶望感。黄色いジェルのような脂肪が、手袋や、解剖着にどんなに注意していても付いてしまうこと。筋肉や神経を引き剥がす時の、ホルマリン液の粘りが混じった皮剥ぎの音。

 颯真は所々で、唾を飲み、息を弾ませて話した。話すことで楽になっている様子だった。話しながら、時々、おでこに手をやる。眩しい、と言って、汗を拭うようにして目を塞ぐ。次第に好奇心をむき出しにしていく斜め向かいの同級生の存在。実習書通りに切断出来なかった筋肉を半ば裂いてピンセットで抉るように取り出したこと。事前に頭に叩き込んだ図と実際の臓器の位置の乖離。それによる焦り。ノコギリの骨切りの感覚。生々しさに対する動揺。焦りの連続。冷や汗。そしてまた手の震え。  

それでも何かに追い立てられるように遺体の中に手を深く入れて、切り裂き続けたこと。それが医者の卵としての使命感によるものではないということを、本当は分かっていて、それゆえに苦しかったこと。直前の摘出のフラッシュバックが、何かを摘出する度に眼前に半透明なイメージとなって襲ってきたこと。それに自分が罰せられているような気がしてならなかったこと。

 颯真はそんなことを、淡々と話した。話さずにはいられないと言った様子で話した。

 これは僕の主観的な考えだけど、と前置きをするのが、颯真の医学生になってからの癖だったが、彼は話している間、一度もその枕詞を言わなかった。

「でも実習の後は、ちゃんとお腹は減るんだよ。で、食べられるの」

情けないよね、と颯真は蔑むように言い、何かに敗北したように力なく笑った。

 颯真は自分が遺体と同じ人間であることを恥じているようだった。だから生きている人間にしか出来ないセックスの中に潜ることでセックスが嫌いになりたいんじゃないのかと私は思った。それは検体に生涯礼を尽くさなければならないという医学部の規範の教えに反するものに違いなかった。でも実際に颯真がそう思っていて、そのジレンマに苦しんでいるのだとしたら、私は悪魔になりたかった。私が悪魔になることで、颯真を普通の人間にしたかったのか。今となってはそう思うが、あの時は、本当はただ颯真に触りたかっただけなのだ。

 布団の下で手を伸ばして、颯真のものに手探りで触れた。それを手で慰めながら話の先を促した。颯真を慰めたかった訳ではない。これまで通りの関係を維持したかった訳でもない。ただ気が付いたら手が動いていた。それだけなのだ。

 颯真は私を悲し気な目で見つめた。私の手をゆっくりと振り解いた後で、「止めて」と悲し気な声で呟いた。でも私は意地になって止めなかった。ここで止めたら、颯真の魂が本当に抜けて、私が届かない所に飛んで行ってしまうと思ったのだ。

 誓って言うが、それは好きという感情ではなかった。人生のほんのひと時でも、一緒に堕ちてくれた人に見捨てられる悲しさ。奈落の暗さをはっきりと自覚したことで染み入るように感じ始めた寂しさと、颯真の形をしたものが私の心からすっぽりと抜け落ちてしまったことに対する、痛みだった。

 これと同じ痛みを樹の時も感じていたことを、不意に思い出した。私はこの痛みを感じていたはずだと、はっきり認識した。掛けたことも忘れていた麻酔が急に解けるみたいに。丸めた手のひらが、震えた。なぜこんなタイミングで思い出すのか分からなかったが、震えは止まらなかった。

 颯真は二度目は振り解かなかった。私という人間を、臆病で見下すべき、恐らく自分と同じ人間、そういうものだと認めながら、諦めたのだった。ここまで知られたら、少なくとも別れは今日ではないだろう。でも、別れの日はもう目前に迫っている。私がもっと下に堕ちるのか、颯真が上に昇るのか分からないけど、別れることだけは分かる。なら私はいつまで、颯真ともう少し同じ世界にいられるだろうか。もし嘘を吐けば、いつまでも可能なはずだ。私もさっきの話を聞いて目が覚めたと言って懺悔すれば、可能なはずだ。

 でも私は出来ない。私にとっての死は、堕ちるもので、セックスのように暖かいものだからだ。でも颯真にそれを今話したとしても理解出来ないだろう。颯真は今、実際に見たものしか信じなくなっているから。

 本当の死を見ただけで死を軽んじるのが許せなくなるなんて、人間の本能を否定するようなものだ。医者で毎日人の死に向き合っているのに、女遊びで遊んだ子を自殺に追いやったり、酒を飲ませて強姦したりする人もいる。セックスをする時に首絞めが止められない人もいる。今までだったらそう言えば良かった。でも颯真はもうそういう風には割り切れないだろう。

 だからと言って優等生のままでい続けられもしないだろう。颯真はもう、いろいろなことを知っている。颯真はそれを自分の中で割り切って楽しめるほど、器用な人間ではない。だってそれは教えてないから。

 だから私は、颯真の苦しみを、失望されながら肩代わりするしかないのだ。

でもそれを続けた所で、何になるのだろうか。それをした所で、一時の時間を延ばした所で何の意味があるのだろうか。それは死んだ「遺体ゆいたい」を生き返らせる行為に過ぎない。なら私は黙って、颯真の話を聞くべきだったのか。いや、そんなことは私には出来ない。そんなことは私の感情が許さない。

 思えば殴る瞬間の颯真の目を、私は一度も見たことがなかった。颯真は――今日殴る時に、颯真は目の際に涙を浮かべただろうか。私の颯真がそんなことをする訳がない。そんな浅い感傷に浸ることは、颯真はもう出来ない。だから袋小路に入ってそこで窒息しようとするのだ。今の私の前の前の前の、ずっと前の最初の私。いつの間にか増殖した脂肪と血と骨のかすにまみれてもう顔の判別すらままならなくなった始まりの私みたいに。

 


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