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 十七時四十五分。あと十五分で定時。ようやく作業終了の目途がついてきた。シュレッダーの音がひっきりなしに聞こえる。まだ使える旧型のPCモニターや真新しいファイルの山に「廃棄」のシールが次々と張られる。とんだ断捨離だった。皆引越しの熱に浮かされて、親の仇みたいにものを捨てる。西新宿の外れの雑居ビルから、丸の内線・西新宿駅直結の超高層ビルへの引っ越しということもあって、社内の雰囲気はどこか浮ついていて、ともすれば私の周りだけ、次元ごと取り残されているように思える。

 皆この引っ越しを、栄転、あるいは返り咲きだと思っているようだ。このビルでしか勤務経験がない人や、社歴が長い人達ほど浮かれている。ここに越してくる前はもっと大きなビルにいたのよ、とはすみさんに教えられたこともあるが、それがどれほどすごいことなのか、ピンと来なかった。私はあまのじゃくだと自覚しているから、皆が浮かれれば浮かれるほど、自分の心の中が冷めていくのが分かる。だからそうなんですか、と言って愛想笑いをした。それが正解の対応だと確信していたけど、心の底では釈然としなかった。むしろ大きなビルにいたからなに? と詰問したい思いの方が強い。この会社の人達はいつも何かと戦っている。私も含めて。

 前の会社が懐かしい。でももう戻れない。だって社長が高齢で、会社自体を畳むことになったから。二年足らずでの失業だったけど、悲壮感はなかった。むしろあっけなさ過ぎて、逆に清々しい思いだった。あの時のことを話すと皆大変だったね、と深刻そうに眉を寄せて同情してくれる。でも当の本人の私は、別にって感じだ。職は失ったけど、誰のことも恨んでいない。

芙由ふゆちゃん、ごめんなあ」と寂しそうに笑うおじいちゃん社長の顔を、私は死ぬまで覚えていることだろう。忘れてはいけないと思う。出会った当初は、強面スーツだった社長は、二年後には一回り小さくなって、別人のようになった。私は小さくなった社長の方が親しみが持てるから好きだ。私はあの社長のことを、白髪の老師だと今でも考えている。「息子ももう社会に出てるし、俺と同じことをやりたいなら、一からまた起業した方がおもしろいだろうよ」と自嘲するように言ったあの人のことを、私は忘れてはいけないと思う。

 今時珍しい社長だった。絶滅危惧種だったと思う。善人の言動の型を、自分をよく見せるための演出として使わない人で、いつも機嫌が安定していた。社員と衝突した時には、社長の立場を利用して手っ取り早く孤立させずに、向き合って対話していた。それが担当を持っていない社長の俺の役割みたいなもんだ、と言いながら。

 実際に働いていた時には、横目で見ながらよくやるよ、と呆れていた。でも今では、あの人は、性根の底から性善説で生きられていたんじゃないかと思う。だからあんな結果になっても、本人はもう涙も出ないほど吹っ切れたようで、むしろあっけらかんとしていた。「あの社長がそう言うなら、もう仕方ない」と、少なくとも一社員であった私は、泣き笑いの末に、いろいろなことを諦められた。葬式では好き勝手に噂されていたけど、どんな人でも死んだら好き放題言われることが分かってうれしかった。卑怯の極みだけど、それも自然の摂理だ。

 思うに、前の会社が入居していたビルにこのビルが似てるから、離れたくないのだ。社長は生前、社員を家族だとは言わなかった。そういうことは言わない人だった。だから私も社長を幽霊にしてはいけないと思う。社長は生前、私の人生はまだ長い、とよく言った。その事実をからかい半分で、羨ましがるような口調だった。本当にそう。私の人生、まだ長いですよね? 聞けるものなら、聞いてみたい。きっと今私が考えていることと、同じことを社長も言うはずだ。

 私はこのビルでしか勤務したことがない。こじんまりしたこのビルの雰囲気自体は、どちらかと言うと好きだから、このまま別れたくないという思いの方が強いのだ。実際に短いけれど、エレベーターで一緒になった他社の年配の人達に親切にしてもらったとか、ここでなかったら体験出来なかった思い出もある。二葉ちゃんは出ていけてせいせいすると言っているけど、特にこのビルに勤務する他社の人達をそこまで憎む気持ちは良く分からない。一体何の恨みがあるのか。

 一階から台車でテーブルと椅子をどうしても運ばなければならなかった時、あの人達は何でもない、誰も何も見てないよ、という態度で、一台しかないエレベーターを親切に譲ってくれた。新入社員だった私はあの時に、あんな人達がここにも実在することが信じられなくて、何度もお礼を言いながら心の底から頭を下げた。あの時、二葉ちゃんも一緒にいて、お礼を言っていたはずなのに。

 でも友達としてその感覚を、分かろうと思っている。現に、この浮かれた場にいること自体は苦痛じゃない自分も確かにいる、ということはもう認識しているのだった。押さえつければ押さえつけるほど浮かぼうとする風船のような自我。存在自体がもう、くすぐったい。そんなにしてまで天井に行きたいのかと思うけど、これも二葉ちゃんとお揃いの自我だ。

子供っぽいことを、無邪気だと捉える認識の甘さ。その甘さを否定することが出来ないし、改善の必要も感じていない。表立って認めたくはないけど、私も心の底では浮かれてるのか。もしそうだったら、私もまだ青いと思われても仕方ないのだろうか。


「よし、ここ拭いたら終わり。しかももうすぐ定時。 あー、ヤバい、テンション上がる」雑巾を持った二葉ちゃんが言った。自分で自分を鼓舞するみたいに声を弾ませている。機嫌が直ったのなら何よりだと思う。そう言えば今日は金曜日。明日は週末で二日休み。会社行きたくない辞めてやるを五日積み重ねて、ようやくたどり着いた金曜の夜。これでテンションが上がらない方がおかしい。だから見習って元気を出さなければ。

 とうに日が落ちた窓は、暗い。さっきカーテンを全開にしたこともあって、モノクロの大型鏡のようになっている。ダンススタジオみたいだったけど、映っているのはゾンビだった。弾んだ声音とは裏腹の、血色の悪い社員の群れ。このゾンビの群れ以外は、プライベートの引っ越しのデジャブだな、と思っていた。二葉ちゃんは、もうこの辺に来ることもないから最後の記念に下のドトールに寄ろうよ、と言ったが、私は笑顔でごめんと断った。悪いけど今日はまっすぐ帰る。なぜなら、部屋で彼氏が待ってるから。

 視線を横に滑らせると、断られたことを秒で忘れて顔をほころばせる二葉ちゃんがいた。怪我の傷も本当にもう、どうでもいいらしい。てかケガなんてしてたっけ? おいしいものを食べてる時の顔にそっくりだったから、見ていて癒された。左手の軍手は無くした。素手で雑巾を持たされて、這いつくばって窓拭きしろと言われている状況も、もう吹っ切ったらしい。 

 剥き出しの窓に近づくと、必然的に自分の顔と向き合う形になった。私もゾンビ。我慢してその先を見つめると、西新宿中心部の高層ビル群の夜景が見えた。

 悔しいけどここからでもそれなりにきれいだな、と思った。いつもの合意の笑みを作って視線を移すと、二葉ちゃんは私の肩を興奮気味に叩いた。割と思いっきり叩かれたからマナーとして大げさに反応した。傍から見ると、能天気なOL二人がじゃれ合っているように見えるだろう。

「ようやく終わり! やったね芙由」

 いつも感情を素直に出す。小動物じみた愛くるしいルックスも相まって、二葉ちゃんは、周りからちょっと「幼い」と思われている所がある。でも本人もその扱いをおいしいと思っている節があるからか、そのレッテルを否定しない。むしろ棚ぼた式に確立できた自身の天然キャラを大事にしている雰囲気すらある。職場で確立したそのキャラが本当に天然なのかは、探りたいなら勝手に探ればというスタンスで、これもどうでもいいらしい。て言うか、仮に養殖がばれたとしても、職場では隠す気すらないらしい。見破りたいなら勝手に見破れば、という究極的な潔さ。こういうのは、お笑いが賢い人にしか出来ないのと同じ理屈なのかな、と思うけど、むやみに聞いたら、場が凍りそうだから聞けない。

「うん、予定通り終わりそうで良かった。金曜の夜だしね」

 はみ出たテンションを、お母さんが子供部屋のシーツを整えるように、日常の枠内に押しし込む。私は二葉ちゃんのお母さんだ。「だよねー」と二葉ちゃんは、うっとりするように窓の外を見つめた。窓外の引っ越し先のまばゆい夜景を見つめているのか、窓を鏡に見立てて、何気に自分の顔に見とれているのか。両方かもしれない。近くの梱包済みの段ボールを引き寄せて、それを机にして軽く頬杖を付いた。

不意に「あ~ガムテープ持ってる人~」というよく通る女性の声がした。人の良い、呼び込みの店員さんのような声。おどけているけど、その声音には良心が滲み出ている。

 リテール営業部の、女性チーフさんの声だった。

 ガムテープが欲しいのは、チーフさんではないな、と直観した。あの人が総務を呼ぶ時は、十中八九他人の用なのだった。

 二葉ちゃんはふっと顔を上げると、カルピスのCMの売り出し中の若手女優のような初々しい笑顔を作って、チーフさんが気づくようにその場でぴょんと飛び跳ねた。「あの辺にいっぱいありますよぉ~!」と入り口脇の机を、オーバーアクションで指し示す。指輪が似合いそうな、華奢な白い指が放物線を描いた。

 二葉ちゃんはチーフさんの返答を待たずに秒でこっちに向き直ると、「あの辺に全部集めてんだからちゃんと見ればいいのに」と私だけに聞こえるように小声で毒づいた。駄目押しで子供みたいに眉間に皺を寄せた。時間差でやまびこみたいに、「あ、ほんとだ! ありがとう~!」という、相変わらず天然を装っているけど一本筋が通った声がした。あんな風に喋る人で、かつ性格に表裏の無いのはこの会社ではあの人位だった。だけど、二葉ちゃんが聞こえない振りをしたから、チーフさんが独り言でお礼を言ったみたいになった。チーフさんは何も気づかない振りをしてくれている。二葉ちゃんは、二葉ちゃんなりに溜飲を下げられたのだろう。その横顔はすごく満足気だった。

 彼女の理屈だと、感情を抑えることイコール自分に嘘を吐くことになるようだった。確かにいつも、感情の揺れ幅がジェットコースター並みに激しい。少女から子供、子供から少女のラインを、分間隔、ともすれば秒間隔で移動している。大人のラインはないのか。不機嫌になった時は口を尖らせるからすぐ分かる。ストレスが臨界に達したら昼休みや、女子会でマシンガントークで愚痴る。あー、ムカつくムカつくムカつく。ちゃんと用意してんだから何でも総務に聞かないで。自分で出来ることはやってよね自分で。子供じゃないんだから。

 きっとここの総務に、私以上に向いてないんだと思う。総務という仕事自体にも向いていないのかも知れないけど、前職でも総務をやってきたという本人に、面と向かってそんなこと言えない。あまりに愚痴がしつこい時には働くことに向いてない子だ、と呆れることにしている。けどその素直さは時に清々しいし、羨ましいと思うこともある。この環境の中で自然と思わされるのだった。機嫌がいい時は全身で喜び、不機嫌になった時は小声で、たまにドスの利いた声で毒を吐く所なんか、代弁してくれたと思う時もある。ダークサイドに堕ちてる時に、良心が丸見えになるなんて、皮肉なもんだと思うけど、その爪の甘さを隠せない分、悪い子ではないと思っている。

 同じことを思っているのは私だけではないようで、二葉ちゃんが不機嫌になっている時、同じ総務のメンバーは、また二重人格が出たわ、と、忙しくない時は、彼女を見ながら苦笑している。本人の愛くるしいルックスもあって、先のレッテルと合わせて、もうそういうキャラ認定をされてしまっているのだった。当の本人はそれを容認も否認もしない。ただ、嬉しくはないようだ。ろくに自分の性格も知らないでと相手にしないのか、それとも知らないなりにそう思うのなら、その認知を逆に利用して復讐してやると思っているのか。二葉ちゃんのお守役は、同じチームの同期の私と、直属の上司のはすみさんだった。総務のマスコットというのは、言い方は悪いけどペットと同義でもあるから、そういう存在で終わりたくないという気持ちは理解出来る。二葉ちゃんも二葉ちゃんなりに戦っているのだと思う。

「あたしさ、今週に入ってから事あるごとに考えてたかもしんない。明日からついに高層ビル暮らしなんだよ。ね、芙由、テンション上がんない?」

「そだね」

「芙由の彼氏の支店もあそこにあるんでしょ、いーなー、会社帰りにデート出来るね」

「うーん」

 困惑の笑みを浮かべるしかない。支店があると言っても、本当に支店です、というだけ。あそこに来ることはまずないから、会社帰りのデートなんて無理。それに、あまり彼氏のことは詮索されたくないのだ。二葉ちゃんだけでなく、誰にも詮索されたくない。

 でも前に散々いろいろ言っていたのに、二葉ちゃんは私の彼氏の名前を、もう忘れたみたいだ。



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