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 眼前に、うつ伏せで脱力した、大好きな友達の手があった。小刻みに震える人差し指の爪に、真っ先に目が行った。本物の血で雑にネイルされたような、無残な爪。「どうやったらこんなひどいケガ出来る?」という下世話な好奇心が首をもたげた所で、その首を良心が準備してくれた巨大な鉈で跳ね飛ばした。こうしないとこっちの時間と心を無限に喰われるから仕方ないのだ。止むを得ない暴力をまともな人は正当防衛という。相手と同レベルの暴力を振るうことで必然的に同じ土俵に立つことになる。その意志がなくともそう見なされる。この理屈を理解して、自制出来る人だけが自身の正当防衛を認めてもらえる。

 これまでに出会った厭な輩の顔面を集約させたモンタージュみたいな首。今日は一段と醜かったそれは、充血した達磨みたいな目をかっと見開いて、歌舞伎じみた大げさな見得を切りながら、次元を超えて現実世界に転がっていった。誰もいらない生首ボール。ARよろしく生意気にも次元を飛び越えた首は、今、私の友達の隣にある。

 最近は空気を読んで顔に掛からないように転がってくれるようになったから成長したと思う。こういうのも腐れ縁に入るのだろうか。どうせその内消える。首も次見た時はまた生えているだろう。だから一々相手もしてられないが、付随して湧いてくるあの感情も仕方ないから放置していいってことには、私の感覚では、絶対にならないのだ。あの感情は私の友達を貶めることになる。意図しない友達への攻撃は意に沿わないことだから、そんな感情を抱く自分の心は軽蔑するべきだ。

 身の回りの空気は常にコントロール出来るようにしておかなければならない。一度変な方向に澱んだ空気を元に戻すのは経験上大変だし、その澱みの毒が回ると私自身も傷つくから。だから常に自分の中の良心に従わなければいけない。慌ててはいけない。たとえその爪が主人よろしく「ねえこれ見て、何でこんなことになったか聞いて」と私の痛覚にダイレクトに訴える形で、声高に叫んでいたとしても。

 意識を集中させるためにわざと傷に顔を近づけた。人差し指の爪は半分ほど剥がれてしまっていて、剥がれた患部から出血した血が、爪が無くなったくぼみに血溜まりを作っていた。澄んだ声で助けを求める、白い爪の断片と、その隣に勝手に出現し、それを無言で取り込もうとする赤黒い血の池。そこだけ浮き上がっているかのような、非現実的な膨らみは、その存在自体が異様であるがゆえに、悪だった。この光景ごと夢だと思いたいが、先程から不吉な鉄の匂いもするからこれはリアル。だから認める。まずはこの血の池を少しでも揺らしたらだめだ。もしこの池が決壊したら、もっとむごい傷がその底から現れるだろう。

 今は私の仕事の出来る良心だけが頼りだった。良心は血のりの付いた刃をとっくにしまって、意思を持った白い鐘を現実世界に出していた。白いもやにくるまれたお告げのような良心は、若干先走りするきらいはあるけれど、その存在自体は誇らしいし、頼りになる。

 時につられてはいけないと啓示を囁き、時に罠にはまってはいけないと忠告する良心。この良心が囁く時に、いつも私の脳内で、鐘が鳴る。警鐘の清浄な音を聞くにつれて、自分自身がその鐘に変化へんげしていくような心地がして、救われる。私は良心に救われる瞬間の自分が好きだ。心の波が静まり、身体がすっと軽くなって、背中に羽根が生えたような安らぎの中で、これまでの経験に基づいた、掛けるべき言葉を自然に見つけられる。

 この時は、大昔にいとこに掛けた言葉をアレンジしたと思う。爪の必死の訴えに優しく被せるように、心の奥底から沸き上がった言葉がごく自然に、唇から滑り落ちた。

 もちろん助ける。助けてあげるよ。だから動かないでね。ちょっと芝居じみていた。良心の飴の部分が前面に出てしまった。直前に何かを言われていたから、こんな答え方になったのか。

 爪の持ち主の二葉ふたばちゃんは血溜まりにひどく動揺しているのか、表向きは泣いていないもののしゃくり上げるように息をしていた。酸素が足りないと身体全体で嘆いているような、聞く側の涙を誘う息遣い。過呼吸みたいな危うさだった。このまま聞いていたら、私もつられて過呼吸に目覚めてしまうんじゃないか、と思ったから、私は先回りして自分で自分に、「私は医者で、看護師だ」と甘い暗示を囁いた。良心が好きな理性が、それを鵜呑みにして騙されるのがマナーであり、己の責任のように感じたのか。あの頃の私は普通に血が怖かった。でももっと怖かったのは、それを二葉ちゃんに悟られることだった。だから口を真一文字に結んで、動揺が横に逃げるための逃げ道を作って、表向きの平静を装った。

 ポケットから取り出したティッシュを血溜まりの上に素早く載せた。血溜まりはするすると蒸発した。が、その底には更に醜く不健康な、さっきの血の親玉みたいな赤黒い皮膚があった。  

 本来なら爪の下にあるはずの皮。爪の下で健康な爪の桜色を構成する土台の皮膚が、まともに見えてしまっていた。美しい爪の下の皮膚はかように醜いことに、刺されるような同情と哀しさを覚えた。予想よりも酷い状況に固唾も飲んだが、気を取り直して処置を続けた。 

 患部の皮膚は空気に触れているだけで痛そうだった。本来なら外に出てきてはいけない皮膚が剥き出しになってしまっている。歪な切り口を残しつつも根元に掛けて残っている爪は白く変色していた。残った爪が蓋になったのが不幸中の幸いか、手指に血は付いていなかった。

 赤黒く痛々しい柱になりつつあるティッシュの角度をそっと変えた後で、視線を走らせて周りの服に血が付いていないことを確認した。ほっとした。応急処置だけで済んで良かった。これなら、後は固定で何とかなりそうだ。

「大丈夫。でも今はちょっと、刺激強いから目逸らした方がいいよ」

 一枚目のティッシュを素早く交換して剥き出しの皮膚を隠した。私よりも少し小さな手を労わるように包み込む。包まれた二葉ちゃんの手は微かに震えていた。爪の状態が予想よりも酷かったから、動揺しているのか。傷を見て最初に痛みを感じた時の恐怖がぶり返してもいるようだ。

 ジェルネイルが塗られている他の爪は、最初から何もなかった、と言うかのように予定調和の桜色のハーモニーを普段通り構成していた。へまをした人差し指のことなど最初から知らない、とばかりに。切り捨てられたんだな、と思ったら、我が事のように思えてまた胸が痛んだ。じんわりと広がる白い痛みを感じるのは、正直、心地良かった。

 爪先が靴連れになったまま無理して歩き続けたみたいね、私も昔なったことある。自分の気を逸らすために心の中で、架空の二葉ちゃんに語りかけた。半ばくすねる形で持ってきた救急箱から、包帯を取り出して、念入りにぐるぐると巻き付けた。包帯を巻いたら、最初のあの血の衝撃はもう跡形もなく消えていた。悪夢が収縮していくように、張り詰めた空気が和らいでいく。どちらからともなく息をついた。お互いに恐れていた別々のものから解き放たれて、安堵しているのが分かった。

「爪は四週間位で生えてくるって聞いたことあるから、多分大丈夫だと思うけど、もし駄目だったら、病院行ったほうがいいよ」

 私より頭一つ分低い友達の頭が、こくんと頷く。血の気が引いているのか、ふらふらと揺れる剥き出しの豆電球みたいに、水平に戻った後も少し頼りなく揺れた。

包帯を巻いた新しい手の使い勝手を試すように、友達は手をグーパーに動かしている。「大丈夫? 痛くない? 痛かったら痛み止めも飲む?」と労わった。友達はようやく正気に戻ってきたようで、今度ははっきりと顔をこちらに向けて、「痛み止めは今はいいや、押したらちょい痛いけど庇えば平気」と言った。実は意外と痛くなかったのか。でも言うだけ言うとまた俯く。ぱっちりとした目は伏せられ、青くなった口元は固く結ばれていた。形の良い鼻筋の下で頬だけが上気していた。自分の行動を反省しているのか。そうだとしても、別にいいと思った。いつもの元気で明るい姿を知っているだけに、この落ち込みようは、さすがに居たたまれないから。 

 今日は会社の引越しの日。二葉ちゃんはこの日を心待ちにしていた。事実、さっきまで浮かれながら作業していた。その罰が当たったとは、思いたくない。けど私達の周りの空気だけ、一気に風船が萎んだようには、なった。

「ごめん、これネイル取る時に削られ過ぎちゃったんだ‥‥‥あの‥‥‥さっき梱包した共有スペースの荷物の中から、ハンドスキャナー探すように言われて‥‥‥お客さんから至急データで送るように催促されたんだって‥‥‥だから段ボールに登って古いの開けて探して見つけたんだけど、途中で誰かに名前呼ばれて、バランス崩しちゃって‥‥‥」

 私に手を見せる前に、二葉ちゃんはこんな風に事故の顛末を話していた。気まずい沈黙の沼に言葉を投げ入れるように、ぽつりぽつりと話していた。私、ネイルほとんどしないから分かんないけど、そういうこともあるのかな。どっちにしても普通の状況なら、「ああ、あるあるだね」で終わらせられる理由だった。

 でも、手当が終わって落ち着いた今なら、二葉ちゃんが咄嗟に吐いた嘘の部分に、私は気づけてしまうのだった。だからこそ悲しい。こっちが期待しすぎたのも悪いけど、輪を掛けて裏切られたみたいで。

 でも、責めることはしない。少なくとも私はやらない。友達が弱ってるのが明らかな状況で嘘を吐かれた。それならば、もういい。私にも似たような経験、ないとは言えないし。

 友達がばつが悪そうに喋る時は、何でも、音楽のように聞くべきだと思う。何も否定せずに、ただ、「うん、うん」とカウンセラーのように傾聴するのが優しさであり、人の道だと信じている。私も怪我をした時はこんな風に焦って言葉を滑らせることもある。本当は何も聞かれたくないのに、沈黙が居たたまれなくて、怖くて、言葉が自分の意志に反する形で、口を吐いて出てきてしまうのだ。

 願わくば次は気を付けて欲しい。事故が起こらないために、そもそも事故を起こさないために、落ち着いて、どういう行動を取るべきだったかは当の本人が一番良く分かってるはずだから。

「やっぱ、ダサいかもしれないけど、軍手付けてやった方がいいよね」 

 私は薬箱の下の段から、滑り止めの軍手を取り出した。薬箱の脇にあったから、ついでに突っ込んで持ってきていた。一番分かりやすく、かつ即効性のある提案。これも私の良心がなせる技か。違う。これは二葉ちゃんが怪我したことを感づいた、周りの空気を読んだ上での行動だ。

 よくある手を入れる口が茶色の、黄色い滑り止めのある新品の軍手。ゴムの臭いがきついのは、百均だからだろうか。でもこれが無かったら、今日のノルマはこなせないし、リスケ不可の引っ越しは予定通り進まない。

 周りの皆は嘘を吐かれることに、私よりも寛容じゃないと思う。でも鬼じゃないから帰らせてはくれる。本当の怪我の経緯を本人の口から話して、向こうが引く勢いで謝って回りさえすれば。

 こんなの付けるのうちらくらいだよね、と自嘲しながら、二葉ちゃんは観念したように手袋をはめた。最初に、今日は何持たされるか分かんないから安全のために軍手しとこうか、と私が言った時に断ったのは二葉ちゃんだった。自分がはめた後で、「私だけがダサくなったんじゃないよね?」と確認するように、二葉ちゃんは私の手元をちらりと見た。

「悪いけどさ、ケガのこと誰にも言わないでくれる? はすみさんにも」

「いいよ」

「ありがと」

 軍手をすると、二葉ちゃんの右手の傷はすっぽりと隠れた。あのひどい怪我は見えなくなった。後は、二葉ちゃんの頑張り次第で怪我をした疑いさえも、誤解だと払拭出来るかもしれない。

 でもここまで来たら最初から、何もかもが嘘であってくれと思いたかった。



 見ようによっては近未来の墓標のように見える蛍光灯の列の下に私達は戻った。

持ち場に向かって真っすぐ動く二葉ちゃんを捕らえるかのように動く、訝し気な視線と目が合った。恐らく、視線が合ったはずなのに二葉ちゃんがあからさまに無視したから、その捌け口を私に求めたのだろう。

 小動物のような私のかわいい友達は、弱肉強食のこの職場で生きる術を本能で心得ている。勝ち気で、マイペース。でもちょいお人好しだから憎めない。たまに「え?」と思う態度を取ることはあるけど、それを相殺しても一緒にいるのが好きだから、友達でいる。坂道グループにいてもおかしくないルックスの子。容姿に少しでも自信のある子は往々にして周りを引き立て役で固めて自分の容姿を楽に盛ろうとするものだけど、二葉ちゃんはそういうタイプではない。たぶんもう、そのレベルにはいないし、楽に盛るよりも自分で努力した方が楽しいからだろう。現に自分のかわいさを保つという点においては努力家で、得意なことを質問すれば屈託なく教えてくれる。容姿に反して意外と男前な性格で、差し飲みでもその片鱗は現れるから、その点もおもしろい。

 パッチリとした天然二重の目は、パーテーションが取り払われてがらんどうに近づいた大部屋の中では、いつもよりも彫りが際立って見えた。

 どちらかと言えば今日はかわいいというよりも、きれいに見えただろうか。本人は身長の低さをいつも嘆いている。低身長を逆手に取った妹系のメイクをするのはあざといから嫌らしい。「全然ハーフなんかじゃないよ、純日本人だよ」という言葉通り、全体的な顔の作りは小づくりだ。でもその自然な枠の範疇の成長が天才的と言うべきか。この前ネットフリックスで観た小津映画に出てくる女優さんのような、純和風の自然に彫りの深い顔とそれを包むまっすぐな艶髪を彼女は持っている。昔の人と違って今風の小顔だから、身長が低くても野暮ったくない。昔の写真を見せてもらったら、子供の頃からこんな顔だった。 

 長い睫毛に縁どられた末広型の二重。程良く鼻筋の通ったスリムな鼻。薄すぎず厚すぎずの唇。メイクが趣味みたいなもん、と笑う二葉ちゃんは、自分の顔のパーツの中で、唇が一番好きだという。メイクでたらこ唇も、仕事出来そうな薄い唇もすぐ作れるんだと彼女は言う。今日の唇は、薄かった。思えば会社で気に入らない仕事がある日はいつも薄いような気がする。

 二葉ちゃんは自分が身に着けたメイクのテクニックを出し惜しみせずに教えてくれる。だって別に隠す理由がない、だそうだ。おかげで話しているうちに私もメイクに詳しくなった。今では時々トイレで、メイク道具の貸し借りもする。

 ピンク系のアイシャドウとチークのおかげで、今日の二葉ちゃんの肌は蛍光灯の光の下でも青ぐすみしていない。逆に光のシェード効果が引き出されたお陰で、顔全体がハーフのように見える。すっぴんも全体的に丸っこくてかわいいのだけど、メイク後はポテンシャルあふるる土台と化粧が化学反応を起こした結果、はっとするほど垢ぬける。至近距離で同性の目から見ても、パーツの粗が無くなるのだ。パーツの粗が均されて、人形と形容しても遜色のない美貌が燦然と現れる。全ての人がメイクをすればこうなれる訳ではないと、私はとうに知っている。二葉ちゃんに教えてもらえばなれるかも、と思ったこともあったけど、そんな訳なかった。だから今は憧れるだけだ。見る度に、こんな風になりたいと、思っても仕方がないと分かっているのに、気づけば何度も思っている。女の業で思わされると言うべきか。意識すれば思うのを止められるから辛くはない。けれども、その無意味な羨望のレールに性懲りもなく何度も乗ってしまう私って、一体何なんだろうとたまに思う。

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