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 ‥‥‥さっきまで、この部屋の真ん中で跪いて、会社の荷物を入れるための段ボールを作っていた。私達は引越しを控えたこの会社の総務で、引っ越しの雑務全般が今の私達に割り当てられた仕事の全部、なのだ。

 総務の平社員が段ボールを作って、他部署の社員がそれを横から無言で取って、それに各自の荷物を入れていく。事前に打ち合わせをした訳でもないのに、いつの間にかそういう分担になっていた。気づけば、総務で段ボール作りをしているのは私と二葉ちゃんの二人だけになっていた。総務の男性社員達は、談笑しながら数個段ボールを作ったら、「俺らはこんなつまんない作業してらんない」と言いたげな顔で、早々に抜けた。自分の担当の急ぎの仕事がある、他部署に呼ばれたから行く、と目が笑ってない笑顔か、仏頂面の早口で言われたら、引き留める権利は私達にはない。

 利き手を怪我している二葉ちゃんとノルマの作業の一部を交換した。彼女には力仕事じゃないイレギュラーの用事対応と、粗大ごみをまとめる用のテープ切りに専念してもらうことにした。

 直属の上司のはすみさんだけは、誰かに呼ばれてもちょこちょこ戻って来て、段ボール作りを手伝ってくれていた。でもさっき部長に呼ばれて、また行ってしまった。もう戻っては来ないだろう。

 そう言えばさっきの怪我の前に、床に跪いている二葉ちゃんの前に男物の革靴が二足来ていた。「俺ら忙しいけど、別に手伝ってあげてもいいよ」と言いたげに作業を観察する、荷物の少ない営業の男達だった。手伝ってる間、分を弁えて楽しく雑談してくれるなら、という暗黙の条件付きの交渉。あいつらは二葉ちゃんに気があるから、自分達にかしずくレアな彼女を見たいのだ。

 まだ元気だった頃の二葉ちゃん、あの時、何であんたらにそこまでしなきゃいけないの、と思ったであろう二葉ちゃんは、目の前の段ボール作りに熱中している風を装って、その交渉打診をひたすら無視していた。傍で見るともなく見ていたら、「わざわざ手伝いに来てやったのに、何だシカトかよ」と言わんばかりに分かりやすく彼らの、作り物めいた笑顔が崩れていった。

 一向に彼らの方を見ようともしない二葉ちゃんに業を煮やした彼らは、口元をつまらなそうに歪めながら、「なーんか、高校の時の文化祭を思い出すわー」とか何とか言って対面を取り繕った後で、彼女の友達である私にお愛想、もしくは同意を求める笑みを投げかけて、自分の荷物の「始末」をするために去っていった。私が笑い返せば二葉ちゃんの態度を子供だと貶められて、メンツを保てると思っているのだった。

 島一つ離れた所でも、経理の年配の社員さんが私達と同じことをしていた。いつも一人でいる物静かな人で、直接話したことはない。向こうは一人きりで段ボールを作っていた。いつもの声の大きいたくさんいる人達はどこに行ってしまったのか。その人の辺りには組み立てられていない段ボールが打ち捨てられたように散乱していた。経理の社員さんは手元のガムテープを引きちぎりながら、黙々と段ボールを作っている。テープを引きちぎる時のピリピリッという音が妙に耳に残った。何でこんなに、耳元で鳴っているみたいな音がするんだろうと思ったら、もう理由を知っていたことに気づいて、無性に悲しくなった。見てはいけないものを見ているから。そう思って機械的に目を逸らした。今日はいつも以上に見たくないものばかり見えるのはなぜだろうか。見えすぎる。ここにしゃがんでいるだけで未来までも。仮にあの人に話しかければこの未来は消えるのか。そんなことは死んでもやりたくない。あの人だって嫌だろう。そんな傷の舐め合いの友達ごっこ。あの人だって年の功で気づいてる。気づいてない人なんて逆に嫌だ。だから私は絶対に話しかけたりしない。  

 この光景だけを見たら、うちが先月働きがいのある会社の称号を得た、一部上場会社を親に持つITベンチャーで、社外にはリベラルな社風を謳っているとは誰も思わないだろう。社員の中には、あの称号は金で買えるとうそぶく人もいる。私はそれが本当なのか分からない。というか、前提としての興味が、ない。

 辺りを見回すと、パーテーションを取り払っただだっ広い空間には、私達のような女子の作業グループが、程度は違えど少なくとも数グループはあった。部署ごとにこういうグループが出来て、そのグループの末端には私達みたいな人間が必ずいるのも、この会社の社風かもしれなかった。働きアリの法則。でも私は自分が全体の二割の優秀な人間だとは思わない。そもそも私は人間であって、アリじゃない。それに、この会社のことは嫌いだから、ここで優秀な人間になんかなりたくないし、自分のことをそんな風に思っているトラブルメーカーとも関わりたくない。

 私はこの会社に未だに馴染めないし、馴染みたくもないからずっとお客様気分でいるのだった。向こうがこっちを利用するのなら、こっちも籍だけはそのままで業務中は幽体離脱させてもらうまでだ。私の惰性で動く抜け殻の身体にせいぜい単純労働を命じればいい。

 この会社は、建前上は何事においても社員の自主性を尊重する。それが会社の一貫したスタンスらしく、ドア横の壁にも、それを別角度から言い換えた単語の羅列が貼ってある。さすがに唱和の強要までは無かったからそこは安心した。でもこれからどんなに環境が改善されたとしても、この耳障りの良い嘘を吐く癖は変わらないだろう。どんなに組織が大きくなったとしても、きっと絶対に。

 転職した当初は、こんな風に床に跪いて段ボールを何十個も作る羽目になるとは思わなかった。けど、今はもう慣れた。ここの総務の仕事は暗黙の了解で割り当てられる力仕事もかなりある、ということが分かってからは諦めた。

「うちの会社は、自分達で出来ることは自分達でやる社風なんですよね。コストカットにもなるし。それに、皆で準備した方が楽しいでしょう?」

 この前の定期面談の時に、個室で対峙した総務部長にもこう言われた。この部長は、私達下っ端の間では事なかれ主義と言行不一致で有名だった。

 愚痴でも何でも話してくれていいからと言った矢先に、こちらが言葉を選んで「今本当に困っている件」を切り出したら、不機嫌な声で威嚇して秒で握りつぶそうとする人に話す悩みなどない。でも与えてあげた時間を沈黙で無駄にすることも向こうは好まないので、大抵の人は悩みを捏造するか、特に転職組は薄めに薄めた愚痴を、カルチャーショックと世間話の二重のオブラートに包んで、場繋ぎ的に話す。あの時私が、ビジネスの笑みを作って、この会社は段ボールを作る機会が多いですね、と水を向けると、部長は引越しのことだとすぐに感づいた。仏頂面の口の両端を糸で釣ったような、不自然な笑顔を私に向けた後で、会社の沿革の話をだらだらとして、その後で私のプライベートの引っ越し歴を話すよう誘導した。部長は私の口から、誰かに手伝ってもらいたかったです、という発言を、時折私の発言を遮りながら逆質問で引き出した。自身の目的が達成されると、満足げに口を三日月型に引き上げて笑った。罠の証拠に、自分の引っ越し歴は最後まで話してくれなかった。

 二葉ちゃんはもっとはっきり言ったらしいが、部長にこう止めを刺されたようだ。

「あれ? でも手伝ってくれてる人達だっていましたよね。営業の原口君とか、辰巳君とか」

この部長の認識では、声を掛けているイコール親身になって手伝っている、なのだった。


 銀縁眼鏡を掛けた部長は、電卓が身体の一部の行員のような人だ。オフィスカジュアルのうちの職場でも毎日灰色のスーツで出勤してくる生真面目な人で、夏場など恰好だけ見ると、職場で浮いているように見える時もある。部下とは仕事の話か、本当に当たり障りのない雑談しかしないから、話し方は柔らかいけれども神経質な人なんだろうと、一対一で話すまでは勝手に思っていた。役員と談笑している姿は見るから、普通に笑える人だということは知っていた。が、部下に対しては愛想を節約したいのだろう。あの不気味な笑顔とその派生の妖怪じみた所作以外は見たことがなかった。

 はすみさん曰く、この部長は男の社員にはもっと厳しいらしい。「君がそんな改善を本当に出来てたらこんな給料じゃないから」って給与決定通知書を前に、笑いながら言われた人もいるらしいわ」といつか私に教えてくれた。でもそれがどれほど厳しいことなのか、私にはよく分からなかった。

 あの時、コストカットと発言した後で、部長は両手を前で組み合わせた。若干前のめりになった所を見ると、この言葉が気に入っているのだろう。これは社員の反論を封じる魔法の言葉だから、使い勝手もきっと良いはずだ。何なら自分の子供のように思っているのかも知れない。曖昧な笑みには、部活やサークルのノリで楽しそうにやってる子達もいるんだから、空気を読め、という恣意的な含みがあった。

 この笑みでのし上がってきたんだろうな、と容易に思えた。私がここに来る前からずっとここにいた人。はすみさんは悪い人ではないと言うが、悪い人でも全く違和感は無かった。思えば会社で、この部長が声を荒げた所を見たことがない。面談後に二葉ちゃんにそう話したら、「分かる、あの人ほんと謎」と蔑むように笑った。

 八名体制の総務部の中で黒一点のこの部長は、うちの会社が親会社から分社化された際に親会社の総務から出向してきたらしい。席は総務の島の中央にあるけれど経理部の部長も兼任しているから、自席にいることが少ない。いる時はデュアルディスプレイの陰に隠れて無言で何かをタイピングしている。総務で分からないことは自分よりも社歴の長いベテラン社員のはすみさんに全部聞くから、私達が直接話すのは定期面談の時位だ。

 向かい島の経理のお局さんの中には、噂好きでしょっちゅう誰かを血祭りにあげて喜んでいる動物みたいな人もいるけど、あの部長の悪口だけは言わないようだった。歯の浮くようなお世辞を言って持ち上げるお局さんと、そのお局さんを例の笑みを浮かべながら冷たい目で、希少動物を観察するように見つめる部長のツーショットをたまに見た。自意識過剰な一般人の三流芝居の奥には、生々しい不倫のイメージが透けて見える。だから控えめに言っても見ていて気持ちが悪かった。隣の席の二葉ちゃんは、この芝居の観客に勝手にされていたことが不服らしかった。一瞥した後で鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた。私の視線を真横で感じているはずなのに、自らこれに言及すること自体がキモいと思ったのか、私には話しかけてはこず、自席で気に入らないことがあった瞬間のいつもの癖で、タイピング音を激しくさせた後、視界にも入れたくないと言った様子で、立ち上がって逃げてしまった。

 部長にこんな風にいたぶられても、心の中で見下すことしか出来ない。あの部長は格下の相手から見下されても何か小さな虫に攻撃されたようにノーダメージを気取っている。だから、こっちも耐えるしかないというのが現状だ。出来る出来ない、楽しい楽しくないの判断基準は主観だし、私達が作っているのはただの段ボールであって作品ではないのだからおかしな説明だ、と気づいていたけれど、その楽しそうにやってる子達の真意をテレパシーで覗けるわけもないし、それを具体的に言及するほど自分の品性が卑しくなっていくジレンマの罠もあった。だからあの場では、これ以上話しても時間の無駄だし、これ以上この問題に労力を掛けたくもないと結論付けて、負けるが勝ちで私は折れたのだった。話題を変えようとする私に、数年前は事務方の女子社員は皆制服だったんだよ、と部長は目を細めて止めを刺した。まあ僕が変えさせたんだけどね。銀縁眼鏡の奥のただでさえ細い目が極限まで細まって、剃刀のようになった。何か反応しなければ永遠にその目に見つめられそうなのに辟易して、そうですか、と事務的に相槌を打った。その制服廃止案の本当の発案者はもうこの会社にはいないだろう、と私は直感していた。

 部長はそんな私の反応ですら、同意を得られたと思ったのか。私が頷いた瞬間、いきなり部長の目にある種の優しさのような潤みが出来た。これには本当に引いてしまった。これまで冷徹な機械みたいな目だったのに、いきなり人間の、それも父親のような血縁の赤を感じさせる生々しい目になった。そんな目をここで見せる必要性が、全く分からない。そんなグロテスクな父親像を会社で見せないで欲しかった。実際に部長には子供がいるらしい。部長の年代だったらいてもおかしくない。子供の写真など絶対に見たくないと思った。こんな男とセックスして子を産む女もいる、そんな気持ちの悪い生殖の裏付けなど欲しくない。

 私は部長と目を合わせるのを止めた。見知らぬ父親の目のままで、薄ら寒い慈愛を込めた表情で、「力仕事がある日はスカートを履いてこなければいいんじゃないかな?」と的外れの提案をされた。自分が潰せる論点にすり替えたのだ。

 そもそも総務なんだから予定なんか読めない。それを踏まえた上で、職務としてやるべきことはやるけど、今の問答無用の押し付けの空気だけは改善して欲しいと言っている。そうでないとやりきれないし働きがいも感じられないから、個々の社員の心に染み付いている見下しの空気の存在だけでも認めてくれと言っている。イレギュラーでそういう仕事をやらなければならない時は、問答無用でスカートでもやらなければならない時もあった。それは割り切ってやった。これからもやるしかないと思う。でも無性に情けなくなるから、それを払拭するためのモチベーションを得たいだけ。でもやる前段階の過程の卑怯さが目に余るから、訴えているのだ。逆にそこの意識が改善されないと、堂々巡りか、もっと酷い状態になる。ただそれだけのことなのに、あの部長は現場の声を無視した。

 実際小さな問題なのだった。当事者側が目を瞑って我慢すれば丸く収まる問題。他人事としてならどうとでも言える。経理のお局さん達などは、転職して初めての頃、スカート姿で床に這いつくばっている私を見ながら、「大変ねー、私だったらジャージ買ってロッカーに置いとくわー。で、いざやる時になったらそれ着てやるわ。」と言い放った。「でも高校のは駄目よね、名前書いてるから」とあのおばさんは笑った。

 唖然とした後で、無性に悔しくなったから次の日、部屋着にしていたYー3のブラックパンツを持ってきて、ロッカーに常備して、あからさまに履いてやった。当人達はいまだに価値が分かってない。

 自分が同じことを言われたら、パワハラだと怒るか、怒れない相手なら涙目になるか、顔を真っ赤にして立ち尽くすくせに。自身のデリカシーの無さを棚に上げて、肝っ玉母さんを気取りながら上機嫌で去っていく姿を見ると、あの人達が陰で名前で呼ばれずに、お局さんやおばさんと呼ばれて、嫌われている理由がよく分かる。

 子供のわがままに思えるのか。私からすると、おざなりにちょっと手伝って、後は私は雑用の総務じゃなくて、高度な専門職の経理だからと言わんばかりにそそくさと抜けるあの人達の方がよっぽど子供のように思える。この会社の社歴は浅いからあの人達も中途のはずだ。もしかしたら、最初の仕組みを作って、そのまま放り投げた張本人達かもしれない。 

 ちょっと気を抜けば土俵際に追いやられる人達との会話は苦痛だ。コミュニケーションの名目で、私達の影を相手に相撲を取ろうとする世代。お金を貰っても喋りたくない相手はここにもいる。

 でも私達も平である限りそんな人達と一括りにされる。所詮無駄なのだ。コストカットのロジック作りに夢中になっている「上」が、罠に嵌めた社員達が自発的に作って棚ぼた式に手に入れた、今のおいしい状況を手放すとは思えない。金のかかることを自分からやりたがる理由もなし、現に今も毎日見えているはずのものを見えてないと言い放っている。

だから、もうこれ以上言っても仕方がないのだ。これ以上言ったらここでは働いていけないのだ。うちの会社にもパワハラ委員会なるものがあるが、皆忙しいので窓口はとっくの昔に形骸化している。上層部と社員を繋ぐパイプ役の人事は、「上」の御用聞きみたいな人しかいない。要するに、総務のお前らにはこれ以上掛ける時間も費用も無いから、今の状況が嫌なら退職すればいい、と暗に言われているのだった。

 怖いもの知らずのフェミニストの人だったら、こんな時に、わざとストッキングを履いて破れるように仕向けるんだろうか。それを盾に抗議するんだろうか。確かに本当にストッキングが破れてくれていれば、物理的なコストを盾に反論も出来るし、溜飲も下がる。最初の頃もそうなってくれてればいいと思いながら作業していたが、実際にやってみたら最近のストッキングはすごく丈夫なようで、普通に作業する限りでは全く破れなかった。同期の二葉ちゃんはこういうの負けるが勝ちじゃなくて普通に負けじゃない? と言っているが、考え方次第だよ、と慰めている。総務のうちらだけがやってるんだったらあれだけど、皆やってるんだから、今はね。仕事とは言え納得していない言葉を吐く時は声が震える。二葉ちゃんは文句を言うのを止めて、ムッとした顔で唇を噛んでいた。リスみたいな顔だったが、笑える指摘でも無かった。むしろそれを言うと立場上、余計に惨めになりそうだから、黙っていた。私達は今日、雑居ビルから超高層ビルに引っ越す。この引っ越しは交換条件なんじゃないの、と聞いたら、誰か同意してくれるだろうか。



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